応無所住(おうむしょじゅう) 而生其心(にしょうごしん) 金剛経より
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応(まさ)に住する所なくして、而(しか)も其の心を生ず。
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何処にもこころを束縛の鎖に繋がないでおくと、自在無碍のこころの方から明るく活発に働き出して来る。(さぶろうの自己流解釈)
よかれと思ってわが欲望煩悩の鎖でこころをがんじがらめに束縛するが、それは結滞をしか結果しない。「われ」に捕まるな。よきと思いはからうわがこころの奴隷を解放せよ。独りでに動き出すこころこそは仏のこころである。
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お婆さまは経典が読めない。そこで読経の坊様の声のするままに、オウムショジュウ ニショウゴシンと覚えてしまってこれを仏教の極意と受け取っていた。お婆さまにはこれがマントラであった。彼女はこの呪文によって仏の心をわがこころに流し、自在を得た。
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而生其心 にしょうごしん
ニショウゴシンは「明るく明るく活発に動き出してくるこころ」である。住所や境目がないこころである。天地のこころ、宇宙のこころ、毘盧遮那仏のこころ、無条件の愛のこころである。。無垢清浄のこころである。それを捕まえて来てわがこころの檻に収監することなかれ。檻を空っぽにしておけ。そうすれば無心が天地の縦横に充満する。
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さぶろうの自己流解釈だから当てにはできない。無心という仏の心がさぶろうを包んで満ち満ちて、活発に動き出しているのに、さぶろうがそれでは危ないと案じる余り、こころを別に造ろうとして藻掻き苦しむ。これがさぶろうの日常である。無心にしておけないからである。