芸術活動全般が、人の生き方を豊かに美しくするものなんじゃないかなあ。
よかったなあと思います。
音楽も美術も文学も舞台も、わたしの味方について励まして来ます。
それは宗教だってそうです、その役割を果たしています。
*
ふっとそんなことを思いました。
いま、テレビでは、NHK交響楽団が下野竜也の指揮の下で暮れのいつもの行事になっている合唱曲「第九」を演奏しています。圧巻です。
芸術活動全般が、人の生き方を豊かに美しくするものなんじゃないかなあ。
よかったなあと思います。
音楽も美術も文学も舞台も、わたしの味方について励まして来ます。
それは宗教だってそうです、その役割を果たしています。
*
ふっとそんなことを思いました。
いま、テレビでは、NHK交響楽団が下野竜也の指揮の下で暮れのいつもの行事になっている合唱曲「第九」を演奏しています。圧巻です。
文学は人をあたたかくするために役立っています。ふっくらしたいのです。ふっくらふかふかになりたいのです。そういうときに文学に会うと、文学は効き目を発揮します。
生きていることに深みが加わります。厚みが加わります。広がりが生まれます。生きている時間をおいしい時間にします。
*
ときおりの水のささやき猫柳
中村汀女(1900~1988)
*
このところ中村汀女の句をいくつか取り上げています。彼女の力を借りて、わたしの人生をゆたかにしたいと思っているようです。
春風が猫柳を吹いています。猫柳の春のしなやかに延びた細い枝は濠の水際まで届いています。それでささやきが聞こえて来るのです、ときおり思い出したように。
では、濠の水は何を囁いているか。「生きているって、ね、いいでしょう」「あなたもそう思っているでしょう」を囁いているように聞こえて来ます。相槌を打って返します。そんな気分にしてくれたのは、春の風と濠の水と猫柳のしなやかな手先です。
*
気付かなければ気付かないで過ぎて行きます。すべては過ぎて行きます。でも、俳句にすると、そこで立ち止まれます。
文学作品を経由して「そうだったなあ」「ここでおれはこんなに豊かな命を生きていたのか」などの認識が触発されて来ます。そうすると、脳の中に快感ホルモンのドーパミンがどどっどどっと溢れて来ます。
名作とされているから、これが名作なんだ。人が名作としているのだから、それに従って名作として鑑賞をすればいいのだ。
*
引いてやる子の手のぬくき朧かな
中村汀女
*
朧(おぼろ)が季語。春。晩春の夜などに、ものが霞んではっきりしないこと。
何処へ行っているのだろう、親が子を引いて。そろそろ夜桜見も終わっているころか。子が母親の手に引かれているくらいだから、まだ幼いか。ともかく、気温の上がった晩春に、夜道を歩いているとしよう。転げないようにかなりきつく手を握りしめている。もうかれこれ半時も過ぎた。手と手にぬくもりと湿り気が伝わり合う。それが母親である作者を刺激している。これで、母をしている己の幸福のようなものが実感されて来る。外の風景がおぼろおぼろしてはっきり見えてこないと、余計に。そこが母と子だけの世界になっている。
*
そこのところ、噎せ返るようなあたたかい感覚を、作者はぜひとも俳句にしたかったのだろう。575の17文字の中に、感情を閉じ込めて、俳句が出来上がった。
俳句の読者は、その感覚のぬくさ、しめっぽさに濡れる。しっとりとなる。すると、そこではたして、いい俳句だと思う。
困った困った。僕には作品の良さというものが分からない。僕がきっと傲慢だからだと思う。
新聞の読者文芸に選ばれている作品の良さが分からない。選者が選んだ一席の入賞作品が二席・三席の作品よりも優れているはずなのに、それが分からない。三席にもなれなかった一般入選の作品との比較が出来ない。優劣がまったく分からない。
困った困った、だ。選者がいいと判断して選んだ作品なんだから、いいに決まっている。だったら、いいなあいいなあと思って褒めて鑑賞したらいいはずだ。いいなあと思っていればいい作品に思えて来るはずだ。
でも、分からない。分かっていない。なぜそれが圧倒的に際だって優れた作品なのかが分からない。
*
でも、ずずずんと響いて来る作品もある。でも、それでも、優劣は分からない。優劣の基準がまったく分かっていない。誰かが丁寧に解き明かしてくれたら、きっとそれで納得すると思う。
雪は降っていない。曇っている。外気温は3℃ほど。風もない。遠くで烏が鳴いているのが聞こえる。
朝ご飯を8時半頃に食べたから、12時半を過ぎた今でも空腹感がない。食べたくなったら、食べよう。
*
「これこれをやれ。やらないと、お前を殺してしまうぞ」なんて声はかからない。有り難いことに掛からないで、済んでいる。で、いよいよ図に乗って何にもしない。
ありったけの時間を無駄な時間にして過ごしているような気もする。それでいいのかどうか。よくはないはず。
*
今日は午前中の時間をすべて、新聞の読者文芸の、投稿作品を書いて過ごした。川柳、俳句、短歌の、それぞれ3作品ずつをうんうん唸って書き上げて、メールで送信した。
で、それが、僕の時間を充実の時間にしたかどうかは、分からない。ハタライタゾの感覚はない。
見えていないのに、見えている風景がある。こころが造り出す風景だ。見えていないから、この世にない、とは言えない。見えているから、だから、実在しているとも言えない。あるとしているのは、わたしのこころ。ないものでも、あることにして、欲張りをしているだけかもしれない。
瞑想をしているとそこに美しい風景が立ち上がって来る。美しい風景の中に手を上げてうつくしい人が歩み寄って来る。
九条葱の、土に埋まった部分の、ほっそり白葱の、味噌汁。ふわりと透けてとろりとした。冬の寒い朝の絶品。味噌汁は味噌が薄めにしてあった。白葱一寸は、あざやかな冬の胡蝶かな、
*
味噌汁に透けて揺らげる白葱の胡蝶となりて綿雪に舞ふ
薬王華蔵
今日は12月23日。土曜。いよいよ師走の歳末。
風が舞い上がって寒いところがいかにも師走らしい。歳末らしい。
忙しい慌ただしい歳末であるはずなのに、お爺さんにはすることがない。(することは見つけるもの、なんだろうけど)
旅番組のテレビを見ているくらい。砂浜に打ち寄せる海の白い波がキレイだ。行って見たいな。
家族が起きて来た。これから朝ご飯。もう8時だ。
寒い。外気温は零下になっている。-0・7℃。ふぇええっ!
部屋暖房を20℃に設定しているが、なんのその。寒い寒い。
ベッドの羽布団にくるまって、電気行火を抱いて、まあるくなって寝ていても寒い。
寝ていなければならない、ということもない。6時、とうとうベッドを下りて来た。
コタツをつけて足を延べた。軍手の手袋をした。首にはタオルを巻いた。障子戸はまだ開けていないから、外の様子は分からない。
NHKテレビの「さわやか自然百景」を見ている。流れて来る音楽がいい。家族者は誰もまだ起きてこない。今日は土曜日だった。