「社会が変わったから憲法も改正するべき」という義論は、ある面では正しいが、無条件に認められるものではない。なぜなら、それを認めてしまうと「憲法改正するには憲法を無視すること」という権力者を容認することになるからである。場合によっては、「社会の変化を憲法に合わせ直す」こともあり得る
では、社会が変わった時に憲法を改正するか、それとも社会を戻すかの判断は、まさに主権者たる国民にある。それが憲法改正の議論であり、最後は国民投票による意思表示なのである。
この際、理想と現実も考慮すべき要素であるが、憲法がどのような日本を目指しているのかという理念も忘れてはならない
なので、憲法について議論する=憲法改正論者という発想はあまりに短絡的すぎる。むしろ、議論は常に国民全体が行える環境にするべきである。議論の結果、「改正すべきでない」ということになるのも普通にあり得ることである。
どうも、日本はまだまだ憲法の議論はタブーという空気が強いかもしれない
さらについでにいうと、憲法9条改正反対論者=国際情勢を知らない理想論者という見方も短絡的である。9条改正反対だが、軍備増強は現行憲法下でも十分可能だという考えの方も結構多い。
もちろん、この場合、軍備増強=戦争容認なんて全く考えていない。両者は十分両立できる考えである。
よく中学生が勘違いすることだが、最高裁の権限である違憲立法審査権とは、国会でできた法律を逐一チェックして「この条文は憲法違反だ」というものではない。あくまでも具体的事件で訴訟提起し、その裁判の判決を出す上で憲法違反の主張があれば、それに対して違憲か否か判断するにすぎないのである。