初七日の集いに行きました、土曜日に。弟の嫁さんのお母さんが95歳でなくなられました。お坊さんが、「正信偈」を読経されました。そのあと、しばらく法話をされました。親類縁者が10人ほどおいでになっていました。みなさんにご挨拶しました。
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法話の中に、「人はこの世を生きている間も輝いて耀いて赫いて、この世を死んでまた赫いて耀いて輝いて行く」というようなことを話されました。正確ではありません。うろおぼえです。経典にあった句だと思います。それが何処にあったのか思い出せないでいます。
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この世をそんなに輝いて生きているようには、(わたしの煩悩の目では)見えませんが、仏様の智慧の目を借りて来て見ると、人はみなそのときそのときを輝いて生きているはずです。それがそうだったと思えるときがやがて来ます。やって来ないと困ります。暗いままでは困ります。そのときがきっと用意されていると思います。そしてそのときわたしたちはいきなり明るい場に出て輝きだして歓喜します。それが雀躍歓喜です。そうだったのかそうだったのかと懺悔の涙を流します。
たとえば、朝日の中に立っているとわたしは光に輝かされています。夕日の時も同じです。輝いている大空の下に暮らしているのですから、輝いていないはずはありません。
この世を生きて、輝かずに生きて終わることもあるでしょう。苦しみ悲しみだけで終わることだってあるでしょう。でもそれが、長い目で見ると、人生を輝かすための材料になっていることもあるでしょう。
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この世を終わったあとにもわたしたちは生き続けます。別の形態を採用して生き続けます。そこでもやはり輝いて耀いて赫きます。かがやきの度合いがますます高まってきます。最後には光だけのようになります。そうするとわたしたちは星になるのです。
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<成仏する>ということは、<明るい仏の智慧の目で見ることが出来るようになる>ということだと、わたしは思います。