夕方5時から、畑に出た。安納芋の苗を畝に挿した。たっぷり水撒きをした。枝豆を畑に種蒔きした。1袋みんな蒔き終えた。ここで日が暮れた。土いじりをするのは楽しい。やっていることは幼稚園児に等しいが、それでも楽しい。お金になることではないのに、それでもそれは万金に値する。
帯状疱疹なのでは? この痛みはそれじゃないか。はたと思い至った。一度前にかかったことがある。体の奥の奥から込み上げてくる痛みで、ふっとその症状を思い出した。
で、急ぎ、皮膚科にやって来た。湿疹はまだ皮膚には出ていない。飲み薬を出してもらえることになった。原因が突き止められてホッとしている。膀胱のあたりが焼ける。
三日後の再審となった。湿疹が出ない帯状疱疹もあるらしい。薬局は混雑している。
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書けないのは僕に書く能力がないからだ。恋愛経験のあるなしには拠らない、はず。阿久悠さんの「五番街のマリー」という曲はいいなあ。歌詞を追い掛けながら、ハーモニカで弾いてみた。どぎつくもなくて、それでいて胸を掻き毟られる。
ああ、しかし、阿久悠さんも亡くなってしまったなあ。でも、五番街にマリーというおんなは多分幸せに幸せに生きているだろう。
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僕が書けないのは、僕にはそういう恋愛遍歴が皆無だから。情けない。同じく人生を生きて来ながら、恋愛一つも出来なかったのか。おんなの人一人にも愛を告げられなかったのか。情けない。いったい何を生きて来たのか。勇気欠乏症は、奮い起こしたところで、どうせ失恋の憂き目を見ただろう。しかし、無傷がそんなに大切だったのか。
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阿久悠さん作詞の「五番街のマリー」が好きだ。あんな詞を書いてみたいなあ。書けないけど。ストーリー性があってもの悲しい。もの悲しいのに,同感できる。彼が手掛けた作品はいっぱいあるけど、特にこの詞はいいなあ。よくこんないい作品が残せたなあ。
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ふん。「じたばたが見苦しい」というふうに言うけど、生きて来た時間の全部がそうだったじゃないか。じたばたの連続だったじゃないか。見苦しいばっかりだったじゃないか。何を今更、悟りきったような物言いをする。見苦しくて結構。死んでしまえばその見苦しさも消滅する。少し離れてそういう見方もしてみる。いずれ、終わる。ケリが付けば、すっきりする。それまでのことだ。今しばらくのことだ。
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早朝、泌尿器科受診を決心したが、朝ご飯を食べている内にそれも鈍ってしまった。死ぬさ、死ぬ時が来たら死ぬ。来なかったら死なない。もうこれだけも長く生きたのだから、じたばたは見苦しいとも思った。
モンシロチョウが飛んでいる。彼らだって行き倒れ主義じゃないか。息が絶えたところで生を終わる。終わっても随所に死に処の青山ありじゃないか。旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る。夢を駆け巡らせながら、芭蕉も旅に死んだ。
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下腹部がこの数日ずっきんずっきんする。痛む。神経だろうか。家族には言わない。誰にも言わない。まだまだ我慢が出来る。膀胱炎でも起こしたのだろうか。でも排尿するときの違和感はない。痔や肛門じゃない。大腸などの消化器官の痛みじゃない。足の付け根周辺、上下左右がずきんずきんする。どうも深部らしい。神経の痙攣みたいにも感じられる。周期的に起こる。起こったらびくっとする。昨日小浜で海釣りをしている際もそれに耐えていた。
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あれもこうしたい、これもああしたいとこれからに楽しい願望を抱いたりする一方で、そのあれもこれも早く終熄したいという捨て鉢の願望も起こって来る。死んだら、己に纏いつている「あれもこれも」という執着の荷物が肩から下りて軽くなるだろうなあとも思う。すっきりするだろうと思う。「あれもなし」「これもなし」の無一物になってすっきりするのもいいなあと思う。「ある」のは煩わしい。「ない」のは潔い。
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僕は今日何をしようか。朝も僕はひっそりとしているから、たぶん一日ずっとこうだろう。山里にあるものはなんでもひっそりとしている。草も木も、林も森も、小径も風景も、浮ついたものはいない。それに溶け込んでいればいいだけ。浮つかないでいればいいのだ。落ち着き払った2018年5月21日でありたい。目立とうとするな。充実させるな。吹いて来る緑の風の息を吸う。おいしい。いま此処がおいしければいいじゃないか、それだけでもう。