<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

自惚れだけだと やるせない

2018年05月09日 15時01分54秒 | Weblog

いい文章を書きたい。書けない。文章は天地に備え付けてある遊具。それをジグソーして並べ替え並べ替え、パズルのように上手に遊んでいたい。

いい詩を書きたい。書けない。詩は風の遊ぶ無重力の遊具。ちょいと借りて来て、わたしも風になって飛び歩きたい。何処へでも。

いい思いに包まれたい。包まれない。思いは大陽の布団。ふかふかにふくらんで、軽々と自由に生きていたい。

大空に褒められたい。わたしがいい一日の中に住んで、いい暮らしをして生きていること、それを自認していること。自己流だけど、そうやっていてもいいというその裏付けが欲しい。自惚れだけだとやるせない。

あれこれ願望だけが一人でのこのこ歩いて行く。付いていこうとするが,付いていけない。もう昼下がりだ。3時だ。ギブアップだ。

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 ラスト

2018年05月09日 14時51分12秒 | Weblog

10

倶会一処。一つの処しかありませんから、迷うことはありません。

わたしがわたしの判断で行くのなら、そこに迷いが生じますが、わたしの往生は阿弥陀さまのお仕事です。

わたしは無力です。お任せしていればそこがお浄土です。

それを思えば念仏、仏のなさることを念(おも)うことが嬉しくなります。

****

そんなことこんなことを考えた。死ぬ前にわたしの死を弔っておきたいのだ。

わたしは何処から来て何処へ行くか。解決を見ておきたいのである。

みんなしかし、ここに書いていることはいい加減である。行って見て来た旅行記ではない。想像である。雑駁な想像である。みなうすっぺらである。

よって、読者は読者で自分の考えを創設して死後の解決を楽しんで下さいね。

***

このシリーズの「その5」が消滅してしまいました。何処へ行ったのでしょう?

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その9

2018年05月09日 14時48分09秒 | Weblog

お浄土では、それまでのように日夜「わたしの楽しみ」を追い掛けないでもよくなるのである。さぞ楽になるだろうと思う。安らげるだろうと思う。

なかんづく、そこでわたしの言うこと思うこと、することなすことがみな仏智見に適っていくのである。

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その8

2018年05月09日 14時43分32秒 | Weblog

往生は、そこへ行って生まれるということである。われわれはみな復活を果たすのである。仏のいのちを吹き込まれるのである。

キリスト教流の表現をすれば、「復活」をし、「蘇って行く」のである。

往って生まれる「往生」をしただけでは蘇りにはならない。

そこで、成仏を果たすのである。仏陀と成るのである。だから往生成仏は切り離されていないのである。

利己を離れて行く。その道すがら利他の力を授かるのである。利他は救済の力を持つ者の実践である。

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その7

2018年05月09日 14時38分16秒 | Weblog

穢土(えど)を去って行くということが死ぬということである。

去って何処へ行くか。

浄土へ行くのである。

行くというと自力で行くように聞こえてしまうが、迎えられるのである。

これは仏さまのお仕事である。安心していていい。お任せをしていていい。

 

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その6

2018年05月09日 14時27分24秒 | Weblog

一つの処、すなわちお浄土では、わたしたちは阿弥陀如来に会うのである。凄まじいことが起こるのである。起こらないのなら、それでは「お浄土に生まれた」の意味を成さない。

お浄土で会うということは、にんげんの煩悩界を離れて行くということである。煩悩界を去るためには、わたしたちは物質界の肉体を死ななければならなかったのである。

阿弥陀如来の仏智見の国へ行って、阿弥陀如来と等しい仏智見を授かるということである。だから、pure なのである。

阿弥陀如来に会うことでpureにならされるのである。

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その4

2018年05月09日 13時52分26秒 | Weblog

浄土宗の月訓カレンダーというのを人づてに頂いた。英文も副えてある。それにはこうある。

We will all surely meet again in the Pure Land.

誰もが皆またもう一度必ず会えるところ、そこがお浄土です、と。

此処での「we」は無差別である。選別がない。一切衆生である。ただただ広々としている。

<条件を満たした者>などというその条件もつけられていない。つけられていたら、わたしは確実にアウトである。

此処には五濁(ごじょく)がない。地獄餓鬼畜生修羅人間天などの悪道がない。菩薩や如来様方が住んでおられる国だから、仏国土ともいう。

仏道を歩む者は此の信を持つ。仏を念(おも)う。念仏を称える。称えて称讃する。

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その3

2018年05月09日 12時59分08秒 | Weblog

「一つの処」とはお浄土のことである。阿弥陀如来が建設されたお浄土は極楽浄土と名付けられている。「極楽」とは「極めて楽しい国」或いは「楽しさが極まった国」ということだろうか。仏さまの楽しみは人間の楽しみとは異種だろう。

誰に会うか。もちろん阿弥陀如来に会うのである。そこへ往生した数多の人たちに会うのである。穢土の旅から戻って来て、浄土で再会を果たすのである。西方十万億土の彼方にあるということだが、次元を異にした非物質の世界なのだから、距離も方角も方便だろう。懐かしさを覚えさせるための方便だろう。

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その2

2018年05月09日 12時56分13秒 | Weblog

行って見るとそこが仏国土である。そこへ行ったわたしを想像してみます。そこから此処へ来たのですから、覚えているはずですが、記憶が消されています。お浄土はわたしたちの故郷です。ふるさとです。帰って行くところは此処しかありません。

わたしの感動は初体験の感動になります。わたしは目を大きく見開いているでしょう。なにしろ見るもの聞くものがすべて新しいのです。そして心地よいのです。

 

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倶会一処(ぐえいっしょ)という約束事 その1

2018年05月09日 12時01分10秒 | Weblog

「俱会一処(ぐえいっしょ)」    

仏説阿弥陀経の中にこの句がある。墓石なんかにもこの句が刻んである。俱(とも)に一つの処で会いたい、きっと会えるでしょう、というサジェスチョンである。

いや、約束である。阿弥陀如来の約束である。「わたし(阿弥陀如来)はあなたにお浄土で会います,あなたを携えて行き、そして出迎えます、それを約束します」ということである。

 

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