生来の移り気な性格から、これまで浮気性的傾向をたどった私の趣味遍歴の中で、珍しく続いたものに8㍉映画(小型映画)がある。かれこれ10数年は続いたが、8㍉そのものに興味を抱いたのは、さらに6年ほど遡る。
'59年(昭和34年)、当時の皇太子が美智子さんと、テニスが取り持つ縁でご成婚の運びとなり、テニスブームを巻き起こした。ところが私にとってはテニスではなく、美智子さんのご幼少の頃の様子を収めた8㍉フィルムをテレビで放映する「動くアルバム」の方が、心を捕らえ虜にした。といっても八㍉カメラは一部のブルジョアジーのもので、庶民にはまだまだ贅沢品と諦めていた。
そこへ画期的ともいえるシングル8が出現した。従来のW8に比べ格安で、誰でもごく簡単に撮れるということが私に8㍉を決定づけた。
'66年(昭和41年)頃のこと、フジカが扇千景(参議院議員)の「フィルム ポン!私にも写せます!」のCMとともにシングル8を売り出した。操作が簡単で、値段が安いということでたちまち爆発的に売れ、宣伝文句が流行語になり一世を風びしたほど。
そうでなくても初物食いの私が飛びつかないはずがない。手もと不如意の学生(大学1年)の分際をも顧みず、矢も盾もたまらず欲しくなり、親に無断でしかも送って貰ったばかりの授業料に手をつけた。
初めは単なる記録写真、紀行もの、行事映画…と身辺の出来事を、貧しい小遣いをはたいて、モノクロフィルムに収めた。
そんな私をホームムービーに導いてくれた最大のきっかけは、結婚してからの子供の誕生である。8㍉狂にとって子供の生活ほど変化が多く、限りない被写体はないもので、それからは1年1年の家庭の出来事を子供中心に淡々と撮り続けた。
カメラワークは二の次としてこまめに折にふれスナップした。産湯、宮参り、百日、節句、初誕生日、正月、花見、海水浴、花火、動物園、家族旅行、秋祭り、クリスマス…二児誕生…三児誕生…入園、入学などとテーマは無尽に広がる一方。
よく8㍉はホームムービーに始まってホームムービーに終わるといわれるが、まさにその通りだ。芸術映画を作ることも8㍉文化だが、こうして生活とともにある8㍉の楽しみ方も重要な8㍉文化だ。本当に自分のものという感じがする。子供の成長記録となり、わが家の歴史として自然に蓄積してゆくと思うと、こんな楽しい趣味はほかになかった。
時には子供にせがまれて、幼かった頃のを取り出して見せてやると、繰り返し見るフィルムからのイメージづけを、さも自分の記憶そのものといった口ぶりで話すさまはおかしくもあった。
こうして写したフィルムは長さにして1万フィート以上となり、日本アルプスの槍ケ岳(3179.5m)の高さにも達し、掛け替えのないフィルムである。ただ惜しむらくは所詮私のホームムービーが“家族だけで見る”という域を脱せず、人様にお見せできる類のものでないことだ。
この8㍉も時代の波に押しやられ、その後'79年(昭和54年)頃からビデオにとって替わった。いまやわが家の8㍉フィルムも全巻テレシネ(フィルム映像からビデオ映像へ変換)した。
ジ~という懐かしい映写機の音とともに、鮮やかにスクリーンに映し出される8㍉映画ならではの雰囲気は味わえないが、手軽にテレビやパソコンのディスプレーで見えるようになった。
-昭和52年2月号社内報の掲載写真-
「やってます趣味いろいろー小型映画」
家族でホームムービーを楽しむ
'59年(昭和34年)、当時の皇太子が美智子さんと、テニスが取り持つ縁でご成婚の運びとなり、テニスブームを巻き起こした。ところが私にとってはテニスではなく、美智子さんのご幼少の頃の様子を収めた8㍉フィルムをテレビで放映する「動くアルバム」の方が、心を捕らえ虜にした。といっても八㍉カメラは一部のブルジョアジーのもので、庶民にはまだまだ贅沢品と諦めていた。
そこへ画期的ともいえるシングル8が出現した。従来のW8に比べ格安で、誰でもごく簡単に撮れるということが私に8㍉を決定づけた。
'66年(昭和41年)頃のこと、フジカが扇千景(参議院議員)の「フィルム ポン!私にも写せます!」のCMとともにシングル8を売り出した。操作が簡単で、値段が安いということでたちまち爆発的に売れ、宣伝文句が流行語になり一世を風びしたほど。
そうでなくても初物食いの私が飛びつかないはずがない。手もと不如意の学生(大学1年)の分際をも顧みず、矢も盾もたまらず欲しくなり、親に無断でしかも送って貰ったばかりの授業料に手をつけた。
初めは単なる記録写真、紀行もの、行事映画…と身辺の出来事を、貧しい小遣いをはたいて、モノクロフィルムに収めた。
そんな私をホームムービーに導いてくれた最大のきっかけは、結婚してからの子供の誕生である。8㍉狂にとって子供の生活ほど変化が多く、限りない被写体はないもので、それからは1年1年の家庭の出来事を子供中心に淡々と撮り続けた。
カメラワークは二の次としてこまめに折にふれスナップした。産湯、宮参り、百日、節句、初誕生日、正月、花見、海水浴、花火、動物園、家族旅行、秋祭り、クリスマス…二児誕生…三児誕生…入園、入学などとテーマは無尽に広がる一方。
よく8㍉はホームムービーに始まってホームムービーに終わるといわれるが、まさにその通りだ。芸術映画を作ることも8㍉文化だが、こうして生活とともにある8㍉の楽しみ方も重要な8㍉文化だ。本当に自分のものという感じがする。子供の成長記録となり、わが家の歴史として自然に蓄積してゆくと思うと、こんな楽しい趣味はほかになかった。
時には子供にせがまれて、幼かった頃のを取り出して見せてやると、繰り返し見るフィルムからのイメージづけを、さも自分の記憶そのものといった口ぶりで話すさまはおかしくもあった。
こうして写したフィルムは長さにして1万フィート以上となり、日本アルプスの槍ケ岳(3179.5m)の高さにも達し、掛け替えのないフィルムである。ただ惜しむらくは所詮私のホームムービーが“家族だけで見る”という域を脱せず、人様にお見せできる類のものでないことだ。
この8㍉も時代の波に押しやられ、その後'79年(昭和54年)頃からビデオにとって替わった。いまやわが家の8㍉フィルムも全巻テレシネ(フィルム映像からビデオ映像へ変換)した。
ジ~という懐かしい映写機の音とともに、鮮やかにスクリーンに映し出される8㍉映画ならではの雰囲気は味わえないが、手軽にテレビやパソコンのディスプレーで見えるようになった。
-昭和52年2月号社内報の掲載写真-
「やってます趣味いろいろー小型映画」
家族でホームムービーを楽しむ
何にでもすぐ首をつっこむんですが、如何せん長続きした試しがありません。
かみさんと連れ添って36年になりますが、これなんぞ稀有のケースです。