<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

外に出てみるとするか

2015年03月10日 15時23分46秒 | Weblog

お昼ご飯はドライカレーだった。2日前に料理されたのがまだ2皿分残っていて冷凍保存されていた。匂いも美味しかった。副食は小葱の酢味噌和えだった。(この頃酢を好む。摺り大根にも酢をたっぷり垂らしてしまう。もちろん醤油も加えるけど。)昼食の最後はデザートにパンケーキを一欠片。南側5畳の板の間お縁は屋根の枒が高く造ってあるので日がもろに差し込んで来る。それでそこがぽっかり暖かくて、バスルームのようだった。

さあて、外に出てみるとするか。出たら何かしらすることが見付かるだろう。怠け者のさぶろうはこれからが活動時間だ。牡丹の根株に施肥をしよう。牡丹は小さいのが10株ほどもある。でも、風が吹いていて寒そうだな。

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行き止まりではないよ 進んでいるよ

2015年03月10日 14時59分02秒 | Weblog

空に台形の山がある。頂上には雲が覆っている。三方を。雲が流れていくにつれて台形の山も移動をしている。神々しい。

さぶろうには恐れの感情が潜んでいてそれがときどき波の上に浮き上がってくる。その瞬間さぶろうは恐れるが、これを受け入れて、それを乗り越えて次の段階に進む。すると意識が上がる。まだ肉体を持っているので肉体レベルではあるが、それだけではないということをさぶろうは知り始めている。知らせてくる存在があるからだ。何があっても大丈夫だよ、行き止まりではないから安心していいんだよ。きみは次へ次へよい方向へよい方向へ進んでいるよ。さぶろうはこのサジェスチョンに感謝をする。

 

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不老不死をやってのける<わたしの中心>

2015年03月10日 12時04分25秒 | Weblog

さ、そろそろ着替えようかな。まだ、寝ているときの寝間着姿のまま。だらしないなあ。

今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕(あらわ)れん時を各々ご覧ぜよ。現世安穏の証文疑い有るべからざるものなり。     日蓮宗「御妙判 如説修行抄」より抜粋

またまた自己流の解釈を施してわがこころをよろこばさん。

まずは尊敬する渡辺宝陽氏の訳を掲げる。

「現世では迷惑な災難を除き去って長命のみちを得ることとなり、人民も不老不死の道理を体得することと共に、仏法によって国土に安楽が保証され、仏身仏土が顕現される時が来るのである。そのことをそれぞれしっかりと見届けなさい。「現世安穏」という法華経の経文が証文となるのであるということを疑ってはならないのである。」

1,「不老不死の道理を体得する」人民とはいかなる人民か。日蓮宗の信者か。

2,国土に安楽が保証され「仏身仏土が顕現する」時とはどんな時か。仏法が広まる時か。この時が満ちるとしてある。

この2つの正当性は法華経がその証文であって、疑うことではないとしてある。

宗教者はみな不老であって不死であるか。仙人みたいだな。不老不死の仙人になることが宗教者なのか。それは不明だが、さぶろうは、不老不死の道理はイエスと思っている。不老不死を体得した者が宗教を覚えるのか。堂々と不老不死をやってのける<わたしの中心>をわたしの中に覚知するということか。<わたしの中心>を仏教では<仏性>と、もしくは<仏>と呼んでいるのではないか。さぶろうにはどれも断定形がとれないけれど。

物質界の肉体は不老不死しない。老いる。死ぬ。だからこれは非物質界非肉体、わたしの中心に座る仏身の把握である。わたしの中心にいて活動する仏身は不老不死である。

次の説は悟道の領域がさらに広がっている。「仏身仏土」が顕現するとはどういうことなのか。<さぶろうが仏であって、さぶろうのいるところが即ち仏土である>ということか。それともさぶろう以外か。「仏陀という仏身が造った仏土」なら距離があるぞ。ともかくこのときが此処に実現するとしてある。不思議な御妙判である。凄まじい現実肯定の思想である。

さぶろうが仏で、さぶろうが仏土にいる。この条件が法華経によって満たされているのなら、これ以上どんな文句があるか。ないはずである。ではこれで安心立命をしていいことになる。ではそうせよ、さぶろう。人間の鼻糞目糞くらいの微細な屁理屈を捏ね回さずに、一足飛びに仏界の大安心に飛び込んで来い、さぶろう。

*「人法共に」とある。人間界と法界のことか。法界とは仏界、真如界のことだ。人間界のど真ん中に法界がある。「今生には不祥の災難を払い、長生の術を得る」とは、法華経を保持する者は仏の守護があるということか。不明。

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お尻 見ていますか

2015年03月10日 11時44分59秒 | Weblog

お昼時に近い。晴れて来た。空の色がいい。風は依然としてある。南天の藪は側面反りの体操をしたままだ。

女性のヒップはどうしてあんだけでかいのだろう。そりゃ、次の生命体を宿すからだよね。だよ。そこが生命工場になるからだよ。それにしてもでかいなあ。今YouTubeで聞いている positive anti-stress relaxation music のフロントページに海辺で海を眺めて立っている女性のベイジングスーツ、後ろ向き姿が載っている。さぶろうの目はこれに吸い付けられている。キョーレツ! 真っ青な空、真っ青な海。ここに体中に砂を付けた人間の女性がいる。楽しめる光景だ。

あの世からでも見えているだろうか? きっと見えているよね。40年前に他界したお父さん、愉快にお尻を見ていますか? でも、YouTubeが開けないかもしれない。

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いつでも元気でいられるのだ

2015年03月10日 10時26分34秒 | Weblog

指先が冷たい。室内でも手袋をしてなくちゃいけないみたいに。

今朝の朝ご飯は煮餅だった。お味噌汁にお正月前に搗いた白餅が入っていて、瓶に入れて水餅にしてあったので品質が保たれていてやわらかくて美味しかった。味噌汁の具は春キャベツの千切り、小葱、そして南瓜だった。沢庵漬けの薄切りにたっぷりの胡麻でまぶし、これに醤油をかけてまぜた田舎食を摘まみ摘まみした。これにプラスしてレンジで焼いたサツマイモの焼き芋を半分だけ食べた。ほくほくした。

枯れ木に花を咲かせるお伽噺があったよね。何を撒いたらよかったのだっけ。咲かせた花は桜の花? 桃の花? 梅の花? だったら、季節が到来すれば自然に開花するだろうけど。 

さぶろうももう枯れ木の部類に入っているかもしれない。欲望の春の芽が身体の底から芽吹くことはない。それはそれで自然なことだろう。肉体がそうであっても、他にも人間は幾つものカラダを持っているはずだ。重層構造をしているはずだ。肉体以外は非物質だろうから姿は見えていないにしても、そのどれにもやっぱりエネルギーが充満しているにちがいない。エネルギーが充填されていれば活動はできるはずだ。そういう希望が残っている、かすかに。それが花咲くことはないか。

肉体は老いて衰える。物質が疲弊して凋落をするのは自然の理だ。だが、肉体が則そのままさぶろうの全部なのではない。全部だとするのはまちがいなんじゃないかと、さぶろうはこの頃そんなふうに思ったりする。燦然と輝くもの、生命体の内なる宇宙を照らす太陽的存在が残っているはずだ。この明るさは衰えたりはしない。無変化のはずだ。この存在を活用しない手はない。活用すれば、もう一度でも二度でも日の目を見ることも可能だ。

肉体の死は生命体の死滅ではない。肉体の死ですべての活動が閉じることはない。それどころか、肉体の束縛がなくなったところで、一気に生命活動が花開くことだってありうることだ。スピリチュアルなマイセルフはこれで上機嫌になって跳ね回って遊びほうけるかも知れない。

肉体は束縛である。束縛があるのは抵抗があるからである。障碍があることで鍛錬となる。修行となる。豆電球が光るのは電気抵抗があるからだ。道場へ下りるときには、従って、肉体という武具を着用する。稽古が始まる。打たれる。叩かれる。やがて疲労困憊の極に達する。使い古された武具は疲弊する。やがてこの武具を脱ぐときがやって来る。やれやれだ。これで軽くなる。死が訪れる。快感ホルモンのドーパミンが放出する。彼は元のspiritに戻る。元気を取り戻す。三次元世界、第3密度での学習は終わったのだ。

いつでも元気でいられるのだ、元気旺盛のvigorousでいられるのだ、これを知っておきたい。老いていようとも、病んでいようとも、死のうと、本来の面目そのもの(わたしの中心)はどんな変化も受けたりはしないのだ。肉体の物理現象の影響なんて受けずに、いつでも溌剌としていることはできるのだ。これを彼岸に渡ったときに、やっとやっと自覚できる。これで「やったー!」になって歓喜にむせぶことになる。そんなことだったら、生きている間にもっと明るく朗らかにしていればよかった。安心して活動全開を続けていればよかった、と地団駄する。

いつでも元気でいられるのだ。それをそうしていないのは、誤認識をしているからだ。誤認識の足が強いブレーキを踏んでいるのだ。活動の本体に死滅はない。消滅はない。停止はない。われわれは永遠の今を生きているのだ。そうなら、手っ取り早く「永遠の今」を明るく活動して、安心の朗らかさに住んでいればいいのだ。

 

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思わぬ寒さのぶり返し

2015年03月10日 10時01分14秒 | Weblog

風がひゅうひゅう唸って通り過ぎて行く。通り過ぎて行ったかと思うとまた新手が顔を見せる。やっぱりひゅうひゅうと唸る。唸って藪の木々を薙ぎ倒す。空中には白い物が舞っている。粉雪だ。朝目覚めたときには畑の土が雪で隠れていた。日が昇ってきてこれはすっかり解けてしまっているけど。この調子だったら一日外へは出られそうにないだろう。せっかく開いた紅梅白梅が思わぬ寒さのぶり返しに震えているようだ。

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ごめんねごめんね

2015年03月10日 09時38分16秒 | Weblog

悲しいことが起こった。尖った三角形の、小さな草取り器具を使って、庭の草取りをしていて、うっかりして、鹿の子百合の若い芽をごっそり切ってしまった。もう大人の親指ほどにも成っていた。草が深いので見えなかったのだ。「ごめんねごめんね」を繰り返したがどうにもならない。球根を損ねたわけではないので、一年土の中で辛抱をしていれば、来年また発芽はできるけれども、悲しくなった。せっかく誕生を果たしたばかりだというのに、庭主のこの惨い仕打ち。さぞかし鹿子百合が悲しんでいるだろうと思って悲しくなった。我が家の庭は鹿の子百合の宝庫である。この時期の草取りは用心に用心を重ねなければならない。

 

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