あれは,あれで良いのかなPART2

世の中の様々なニュースをばっさり斬ってみます。
ブログ界の「おか上彰」を目指し、サボりながらも頑張ります!

公暁もビックリ!鶴岡八幡宮の大イチョウ倒幕,じゃなくて倒木

2010年03月10日 21時32分00秒 | 歴史の話
歴史の生き証人とも言われる鶴岡八幡宮の大イチョウが10日早朝,根本から倒れました。
このイチョウは,樹齢1000年を超えると言われ,神奈川県天然記念物に指定されていましたが,今朝の雪と強風が原因といわれています。
専門家によると,もはや植え直しによる回復は不可能ということで,今後は,何らかの方法による資料保存を検討するとのことです。

鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる=「実朝暗殺の舞台」、樹齢1000年-鎌倉(時事通信) - goo ニュース

天寿を全うした大イチョウですね

実は,私自身,この大イチョウを見たのは,約30年前のことです。当然のことながら,その時「すげー大きな木」っていう印象を抱き,また幼心ながら実朝暗殺という鎌倉幕府の衰退をなんとなく肌で感じることができたような気がしました。
でも,正直,この頃はどちらかといえば,大河ドラマの影響で郷ひろみさん演じる源頼家のイメージが強く,逆に「実朝?だれだっけ?」みたいな感じだったかもしれません。ちっちゃい頃からひねくれ者だったのです,私(^_^;)。

それはさておき,こうした歴史の生き証人でいわば鎌倉を代表する一つといえる大イチョウが倒れてしまったのは何とも寂しい限りです。でも,1000年以上育ったので,まさに天寿を全うしたイチョウといえるでしょう。
ところで,この大イチョウは,多くの政権交代を目の当たりにしてきました。果たして,今の政権交代劇をこの大イチョウはどういう気持ちで見ていたでしょうか?ひょっとすると,この一連の政府の動きを見て,「おいおい,まだ鎌倉幕府の方がましだったぞ」とショックを受けて倒れてしまったのかもしれませんね。

いずれにせよ,偉大な何かを失ってしまった,そんな気持ちにさせる事故でした。でも,資料保存を検討しているようですから,博物館等で第二の人生(木生?)を歩んでほしいものです。記憶にも記録にも残る大イチョウ,これからは永遠の大イチョウになりそうですね。

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邪馬台国発見?いやいや,まだまだ・・

2009年05月30日 23時48分36秒 | 歴史の話
邪馬台国の女王卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳周辺調査で発見された土器の年代測定を行った結果,ちょうど卑弥呼が亡くなったと言われる時代と一致したということで,邪馬台国畿内説が俄に活気づいてきました。

卑弥呼墓説に補強証拠=箸墓古墳周辺土器、時期が合致-歴史民俗博物館が測定(時事通信) - goo ニュース

古墳自体を発掘させてほしい

ご存じのとおり,邪馬台国は大きく九州説と畿内説との論争が繰り広げられており,いまだ決着が付いておりません。
そうした中で,今回の調査結果については一定の意味を持つといえます。すなわち,「少なくとも,卑弥呼が亡くなった頃に,箸墓古墳周辺に大きな権力を持つ人が存在した」と言えるからです。そして,魏志倭人伝の記述を踏まえると,かなりの確率でこの古墳が卑弥呼の墓といえる,ということになります。
しかし,あくまでも補強証拠にすぎません。卑弥呼の墓と断定できるためには,親魏倭王」の金印が出てくれば確実といえます。そうでないとしても,例えば古墳から100余名の人骨が出てくる(殉死させられた奴隷たち)などもあれば,相当有力かもしれません。
そういう意味では,この古墳自体の調査をなんとか宮内庁が許可してくれればよいのですが,宮内庁は基本的に古墳の発掘調査を許可してくれません。もったいないとしか言いようがないのですが・・(まあ,安易に調査を認めると,かなりの確率で「日本の歴史が大きくひっくり返ってしまい,日本の存在意義自体を否定しかねないものが発見される」ので許可しないのではないかなどと言われています。それは何かはもっとストレートに言いたいところですが,この辺は空気読んでくださいね(^_^;))。

ところで,今回の調査で邪馬台国は近畿にあったと断定できるでしょうか。いいえ,まだまだ!!
まず,まっとうな反論としては,「年代測定法の信憑性」です。これはものすごく正確とはいえず,環境等によっては数十年の誤差がでる場合もあります。そうすると,数十年の誤差がでると,逆に卑弥呼と不一致となってしまうので,完全にはずれ,っていう結論になります。
また,箸墓古墳は,一度円墳として作られた後,前方部分が作られたという調査結果があります。ということは,周辺から発見された土器自体が果たして本当に卑弥呼時代に埋められたものと断言できるのか,いわゆる「検体が正確にその時代のものといえるか」という問題もあります。
そして,何よりも,やはり「古墳の中から何が出るか」でまだまだ結果はひっくり返るということで,引き続き慎重な調査研究が続けられることになります。

でもって,次は主観的理由です。
実は,私は「九州派」なのです。中学時代にちょいと興味があって,自由研究で調べましたが,その時の素人判断としては,「九州北部のとある古墳だろう。」と結論づけました。もちろん,素人的論拠ですが。
私が九州北部と考えたのは,実に安直です(っていうか,歴史書をほとんど無視した単なる推理です。)。

1 魏志倭人伝は中国目線で書かれているため(そもそも「卑弥呼」っていう名前自体,偉い人の名前ではない。おそらく,タイムマシンで邪馬台国に行って「卑弥呼さんいますか?」って聞いたとしても,「はあ?」って言われるのでは,と思います。),すべて信用してはいけないという前提で考える必要がある。
2 すると,行程のくだりについては,「いやあ,倭の国に行くのは本当に大変だった」ということを強調するため,かなり誇大表現をした(日本だって,日本書紀で「聖徳太子」を見事なまでに作り上げてしまいました。たいしたもんだ。)。したがって,行程の記載を真に受けてはいけない。
3 卑弥呼の響きが「日向」に似てないか?
 当時は,日本と朝鮮・中国の文化や技術を比較すると,圧倒的に朝鮮・中国の方が上だった。っていうことは,そうした最先端技術を入手できれば,国内統一は容易である。そして,それが入手しやすいのは,必然的に「近い場所」,すなわち九州である。
 時代が異なることと,発見自体の信憑性に争いがあるものの,いわゆる「漢奴倭国王
」の金印は,やはり九州で発見されており,中国と九州は古くから関係があると推測されること。

6 近畿地方で大和朝廷が歴史上登場してくるのが邪馬台国の100年以上も後のこと。邪馬台国や周辺諸国が争うくらいドンパチしていたのであれば,逆にもっと早く「大型権力の国」が誕生するのではないか。

んなところです。今,改めて考えてみると,「うわー,雑な根拠!」と思わざるを得ませんが,まあ,そこはご愛敬ということで(^_^;)
でも,できれば九州説の方,学術的なフォローをお願いしますm(__)m

とにかく,まだまだ九州か畿内か,まだまだ熱い論争が続きそうですね。そして,専門家によるより精密な研究結果を待ちたいと思います。
歴史って,真実は一つのはずなのに,常に新発見でひっくり返る生き物ですよね。だから,歴史は面白い。

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鳴かぬならどうしようかなホトトギス

2008年01月06日 23時32分50秒 | 歴史の話
年末年始にかけて,いろいろな歴史番組をやっていました。
特にローマ帝国のものや,織田信長らを扱った番組は,結構見入ってしまいました。

いずれも現代と対比している

歴史は繰り返す」といいますし,また「歴史を学ぶ理由は,過去の失敗を検証して同じ過ちをしないようにするため」といいますので,そういう点ではこのような歴史検証番組は非常に有用だろうと思います。
そのうえで,ちょっとだけ短評を。

1 ローマは1日にしてならず者
  改めて「世界史をまじめに勉強すればよかった」と思ってしまいました。あれだけ長い古代ローマの歴史をかなりコンパクトにまとめており,また共和政から帝政ローマへの変革が非常に分かりやすかったです。
  さらに,現代との対比(政治腐敗と格差社会の発生や改革は政治家と抵抗勢力との駆け引きなど)は,歴史を検証する上で非常に大切な視点だったと思います。
  ただし,歴史上の人物を偉人扱いしすぎたかなあ,っていうのが気になりました。カエサルも実際はかなり血なまぐさいことかなりやってますし,歴代皇帝も徳川将軍以上の血で血を争う権力争いが背後にありましたが,その点は特に触れませんでした。
  もっとも,歴史の授業ではないので,そこまで扱うと争点がぼけるということから意図的にカットしたのかもしれませんので,この編集が悪いとまでは言いません。ただ,この番組を機に歴史に興味を持つ人がひとりでも増えて,それでローマの歴史を学ぶことになれば,番組としては大成功といえるでしょう。

2 洋の東西を問わず,政権末期は似ている

  現代との対比という点で,結構多くの歴史検証番組で「格差社会の発生」と「政治腐敗」,「社会システムが時代に合わない」などを取り上げます。ローマ時代についても,カエサルの誕生の背景にこれらのことをあげていました。
  もちろん,ローマ帝国が共和制から帝政に移行するきっかけや東西ローマへの分裂などの背景はここにあることは事実でしょう。
  しかし,何もローマに限った話ではなく,むしろ多くの時代がこれらが崩壊の背景となっています。日本の歴史も,各時代末期はほぼ同じ状況になっています。
  っていうことは,現代社会も末期ということなのでしょうか?

3 戦国時代の寺と今の時代の寺とはちょっと違う
  本能寺の発掘をして,外堀があったなど歴史的発見を報告していました。この調査が進めば,本能寺の規模が明らかになることでしょう。これは興味深々です。
  ところで,戦国時代の寺とは,実は「軍事拠点」であるということが意外と知られていません。今のお寺と同じように考えると,戦国時代の寺社について誤解する可能性があります。
  寺とは政治経済の中核を占めており,戦国大名とコラボをすることで,双方ともにますます大きくなってくるという状態にありました。その代表格が延暦寺だったのです。そこで,織田信長は「最大軍事拠点である延暦寺を破壊すれば,他の戦国大名の力もそげるし,自分への脅威も減る」と考えて攻撃したと考えられます。つまり,軍事戦略としてのひとつだったのです。
  決して,今の平和なお坊さんの集まりの寺に総攻撃をかけたわけではないのです。
  その前提において,本能寺も軍事拠点のひとつでした。一説には,織田家の武器倉庫であったとも言われています。それゆえ,周りに堀をめぐらし,厳重な警備をしていたのです。逆に言うと,それゆえ,明智光秀が本能寺を攻めた際,逃げ道がまったくなかったのです。
  本能寺の変,まだまだいろんな話や説があります。何が真実なのか,それは今時点は神のみぞ知る領域です。

4 秀吉商人説
  秀吉は農民ではなかったという説は少し前から出てきており,最近の学説では足軽団長の一人などともいわれています。
  今回,商人説を唱えていましたが,確かにつじつまは合います。特に,後の農民軽視の政策,交渉力,情報の扱い方などを考えると,少なくとも農民出身ではなく,商人であったといってもなるほどという感じです。
  ただ,商人出身だったとした場合,天下統一後の金の使い方にはかなり疑問があります。商人出身であれば,あそこまで無駄遣いすれば,たとえ金山銀山を押さえたとしても,財政破綻を招くことは計算できるはずです。それとも,単に権力を取った瞬間に人が変わっただけでしょうか?
  ただ,秀吉の出身が何であったとしても,秀吉のしたたかさは検証の価値が高いと思います。

5 鳴かぬなら,私が鳴こうホトトギス
  これ,明石家さんまさんがよく言ってますが,実は秀吉はこのタイプだったのではないのかなあ,って思います。
  実は,晩年の秀吉は,自分以外が信用できない状況にありました。そういう意味では,ネロと同じだったのかもしれません。

6 織田,豊臣,徳川の経済的な流れ
  織田信長は楽市楽座などの政策で,規制緩和をしたといわれていますが,それだけではなく,実は「土地以外の恩賞」を設けるなど,さまざまなものに経済的価値を見出そうとしました。いわば,「貨幣経済主義の走り」だったのです。その典型例が茶器であったとも言われています。
  一方,豊臣,徳川はあくまでも「米」にこだわりました。これは「古典的重農主義」です。もちろん,だから悪いというわけではありませんが,信長の考え方はおそらくほとんど理解できなかったでしょう。
  信長は生まれてくるのが300年早かったのかもしれません。

7 おまけ・・信長の肖像画
  歴史上の人物の肖像画はあまりあてになりませんが,仮に肖像画どおりの顔だと仮定した場合,信長はかなりのおちょぼ口なので,解剖学的には何を話しているのか非常に聞き取りにくかったと考えられます。
  だから,実は家臣は「信長の命令が聞き取りにくかったたが,怖くて聞き返せなかったので,信長の本心と違う行動に出ることが多かった」とのおもしろ仮説があります。
  かつぜつの悪い信長,これはドラマになりませんね(笑)。

とまあ,年始早々,歴史もので一人妄想にふけてしまいました。
とはいえ,本文中でも書きましたとおり,「歴史は繰り返す」ものです。過去の歴史をしっかり勉強することで,これからの日本が,世界がどうなるのか,どうして行くべきか,しっかりと考えていくことが大切でしょう。
果たして,日本はこれからどうなるのか,どうしていくべきなのか,ゆっくり考えたいと思います。

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たいしたもんだ聖徳太子,でも本当にいたの?

2007年11月25日 23時09分49秒 | 歴史の話
テレビ朝日系列で「聖徳太子の超改革,遣隋使1400年目の真実」が放送されていました。型破りな歴史番組好きな私としては,これを見ない手はないと思い,2時間じっくり見ましたが,結構おもしろかったです。

ただ,少々強引だったかも

聖徳太子蘇我馬子との駆け引きを現代社会風にアレンジしていた点は結構面白かったです(首相官邸や料亭,自動車や新聞記者などが登場するところは,賛否分かれるでしょうが,個人的には大好きな演出です。)。ただ,あそこまで突っ込む上に,聖徳太子を「良い人」,蘇我馬子を「ちょい悪オヤジ」という設定をあえて貫くのであれば,もう少し馬子,蝦夷親子の「悪さ」を出しても良かったのではと思います。

ところで,聖徳太子ですが,果たして本当に「超人」だったのでしょうか。実は近年の研究で,「聖徳太子不在説」がかなり急浮上しています。
正しく言えば,「厩戸皇子=聖徳太子」ではなく,「厩戸皇子を聖徳太子にしてしまおう」ということです。
すなわち,まず聖徳太子という名前,これ自体は100年後につけられた名前で,これは今の歴史の教科書でもはっきりと明記しています。
では,なぜ100年後に聖徳太子と名づけた超人が必要だったのでしょうか。それは,「国内政治への威厳付け」と「唐対策」のためと考えられています。もっといえば,「大化の改新」すら歴史的には怪しいもので,実際は「単なるクーデターでは」との説があり,そのクーデターの首謀者たる天智天皇中臣鎌足らが,「自分たちは正当な権力者である」ことをことさらに主張するため,100年前から蘇我氏が傍若無人であったことを明らかにする必要がありました(だから蘇我氏の名前はみんな卑しい響きになっている。)。ところが,実際の蘇我氏は決して傍若無人ではなく,むしろ飛鳥時代の安定政権を樹立した功労者であり,特に馬子は数々の実績を作ってきた立役者だったのです。
そこで,「馬子の実績」を抹消する必要があるが,一方で中国や朝鮮には公式記録が残っているため,完全抹消はできない,そのために「馬子以外の人間がやった」ということに捏造する必要があったのです。そして,その第三者こそが同じ時期にいた厩戸皇子なのです。
また,唐に対しては,日本が律令国家でものすごく政治が安定していることをアピールする必要があります。そうしなければ,一気に唐に攻められてしまう恐れすらあるからです。そこで,「日本は100年前からすごい国だったんだぜ」と見栄を張る必要があったわけで,そこで「聖徳太子伝説」を作り上げたのです。
それを補強するように,更なる説として,「17条憲法はそのときに作られたもので,聖徳太子と蘇我馬子が作ったものではない」がありますが,これこそ,「あたかも100年前から律令国家だったよ」をアピールするための代物であるというわけなのです。

とまあ,聖徳太子不在説を縷々述べてきましたが,歴史とは時の権力者によっていとも簡単に捏造されます。歴史上悪人といわれた人間は,実はその時代の民からは神のように敬われていたという例はかなりあります(例えば,賄賂で有名な田沼意次は,実は江戸時代にはありえなかった重商主義を推進し,経済活動をかなり発展させた立役者です。)。
今回の聖徳太子についても,果たして彼が実在したのか,実在したとしたらどこまで自分が改革を推進したのかは正直よく分かりません。ただ,確実にいえること,それは「何らかの理由で時代が変わった。それによって日本が大きく成長し,民の暮らしも大きく変わった」ということです。真実か捏造かはともかく,過去の歴史から学べるものがあれば,我々はそれをしっかり取り入れる必要があるといえるでしょう。それが,歴史を学ぶということなのです。
聖徳太子伝説,これはどのように評価して学ぶべきなのでしょうか。この番組では,「いいとこどり」の柔軟性と「独創性」の融合を図ることを述べていました。もちろん,そのような評価も可能でしょうが,もう少し進めると,「前例にこだわらない政治」と「万人にチャンスのある社会」,そして「周りの人との協調」,それが社会の変革には大切であると解釈できるのではないでしょうか。今の社会にはこれらが欠け始めているような気がします。
21世紀の聖徳太子が誕生することを願ってやみません。

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ランキングジャパン

本能寺の変,誰が黒幕か,くろちゃんか

2006年06月12日 01時13分59秒 | 歴史の話
大河ドラマ「功名が辻」で,今日は本能寺の変だったようです(今回の大河は全く見ていないので,完全に伝聞ですが。)。また,6月2日が本能寺の変でした。
ところで,本能寺の変については,様々な研究がなされており,真犯人が誰なのかも含めて諸説あります。
そこで,今回はちょっとその辺をまとめて,勝手に私なりに犯人探しをしたいと思います。

真犯人は誰か探してやる,じっちゃんの名にかけて

まず,本能寺の変の教科書的知識を整理しますと,明智光秀が突然謀反を起こし,本能寺で150人程度の守備兵しかいなかった織田信長を討ち取ったが,その後山崎の戦いで秀吉軍にあっさり敗れ,その後山中で農民に殺害された,ということです。その後,柴田勝家は秀吉に負けてしまい,秀吉の天下になりました。
とまあ,ここまでは普通の話です。

次に,不思議な話や前提となりうるはいくつかあります。
1 秀吉の中国大返しの謎(中国地方で戦っていながらわずか3日ですぐに帰ってきたのはかなり無理があるのではないか)
2 家康のアリバイ工作(家康は利休と堺にいたことになっているが,火曜サスペンス的に言うと無理なアリバイ工作の臭いがする)
3 光秀は死んでいないのではないか。今でこそテレビのチカラである程度偉い人の顔は分かりますが,この当時,山中の農民が光秀の顔を知っているはずがない。また都にクビが届いた頃には腐っているため,判別はマズ無理)。一説には,天海上人になって家康をフォローしていたという話も・・
4 実はイエズス会から信長は嫌われていた(信長はイエズス会に対するNGワードである「神」という単語を言ってしまったため,唯一の神はイエスのみ,という彼らの思想に反してしまった)
5 朝廷は完全な抵抗勢力であった(比叡山という抵抗勢力を制圧した次は,朝廷改革に乗り出す準備をしていた。郵政民営化改革の次に政府系金融改革を行おうとしている小泉首相と同じような立場にあったといえよう。)。
6 平気で解雇するため,恨まれていた(冷酷さをもっていたが,一方で経営者としてはカルロスゴーン並みであったともいえる。)。
7 本能寺はただの寺ではなく,軍事拠点(だから,本能寺の炎上は,実際は火縄銃の火薬が大爆発したため,信長の遺体は完全に飛び散ってしまい見つからなかったのではないかという仮説もあり。)。

さて,ここからは私の推理です。
まず,容疑者をピックアップしましょう。
1 明智光秀単独犯行説(単純な下克上のつもり)
2 豊臣秀吉陰謀説
3 徳川家康陰謀説
4 イエズス会陰謀説
5 足利義昭または公家陰謀説
6 柴田勝家その他家臣陰謀説

次に,少しずつつぶしていきましょう。
まず,明智光秀はものすごい戦略家でした。もちろん,下克上の世の中である以上,守備兵しかいない本能寺を狙えば勝てるという計算くらいはすぐにできるでしょう。
しかし,その後秀吉らが血相を変えてやってくること,支持者は自分の方が少ないことからこの先勝ち目がないことくらいは十分読めたはずです
よって,彼の単独犯行は可能性は低いでしょう。
また,秀吉,家康及びその他家臣の陰謀説については,その後彼があっという間に天下人で無くなっているとすれば,俄に考えにくいです。もし,彼らとつるんでいたとすれば,裏切られたということも考えられますが,前述のとおり,戦国の世の中,裏切りも常識であった以上,そんなリスキーな取引を彼がするとは思えません
さらに,イエズス会陰謀説については,高山右近宛の二重の手紙(日本語とポルトガル語のもの)が発見されており,その内容は全く異なっていましたことを根拠にしていますが(日本語の手紙には,光秀をよろしくとありながら,ポルトガル語の手紙には光秀無視の内容が記載されていた),イエズス会は信長を失ってしまうと一気に後ろ盾がなくなるというリスクを負っていましたから(事実,秀吉以降は一気に弾圧に回った),単に教義に反する程度のことで,果たしてこんな大がかりな陰謀を図るでしょうか。仮に,日本国自体を乗っ取ろうと画策していたのであれば,明智以外にも複数の有力大名と接触しておく必要がありましたが,一部キリシタン大名(しかも大きな力は持っていない)しか接点がありません。よって,この説も可能性は低いでしょう。
そうなると,残るは「公家」です。
もともと,明智光秀は公家との接点はかなりありました。また,明智光秀はいろんなアイデアを出す一方で,伝統を重んじる「保守的」なところもありました(一説では,比叡山の焼き討ちで信長からの離脱を考えたといわれています。)。
また,前述のとおり,公家は信長による朝廷改革をものすごく恐れていました。公家も天皇も,この頃には軍事力はもちろんのこと,政治力もほとんど無かったため,信長の改革に対して抵抗する力はほとんどありませんでした。
そこで,公家は明智光秀を使って謀反を起こそうとしたのではないかと考えられます
もちろん,前述のとおり,明智光秀からすれば,先を読めば公家からの見返りはほとんど期待できないこと,このままでは結局秀吉らに討ち取られてしまうことくらいは想定内でしょう。
しかし,公家はウルトラCを使おうとしました。それは「大義名分」ですこれを明智光秀に与えれば,天皇の命によって謀反者たる信長を討ったに過ぎないとなり,他の家臣も明智を討つと「謀反者」とされるため,手が出せないだろうと思っていたのです。
しかし,公家サイドは結局彼を見殺しにしました。おそらく,中国大返しが「想定外」だったのでしょう。ゆっくりやろうと思っていたところ,突然秀吉がやってきたので,朝廷内部は大慌てで「聞いてないよ」状態となり,大義名分を取る決裁ももらえなかった,その結果彼を見殺しにしたのではないでしょうか。

以上から,私の結論。
犯人は「公家」である。動機は,朝廷と天皇制度を守るため。

もちろん,真相は,タイムマシンでもできない限り分かりません。ただ,本能寺の変が歴史上のターニングポイントになったことは事実ですから,皆様も一度考えてみてはいかがでしょうか。
さらに,歴史は繰り返します。小泉首相ももしかしたら,側近から謀反にあう可能性だって考えられます。その際には,この本能寺の変を検証しておくと,似たような傾向が出てくるかもしれませんね。

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討ち入りは程々にね

2005年12月14日 23時37分26秒 | 歴史の話
12月14日は,ご存じ「赤穂浪士の討ち入り」,いわゆる忠臣蔵の事件発生日です。泉岳寺には,多くの赤穂ファンの方が訪れたようです。

年末ですねえ

赤穂浪士については,実は諸説ありまして,そもそも忠臣蔵の話自体,討ち入りから約90年後に発表されたものです。
したがって,真実は,忠臣蔵のお話しとはだいぶ異なっており,どうも忠義のための討ち入りではなかったのではないかという説も出始めています。
また,吉良は決して悪人ではなく,立派な為政者であったという説もあります。
まあ,この辺は歴史通の方のブログやHPをご覧頂くとよいでしょう。
いずれにしろ,ここで言いたいのは,「忠臣蔵って,あくまでもある事実をベースにした物語なんですよ!」ということです。
だからこそ,映画やドラマでいろんな解釈をした忠臣蔵が演じられており,それぞれおもしろみがあるのですが。

ところで,もしも現代社会で忠臣蔵のような討ち入り事件が発生した場合,どうなるでしょうか。そんな夢も希望もないようなことを少し検証してみましょう(はっきり言って,完全にシャレですので,かるーく読み流してください。)。

第1 刑事上の責任
1 集団で徒党を組んで歩いた→道路交通法違反,迷惑防止条例違反(一部都道府県のみ)
2 吉良を打つために槍や刀などの武器をそろえた→銃刀法違反,凶器準備集合罪
3 吉良邸に押し入った→住居侵入罪
4 吉良及び付き人を殺した→殺人罪及び殺人未遂罪,組織犯罪処罰法違反
5 吉良を発見したとき,夜中なのに呼び笛で合図を発した→軽犯罪法違反
6 吉良のクビを切ったものを槍の上にぶら下げて町中を歩いた→死体損壊罪

第2 民事上の責任
1 吉良及び付き人数名を殺傷し,また吉良邸を結構壊した→不法行為に基づく損害賠償(共同不法行為)
2 岡野金右衛門が吉良邸の図面欲しさに大工の娘に近づき結婚をちらつかせながら図面が入手できたら男女関係を解消してしまった→婚約不履行にもとづく損害賠償(慰謝料)
3 2の指示を大石内蔵助が行っていた→共同不法行為
4 吉良が殺されたことにより,生き残った付き人達は失業してしまった→不法行為に基づく損害賠償(吉良が生きていたら働いて得られたであろう賃金相当損害金)

第3 まとめ
1 刑事上の責任は,最高刑で「死刑」ですから,結果切腹となった江戸時代の沙汰同様,現在の裁判でもきっと同じように「死刑」となるでしょう。
2 民事上の責任は,結局吉良は結構な政治家であったことから,吉良に対する賠償だけでも1億円以上になるでしょう。また,吉良の付き人も何人か殺され,または怪我をしましたが,殺された人はやはり1億円近くになりますし,怪我した人は程度にもよりますが,安くても数百万円になります。
 したがって,吉良関係だけでも数億円の損害となります。
 また,岡野金右衛門については,婚約不履行となれば,100万円くらいの慰謝料が認められるでしょう。
 いずれにしても,赤穂浪士が現在同じことをやればこの47名は,連帯して数十億円の損害賠償責任を負うことになるでしょう。おそらく,赤穂浪士にはそこまでの支払能力がありませんので,被害者は泣き寝入りとなってしまう可能性が高いです。
3 したがって,現代社会では,討ち入りは辞めましょう!

以上,夢も希望もないお話しでした。

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小泉改革を江戸時代の三大改革と比較して考える(その2)

2005年10月17日 00時22分54秒 | 歴史の話
前回に続きます。

3 小泉改革との比較
  ここで,小泉改革と比較してみましょう。
  列島改造論により,公共事業を積極的に起こし,日本の景気はよくなりました。さらに,バブル経済により,日本経済は絶好調になりました。
  ところが,バブル崩壊し,またこれまでの公共事業の借金が雪だるま式に増え,さらには不景気により税収がどんどん減ってきて,国も地方も一気に財政難となりました。
  そこで,小泉首相は改革を断行しました。
  その第一弾が「道路公団民営化」や「郵政民営化」だったわけです。これは,いわゆる民間活力を推進するというものであるといえるでしょう。
  また,現在検討している税制改革も,安定収入の確保のためのものといえます。
  さらに,小泉首相は脱派閥として,大臣は実力のある人間を積極的に登用しています。
  一方で,地方政策については,三位一体改革として地方に一定の権限と財源の付与を検討しています。いわば,地方にお金を出すということで,地方に権限(負担)を課すものです(逆上米法といえるでしょうか)。
  もちろん,公共事業などの見直しを行い,不要不急な事業の延期,廃止を行う予定です(倹約質素の奨め)。
  ところで,現代社会では,企業を中心に「勝ち組」「負け組」が二分化してきました。また,各企業は,政治献金を上納することで,自己に有利な政策を進めるように今でも展開しています(中には,1億円をもらったことさえ覚えていなかった政治家までも現れるほどですから。)。
  以上を踏まえると,享保の改革と田沼の時代の施策と,小泉改革は時代背景も含めて極めて似ているといえます。

 歴史からみる小泉改革の成果と今後の行方
  歴史は繰り返すという前提に立って,小泉改革を検証してみましょう。
  享保の改革は一応成功しましたが,米価が狂乱し,国民の生活はかなり苦しくなりました。
  また,田沼の政治は,結局抵抗勢力の反対にあい,挫折しました。
  このことからすれば,「小泉改革は一応成功するといえるが,郵政民営化により郵便局にある国債や資金が民間市場にはき出されることにより,プチインフレが発生し,景気回復どころか景気が更に悪化するおそれがある。また,税制も国にとっては有利であるが,庶民にとっては重税感が払拭できない制度となる可能性がある。さらに,肝心な民間活力の導入も,既得権益や官僚の抵抗に遭い,頓挫する可能性があり,結局不十分な結果に終わってしまう。」ということが想定されます。
  もちろん,これは歴史からアプローチしているだけであり,現実面からのアプローチではありませんので,この辺の歴史を十分に反省して,過去の過ちを繰り返さないように進めているのであれば,当然違う結論になるでしょう。
  ただ,いずれにしても,この歴史から学べることは,庶民のためといいながら,国の財政再建を最優先して考えてしまうと,確実に享保の改革の結果のごとく,国民の経済活動に大きな混乱が生じる可能性は極めて高いということです。この部分こそ,歴史が教えてくれていることです。
  したがって,少なくとも「国民生活の安定」も視点に置いて改革を行わなければ,真の改革は達成しない,ということを結論として述べたいと思います。

5 ちなみに
  もし,歴史だけをみて日本の今後を占うとしたらどうなるでしょうか(ちょっとしたシャレです。)。
  小泉改革からしばらくして,日本は不景気が訪れます。すると,新たな総理が「ものすごく国民を規制する改革」を断行します(寛政の改革)。しかし,厳しすぎたため,その首相は選挙で敗退し,退陣します。
  しばらくすると,さらに日本のシステムが完全に崩壊してきます。そこで,時の首相が「1955年体制の頃のやり方に戻そう」という改革を行おうとします(天保の改革)。しかし,時既に遅し,改革の威力がありません。
  一方で,国外からはいろんな外圧がやってきて,ついにアメリカからは「アメリカとの貿易では,関税かけるな」という圧力がかかり,日本はこれに応じてしまいます(不平等条約)。
  これに起こった一部都道府県知事らが中心となり,新たな政権が誕生します(大政奉還)。
  これにより,「地方主権国家」が誕生する,ということになります。
  以上ですが,あくまでも歴史から見ただけの話ですから,この部分は軽ーく読み流してください。

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小泉改革を江戸時代の三大改革と比較して考える(その1)

2005年10月17日 00時15分17秒 | 歴史の話
前回,今後想定される増税問題について江戸時代からアプローチしましたが(記事はこちらです),今回は「小泉改革」が江戸の三大改革のどの要素に最も近いといえるかを検討し,そこから今後の動きを想定したいと思います。

1 小泉改革はどの改革に該当するか
  まず,前提として,江戸の三大改革とは,享保の改革寛政の改革天保の改革をいいます(なお,それぞれの改革の内容を書くと,それだけで日本史の教科書になってしまいますので,とりあえずすべて説明することは割愛します。)。
さて,小泉改革は,どの改革に最も近いかというと,結論から先に言うと,「享保の改革+田沼の政治」といえると考えます。

2 享保の改革と田沼の時代とは
  では,享保の改革とはどういうものであったのでしょうか。時代背景も含め,簡単に説明します。
(1) 元禄バブルとその崩壊
  5代将軍綱吉の時代になり,世の中がものすごく安泰となってきたことにより,綱吉はお寺を造るなど様々な公共事業にお金をかけるようになりました。結果,元禄時代は大変景気のよい時代となり,地方で農業をやっていた農民もどんどん都市部に仕事を求めてやってくるようになってきました(便宜上「元禄バブル」と呼びます。)。この元禄バブルにより,商人や農民にも,金儲けがうまくいった「勝ち組」と失敗した「負け組」が完全に分離されるようになりました(今のような破産法がないため,負け組は復活の望みがほぼ0になるかなりシビアなものでした。)。
  しかし,元禄バブルもやがて崩壊すると,今度は農村に人がいないことから,米の収穫が減ってきてしまいました。江戸時代は,「重農主義」,すなわち幕府や諸藩は年貢米という「米」を徴収し,それを商人に売って「金」に換えることで財政を維持していました。したがって,米=金でした。
  ところが,農村に人がいないということは,米を作る人がいない,すなわち「米不足」になるわけです。そして,年貢米は米の収穫高に応じて決められていましたので(累進課税制度みたいなものです),米不足=財政難に陥ってきたわけです。

(2) 享保の改革の具体的な内容と成果
  そこで,吉宗は次のようなことを行いました。
 ア 年貢を定免法とした(取れ高に関係なく,毎年一定量の米を年貢米として供出させた。定律課税制度ですね。)。
 イ 上米法(諸藩の大名から一定量の米を幕府に差し出せば,参勤交代の負担を緩和するというもの。)。
 ウ 倹約,質素の奨め(無駄遣いをなくそう)
 エ 新田開発の推進(田圃が増えれば米が増えるという発想です。)
 オ 目安箱の設置,コネや縁故でなく実力のあるものの登用,法制度の整備など(過去ではなく未来を見つめる)
  その結果,この改革は幕府の財政も復活し,一応成功したと評価されています
  ただし,決定的なミスがありました。それは,「重農主義」を改めなかったことです。つまり,米中心の財政を維持していたため,結局米を金に換える段階で商人が関与してきて,価格が安定しなかったという問題がありました。もっというと,米は豊作になると値段が下がるため,新田開発をして米がたくさん取れるようになっても,結局幕府の手元に入るお金はほとんど増えなかったのです。ここが最大のミスでした

(3) 田沼意次の行財政改革
  その後,老中(今の内閣総理大臣)に就任した田沼意次は,実はこの矛盾にいち早く気が付いていました。
  彼は,「米中心ではだめだ,これからは商人のお金,すなわち民間活力を積極的に取り入れることが重要である」と考え,日本ではじめてともいえる「重商主義」を取り入れました。
  その代表として,印旛沼の干拓が上げられます。これは,民間活力を導入して行われた大プロジェクトでした。
  また,株仲間を奨励し,勝ち組の商人を積極支援しました。さらに,ロシアとの貿易まで計画し,とにかく「世の中金だ!」を推進しようとしてきました。
  しかし,あまりに考え方が斬新すぎたため,いわゆる抵抗勢力の反対にあって,彼は失脚してしまったのです(ちなみに,彼は賄賂で失脚したと歴史の授業では教えていますが,彼がもらった賄賂は,江戸時代では当然のものであり,今でいう「お中元」や「お歳暮」の類でした。今政治家がもらっている賄賂とはちょっと意味が違います。)。

次回,これを踏まえて小泉改革と比較してみたいと思います(こちらをクリックしますと,続編にジャンプします。)。

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江戸幕府末期と大増税時代

2005年10月09日 11時04分15秒 | 歴史の話
歴史から現代社会を検証するシリーズをいよいよ書いてみようと思います。
今回は江戸時代から。

さて,中学時代,江戸の三大改革を勉強したと思います。享保の改革寛政の改革天保の改革ですね。そして,それぞれ改革のきっかけになったひとつが「飢饉」です。飢饉とは,簡単に言えば,凶作で米が取れない状態を言います。米を年貢米として払っていた当時にしてみたら,米は現金そのものと考えていいでしょう
そして,飢饉が続くことにより実質的に現金収入が減少したため,藩や幕府の財政が非常に苦しくなった,そこで当時の将軍や老中が当時としての大改革を断行した,それがこの江戸三大改革です。
各改革については,それぞれおもしろ話がありますので,別の機会に紹介するとして,ここでは,改革に至る「飢饉」について検証したいと思います。

中学の授業や教科書を思い出してください。おおざっぱにこんな風に書かれていたのではないでしょうか。
江戸時代中期以降,凶作や飢饉が相次ぎ,餓死する農民や田畑を捨てて町に出る農民が急増しました。一方,年貢米が少なくなった藩は,より一層の年貢米の増加を要求してきました。そこで,この頃から代官や高利貸し商人に対する一揆や打ち壊し等が急増してきました。これにより,幕藩体制が少しずつ崩れはじめてきました。」
記憶で書いていますが,だいたいこんなことだったと思います。

この授業を聞いたとき,中学時代の私は「当時の代官って馬鹿だなあ。年貢米払えない状況分かってるのに,何で年貢米増額するんだろう。藩の財政苦しいならば,苦しいなりのことやりゃあいいのに。」と世間というものを知らないなりの感想を持っていたものです。おそらく,このような感想を持たれた方も多いのではないでしょうか(特に,大塩平八郎の乱に関しては,「大塩可哀想」と思った人もいるかとおもいます。)。

さて,現代はどうでしょうか。現代の飢饉=不景気です
最近は好景気になったといいながら,一方で平均給与額はまだまだ下がっています。中小企業の倒産率も上昇こそ収まりましたが,まだまだ高い水準を維持しています。したがって,まだまだ不景気といえるでしょう。
その状態の中で,政府与党は増税を断行しようとしています。また,銀行が中小企業やサラリーマンへの貸し出しを控えている影響から(貸し渋り),高利貸し(街金)は,ますます顧客を増やしています。
すなわち,景気が悪くなったので,増税をして政府の台所を多少なりとものよくしようという発想といえるでしょう。これは,年貢米を増やしたいことと同じことといえます。
ということは,江戸時代でいう「一揆や打ち壊し」が起こってもいい状態に極めて似ているといえるのではないでしょうか。

歴史から検証すると,今回の大増税をは,「時代劇の悪代官」と同じようなものにしか映りません。このままでは,やがて一揆が起こっても仕方がないといえるでしょう。
ただし,現代社会では,暴力行為である一揆はさすがに起こりにくいですし,そのような行為には私も大反対です。それに変わる一揆は「選挙」といえるでしょう
この歴史から学ぶべきことは,「不景気の時代こそ,トップの手腕が発揮される。増税という安易な方法は,結局トップの首を絞めるだけに終わり,逆に国の崩壊にも進みかねない。」ということです。
つまり,改革なき大増税は一揆(選挙)により政権は崩壊する,このように歴史は教えていると考えられます。むしろ,一揆が起こらないように国民を弾圧するのではなく,一揆が起こらないような積極的な施策(改革)が望まれるといえるわけです。

今,小泉首相が郵政民営化をはじめとする大改革を断行しようとしています。歴史の流れからしても,江戸の三大改革と同じような状況の下ではじめられたといえるため,いわば歴史の流れどおり進んでいるといえるでしょう。
この改革の結果がどうなるのか,それは江戸の三大改革が知っているため,その点は,別途検証したいと思います(こちらをクリックしますと,検証記事にジャンプします。)。

では,最後に歴史こぼれ話を少し。
享保の改革の中心人物である,徳川吉宗は,現代では「暴れん坊将軍」とかで「良い将軍」のように映っています。また,大岡越前上忠相も,「大岡裁き」など有名なエピソードを残し,「すごく良い奉行」に映っていると思いますし,そのようなイメージを持つ人も多いでしょう。
しかし,歴史研究家の中からは,異論がありまして「大岡越前は猛烈な言論弾圧を行った」という説があります。すなわち,幕府に対する批判が強まりはじめたため,それを恐れた吉宗は大岡越前に対し,徹底した言論統制を実施したというのです。だから,記録上は美談しか残っていない,というわけです。
逆に,田沼意次は,賄賂をもらった腹黒い老中という低い評価をもつ人も多いと思いますが,逆に田沼意次は江戸時代の老中の中では,1,2位を争う有能な政治家であったといわれています。
田沼は,印旛沼の干拓という大事業を成し遂げて米の増産を確保したという実績があるばかりか,言論の自由を認め,いわゆる情報流通を確立したといわれています。言論の自由があったからこそ,江戸時代ではごく当然に行われていた「賄賂政治」のことも記録上しっかり残っていたといえるわけです。
以上の真偽は歴史だけが知っていますが,少なくともいえることは,「歴史の多くは当時の公文書から知るため,当時の公文書に果たして悪いことが書かれているだろうか」という点を知る必要があります。
歴史学者達は,そのことを熟知した上で,新たな歴史発見に向けて日夜一生懸命研究しているのです。
以上,コラムでした。

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なぜ歴史を学ぶのか

2005年09月25日 04時15分54秒 | 歴史の話
私たちは,なぜ歴史を学ぶのでしょうか。単なる暗記の練習に過ぎないのでしょうか。
違います。
かつて司馬遷は,「歴史を学ぶこととは,先人の過ちを理解し,そのことを繰り返さないようにするため」というようなことを言っていたそうです。まさに,歴史を学ぶ意義はそこにあると考えます。
一方で,歴史は繰り返す,とも言います。これは,時の権力者が過去の歴史を忘れ,権力におぼれてしまったがために,最後は同じような結末を迎えてしまうというものです。
私たちは,かなりの情報を入手できるようになりました。当然,過去の歴史についても教科書以上の情報を瞬時に取り寄せることも可能となっています。
一方で,過去の歴史から踏まえたとき,現代社会でも過去の歴史と同じ過ちを繰り返しているのでは,と思われるフシもあります。

そこで,今後は,歴史を学びながら先人達の失敗を現代社会に活かしているのか,思いつくままに記載したいと思います(不定期連載になります。)。もちろん,歴史こぼれ話なども紹介できればと思いますが,私が知っているこぼれ話は次々とテレビなどで紹介されちゃっているため,「知ってるよ」という内容でしたら,ご容赦ください。

というわけで,ご挨拶代わりにちょっとしたこぼれ話。

上杉謙信は女性だった可能性が高い!

謙信の肖像画がありますが,あの絵のひげは実は江戸時代に書かれたものであることが判明したそうです。なぜ半世紀以上も後にひげだけ書かなければならないのか,ひげを書かなければ困ってしまうような問題が絵にあるはずです。
また,謙信は生涯独身を通しましたが,戦国時代では極めて異例です。
さらに,戦争中,月に数日間戦場を離れることがあったそうです。
以上を踏まえると,実は謙信は女性だったのでは,という説があるそうです。
仮にそうだとしたら,上杉謙信は,女性社長や女性知事の先駆者,言い換えるとカリスマ的存在と言えるでしょうね。

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