地元ネタが続きますが,東久留米市の住民4名と落合川,ホトケドジョウらが原告となって,東京都に対し,落合川の河川工事の中止を求める訴訟を東京地裁に提訴しました。
原告代理人の話では,これまで動植物が原告となる例は20数件あったが,川が原告となるのは初めてではないかとのことです。
原告にドジョウと川も 河川工事の中止求める(共同通信) - goo ニュース
最後は「人と人との対決」になるのですが
この問題,原告問題を別にして論じると,「河川改修工事の是非」を裁判所に判断してもらうというものです。言ってしまえば,典型的な行政訴訟といえるでしょう。
そして,争点も単純で,「自然環境の破壊防止及び保全vs安全な住環境の確保など公共の福祉の確保」という点に集約されます。
すなわち,原告側としては,「河川工事により貴重な湧水が失われ,結果として落合川の水質や周辺の動植物の生態に影響を与え,しいてはそれが住民の生活環境にも跳ね返ってくることになる」という主張になると思われます。一方,被告側としては,「河川工事は洪水防止という公共性の高い事業であり,湧水問題についても,環境に配慮して設計しているため,問題は少ないはずである。」という主張になると思われます。
そして,過去の裁判例を分析しますと,裁判所の判断傾向として,①基本的には公共性を優先する,②環境問題については発生の蓋然性の高い場合に初めて論点とする,③ただし環境問題の発生を認識し,または認識しうる状態にありながら,あえてこれを放置し,または不十分な措置しか講じていない場合は,工事の差し止めもあり得る,④しかし,その措置が工事と同時並行に講じることができるような場合は,工事の差し止めまではしない,という感じになっていると思われます(私は学者ではありませんので,判決文全部を研究しているわけではありません。したがって,もしかしたら裁判所の判断傾向は若干違うかもしれませんので,その点はご了承ください。)。
今回の落合川の改修工事ですが,地元にいますので,前回のイオン同様,市民の中にも賛否両論があり,それは十分に聞こえてきます。また,議会もイオン同様自民公明賛成,民主共産反対という構造になっています。
それぞれの言い分にはいずれも十分な理由がありますので,あとはこれを裁判所が「権利義務」という観点からどう判断するのかポイントだといえるでしょう。
ただ,個人的には,裁判所の論点とはずれますが,そもそも「河川改修」の手法の妥当性を再検討する必要があるのではないかと思います。ドイツでは,コンクリートで固めた河川改修を否定し,コンクリートを壊し始めています。日本でも,昭和の河川改修を見直す動きが出ており,「自然共存型河川改修」を模索しています。今回の落合川も,東京都の説明では,自然共存型河川改修であると強く主張していました。
しかし,湧水という川の命の部分については,若干ないがしろにした設計ではなかろうとか,というイメージも持ちました。もちろん,東京都は「影響は最小限」とは言っているものの,計と現実が違うということは,これまで幾度となく経験していますので,鵜呑みにはできません。
もちろん,洪水調整などは住民の生命財産を守るために必要です。ただ,落合川に関しては,果たして大洪水が発生するような河川なのか,ちょっと疑問もあります。いわゆる都市型水害対策を想定しているのであれば,雨水管の改修などで対応できるのではないでしょうか。
無条件に工事反対という訳ではありませんが,東京都側も「肝心な部分」も含めて,もっとしっかり説明する必要があるといえるでしょう。必要なことは,「説得」ではなく「納得」なのです。
さて,本題に戻りますが,今回,原告に「落合川」と「ホトケドジョウ」が加わっています。
ただ,民事訴訟法では,裁判の当事者になれるのは,当事者能力あるものに限られています。当事者能力とは,簡単にいえば「人と法人」です。したがって,ほぼ確実に川とドジョウの訴えは門前払いになります。
もちろん,原告代理人はそのことは百も承知であることから,人も訴訟当事者にしておくことで裁判が進められるようにしています。
では,なぜ,川やドジョウが原告になることは認められていないのでしょうか。難しい理論は別にして,簡単にいえば「特定ができない」ことと「真意が分からない」こと,さらには「負けたときの責任を取れない」ことにあります。
まず,「原告はホトケドジョウ」という申立は,いってしまえば「原告は人」というようなものです。これでは,誰の権利なのかさっぱり分かりません。
また,ドジョウの中には「いやあ,今の環境は本当にいいなあ」と思う輩がいるかもしれませんし,川だって「今の時代はプチ整形ブームだから改修ありかも」と思うかもしれません。つまり,川やドジョウの意思とは,結局は「人間側の都合」だけなのです。
さらに,もし裁判で勝った場合にお金をもらうことはできませんし,逆に負けたときの訴訟費用負担もできません。ドジョウの場合は,最悪「自分が柳川鍋になって訴訟費用を払う」という命がけの訴訟になってしまうかもしれないのです。
少々冗談交じりとなりましたが,なぜ人以外の裁判が認められていないかは十分理解できるのではないでしょうか。
もちろん,繰り返しますが,原告代理人も弁護士なので,そんなことは十分分かっています。ただ,あえて原告に加えた趣旨は,「とにかくこの裁判はメイン争点は環境破壊を止めることにある」というアピールにあるといえるでしょう。
地域住民としても,この訴訟の帰趨は見守りたいと思います。理想は「環境保全と住環境保全の調和」にあるのですが,それを求めるのはさすがにエゴですから,この辺を裁判所がどちらよりに判決を出すのか,注目です。
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原告代理人の話では,これまで動植物が原告となる例は20数件あったが,川が原告となるのは初めてではないかとのことです。
原告にドジョウと川も 河川工事の中止求める(共同通信) - goo ニュース
最後は「人と人との対決」になるのですが
この問題,原告問題を別にして論じると,「河川改修工事の是非」を裁判所に判断してもらうというものです。言ってしまえば,典型的な行政訴訟といえるでしょう。
そして,争点も単純で,「自然環境の破壊防止及び保全vs安全な住環境の確保など公共の福祉の確保」という点に集約されます。
すなわち,原告側としては,「河川工事により貴重な湧水が失われ,結果として落合川の水質や周辺の動植物の生態に影響を与え,しいてはそれが住民の生活環境にも跳ね返ってくることになる」という主張になると思われます。一方,被告側としては,「河川工事は洪水防止という公共性の高い事業であり,湧水問題についても,環境に配慮して設計しているため,問題は少ないはずである。」という主張になると思われます。
そして,過去の裁判例を分析しますと,裁判所の判断傾向として,①基本的には公共性を優先する,②環境問題については発生の蓋然性の高い場合に初めて論点とする,③ただし環境問題の発生を認識し,または認識しうる状態にありながら,あえてこれを放置し,または不十分な措置しか講じていない場合は,工事の差し止めもあり得る,④しかし,その措置が工事と同時並行に講じることができるような場合は,工事の差し止めまではしない,という感じになっていると思われます(私は学者ではありませんので,判決文全部を研究しているわけではありません。したがって,もしかしたら裁判所の判断傾向は若干違うかもしれませんので,その点はご了承ください。)。
今回の落合川の改修工事ですが,地元にいますので,前回のイオン同様,市民の中にも賛否両論があり,それは十分に聞こえてきます。また,議会もイオン同様自民公明賛成,民主共産反対という構造になっています。
それぞれの言い分にはいずれも十分な理由がありますので,あとはこれを裁判所が「権利義務」という観点からどう判断するのかポイントだといえるでしょう。
ただ,個人的には,裁判所の論点とはずれますが,そもそも「河川改修」の手法の妥当性を再検討する必要があるのではないかと思います。ドイツでは,コンクリートで固めた河川改修を否定し,コンクリートを壊し始めています。日本でも,昭和の河川改修を見直す動きが出ており,「自然共存型河川改修」を模索しています。今回の落合川も,東京都の説明では,自然共存型河川改修であると強く主張していました。
しかし,湧水という川の命の部分については,若干ないがしろにした設計ではなかろうとか,というイメージも持ちました。もちろん,東京都は「影響は最小限」とは言っているものの,計と現実が違うということは,これまで幾度となく経験していますので,鵜呑みにはできません。
もちろん,洪水調整などは住民の生命財産を守るために必要です。ただ,落合川に関しては,果たして大洪水が発生するような河川なのか,ちょっと疑問もあります。いわゆる都市型水害対策を想定しているのであれば,雨水管の改修などで対応できるのではないでしょうか。
無条件に工事反対という訳ではありませんが,東京都側も「肝心な部分」も含めて,もっとしっかり説明する必要があるといえるでしょう。必要なことは,「説得」ではなく「納得」なのです。
さて,本題に戻りますが,今回,原告に「落合川」と「ホトケドジョウ」が加わっています。
ただ,民事訴訟法では,裁判の当事者になれるのは,当事者能力あるものに限られています。当事者能力とは,簡単にいえば「人と法人」です。したがって,ほぼ確実に川とドジョウの訴えは門前払いになります。
もちろん,原告代理人はそのことは百も承知であることから,人も訴訟当事者にしておくことで裁判が進められるようにしています。
では,なぜ,川やドジョウが原告になることは認められていないのでしょうか。難しい理論は別にして,簡単にいえば「特定ができない」ことと「真意が分からない」こと,さらには「負けたときの責任を取れない」ことにあります。
まず,「原告はホトケドジョウ」という申立は,いってしまえば「原告は人」というようなものです。これでは,誰の権利なのかさっぱり分かりません。
また,ドジョウの中には「いやあ,今の環境は本当にいいなあ」と思う輩がいるかもしれませんし,川だって「今の時代はプチ整形ブームだから改修ありかも」と思うかもしれません。つまり,川やドジョウの意思とは,結局は「人間側の都合」だけなのです。
さらに,もし裁判で勝った場合にお金をもらうことはできませんし,逆に負けたときの訴訟費用負担もできません。ドジョウの場合は,最悪「自分が柳川鍋になって訴訟費用を払う」という命がけの訴訟になってしまうかもしれないのです。
少々冗談交じりとなりましたが,なぜ人以外の裁判が認められていないかは十分理解できるのではないでしょうか。
もちろん,繰り返しますが,原告代理人も弁護士なので,そんなことは十分分かっています。ただ,あえて原告に加えた趣旨は,「とにかくこの裁判はメイン争点は環境破壊を止めることにある」というアピールにあるといえるでしょう。
地域住民としても,この訴訟の帰趨は見守りたいと思います。理想は「環境保全と住環境保全の調和」にあるのですが,それを求めるのはさすがにエゴですから,この辺を裁判所がどちらよりに判決を出すのか,注目です。
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