さ、そろそろ着替えようかな。まだ、寝ているときの寝間着姿のまま。だらしないなあ。
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今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕(あらわ)れん時を各々ご覧ぜよ。現世安穏の証文疑い有るべからざるものなり。 日蓮宗「御妙判 如説修行抄」より抜粋
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またまた自己流の解釈を施してわがこころをよろこばさん。
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まずは尊敬する渡辺宝陽氏の訳を掲げる。
「現世では迷惑な災難を除き去って長命のみちを得ることとなり、人民も不老不死の道理を体得することと共に、仏法によって国土に安楽が保証され、仏身仏土が顕現される時が来るのである。そのことをそれぞれしっかりと見届けなさい。「現世安穏」という法華経の経文が証文となるのであるということを疑ってはならないのである。」
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1,「不老不死の道理を体得する」人民とはいかなる人民か。日蓮宗の信者か。
2,国土に安楽が保証され「仏身仏土が顕現する」時とはどんな時か。仏法が広まる時か。この時が満ちるとしてある。
この2つの正当性は法華経がその証文であって、疑うことではないとしてある。
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宗教者はみな不老であって不死であるか。仙人みたいだな。不老不死の仙人になることが宗教者なのか。それは不明だが、さぶろうは、不老不死の道理はイエスと思っている。不老不死を体得した者が宗教を覚えるのか。堂々と不老不死をやってのける<わたしの中心>をわたしの中に覚知するということか。<わたしの中心>を仏教では<仏性>と、もしくは<仏>と呼んでいるのではないか。さぶろうにはどれも断定形がとれないけれど。
物質界の肉体は不老不死しない。老いる。死ぬ。だからこれは非物質界非肉体、わたしの中心に座る仏身の把握である。わたしの中心にいて活動する仏身は不老不死である。
次の説は悟道の領域がさらに広がっている。「仏身仏土」が顕現するとはどういうことなのか。<さぶろうが仏であって、さぶろうのいるところが即ち仏土である>ということか。それともさぶろう以外か。「仏陀という仏身が造った仏土」なら距離があるぞ。ともかくこのときが此処に実現するとしてある。不思議な御妙判である。凄まじい現実肯定の思想である。
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さぶろうが仏で、さぶろうが仏土にいる。この条件が法華経によって満たされているのなら、これ以上どんな文句があるか。ないはずである。ではこれで安心立命をしていいことになる。ではそうせよ、さぶろう。人間の鼻糞目糞くらいの微細な屁理屈を捏ね回さずに、一足飛びに仏界の大安心に飛び込んで来い、さぶろう。
*「人法共に」とある。人間界と法界のことか。法界とは仏界、真如界のことだ。人間界のど真ん中に法界がある。「今生には不祥の災難を払い、長生の術を得る」とは、法華経を保持する者は仏の守護があるということか。不明。