<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明るく活発に動き出すこころ

2015年03月12日 14時44分00秒 | Weblog

応無所住(おうむしょじゅう) 而生其心(にしょうごしん)  金剛経より

応(まさ)に住する所なくして、而(しか)も其の心を生ず。

何処にもこころを束縛の鎖に繋がないでおくと、自在無碍のこころの方から明るく活発に働き出して来る。(さぶろうの自己流解釈)

よかれと思ってわが欲望煩悩の鎖でこころをがんじがらめに束縛するが、それは結滞をしか結果しない。「われ」に捕まるな。よきと思いはからうわがこころの奴隷を解放せよ。独りでに動き出すこころこそは仏のこころである。

お婆さまは経典が読めない。そこで読経の坊様の声のするままに、オウムショジュウ ニショウゴシンと覚えてしまってこれを仏教の極意と受け取っていた。お婆さまにはこれがマントラであった。彼女はこの呪文によって仏の心をわがこころに流し、自在を得た。

而生其心 にしょうごしん

ニショウゴシンは「明るく明るく活発に動き出してくるこころ」である。住所や境目がないこころである。天地のこころ、宇宙のこころ、毘盧遮那仏のこころ、無条件の愛のこころである。。無垢清浄のこころである。それを捕まえて来てわがこころの檻に収監することなかれ。檻を空っぽにしておけ。そうすれば無心が天地の縦横に充満する。

さぶろうの自己流解釈だから当てにはできない。無心という仏の心がさぶろうを包んで満ち満ちて、活発に動き出しているのに、さぶろうがそれでは危ないと案じる余り、こころを別に造ろうとして藻掻き苦しむ。これがさぶろうの日常である。無心にしておけないからである。

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こころの掃除をするだけでいい

2015年03月12日 13時33分12秒 | Weblog

「一に掃除、二に看経(かんきん=読経)、三、四がなくて、五に座禅」禅寺ではこう教えられるらしい。

座禅と読経が禅宗のお坊さんのお仕事かと思っていたら、そうではなかった。一に掃除が来ている。学生時代にしばらく禅寺で過ごしたことがあった。早朝四時に起床をして長い長い廊下の掃除が始まった。濡れ雑巾を固く絞って拭き上げて行く。その後座禅をして、それがすんでお粥と梅干しと味噌汁の朝食となった。お昼からはお坊さんは作務をする。畑に出て働く。草取りをする。花園大学の学長をなさった西村恵信氏によると彼の師匠の大禅僧は、「人生の90%を境内の草取りをして過ごす」ことに費やされたそうだ。

掃除というのはこころの掃除をも指しているだろう。形を持たないこころの掃除はどうやってするか。形のあるものを掃除することがそのまま形を持たないこころの掃除になる、らしい。だから、床拭きも庭掃きも、床や庭や頭を下げて「わたしの掃除をさせてください」ということになる。これをやらないと、名声だの利養だの評価だの評判だのといった垢や塵が堆く積もってしまって、元の形のわたしが見えなくなってしまう恐れがある。

そういえばお釈迦様の弟子の一人、シューリーパンダカは、英才利発でなかったこともあって、箒と雑巾を与えられてただただ掃き掃除、拭き掃除をして一生を送り、終いに悟りを開いて十代弟子の一人となった。こころの掃除一つをもっぱらにしたのだ。

たかだか草取りと言うことなかれである。たかだか掃除ということなかれである。こころに生える欲望の草を取り、こころにたまる煩悩の塵垢を掃除することで清々しく生きることができるのである。

そんなことこんなことを考えてさぶろうは午後を過ごしている。読経をしたり座禅をしたりする厳しい禅寺の修行などできるものではないが、我が家のこの田舎の庭や畑の農作業なら、さぶろう自浄の作務にあてられそうだ。であったならば、嫌がらずにぼつぼつぼつぼつ、やるとするか。

自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)。自ら其の意(こころ)を浄(きよ)くす、是ぞ諸(こ)れ仏の教なり。わがこころの掃除に努めよ、是こそは仏の教えるところである。

さぶろう、よかったじゃないか。世間に打って出て華々しい成果を上げなくともよかったのだ。無才貧才でよかったじゃないか。だがなあ、こころの掃除を徹底することもまた難しい難しい。なあ。

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することがいろいろある

2015年03月12日 13時08分10秒 | Weblog

お昼はワカメうどんをいただいた。刻み小葱も加えて。小葱はもう白い根株まで食べられる。味は炒り子出汁だった。とろろ昆布を浮かべてもらった。食後に王林の林檎のデザートも数切れ。林檎が嫌いなのに赤くないこの王林だけは食べる。一息ついて炬燵に入りとろりとなる。ハッピーな時間帯だ。

外は日差しが強くなっているようだ。さっき気分転換に日の隈山一周のドライブをした。暖かくなって、着込んでいるジャンパーを脱ぎたくなったほどだった。城原川のあちこちの川土手には菜の花が満開だった。

種芋は早々と買ってきていたのに、怠けて、春ジャガイモの植え付けをまだしていない。草取りがすんでいる畑に種芋を等間隔に置いて、中間に施肥して、土を被せ畝を作るのだが、座ったままの姿勢ではこの作業が難しいのだ。それからアスパラガスの種根も深めのプランターに植え込んでみたい。することがいろいろある。老人の趣味の範囲だから、追い立てられることもない。すべて、ぼつぼつぼつぼつ。

お昼寝一寝入りしたら、外へ出て、ままごと農作業を開始しよう。その前に、妙法蓮華経観世音菩薩品第十八偈を朗読する。書き下し文で、声を朗々と春の空へ向けて放ちながら。

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老いるとはいいもの

2015年03月12日 10時41分01秒 | Weblog

比丘たちよ、デーヴァダッタの利養と名声を嫉んではならない。それは、たとえば、気性の荒い犬の鼻に、粉にした肝を振りかけるようなものであって、その犬はそれによってますます荒々しくなるであろう。そのように利養と名声とは恐ろしい、苦々しい過酷なものであって、無上の安穏に到達する障礙である   「相応部経典」より 増谷文雄訳

仏教学者の増谷文雄さんが大好きである。会ったことはない。東京大学印度哲学教授のかたわら「在家仏教協会」を加藤瓣三郎氏とともに(数名の方で)立ち上げた人である。若い頃から「在家仏教」誌を読み続けて今日まで50年間これに親しんでいるさぶろうは、従ってこの誌上で彼の講演集を何度も読んだり、本屋で著作を買って読んだりした。だから、ファンということになる。文章がいい。鼻が「あ、これは増谷さんの文章だ」とすぐに分かるようになった。心酔とまではいかない。恐れ多い。さぶろうの理解力を遙かに逸脱しているからである。彼の文章を目と指でなぞると、さぶろうが胸の内に飼っている荒ぶる馬がおとなしくなることが多かった。もう他界をされているが、在家仏教誌には今も増谷さんの記述が載せられることがある。それで、父のような懐かしさを覚えて擦り寄って行きたくなる。

無上の安穏に到達することが第一優先でなければならない。さぶろうは老いた。若い頃はいざ知らず、今は無上の安穏こそは彼の醍醐である。みすぼらしいさぶろうは、利養と名声はついて回らなかった。手ぶらだった。でも利養と名声を放つ者に嫉妬をした。その度に荒馬になった。理性の手綱を引きちぎって欲望の山野を駆け回りたくなった。しかし、老いたのである。老いるとはいいものだ。「無上の安穏」の放つ魅力に引きつけられる度合いが多くなってきたのである。

デーヴァダッタはお釈迦様の従兄弟に当たる人であるが、教団を二分するようにして離反し釈尊に傷を負わせた人でもある。妙法蓮華経に一章が設けられている人である。お釈迦様はしかし彼を貶めてはいない。むしろ、彼を恩ある人、導き手とすら考えておられたようだ。この相応部経典でも利養と名声とを荒ぶる馬として避けよと忠告はされたが、彼を非難中傷はされていない。

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いい気持ちになっていればそれでよし

2015年03月12日 10時29分13秒 | Weblog

YouTubeで長時間のベスト・クラシカル・ヴァイオリン・ミュージックを聞いています。ハッピーになります。ヴァイオリンが大好きです。(ピアノ曲が嫌いというわけではありません。)うっとりして感覚が麻痺を起こしてついには眠ってしまいます。音符すら読めないので、専門的なことはちっとも分かりません。ただただいい気持ちになるだけです。刹那主義かもしれません。今がよければすべてよし。いい気持ちになっていればそれでよし。さぶろうの脳細胞は単純です。いい気持ちにさせてくれるものでよければ、ほかにもあるはずです。だから音楽でなくったっていいのかも知れませんが、これが最も手っ取り早いようです。第一、人に迷惑がかかりません。さぶろう一人の快楽ですむのです。

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鬼さん鬼さんこっちだよ

2015年03月12日 10時05分44秒 | Weblog

ヒヨドリが縄張りを主張している。目白たちが大群で押し寄せてきてこれを錯乱するので、ヒヨドリはこれを追い払うのに忙しい。前の庭の紅梅の枝に、半分に切った蜜柑をたくさん刺しているので、ここはレストランになっているのだ。目白たちも賢い。わざとヒヨドリの近くまで飛んで来て、「鬼さん鬼さん、こっちだよ」をする。四方でこれをするので、ヒヨドリも蜜柑を食べるのに集中ができない。目白を蹴散らそうとして追いかけるその隙に、別のグループの目白の一群がやってきて、蜜柑を占拠する。目白の食い分はたかが知れているが、ヒヨドリの口は大きいので食糧は、新しく継ぎ足したその日のうちになくなってしまうのだ。これに対処するのにこちらも忙しい。

 

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風邪を引かないですんでいる

2015年03月12日 09時51分28秒 | Weblog

風邪を引かないで済んでいる。昨日吹きっ晒しの畑で空豆の畝の草取りを日が暮れてしまうまで続けた。麻痺の左脚が鉄の棒のように凍てつき腰が冷えて、風邪を引いてしまうんじゃないかと心配したが、そうはならなかった。昼食後ずっとだったから、作業は随分と捗った。エンドウ豆の畝まで進んだ。立ち仕事はできない。丸椅子に座ったままだから、遅遅としているけれど。広い畑だからまだ草取りするべきところはたくさん残っている。今日もお昼過ぎあたりから再開をするとしよう。午前中はいかにも寒い。日も雲で遮られている。室内に居ても指先がかじかむほどだ。

 

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春雷起こる

2015年03月12日 08時42分54秒 | Weblog

おはようを言えば返事のおはようが聞こえるときのやさしいわたし    李野うと

おはようの返事があるときのわたしはやさしくなっている。ないときにもやさしくなっていればいいけれど。

アネモネから返事をもらおう。紅梅白梅からもらおう。大空からも。聞こえたらそれが返事なのだ。万物の春。春が声を放っているなら、さぶろうにも聞こえてくるはずである。

さぶろう「おはよう」 万物の春「おはよう」

万物の春を迎えてみなともに春を聞くらし 大空青し   李野うと

そうなんだ。耳があれば聞こえているのだ。わたしに耳があるとおりに万物にもそれぞれの耳があって。

耳あれば聞こゆる声を聞かずして野を過ぎ行けば春雷起こる    李野うと

 

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