<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

異界間交流事業をスタートさせる

2015年03月30日 08時32分26秒 | Weblog

どうしてこうも<死後の一大事><一大事の覚悟・安心>がこころにかかるのであろう。死ぬ前を生き抜く覚悟に繋がるからである。生死二局面を通しての安心が得られるからである。

と言いながら、或いはその実、この苦界での逃げの手を打っているのかも知れない。さぶろうは俗に謂う処の成功者ではない。勝ち組ではない。むしろ負け組である。この世で威張れることがない。自慢がない。そこでここでの勝ちをあきらめて、次の世に希望をつないでいるのかもしれない。だとすると狡猾者だ。

十方世尊 智慧無碍 常令此尊 知我心行 じっぽうせそん ちえむげ じょうりょうしそん ちがしんぎょう   「讃仏偈」より

十方にまします世にも尊き仏陀の智慧は無碍なり さまたげざるがゆえに、常に此の世尊・仏陀をして我(法蔵菩薩)が心の願い(発願)とその実践行をみそなわしてもらっているのだ。

「(世自在王仏をはじめとした)十方の世尊たちに<(法蔵菩薩としての)生身の人間のわたし>の発願と実践行を知らしめている」というのである。いわば異界通信・異界間交流である。仏陀世尊の智慧の眼は無碍(妨げるものがない)であるから、この世にいる間の人間の心も行もお見通しなのである。仏陀の智慧の眼にかなう心行とは果たしてどんな心行なのだろう。

この世での評価はでは仏界での評価と一致しているか。この世での成功者は仏界での成功者であるか。無碍の智慧を持つ仏陀の目を通してもそうであるか。異なっているか。この世でのお金持ちはあの世でもお金持ちを通せるか。通せた方がいい。ところがお金を持って旅立つ人はいない。この世での所有はすっかりゼロにしてしまわれるのなら、異界通用が効かないということかもしれない。

<常に此の尊をして知らしむる>とは仏陀の智慧を常に意識してこの世での行動を起こしているということである。これで異界交流の助けとしているのだろう。人間界と仏界の2つの界で共通していることとはどんなことなのか。是が分かればこの二界共通事項をこの世に於いてもスタートさせ得るということになる。つまり狡猾をしなくともいいということになるのだ。

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仏の楽しみを我が楽しみとするところあり

2015年03月30日 07時21分38秒 | Weblog

十方来生 心悦清浄 已到我国 快楽安穏 じっぽうらいしょう しんねつしょうじょう いとうがこく けらくあんのん   浄土真宗経典「讃仏偈」より

(人間界をはじめ)十方の国々より来生(らいしょう)する者の心は、悦(よろ)こび、信は清らかにして、我が仏国土に已に到り着けば、その者たちはみな仏の快楽(けらく)を快楽とし、仏の安穏を安穏とするであろう。  仏の国を讃える詩偈

<已到我国>を「已(すで)に我が国に到り着きぬ」としないで、「已に我が国に到り着きなば」というふうに条件文として解釈を施したが、そのまま完了の意にとりたいところだ。「さあ、着いたぞ着いたぞ、辿り着いたぞ、これからは仏陀の快楽(けらく)を快楽とし仏陀の安穏を安穏とすることができよう。よかったよかった」と。

この讃仏偈は阿弥陀如来の前身の法蔵菩薩が師の世自在王仏を褒め讃えている詩偈である。そして自分の願い、衆生救済の願い、仏国土建設の願いを願文として打ち立てている誓願文である。阿弥陀如来という仏に成って建設された国土の名前は<極楽土>である。仏の快楽を体験できるところ、仏の安穏をわが安穏とすることができる国土である。願いは成ったので法蔵菩薩は阿弥陀如来と成られた。したがってその国土の建設が完了したのである。衆生は救済されて已に往生成仏を果たしているのである。

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チューリップに聞こえた

2015年03月30日 07時10分58秒 | Weblog

円いプランターにピンクの色をしたチューリップが10個咲き出しました。これは抜いた草の草山のとっぺんに置かれています。ここからそれがよく見えます。きれいです。わたしをこうやってよろこばせてくれますので、わたしはお礼を言います。お礼が聞こえたかどうかわかりませんが、わたしは<聞こえた>としておきます。こころが伝わったとした方が楽しいではありませんか。ほおら、チューリップが笑い顔をしています。

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バージョンアップ

2015年03月30日 06時53分04秒 | Weblog

肉体の死を迎えてここを過ぎて行けばわたしたちのスピリット(霊格 人格ではなくて霊格)にバージョンアップが起こります。第3密土の人間界から第4密土の霊界に進んだからです。その先には第5密土の神格界、菩薩界、第6密土の仏界が待ち受けています。第7密土界,第8密土,第9密土,第10密土も続いています。土は浄刹土、国のことです。わたしたちは果てしなく向上をしていきます。嬉しいことが果てしなく続いていくと言うことです。バージョンアップは自力では行えません。でも大丈夫です。すべておまかせをしていればスムーズに進んで行きます。歎異抄にはこれを自然法爾と呼び習わしています。<宇宙法(ダンマ)のしかあらしむる力によって>という意味です。人間界のわたしたちはその予備軍です。軍というのかおかしいですね。控えの隊列です。それを空想して楽しんでいてもいいのです。

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人生は苦であるが、神生は楽である

2015年03月30日 06時07分40秒 | Weblog

人生は苦であります。ですから苦痛を伴う人生からは逃れたいと思います。ところがなかなか逃れられません。肉体の中に押し込められてぐるぐる巻きにして束縛されているからです。肉体の死はだからこの束縛からの解放に当たります。これは解脱に繋がります。これで自由を得ます。束縛という苦痛から逃れます。でも、ここでの生活が無駄だったわけではありません。多くのことをここで学び取ることができたのです。

死は肉体の死であるけれども、長く長く此処を住み処としてきたので、死の間際、及びその直後は慣性の法則が支配することがあります。死を肉体の死、つまり束縛からの解放とは受け取れずに、不安を覚えたり悲しんだりします。でもそれもほんのしばらくです。お迎えが来てわれわれのスピリット(霊)は次のシステムへ移行します。<人生は苦である>から一歩進んで<人生は楽である>を覚えるようになります。

ところがここに思いもしない落とし穴があります。相対性原理(?)の中では<楽>は常に<苦>と表裏を為しているのです。<苦>がない<楽>は片足立ちのようなもので長期の安定が危ぶまれてしまいます。もちろんこの逆も成立しています。<楽>のない<苦>は<絶対苦>とはなり得ないのです。つまり人間界の次元では、交じり合って機能するしかないのです。

だからわたしたちは相対性の原理原則から絶対性のそれへ移行しなければならないのです。絶対性の原理原則が働く仏陀のお浄土へ移民をしなければならないのです。相対性の思考慣習をここで棄却しなければ移民は敢行できません。これが仏陀となるということです。成仏です。人間から仏陀に脱皮するのです。脱皮がスムーズに進まないであの世でも苦しむ人がいますが、これは相対性が切断できずにいるからです。

自力ではなかなかこれがスムーズに進まないので、わたしたちは他力に頼らざるを得ませんが、ここにプライドが頭を擡げます。プライドは人間の慢心です。独立心です。地上界では大切な心です。他力とは仏陀の一人働きというハタラキです。これにゆだねたら万事うまくいくのです。つまり、安心をしたらいいということです。不安や恐怖から離れて安心、大安心をしたらいいということです。

人間世界の人間ではなくなったのですから、いつまでも人間界の習慣に従っていないでいいということを理解しなければなりません。あとはおまかせになります。人生が楽になるのです。人ではなく神になるのですから、<神生は楽である>と表現すべきかもしれませんね。人生からの離脱、解脱、解放は厭うべきことではないのですが、人生を生きているわたしたちはなかなかこの悟りが成立し得ないで苦しみます。哀れというも愚かなりけりです。

 

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もうすぐそちらへ来ます

2015年03月30日 05時42分56秒 | Weblog

「お父さんもうすぐそちらへ来ますからね」「お母さん待ち遠しいでしょうね。でももうすぐですよ」仏壇のお位牌に向かってわたしは言います。肉体のままではそちらへは行けませんから、肉体はここへ置いて行きます。「ここへ置いて」というよりは、お借りしていたものはお返しをして」と言うべきかも知れません。お借りした分の代金は徴収されません。無料です。肉体を構成していた諸元素は分解をして元に戻っていきます。これがまた次に生まれてくる生命体を構成するのに役立ちます。今度は人間ではないかもしれません。木になったり草になったり川や海の水になったりするかもしれません。鳥や虫になっていくのかもしれません。ともかくもお返しをできるからほっとします。お父さんやお母さんやご先祖の方々がいるお浄土までの交通手段は? 心配には及びません。お浄土は非物質世界です。つまり霊界です。スピリチュアルワールドです。ここには物質世界特有の時間や場所といった面倒くさいのはもうありません。有るのは精神・スピリットだけです。物質世界に住んでいたのでどこでの慣習をしばらく持続させたい人は方便としての時間や場所が提供されますが、しばらくするとここも卒業をします。スピリットは愛のスピリットになります。愛し合うだけになります。父母やご先祖の方々と愛し合う段階が終了すれば、次は多くの多くの生命体と愛し合います。それからもっと次元の高い、成長を遂げたマスターたち、神々、菩薩、如来たちと愛の交流をします。そうすることでわたしのスピリットはどんどんどんどん向上をしていきます。光になります。耀いて耀いていきます。この耀きは物質界の地上までも届きます。

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両手を握らせて

2015年03月30日 05時29分38秒 | Weblog

午前5時。夢を見るのに疲れてしまって起き出してきました。お座敷の仏壇の前にお布団を3つ川の字に列べて右手を4年生の男の子に左手を1年生の女の子に握らせて眠りに就きました。眠りに就くまでお伽噺をしました。夜中、孫たちがお布団を蹴散らして動き回りますので、お布団を掛けてやるために何度も起きました。スモールランプの小さな灯りに映し出される孫の顔に「可愛い可愛い」を呟きました。仏壇の中の父母、ご先祖さまもわたしと同じ思いのはずです。

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夢に付き合うのもタイヘン

2015年03月30日 05時21分52秒 | Weblog

昼間目を開けて見る風景では見たりないのでしょうか、目を閉じても一晩中移りかわりいろいろな夢を見ています。何処が見ているのでしょう。どうやって見ているのでしょう。そんなにたくさん見たいのは何故なのでしょう。楽しい夢から恐い夢までさまざまです。楽しい夢だけだったらいいのになと思います。登場人物は何処から借りてくるのでしょう。ドラマの台本は誰が書いているのでしょう。とにかくあんまりたくさん見るので、全部の夢に付き合っているとへとへとになります。

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水遣り

2015年03月30日 05時10分29秒 | Weblog

このところまとまった雨が降りません。畑の土がからからに乾いています。プランターに植えている花の苗も悲鳴を上げていました。ホースで水を撒きました。プランターはたくさんありますから大変な労力を要します。植物たちがごくごくごくと水を飲む音がします。こうしてしばらく彼らが元気を回復させていく様子を見守りました。

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孫と遊びに出かけました

2015年03月30日 04時56分48秒 | Weblog

おはようございます。この両日、孫たちと一緒に国民休暇村へ行って来ました。山間(やまあい)には行くところ行くところ山桜が咲いてぱっと明るく耀いていました。段々畑には菜の花が咲き乱れてまばゆいほどでした。どこもどこもどこも春になっていました。干潟では双眼鏡を覗いて野鳥の観察をしました。長距離運転をしたので疲れを覚えました。

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