<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ここで安心、いまが安心

2015年03月21日 13時58分46秒 | Weblog

モーツアルトを聴いています。レクイエムになりました。でも、眠くなって来ました。欠伸が出ます。専門的知識がないので、こうやってただ漫然と聞き流すだけで終わります。

「往生はいわゆる死の後にあるのではありません。信心の篤い人にとっては、至心に南無阿弥陀仏を称えるとき、自分が浄土に生まれるというよりも浄土そのものが創造され、浄土が現成(げんじょう)するのです。だから、浄土へ行くと言うよりも、浄土がわれわれのところへ来るのです。ある意味で、われわれは浄土を携えて歩いています。そしてナムアミダブツというあの不思議な成句を称えるとき、自分のまわりというよりもむしろ自分の中に浄土が現在することを自覚するのです」   アメリカでの鈴木大拙講演録「真宗入門」より

真宗念仏行者の極楽往生ということについて説明がしてあります。向こう(死後世界)へ行かなくとも往生はできると言ってあります。浄土はわがこころの内に現在すると言ってあります。現成(げんじょう)は現在で完成しているという意味合いにさぶろうは受け取っています。未来を待たない、場所を移さない。念仏を称えているとき、そのところに阿弥陀仏の浄土が完成している。ですから、わざわざ死ぬのを待って極楽まで出掛けて行って、往生成仏しないでもよくなるのです。不往生成仏です。往かなくともいいわけです。南無阿弥陀仏の念仏を称える、そこで終了していますから、もう先々に期待をすると言うことも無用になります。魔法みたいな話です。即座にそのままで阿弥陀仏を受領しています。心配がなくなりますね。<ここで安心、いまが安心>の真っ只中に居ることになります。

凄いことが書いてありました。これ以上、阿弥陀さんと交易をしないでよくなりました。あの世での物々交換(交渉事)をしなくてよくなりました。現在の完成(=現成)とは、今日の上天気の春の空のようです。では、お説の通りに、わが内に浄土を携えて土筆の野を歩いてみましょう。

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生き物みなの活動期

2015年03月21日 13時36分28秒 | Weblog

草取りをして春キャベツ4株を植え付けました。これからは青虫が出て葉っぱを食べます。もう小さなカタツムリの類が動いていました。これも野菜を食べます。そろそろ防虫剤を散布しなければ、植えたのも束の間、堅い茎の根幹部分のところだけを除いて食べ尽くされしてしまいます。彼らの食欲たるや凄いです。スーパーに売られている立派な完成品は虫が食べた跡もありませんから、相当の薬漬けになっているはずです。それからもう空中にも虫が飛ぶようになっています。これに刺されると皮膚が真っ赤に腫れ上がります。あらゆる生き物が活動期を迎えます。もちろん草もそうです。勢いが乗ってきますから、除草が追いつかなくなります。

お昼ご飯を食べました。乾麺をゆがいてもらって、昆布出汁でいただきました。お日様が射す縁側のテーブルで。窓を全解放していても、暑くて下着一枚になりました。これからお昼寝をしようかなあと思います。近くの国立公園の一隅では花と緑の市が大規模に開かれています。今日は土曜日、しかもこの上天気ですから、来客数が増えていることでしょう。

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春の瞑想

2015年03月21日 10時16分31秒 | Weblog

雨が降って土が湿っているので、草が抜きにくい。根に水気があって重たい。土が払えない。指先が、べたべたじとじと、べったりする。で、ちょっと休憩。日が中天まで昇ってきた。お日様に乾燥を願いしよう。

こんにちは 会いに来ましたよ/って ニンフが さぶろうを 尋ねてくる/ そういう空想をして さぶろうは にんまり顔になる/ そのニンフは164cm/ ハンドボールの選手をやっていたことがあるらしくて/身のこなしが素早い/ おどけてシュートの姿勢をしてみせる/ その後でさぶろうの手を軽く握っている/風が近くのニンフの匂いを沈丁花の香りにするので/ さぶろうは咽せ込んで /閉じていた目を開けてしまう/ こんにちは 会いに来ましたよ/って今朝方尋ねてきたのは/一年ぶりに渡ってきたツバメたち/あなたはみんなから愛されていますよ ええ ほんとうですよ/まもなくニンフがそれを伝えに尋ねてきますよ/そんなことあんなこと/早口でお喋りをしてから大空へ帰って行った 

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もういいかなあ

2015年03月21日 10時02分16秒 | Weblog

詩「もういいかなあ」    李野うと 作

もういいかなあ

自分を 

両手に抱き上げて頬摺りしてあげても 

いいかなあ

大好きだよと言ってあげていいかなあ

今度こそ 今こそ

恥ずかしがらずに

明るく素直に

堂々と向き合って

いいのかなあ

いいかなあ

ほんとうはそうやって

自分のからだとこころの全体に

自分を構成している全部に

抱き上げられて頬摺りされて来たんだよなあ

大好きだよを

百千万回繰り返してもらっていたんだよなあ

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自分を愛する心

2015年03月21日 09時11分13秒 | Weblog

庭に出て草取りをしました、朝ご飯ができるまで。草も花を着け始めました。小さい小さい花です。

本屋さんから数日前に買ってきた吉野弘詩集「素直な疑問符」を読んでいます。そこに「奈々子に」というタイトルの詩が載っています。とってもいい詩です。後半の半分を紹介します。(行を分けてありますが、ここでは分けずに聯ごとに)

「奈々子に」

・・・

お父さんが お前にあげたいものは 健康と 自分を愛する心だ。/ひとが ひとでなくなるのは 自分を愛することをやめるときだ。/自分を愛することをやめるとき ひとは 他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう。/ 自分があるとき 他人があり 世界がある/ お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた。/ 苦労は 今は お前にはあげられない。/ お前にあげたいものは 香りのよい健康と かちとるのにむずかしく はぐくむのにむずかしい 自分を愛する心だ。

いいでしょう。自分を愛する心は育むのも難しい。勝ち取ってしまうのはもっと難しい。でも、自分を愛する心が愛の基本じゃないのかな。ベースじゃないのかな。自分に(無意識的に)愛されて来ながら、自分を(意識的に)愛して来なかった。ってことが多かったような気がする。自分を構成している構成要素の全部がご主人様の自分を総掛かりで愛して来たはずだ。それを読み取ることもしなかった冷淡な自分がいた。そんなの当たり前だとして内に込み上げている総掛かりの献身的な愛情を取り上げもしなかった。むしろ長い年月そっぽを向いて暮らしてきたように思う。

もういいかなあ。自分を両手に抱き上げて頬摺りしてあげてもいいかなあ。大好きだよ、と言って。恥ずかしがらずに、明るく素直に、堂々と向き合って。

仏教では利己愛を見下しているところがある。利他愛こそが崇高だとしているところがある。でも自己を卑下することはない。自己は尊厳である。ナルシストは自分の美貌に見取れてしまう人で、揶揄の対象になっているが、その極端は避けねばならないとしても、自己の内面を美しく見て行く、磨いていくことは大切なことなんじゃないか。

己を愛することには衒(てら)いがある。仏教でも自己犠牲をより多く勧めているし、自己美化は謙虚さを失った者の悪行とすら見られることもある。ここでやはりブレーキがかかってしまうだろう。

奈々子は作者のまだ若い、林檎のほっぺをした娘さんのようだ。愛情の向かうところを人は、(見えやすいように、分かり易いように、衒いが少なくて済むように)誰も自分の外にこしらえている。社会や自然や、調和や真理や、家族や恋人を愛の中心に据える。でも、それはことごとくその人の心の内側にも住んでいるのだ。内側の心の反映なのだ。その人そのものでもあるのだ。そこがとりもなおさず人間の愛を育むところなのだ。

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木々の枝に青い新芽

2015年03月21日 07時24分32秒 | Weblog

おはようございます。庭の一隅でラッパ水仙が咲き出しました。薄い淡い黄色です。これまで裸木だった木の、たくさんの細い枝にずらりと青い新芽若芽が列んでいます。さぶろうにも洩らさず春が来ているんですね。感謝します。今朝の空はどんよりしています。少し寒が戻ってきています。雨は降っていないようです。これから外に出ます。今日を楽しみます。楽しんでいいのに楽しんでこなかったことがあるように思います。それを発見するのも楽しみです。ありがとうございます。

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