どうしてこうも<死後の一大事><一大事の覚悟・安心>がこころにかかるのであろう。死ぬ前を生き抜く覚悟に繋がるからである。生死二局面を通しての安心が得られるからである。
と言いながら、或いはその実、この苦界での逃げの手を打っているのかも知れない。さぶろうは俗に謂う処の成功者ではない。勝ち組ではない。むしろ負け組である。この世で威張れることがない。自慢がない。そこでここでの勝ちをあきらめて、次の世に希望をつないでいるのかもしれない。だとすると狡猾者だ。
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十方世尊 智慧無碍 常令此尊 知我心行 じっぽうせそん ちえむげ じょうりょうしそん ちがしんぎょう 「讃仏偈」より
十方にまします世にも尊き仏陀の智慧は無碍なり さまたげざるがゆえに、常に此の世尊・仏陀をして我(法蔵菩薩)が心の願い(発願)とその実践行をみそなわしてもらっているのだ。
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「(世自在王仏をはじめとした)十方の世尊たちに<(法蔵菩薩としての)生身の人間のわたし>の発願と実践行を知らしめている」というのである。いわば異界通信・異界間交流である。仏陀世尊の智慧の眼は無碍(妨げるものがない)であるから、この世にいる間の人間の心も行もお見通しなのである。仏陀の智慧の眼にかなう心行とは果たしてどんな心行なのだろう。
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この世での評価はでは仏界での評価と一致しているか。この世での成功者は仏界での成功者であるか。無碍の智慧を持つ仏陀の目を通してもそうであるか。異なっているか。この世でのお金持ちはあの世でもお金持ちを通せるか。通せた方がいい。ところがお金を持って旅立つ人はいない。この世での所有はすっかりゼロにしてしまわれるのなら、異界通用が効かないということかもしれない。
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<常に此の尊をして知らしむる>とは仏陀の智慧を常に意識してこの世での行動を起こしているということである。これで異界交流の助けとしているのだろう。人間界と仏界の2つの界で共通していることとはどんなことなのか。是が分かればこの二界共通事項をこの世に於いてもスタートさせ得るということになる。つまり狡猾をしなくともいいということになるのだ。