あれは,あれで良いのかなPART2

世の中の様々なニュースをばっさり斬ってみます。
ブログ界の「おか上彰」を目指し、サボりながらも頑張ります!

「ごくせん」から教育を考える(最終回)

2005年03月31日 00時36分28秒 | 教育問題
前回の続きです。いよいよ最終回になります。

8 その他のこと
 以上は,「ごくせん」をベースに検討したことです。
 この他に,これまでの内容を担保できるような制度や手法として次のようなものが考えられます。
① 教育内容の充実化
  マスプロ教育だけではなく,ユニ教育を併存させるため,教科や科目を選択できる道を小学校のうちから可能とするようにします。特に,高学年以降は,半分近くは選択科目にします(もちろん,基礎学力たる教科についてはマスプロ教育によりコア科目とします。)。
  また,マスプロ教育の弊害である落ちこぼれ対策として,能力別クラスとします。これについては,批判が多いところですが,能力別クラスはクラス全体の授業のレベルと進行をしっかり維持できる点で有用です。また,批判の多くが,「天才と馬鹿の格付けをしてしまう。」という点にありますが,それはマスプロ教育のみに視点をおいた場合の話です。ユニ教育を併存することで,クラス編成も変わってきます。もっと言うと,ホームルームのクラスは,普通構成にして,授業時は科目ごとに能力別クラスにするなどの手法にすることも可能です。

② 地域性に応じた教育内容の確立
  構造改革特区により,現在様々な教育内容が全国で進められています。30人学級を始め,英語教育,2学期制,学区の廃止,学校選択制,義務教育低年齢化,日本語教育の充実などです。
  これらについては,いずれも教育の専門家から反対意見が伴うものであり,どれがよい教育でどれが悪い教育なのかは一概に言えません。ただ,確実に言えることは,その地域の特性に応じた教育内容が必ずある,ということです。
  逆に言うと,よそで成功した教育内容をそのままコピーして持ってきても,その町で成功するとは限りません。
  現在の教育内容は,文部科学省により全国画一化しています。もちろん,マスプロ教育たる画一化も必要ではありますが,一方で柔軟な対応,すなわち地域ユニ教育もある程度認めていく必要があろうかと思います。
  更に言うと,教育の権限は地方自治体に委譲する必要があるといえます。文部科学省はミニマムな点(基礎学力部分)についてのもに指針を示し,その他の部分については地方自治体が教育に関する権限を有するようにします。これにより,きめ細かな指導要領などの作成が可能になります。
  教育権は,国家にだけあるのではなく,国民側(親や教師)にもある,といことは,最高裁も認めているところです。国民の意向も反映するような指導要領の作成が求められるべきでしょう。

③ 「ゆとり教育」自体は,決して悪ではない。
  誤解のないようにいいますが,私は「ゆとり教育」は悪いもの,とは思っていません。むしろ,子供が自ら考える力,広い視野を持つためには必要な教育だと思います。
  ただ,これはまさに「ユニ教育」であるべきところを,「マスプロ教育」的にゆとり教育を持ってきてしまったこと,その内容を文部科学省が現場の教師に丸投げしてしまったこと,教師が十分に把握できなかったこと,親や地域も「ゆとり教育」の真意を理解できなかったことに問題があると考えます。
  したがって,「ゆとり教育」は廃止する必要はありません。やり方を変えればよいのです。
  具体的には,「ゆとり教育」の真意を教師はもちろん,親や地域(つまり全国民)にしっかりと説明します。また,教師に対して丸投げではなく,具体的な方策を複数呈示します。教師は,その呈示されたものを踏まえて,そのまま又はアレンジして使用します。そして,ゆとり教育は全員同じことではなく,個別対応,または小さなグループ単位で対応し,やることはそれぞれの個性に応じたものにします。
  こうすることで,更に個性を伸ばすことが可能となりますし,逆に「ゆとり教育」を生徒の苦手分野の克服という視点で使っても良いでしょう。
  いずれにしても,「ゆとり教育」は使い方で毒にも薬にもなりますので,どうせならば薬にした方がよいでしょう。

④ 地域コミュニティの醸成
  これは,専ら政治家に対しての話になりますが,教育に限らず,地域社会を確立しておくことは大変重要です。教育に当たっても,地域コミュニティが確立されているか否かでその効果は大きく異なります。

以上,長々と書き記しました。自分の勉強不足,認識不足などがあると思いますので,そのような点をどんどんご指摘ください。
最後までお読みいただきましてありがとうございましたm(__)m

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「ごくせん」から教育を考える(その9)

2005年03月30日 01時48分13秒 | 教育問題
前回の続きです。このシリーズもあとちょっとで完了します。もう少しだけおつきあいください。

7 教師が生徒の顔色をうかがわず,ざっくばらんに話をする。
 これも既に述べたとおりですが,教師は,自己の信念に基づき,誰の顔色もうかがうことなく,生徒と接する必要があります。
 昔の教師のように,「俺は教師だ。偉いんだ。尊敬しろ。」という態度では,生徒はついてきません。しかし,逆に「みんなの言うこと聞きますから,私の授業を聞いて。」という態度では,逆に生徒になめられてしまい,結果的に生徒はついてきません。
 では,どうすればよいか。それは,教師にカリスマ性を持たせることです。カリスマ性を持つことで,自然と教師に対する尊敬の念が出てきます。
 具体的には,これまで述べてきたことを教師が自己の自覚と責任で実践することで,自ずとカリスマ性は付いてきます。間違っても,かつての学園ドラマのような「尊厳の押し売り」では今は誰もついてきません。やんくみのように,啖呵を切りながらも,生徒が反論できないような理詰めで攻めていくわけです。しかも,屁理屈ではなく,正論をぶつけるのです。そして,口だけではなく,教師自身が模範として実践することも当然必要です。
 また,生徒からの相談は,どんどん受け入れましょう。時には,くだらない話もたくさんあるでしょう。しかし,生徒にとってはくだらない話ではありません。こんな話でもしっかり聞くことで,生徒も教師に対する信頼感が生まれてきます。

 おそらく,これに対して,「理想は分かる。しかし,教師は実際忙しくて,そんな暇はない。」とおっしゃる方が多いでしょう。今の制度ではそのとおりです。
 だからこそ,30人学級にするわけです。また副担任制度の導入や専任のカウンセラーも有効でしょう(この場合,カウンセラーは生徒のカウンセリングだけではなく,教師のカウンセリングも担当してもらう。)。

まとめ
① 教師にカリスマ性を持たせる。
② 教師の負担を軽減するために,副担任制の導入やカウンセラーの配置を行う。

次回は「8 その他のこと」です。このシリーズの最終回の予定です。

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「ごくせん」から教育を考える(その8)

2005年03月29日 00時55分45秒 | 教育問題
前回の続きです。あと少しで終了しますので,引き続きおつきあいください。

6 教師が生徒に対してきれい事ですべてをすまそうとしない。しかし,人の道だけは絶対に外させない。
 今までの話と矛盾したようなことを言うかも知れませんが,今の教師は建前論を重視し,本音を出しません。いや,正確に言うと,本音を出してはいけないという制約があります(学習指導要領などで)。
 教育には当然きれい事は必要です。あまり本音ばかりを出してしまうと,「大人は汚い。大人の社会は嫌だ。」と思ってしまう生徒が出てきてしまうからです。
 しかし,きれい事だけでは済まないことがあります。例えば,小学生の頃,「人からお金を借りてはいけない」と教えられたことがあるかと思います。ところが,現実では車を買うにもローンを組み,住宅を買うにはほぼ確実に住宅ローンを借りないと買えません。つまり,「人からお金を借りなければ世の中やっていけない。」社会なのです。
 このように,理想と現実にはギャップがあります。このギャップについては,長年蓋をしてきていました。その結果,マルチ商法にはまってしまう人,詐欺商法に騙されてしまう人,カードローン破産に追い込まれてしまう人等が多数誕生してきているのです。
 そこで,きれい事も大事ですが,社会の本音の部分を教えておく必要があります。もちろん,ぶっちゃけトークにする必要はありません。きれい事と本音の調和点を説明するわけです。
 例えば,先の例では,「人からお金を借りないと生活できない場合がある。しかし,無計画に借りてはいけない。借りるときは,必ず確実な返済のあてを考えなければならない。」ことを教えるわけです。

 また,きれい事を尊重するあまり,競争制度を廃止している学校があります。しかし,今の日本はどこに行っても大なり小なり競争社会です。そこで,勝ち残るためには,競争のシステムは学校においても必要となります。勝ち負けを知らないままに,社会に出て,そこで初めて競争に負けてしまうと,免疫のない人は,そこから先人生が進めなくなってしまいます。そんな温室育ちの人間を学校が育ててはいけません。
 もちろん,かつての競争のように,どんなことをやっても勝つ,徹底的に優劣を付ける,ということまでやると,昔に逆戻りです。競争の陰にあるものは,共存です。共存とは,みんなが協力しあって生活をしていくということです。
 競争とは,勝ち負けを決めることに目がいきがちですが,本来の目的は,「自分を成長させる」ことにあります。
 自分が成長するためには,一人ではむりです。そこで,共存という考え方が必要となるわけです。共存することで,自分の成長が確立されるわけです。
このような競争と共存,これを徹底的に学ばせます。誰かをけ落とすことだけを考えることは,共存の原理に反します。

 もちろん,いくらきれい事だけでは世の中うまく行かないと言っても,決して「ずるがしこい人間」を育ててはいけません。正直者が損をする,そんな教育だけは絶対にやってはいけません。この辺が,本音と建て前の調和点として難しいところでしょうか。
まとめ

① 社会の本当の姿を説明する(きれい事だけでは済まないことを理解してもらう。)。ただし,正直者が損をするような内容は絶対に教えてはならない。
② 競争と共存の制度を採用する。

次回は,「7 教師が生徒の顔色をうかがわず,ざっくばらんに話をする。」です。

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ニッポン放送のライブドアへの反撃方法(思いつき編)

2005年03月28日 00時28分45秒 | フジとライブドア
ニッポン放送側の対抗策として,こんな方法を考えてみました(主に商法を悪用してみました)。
以前のシミュレーションとはだいぶ方向が変わっています(まあ,以前のも思いつき要素が強いですから・・。)。

1 ソフトバンクは,フジテレビ又はニッポン放送から,ニッポン放送株式を少し借用又は買い受けておく。
2 ニッポン放送は,6月の株主総会の通知をソフトバンクにだけ通知しない。
3 株主総会において,ライブドア側の取締役が選任される(ソフトバンク側は当然欠席)。
4 取締役会でライブドア側の代表取締役が選任される。
5 翌日,ソフトバンクが「おーい,うちに株主総会の通知が届いてなかったぞ。だから株主総会は無効だ。」と言い出す(とうぜん,株主総会決議不存在確認の訴えと取締役会決議無効の訴えを提起する。)。
6 ライブドア側取締役は,「えー,グルのくせに」との抗弁を提出。
7 裁判では,旧ニッポン放送代表取締役が,「ごめん,うっかり通知してなかった。ごめん,ごめん。」と証言。また,フジテレビ(株主)も「いやー,ソフトバンクさんが株主総会に来ていたら,決議が変わったかも知れないよねえ。」と証言する。
8 裁判は意外と早く3,4ヶ月で結論が出る(もちろん,請求棄却!)。
9 しかし,この裁判の結果が出るまでは(年内いっぱいか?),関連スポンサーや芸能人達が「んー,ひょっとすると裁判で負けて取締役じゃあない,と言われる人たちとは取り引きしたくないなあ。」という(もちろん,彼らもフジサンケイグループの人たち)。
10 結果,ニッポン放送の収益がダウン。
11 すると,株主(フジテレビやソフトバンク側の者でしょう)が,「おめー,株の配当下げやがって,どんな経営してきたんだ。」とライブドア側代表取締役にクレームを付ける(株主に損害を与えたとして株主代表訴訟を提起する。)。
12 ライブドア側,応訴すれど,通謀虚偽表示の認定も難しいし,信義則や権利濫用は滅多に認められない以上,上記の作戦をもっと見え見えでない方法でやればライブドアというか新ニッポン放送は裁判で敗訴する。。
13 結果,ライブドアはニッポン放送に対して損害を賠償してニッポン放送から撤退。
14 撤退後は,ソフトバンクが君臨し,「ソフトバンク・ニッポン放送」と社名が変更される。

以上の筋書きです。
これが,「大人の解決方法」かも知れませんね(^_^;)

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「ごくせん」から教育を考える(その7)

2005年03月28日 00時17分42秒 | 教育問題
前回の続きです。

5 教師に校長になろうという出世欲がない。
 また誤植がありましたm(__)m
 さて,これは前回ふれた内容とほぼ変わりません。
 これに関連して,そもそもの採用試験についての問題点に触れたいと思います。
 現在の採用試験は,一次試験として教育概論等のペーパー試験があり,これに通過した者について,二次試験として面接や論文試験を実施する,という形になっているかと思います。
 教師の基礎的な能力を調べる上では,このような採用試験は必要です。
 問題なのは,その実体です。
 私の大学の友人ですが,とある都道府県の教員採用試験を3,4回くらい受験しており,またその間は,非常勤講師などの形態で学校で授業をしていました。
 ところが,その友人が突然受験を止め,普通の企業に就職することになりました。
 その理由を聞いたところ,予想外の回答がありました。
「コネがないから」と。
 まあ,正直最初は,すっぱいブドウのごとく負け惜しみで言っているのかな,と思っていまいましたが,よくよく話を聞くとあながちその友人の言うこともいい加減ではないようでした。
 前提として,その友人は,一次試験は毎年合格していました。すなわち,最低限の学力はあると考えて結構です。ところが,二次試験,すなわち面接試験で毎年落とされていました。
 まあ,一つにはその友人に人間的に問題がある,と面接官が判断した,ということも否定はできません(個人的には,とても問題がある人とは思えないのですが,これは評価する側の考えなので私には分かりません。)。
 ところが,その友人,さらに非常勤講師をやっている学校の校長から次のようなことを言われたそうです。
 「君は,親兄弟や親戚,知人に教師をやっている人がいるかい?」と。
 友人は,「いいえ。誰も知り合いにはいません。」と校長に言ったところ,その校長から,「それじゃあ,二次試験通るはずがない。なんなら,私が面接官に口聞いてあげるけど,どうする。」と言われたそうです。
 その一言を聞いて,友人は,教師になることを諦めたそうです。
 この話の信憑性がどの程度あるのかは,私も何とも言えませんが,別に私に対して嘘言ったりする必要性もないし,またそもそも嘘でたらめをいうタイプの人間ではないことから,その友人の話は,それなりに信頼性があるかなあ,と思っています。

 いずれにしましても,仮にその話が真実だったとした場合,少なくともその友人が受験した都道府県の教師は,公正な試験をくぐり抜けたのではなく,縁故だけで採用した教師集団が形成されている,ということになります。
 これでは,上司も親戚縁者であるため,媚びうる以前に逆らうことができませんね。当然,真の教育を行うことは無理な相談だと思います。

 しつこいですが,この話はフィクションではありません。もちろん,その都道府県だけの話かも知れませんし,その校長はコネがあるかという趣旨ではなく,ひょっとすると別の目的で声をかけたのかも知れませんし,さらに現在では制度が変わってこんな採用方式を改めているかも知れません。
 ただ,確実に言えることは,採用制度をいい加減にすると,ろくな教師が育たない,結果,ろくな生徒が育たない,ということになりかねない,ということです。
まとめ
① 採用試験は公明正大なものとし,縁故採用は完全に廃止する。
② 採用面接では,教師の教育理念をしっかり把握できる体制にする。

次回は「6 教師が生徒に対してきれい事ですべてすまそうとしない。しかし,人の道だけは絶対に外させない。」です。

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素朴な疑問 なぜソフトバンクならOK牧場?

2005年03月27日 13時17分43秒 | フジとライブドア
ニッポン放送が保有しているフジテレビ株式を、ソフトバンクの子会社に貸し出すというニュースが報道されました。
これにより、ライブドアは仮にニッポン放送の経営権を手中に収めても、フジテレビの経営に口出しできないという状態になりました。
それはそれでかまわないのですが・・。

ただ、どうしても分からないことがあります。
1 ライブドアとソフトバンクの違い
 フジテレビはなぜライブドアだと拒絶したのに、類似産業であるソフトバンクには経営提携等を積極的に行おうとするのでしょうか。ライブドアとソフトバンクの違いが私には理解できません。
2 ソフトバンクの個人情報保護の対策
 ソフトバンクも、ヤフーBB個人情報流出問題など様々な問題を抱えていると思いますが、個人情報保護法を控えてこの点は完全にクリアできているのでしょうか。特に放送局との経営提携であるならば、より一層個人情報保護に慎重にならなければいけないと思うのですが、フジサンケイグループのディノス等で今後も安心して買い物ができるのか、正直心配です。
3 本当にホワイトナイトなのか
 ソフトバンクが「ホワイトナイト」であるがごとく報道されていますが、本当にホワイトナイトなのでしょうか。突然フジサンケイグループを裏切って、フジテレビをのっとることもできるような状態に置かれていますが、そこはフジテレビは絶対の自信があるのでしょうか。その根拠は?

以上、私にはよく分かりません。どなたか表や裏を知っている方がいましたら、教えてください。

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「ごくせん」から教育を考える(その6)

2005年03月27日 01時58分32秒 | 教育問題
前回の続きです。

4 教師が上司,教育委員会,PTA等に媚び売らない。また,上司からの命令も自己の信念に反していれば無視する。
 最初の文書に,誤植がありましたね(^_^;)。
 さて,教師もサラリーマンです。きれい事だけでは世の中うまくいけないことを一番知っているのは,紛れもなく教師自身です。
 特に出世欲のある教師ほど,上司の顔色をうかがいます。それは,教師に限らずどこの社会でも共通で,上司に睨まれると出世の道がないからです。
 また,教育委員会から何かクレームが来れば出世に響きますし,PTA(ユーザー代表でしょうか)からのクレームが校長の耳に入れば,その教師は指導力がないと勝手に評価されてしまいます。
 したがって,教師は生徒の方を見ないで,上司の方を見て授業をするようになってしまいます。
 さらに,上司の命令に逆らうことは,己の出世の道を封じる行為に他ならないため,当然上司からの命令に忠実になります。そのため,時には自己の教育信念に反する指導も平然と行うことになります(指導要領に従って授業を行う,というのも一部そのような要素があるでしょうか。)。
 当然,これでは生徒に対してちゃんとした教育を行えないことは言うまでもないでしょう。しかし,教師も生活がかかっているため,上司に反抗するという冒険を行え,ということも難しいでしょう。それころ,やんくみのように,出世のこと等を一切考えない教師でなければ出来ないことでしょう。
 むしろ,現状では,出世欲のない教師に熱心な教師は少なく(もちろんいますよ!),出世欲のない教師はぐうたら教師,すなわち授業も満足に行えず,会社でいうところの窓際社員的な存在である場合が多いです。

 この問題は,突き詰めて考えると,現在の教師に対する査定制度に問題があります。すなわち,教師の給与や出世については,校長や教頭などが教師の査定を行い,その査定に際しては多分に査定者の主観によります。だから,上司に嫌われると,査定が低くなるため,上司に媚びうる人が多くなるわけです。
 そこで,査定方法を変更してみたらどうでしょうか。上司が行う査定項目は,教師の日常生活のミニマムな部分,すなわち無遅刻無欠勤であるかとか,必要な授業を必要な時間やっているかとか,必要な会議や研修などに参加しているか等に限定します。
 そして,教育内容の具体的な査定はあえて行いません。真の査定は生徒や親が行いますが,別にこれを査定書などにするわけではありません。教育効果は,一朝一夕で出るわけではないため,数年後(おそらく卒業後)に,卒業生から感謝の手紙が届く,又はその卒業生が大活躍する,それ自体が立派な査定になるのではないでしょうか。
 ちなみに,教育権が誰にあるか,という裁判がありました(旭川学力テスト事件)。そこで,最高裁は,教育権は親と国の両方にあり,教師に一定の裁量があることを認めています。したがって,教師を教育内容で査定すること自体ナンセンスなんです。
 なお,一部の大学では,学生が教授を査定するという制度を採用していると聞きます。これは,大学だから出来る芸当であり,小中高校ではこの制度は十分機能しません。なぜなら,彼らにはまだ教師を評価できるほどの能力は備わっておらず(厳しい先生はだめ,おもしろい先生は良い,という基準くらいしか付けられません。),結果,生徒の顔色をうかがう教師になってしまうからです。同様に,親が評価することも難しいでしょう。親は直接授業を聞いているわけではなく,子供といるフィルタを通して話を聞いていることから,教師の教育方針などが正しく親に伝わっているとは限らないからです。
 もし,親に評価させる機会を設けるとするならば,学級訪問のような機会をかなり頻繁に設け,それを通して親が査定をする,という方法が採れるかも知れません(個人的にはこれでも消極です。)。

 いずれにしましても,「査定」という制度,これを抜本的に見直さない限り,良い教師は生まれません。

まとめ
① 教師に対する査定は,必要最小限の項目にする。
② 教師にある程度の裁量を認める。

次回は「5 教師に校長になろうという出世欲がない。」です。

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ナイナイの決断

2005年03月26日 18時55分41秒 | フジとライブドア
相次ぐ芸能人の「ニッポン放送出演拒否」表明の中,ナイナイの二人はニッポン放送への出演継続を表明しました。
すばらしいと思います。何がすばらしいかというと,彼らはリスナーあっての自分たち,ということを自覚していたからです。
経営者が変わっても,リスナーは変わりません。それなのに,出演拒否をするということは,それ自体リスナー軽視の姿勢,すなわちファン軽視の姿勢に他なりません。

別にライブドアやフジテレビに媚びを売ってまでも売れるタレントになれ,とはいいませんが,芸能人たる以上,どんなに大物になっても,ファンのことは忘れてほしくありませんね。

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「ごくせん」から教育を考える(その5)

2005年03月26日 00時53分45秒 | 教育問題
前回に続きます。

3 教師が生徒を一人として見捨てない。
 マスプロ教育の弊害として,「落ちこぼれ」を作ってしまい,彼らを見捨ててしまった。そのために,ある者は不登校となり,ある者はぐれてしまい,ある者は進学や就職もしないで無為徒食に暮らすようになってしまう等の問題が発生しています。
 もちろん,こうなる原因は,学校ではなく,専ら家庭にあることはいうまでもありません。しかし,学校としても,こうなる生徒をみすみす見過ごすわけにはいきません。
 そこで,最近では,ユニ教育,すなわち不登校生徒へのフォローや,授業についていけない生徒に対する補習制度などを活用し,可能な限りの対応を行っている学校も多いです。
 これは,大いに結構かと思います。ただ,この手法は,事後的な措置,すなわち病気が発生した後の薬治療であり,手術であります。
 重要なのは,このような生徒が発生しないようにすること,すなわち予防措置が重要なのです。1でも説明しましたとおり,教師の目が全員に確実に届くことだけでも,かなりの予防効果は期待できます。
 しかし,それ以上に,生徒の異変にいち早く気がつき,それに対応し,時には,上席の教諭に相談し,または親に対して報告や相談をするなど,きめ細かな配慮が必要となります。マスプロ教育のみでは対応できないため,ユニ教育による効果が期待できる部分であるといえます。

 では,具体的には,どうすれば予防できるか。これは,生徒全員とのコミュニケーション,これにつきます。毎日,言葉のキャッチボールをすればよいのです。これは,特定の生徒(問題のある生徒など)だけではだめです。他の生徒が色眼鏡で見るおそれがあり,張本人もかえって警戒してしまうからです。
 これに対して,中学生くらいになると,いわゆる反抗期になるため,教師に心を開かない,本音話をしないため,意味がないという反論もあります。
 しかし,これは間違いです。確かに,反抗期になり,教師に心を開かない生徒もいると思います。だから,やっても無駄なのではありません。だからこそ,やるのです。生徒が「先生,うざい」と思うかもしれませんが,うざいと思われることで,先生の存在感が逆に出るわけです。むしろ,うざいかなと気にしてその生徒を放置してしまうと,「見捨てられた」と思い,いよいよおかしな方向に進んでしまう可能性があるわけです。
 逆に,先生に心を開いている生徒もいるわけで,そういう人からは時に他の生徒の情報が入ることもあります(悪い言葉でいうと「チクリ」とも言うのでしょうが,決して生徒の悪口を言うばかりではありませんので,必ずしもチクリの意味ではありません。)。そこで,情報を整理して,あらゆる可能性を考えていけばよいわけです。

 とにかく,教師としては,生徒全員とコミュニケーションを取る機会を設けなければなりません。これは,全体を対象とする点ではマスプロ教育の一環になりますが,具体的な内容としては,まさにユニ教育の典型といえるでしょう。

まとめ
① 生徒とのコミュニケーションを常に取り,生徒の異変を事前に察知するなどの予防策を講じる。
② 異変に気がついたら,すぐに上席や親などと連絡を取るなどする体制を作る。

次回は「4 教師が上司,教育委員会,PTA等に媚び売らない。また,上司からの命令も自己の信念に反していれば無視する。」です。

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「ごくせん」から教育を考える(その4)

2005年03月25日 23時45分43秒 | 教育問題
前回の続きです。

2 教師が教育に対する揺るがない信念を持っている。
 こんなことをここでいうと,おそらく現役の教師の方から,「教師はみんなそんな信念で授業をしている」と怒られてしまうと思います。それは,そのとおり間違いないでしょう。「そんなもん,ないよ。」なんていう現役教師がいましたら,即座に転職してください(^_^;)。
 ただ,現役の教師の方に質問です。「では,揺るがない信念とは何ですか?」
 おそらく,「生徒を愛する。」「生徒を信頼する。」「生徒が分かるような授業をやる。」などではないでしょうか。それはもちろん重要ですし,その信念がない人は,そもそも今教師をやっていないでしょう。
 では,更に質問して「では,具体的には?」といわれたらどう答えるでしょうか。おそらく,この部分をしっかりと答えられる方は実は少ないのではないでしょうか。
 そうです。今の教師に求められる姿は「具体的な信念を生徒に示すこと」なのです。正直,小中学生はまだまだひよこです。こんな子供達に抽象論を掲げても理解してくれるはずがありませんし,そんな信念は伝わりません。また,もっと問題なのは,今の親もひよことです(う,耳が痛い(^_^;))。親の能力も昔と比べて相当落ちてきています。そんな親に対しても,抽象論は通じるはずがないのです。
 だからこそ,具体的な信念を持ち,教師として教壇に立たなければならないのです。
 具体的な信念,例えば,やんくみ先生の場合は,抽象的な信念は,「生徒を愛する」ことでしょうが,具体的な信念としては「人の道を知れ。人の道を考えられるようになれ。人の道に基づいて行動できるようになれ。」という揺るがない信念に基づいているといえるでしょうか。

 では,具体的には教師としてはどうすればよいか。簡単なことです。今持っている信念をもっと具体化してみてください。自分は,どんな方針で授業を行うのか,生徒指導を行うのか,生徒と接するのか,ということを考えてみればよいのです。
 これを役所風にアレンジしますと,「先生の教育信念の情報を公開してください,という情報公開請求が来た。」場合に,どのように回答するか(もちろん,本当にこんな請求が来たら却下事由に該当しますが,それは置いておくとして)考えてみてください。請求者が納得する回答,これを考えてみましょう。
 また,当然ですが,教員の採用面接の際は,ここを突っ込んで聞く必要があります。また,普段の職員会議の席上などでも,各先生方の信念を確認し,お互いに議論する場を設ける必要があります。
 以上,まとめると,「常に具体的な信念を持っていること。そのためには,平素から自己の信念を誰に対してもはっきり説明できるようにすること。また,議論や意見をもらう機会を多く設け,自分の考え方を他の教師に理解してもらうこと。」が必要ではないでしょうか。
 残念ながら,現在の学校で,ここまでぎっちりやっている学校は少ないのではないでしょうか。

まとめ
① 常に教師は誰に対しても説明できる程度の「具体的信念」を持たなければならない。
② 自己の信念について意見交換のできる機会を多く設ける必要がある。

次回は「3 教師が生徒を一人として見捨てない。」です。

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