一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華 「正信念仏偈」より
イッサイゼンマクボンプーニン モシンニョライグゼイガン ブツゴンコウダイショウゲシャ ゼニンミョウプンダーリーケー
一切の善悪(人)・凡夫の人 如来の弘誓の願を聞いて信ずれば、(それだけで)仏は(是の人を)広大な勝解の人と言(のたま)ひて分陀利華と名づけたまふなり。
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<一切善悪凡夫人>は、<善を為し悪を為しながら平凡な暮らしをしているあらゆる人>つまり、さぶろうのことだろう。
分陀利華(プンダーリーケー)は白蓮華のことである。<広大の勝解の人>とは仏と等しい大きな智慧の持ち主ということか。仏さまが褒めて褒めておられる。最上級の賛辞で以て、凡夫のわれらを、褒めそやして、おだてられる。そうやって如来の弘誓の願いを聞いてくれよ、聞いてくれよ、信じてくれよと言って招き寄せられる。蓮の華の根元は汚れたままの泥水泥土であるが、地上部は茎も葉も花も、これに染まることなく清浄であるゆえに、白蓮華は仏教のシンボルとなっている花である。
阿弥陀如来が建てた万人に対する誓いと願いとは、ずばり、さぶろうを守るという誓いと願いである。迷ったりさせぬぞ、心細い思いはさせぬぞ、どこまでもいっしょにいて導いて行くぞ、必ず救い取るぞ、阿弥陀の国に生まれさせるぞ、ついには仏陀としての活躍を保証するぞ、という誓願である。だから、我が名を呼べ我が名を呼べと頼まれる。呼べばそれが二人の会話になる。信頼になる。二人の絆になる。安心になる。
さぶろうはただこの阿弥陀の誓願を聞くだけ、信(まか)せるだけでいいのである。実行は阿弥陀さんがする。実にうまい話である。うまい話に欺されるなと思ってしまうので、「じゃ、お願いします」と下駄を揃えて預けるわけには行かない。それで親のない子のようにさまようばかりで、われわれはなかなか安心ができないのだ。
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今朝は、仏さまが(さぶろうを)賞めて褒めて褒められるところを取り上げてみました。阿弥陀如来の名を呼ぶだけで、「さぶろうは白い蓮の華のように清らかだな」と言って褒められるのだ。仏さまからですよ。嬉しいよね~。ともかく経典を読めば嬉しいことだらけだ。