<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いやあ よく降っているなあ

2018年05月06日 19時45分06秒 | Weblog

夜に入った。いやあ、よく降ってるなあ。降りたくてたまらなかったんだろうなあ。

お空の膀胱が一挙に解消されて、さぞや、すっきりしてしただろうなあ。

でも、まだ降っているからね。

まだ空の膀胱にはもっともっと雨が詰まっているんだろうねえ。

いや、雨は汚い物じゃない。きれいなものだ。譬喩がそぐわなかったかなあ。

 

 

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傘を差して外に出た 意を決して ラスト

2018年05月06日 18時39分32秒 | Weblog

庭にはテッセン(クレマチス)がさまざまな色を見せて咲いている。

これも雨に濡れても、しょげない。まっすぐ上を向いている。

アイリスもそうだ。びくともしていない。茎が逞しい。

芍薬は長い首を折って倒れている。大輪に雨を溜めたらそうなるだろう。

まあ、そんなこんな。しばらく外にいて雨の風情を楽しんだ。これでよし。満足した。

6時半を回った。我が家はそろそろ夕食時になる。

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傘を差して外に出た 意を決して その5

2018年05月06日 18時28分14秒 | Weblog

桃の木のてっぺん辺りに蝸牛が這っていた。

のろのろのろしながらでも、そこまで登っていったんだな。やるじゃないか。声を掛けた。

蝸牛は雨に濡れても滑り落ちないようだが、どんな工夫をしているのだろう。

「なあに、雨はお手の物だよ」そんな返事が返ってきそうだった。

 

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傘を差して外に出た 意を決して その4

2018年05月06日 18時25分40秒 | Weblog

そんなことを考えていたら気分が一新した。幼いなあ。

一日中家の中に籠もっていたので、いささか辟易しているところだった。

庭から畑からうろうろうろついた。愉快を覚えた。

その代わり、雨に降り込まれて足元や腕などが濡れてしまった。寒くなった。

雨脚は午前中よりもやや強くなっている。

 

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傘を差して外に出た 意を決して その3

2018年05月06日 18時18分12秒 | Weblog

空の上に王宮があって王女様方から歓待を受ける僕。宝塚の星組のようなラインダンスもしてもらう。イメージしただけでもウシシウシシシ、だ。帰りに宝物のどっさり入った土産の箱をもらう。そして豆の蔓を伝って降りて来る。

宝物を村中のみんなに分けて差し上げる。この村は幸福村として一挙に国中に知れ渡る。観光客がどっと押し寄せる。ホテルがあちらにこちらに建つようになる。ご馳走はそれこそ隠元豆だ。

 

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傘を差して外に出た 意を決して その2

2018年05月06日 18時10分41秒 | Weblog

これは蔓が伸びない隠元豆。

胡瓜棚を作ったらそこに今度は蔓あり隠元を種蒔きしてみようかなあ。蔓はどんどん伸びて行く。そして豆が突然、頑丈な木になる。

ジャックと豆の木の逸話が生きてくる。ジャックは僕だ。

或る日、僕は空まで登って行ける。山と海と雲を見下ろせるなんて、楽しいじゃないか。空に登って行った僕は、ご褒美に一挙に50歳も若返る。

 

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傘を差して外に出た 意を決して その1

2018年05月06日 17時43分51秒 | Weblog

傘を差して外に出た。意を決して。ぬかるみに足を取られそうになった。細型プランターに種を蒔いておいた隠元豆の、発芽が見られた。雨は彼ら達にはさぞかし恵みの雨だっただろう。新芽のお化粧の青い色(ほんとうは緑)が、いよいよ青々して輝いていた。わ~いわ~いの沢山の歓声がどっと聞こえてくるようだった。

 

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「恩」の字は原因の「因」の下に「心」を座らせている その12

2018年05月06日 16時26分51秒 | Weblog

12

流れている水を飲む。

流れているのはご恩が流れているのである。

水を飲むのはご恩を飲んでいるのである。

それもこれもわたしが生きるために必要としたことは、わたしの労苦によっていない。みな、清々しいご恩の仕業である。

しかし、わたしを生かそう生かそうとしている力がある。ハタラキがある。

それに拠っている。そのハタラキに生かされ続けている。そういう安心徹底の道を仏道と呼ぶのかもしれない。

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「恩」の字は原因の「因」の下に「心」を座らせている その11

2018年05月06日 16時16分59秒 | Weblog

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鼻先に空気がある。しかしそれはわたしの為したことではない。ご恩の為せることである。

わたしは請求したこともない。「鼻先にわたしが吸う分の空気を下さい」と要求することも要らなかったのである。

それでわたしの鼻先にわたしが吸う分の空気がいつもあるのである。

では誰の仕業か? 知らない。知らないでもいいことになっている。

それで空気が清々しいのだ。

 

 

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「恩」の字は原因の「因」の下に「心」を座らせている その10

2018年05月06日 16時08分59秒 | Weblog

10

「ひたすらご恩の中に暮らしている己」を瞑想すると涙になる。嬉しくて有り難くて涙になる。

「恩」の字は原因の「因」の下に「心」を座らせている。

しかし、わたしの現在を作ったその大元の、原因はわたしが造ったのではない。

それも仏さまのハタラキである。仏さまと言うと宗教臭くて嫌だという向きがあろう。では、それを天地宇宙のハタラキとしてもいいだろう。

天地宇宙の無償のハタラキである。

わたしはそのハタラキを遠く慮(おもんぱか)るだけである。それであたたまれる。安心が得られる。

 

11

鼻先に空気がある。しかしそれはわたしの為したことではない。ご恩の為したことである。

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流れている水を飲む。流れているのはご恩が流れているのである。水を飲むのはご恩を飲んでいるのである。わたしが為したことはない。そういう徹底を修行と呼ぶのかもしれない。

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