おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

貴族的回転寿司の食べ方。(5月13日分)

2005-05-14 18:26:17 | 我思う、故に書くなりよ。
私の旧知の友人が私の窮地を見かねて、食事を「御馳走」して頂ける事になった。

ネット上ではほぼ毎日何かしら語り合っているが、ちょっと離れた所に住んでいるので、そうそう会食する機会も無いのだが、月初めが私の生誕記念日でもあったわけで、まぁ、そんな事に…。

あらかじめ、何を食べるか決めて行動を共にする事は非常に稀なので、どこぞのフランス料理店を予約してあるとか、イタリアレストランを予約してあるとかと言う事は全くと言って良いくらいに無い。何となく「ラーメン」だったり「カレー」だったり「パンチ」だったりと、非常に漠然とした「今そこにある喰いたい物…」をあてもなく車を流して行くうちに語り合い、十分な議論と合議を経た上で決まった方向に進むのが常である。

んで、その道中に交わされる会話が、お互いの体調に因って左右されるのは、全ての事象について等しく影響を受ける事である事は間違いない。話題が北朝鮮問題に及べば、好調な時は突拍子も無い事を言い合って盛り上がるが、低調な時は単なる時事解説で終わる。ギャグとは言い難いが、そういった「受け狙い」に終始する方向性である事には変わらない物の、その「キレ」は体調に大きく左右されるワケである。

そんなこんなで、本日はなかなか「キレ」が良かった。毎日顔を合わせていれば「キレ」が悪くなる事もしばしばあり、期待外れな事もままあったりするのだが、近年は住環境の変化によってお互いの生活を確かめづらくなりつつある事が好調なキレをもたらしているのかもしれない。そんな「キレ」の良さは食事にも影響を与える事に大きく関与する。また、御馳走して頂けるメニューについては、私からとやかく言える身分では無いし、そのための資財の全てが彼の財布に詰められているワケであり、漠然とした「提案」はするものの、最終的な決定権は彼にある。

まず「腹の探り合い…」から始まる。探り合いと言っても、お腹がどの程度空いている状況なのか? また、今希望している食材とその調理法は如何に? そんな事から始まるのだが、ここでの「駆け引き」は後々、重要となってくるので、気を抜けない。

本日は、調子の悪かった体調も回復し、ブランチに「うどん」を茹でて食べていた。普通の人の2食分は普通に食べてしまうので、お腹はいっぱいから少々こなれた感じ。つまり、何を食べたいかと聞かれても、それほど数多くを提案できる状況には無い状態ではあった。

これをストレートに伝えると、彼に余程熱望する食材と調理法が無い限り、チープな「コンビニ弁当+α」程度で御馳走が終了してしまう。その方が彼の懐具合も極端に悪くならないし、一応の「食事を御馳走する」という名目も達する事が出来る。

かと言って、「ここ壱のカレー400gにトッピング攻撃」って気分でも無いし「家系背脂多めの豚骨塩ラーメン大盛り」って気分では無い。それほど飢えていて熱望する食事も思い付かない状態にウソ偽りは無いのである。劇的に飢えていたのなら「1ポンドサーロインステーキ¥4800は当たり前!+サラダ・スープ・ブレッドバー」とでも要求していたであろうが…。

だからと言って「コンビニ弁当とかマックとかでいいじゃん?」とは言いたくは無い。御馳走にありつける数少ないチャンスでもあるし、最終的な御馳走に有り付く前に「ちょっと寄らねぇ?」と少額で満腹中枢を満たされてしまい、段階的かつ限定的な経済制裁にも似た波状攻撃を受けるヒントを与えかねないからだ。

そうした実に微妙な駆け引きの果てに引き出した「譲歩案」が「かっぱ寿司」回転寿司である。考えようによってはヘルシーでもあるし、1皿100円だし、どちらも嫌いな食事でも無い。積み上げられる皿を否応が成しに目に入れられる効果は、それを受け入れるお腹以上に満腹感に訴える事の出来る物でもある。

だが、彼は警戒している。それは私が普通に20皿は食べてしまう事を知っているからだ。普通の人なら12~15皿も食べれば「ギブ…」な所を超えた領域に「ギブ…」があるワケで、うかつに誘うと痛い目に遭いそうな事は経験済みなのである。しかし、提案に上がった比較的「油まみれな料理」をことごとく私が「否定的見解」で回避している状況に、

「今日は大丈夫そうだ…」

と、ある程度の安堵感を持った様で、行き先の決まった道中のギャグにも磨きが掛かったキレを見せていた。唐突に、

「オレって貴族っぽくねぇ? 貴族っていいよねぇ…!」

とワケの判らぬ奇声をあげるのもその1つだった。いかにその姿を見れば「貴族」が発想なり連想出来るのかかなり不思議な所ではあるが、貴族って出て来る頭の中が彼に出会ってかれこれ四半世紀を超えているにも関わらず未だに解明できていない。

「寿司」と決まった事に対して浮かんだのが「貴族」らしい。銀座の寿司屋でも席を取ったと言うならまんざらその喜び様は判らなくも無いが、回転寿司のどこにそれを見いだしたのか皆目見当が付かない。確かに、回転寿司とは言え、日常の食生活とは離れた所にそれが位置する生活をお互いに送っている事は熟知しているが…。

「どの辺がどう貴族なのよ?」

そう問いかけて見ても、的を射た回答は帰ってくる事は無い。そこに「キレ」が見え隠れする重要なポイントでもあるのだが、

「なんかこう中世っぽくねぇ?」

という漠然と、そしてカナリ深いカオスを覗き見る様な返答であった。確かに、江戸時代に今の形態を完成させたと言われる「寿司」ではあるが、彼の言っている「中世」は完全にヨーロッパのそれである。恐らく、十字軍の遠征やら、王朝文化に彩られた頃のフランス辺りの事を指しているのだと思う。それもかなりぐちゃぐちゃに混じって…。

「どこが中世なのよ?」

「やっぱ、ヨロイ着て決闘だよねぇ…」

こんな人にハンドルを握らせておいて良い物かどうか疑問ではあるが、御馳走に預かる身でもあるし、財布を握っているのも、その財布も彼の物だ。ここで確認しておきたいのは、我々が向かっているのはフランス料理でもイタリア料理でもドイツ料理でも無い「かっぱ寿司」と言う低価格で様々な握り寿司を提供してくれる回転寿司チェーン店であると言う事だ。

かくして、我々は寿司店に到着し、かなり客足の少ない店内のボックスシートを占領し、彼の言う「貴族的回転寿司の食し方」を実践する事となった。

大方のその「食し方」は今までの経験から察してはいたが、想像通りだった点が情けない…。

彼は席に座るやいなや、回転するベルトコンベアーを一瞥すると、醤油皿の用意と「わさび」の準備に取りかかる。この間にもコンベアーの上の「ネタ」の吟味は欠かさず、希望するネタを見つけると素早く取りまくり、実に慣れた手つきで自分の前に並べ始めるのである。

私の方は、希望するネタが来たらその都度取り、食べ終わったら次の皿を取る…と言った感じなので、あまり多くの皿がネタの載った状態で並ぶ事は無い。そうそう好きなネタが連続して流れてくる事も無いし、オーダーしない限りはそんな状態にもならない。それが良いと言う事でも無いのだが、一気に目前に寿司ネタが展開する状態とは明らかに違った状況である。

「これって貴族っぽくねぇ~?」

要するに、王様やら部族長の食事の際に、その前にズラズラ…っと並べられる様々な料理の数々の様子が「貴族」であり「ルネッサンス」であり「ルイ王朝」であり「メディチ家」であったのだ。

だが、その華やかさとは裏腹に、視覚的に圧倒されてそれ程多くを食べる事が出来ない事を彼も薄々感じてはいる。そのお陰で、最終的にはそれほど皿の数は増えない。ちまちまと好きなネタを選んで食べている私の方がいずれ皿数を追い抜いてしまう。この効果が彼自身に対するものなのか、対面する私に対するものなのかは明らかになっていない。私としてみれば、彼とはネタの好みが違う面も多々あるので並べられても影響を受ける事はあまり無いのだが。

不思議なのは、常にネタを展開させた状態で次々とネタを取るワケなので、こうした「貴族的」視覚的効果は持続されていると言う事だ。これは最後まで続き、満腹となり、やがて宣言するであろう、

「もう、ギブ…」

と言う言葉が口から出たその瞬間まで続くのである。ある種この形態は「貴族的」とも「退廃的」とも言えよう。だが、その口元には威厳に満ちあふれた「貴族的」引き締まった唇ではなく、だら~んとした情けない「やっちゃった…」的敗北感の漂う唇が微妙な空間を空けているに過ぎない。

だが、取ったネタを元に戻すワケにも行かないので、その展開状態をやがて姑息な手段で解消し始める試みへと変えるのである。具体的には、ネタの乗ったままの皿を少しづつ微妙に移動させて、向かいに座る私の領土への移動を目論み、さも私が取ったにも関わらず、

「手を付けていたのを忘れていたかの様に…」

偽装するのである。

しかし、いつもの事に加え、ネタを見れば私がさほど好んで食べないネタである事からすぐにバレてしまい、たしなめられるのもいつもの事なのである。だが、今日はちょいとそれも違っていた。いかにも私が好んで食べそうなネタに限っていつまでも展開していたのである。そして、私がコンベアーの上のネタに目を奪われている隙を狙って微妙に押し寄せられて来るのであった。満腹に明晰な判断を鈍らせながらも現状を打開するための対抗策を考えたと言うのか…。

だが、そんなこんなの目論見も既に周知の事であったわけで、多少の小細工は虚しく、彼は「戦後処理」をやむなく強いられるが、まぁ「自業自得」というか、王侯貴族の衰退とでも言うのか、そんな感じで涙目になりながら寿司を頬張らざるを得ないのである。

なんだかんだで2人で37皿だかを食し、宴は終わる。貴族は最後を閉めるデザートの「メロン」が流れて来るのを期待していたようだが、流石に満腹中枢に支配された脳は、それをオーダーする事を止めさせていた様だった。彼が期待していた証拠は私の好きそうなデザートである所の「ケーキ」などをしきりに薦める言動からも伺えたが、私の方は普通にお腹いっぱいな状態であったので、誘いには乗れなかったのである。

そんな彼ではあるが、自分が満腹の限度を超えている事をバレているにも関わらず、さらに悟られない様にカモフラージュする事も忘れない。たった今満腹で、涙目の食事を終えたばかりであるにも関わらず、

「さぁ、次は角煮ラーメンかな?」

と、あんまりなハッタリを咬ましてみたり、

「小腹空かねぇ?」

と、しきりに空を切り、何か最後の栄光を手にしようと試みたものの、何も手に出来ないばかりか、全ての何もかもを失ってしまったかの様な寒々しい「小ネタ」を連発する虚しい抵抗を試みるのである。
この様に、全ての食事において、何かしらの得難い貴重な見聞を広める事が出来るのも彼との食事が楽しい理由でもあるのだが、ここ近年は「パターン化」された様相も否めないワケで、中年期にさしかかり、パワーの衰えとか、生え際の戦略的撤退に象徴される「中年化の深刻度」が懸念されている事は、今後の食事形態にも、

「俺たちサァ…油っぽいモノはすっかりダメになったよねぇ…」

と言う酷く残念で、かつ若さの象徴を為す術無く、無防備に失う危惧さえ思い起こされる事態に進んでいる事を意味しており、早急な対策の実践を「焼き肉食べ放題!」にて行わなければならない事であると、深く認識を新たなモノにしなければならないのであった。

それはともかく、御馳走様でした…。楽しい1日はこうして忘れ得ぬ「思い出」に追加されていくのである。また、その積み重ねは、何よりモノ「宝物」だと思って止まないのである…。

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情報の枯渇に身悶える…。(5月12日分)

2005-05-14 18:19:49 | 我思う、故に書くなりよ。
唐突にネットに繋げられなくなり、ルータやらあれやこれや調べているウチに、ADSLモデムが全く通電していない状態になっている事に気付く。

隣の部屋にモデムは置いてあり、その部屋だけ「停電」って事も無いのだが、一応、別の部屋でも確認すると、やはり通電はしていない。要するに「お亡くなり…」って事である。

こうなると、お手上げ。

ダイアルアップという方法もあるが、モデムなんか取っ払って早ン年。無理すればノートPCなんて物には付いていたりもするが、こういう時に備えてダイアルアップ先の電話番号なんか控えてもいないし、おとなしく修理の電話を掛ける事になるのだが、これだって、ネットで見ないと判らない。

ケータイから調べるって手もあるが、友人にメールして教えて貰う。

教えられた連絡先に電話を掛けると、少々待たされはしたものの、プロバイダーに繋がり、あれやこれや伝えると、交換してくれると言う。レンタルなので、修理代とか気にはなったが、あちらは一切、修理代については何も言わなかったので、こちらから言っても「やぶ蛇」かと思って聞かなかった。

明日か明後日には届く(これは12日に書いている)らしいので、なかなか迅速な対応して頂ける事になったワケで、ネットの無い生活は僅かなモノで済みそうだが、その間にネットでの関係のあるひと達とは「音信不通」になるワケで、もしかしたらご迷惑をかけているのかもしれない。

以前、ケータイ電話が壊れた時も似た様な事になり、数年ぶりに連絡が取れた友人も最近いる。また、自ら命に区切りを付けた時も、同じ様な事になっており、私としては珍しくは無い事なのだが、理由が異なれば不自由さの体感は大きく違う。

まぁ、仕事に使っているワケでは無いので、不自由の度合いを測ってみても、さしたる違いが無い事とは十分に判っているのだが、感情的体感となると似た様なモノでありながら、やっぱり違ってくる。こんな時に大きな事件・事故でも起きれば、情報の枯渇に飢え苦しむ事になる。そうした体になってしまっている事に理解度が少ないんだろうねぇ。

新しいモデムが届けば、苦もなくこうした環境は復活するので、大騒ぎする事も無く我慢していりゃあイイワケなんだけれど、インフラ自体がダメになった場合も、家庭内の状態は同じ。テレビというメディアがあるわけで、非常に限定的な情報の枯渇を味わっているが、そうしたメディアも含めての情報の枯渇が起きた場合、イライラ度はこんなもんじゃ済まないんだろうと…。

そうした精神状態が集団化したりすると、ちょっと怖いねぇ。

大きな地震が確実に予想されている地域に住んでいるので、いつの日かそうした事態に遭遇する事もかなりの確率で予想出来るワケで、プチ予習的な今の状態を深く考えて見るのも悪く無いかと思う。

最悪の場合、端末もダメになるワケで、こうなるとインフラの復活が早くても状態に変わりがない。予備の端末として、普段は使っていないが、いつでも使える状態にしてある端末がある事は◎。それも複数あり、携帯も可能な端末であればもっと◎。

その端末から情報を得るための手段が、複数選択できる環境ならば、余計に◎。例えば、無線LANとか電話回線とか。それらに代わる「携帯電話」が手元にあるならさらに◎。また、ラジオなどの手段の異なる端末が身近に使える状態であれば、ことのほか◎なんである。

情報を得るためだけでなく、コミュニケーションを取るための端末さえ確保できれば、かなり心強い事になるし、容易に身近に備えておけるって事は、それはまさに「携帯電話」に他ならない。そうした事を特別に気に掛けるまでもなく「必需品」とはなっているが、こうした事に対してもさらに便利な方向で機能が充実したり、強化されて行くならば、こんなに良い事はないんだよねぇ。

PCよりも携帯電話か? って言うと、そうでもない具合に機能は進んでいる。それなりの衝撃に耐えるノートPCが広まりつつあるし、バッテリーの持ちも「燃料電池」の実用化で大幅に改善されつつある。それらが広く行き渡り「当たり前」になるにはまだまだ時間は掛かるけれど、そうしたメリットは普段使う時ならず、こうした不測の事態にも大きなメリットを残すに違いないと思われるからだ。

あくまでも、基礎的なインフラが回復しなければこれらは出番が回ってこないけれど、携帯電話よりも多くの情報が得られるPCの方がより心強い端末となるのは間違いないし、普段、普通に使っているモノがそうなるだけで、心情的には大きな違いがあるんだと思う。

残念ながら、その両者を埋める様な端末はなかなか定着しない。私がこよなく愛して使い込んだPDAなんかは、そうした点でもなかなかなモノだと思っているが、既に多くの選択肢は消えてしまい、新しいモノはなかなかお目に掛かるのも難しくなってしまった。既に市場から姿を消してしまったPDAを今でも使っているが、改めて考えると、コイツはなかなか使える。それだけの手段がちゃんと用意されている機種なので、古くなってはいても、最低限の事はしっかりと出来る所が何だか凄い。

また、そうでもないPDAも使える状態にはあるが、肝心なネットに繋げる手段が皆無な状態なので、これは役に立たないだろう。携帯電話がPDCならば何とか手段もあるんだけれど、FOMAだし。

モノに頼らんでも、自分の目と耳と足で手に入れられれば困る事でも無いのだけれど、こうした「情報」の送り手は少なからずデジタルな世界の話なんで、致し方ないって事もある。また、人伝の情報が途中でかなり怪しく変わってしまう事は少人数で伝言ゲームでもしてみれば実感できるワケだし。

でも、最終的にはあるモノをうまく使いこなす「脳みそ」が無事じゃないと、ダメなんだよねぇ…。

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