能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん) 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん) 浄土真宗「正信念仏偈」より
能く一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
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ご飯を口に入れて30回噛んで咀嚼して舌の上に寝かしておくと唾液で甘くなる。今日は魂のご飯をそうしてみる。まったく自己流の咀嚼である。だから紛(まがい)い物であるが。
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一念を一心にして阿弥陀仏の本願を聞いてよろこぶ信心をおこせば、凡夫生活の煩悩はそのままにして、いながら阿弥陀仏の涅槃寂静(大安心)を頂く身となる。
阿弥陀仏の大安心を我が身に得るなどと、できるわけがない。そう、できるわけがない。でも、でもでも。捨てたもんでもない。わずかだが一縷の望みがないわけではない。
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英語のpretendは<ふりをする>ことだ。<なったつもりになる>ことだ。喜ぶこころ、信じ慈愛するこころなど一念のうちに発(おこ)す能力はない。ないのをあると偽装するのだ。舞台に立った役者はその役に成りきって芝居を打つ。でも偽装罪には当たらない。人は一生で仏の役どころを演じるための練習を積み重ねる。そうだ、だから、練習をしていると思えばいいのだ。そして<その気になる>。阿弥陀仏の気持ちを味わってみるのだ。涅槃(大安心)などというのは阿弥陀仏にしか体得できないはずだが、阿弥陀仏はわれわれにそれを体得することを願っているのだから、試しに<そうなってみる>のもあながち悪いことではないはずだ。「何を言っているんだ、おまえは低下の者、垢まみれ煩悩まみれ悪行まみれではないか、などと揶揄しないで置く、しばらくは。
たった一念でいいから、いま此処でよろこびの心を発してみるがいい。そうすればたちどころに阿弥陀仏と等しい涅槃が味わえる。この指止まれ。阿弥陀仏が誘って来る。なら、「乗った!」である。そんなにシンプルでいいんだったら、後ずさりすることはない。もらった大安心は返却の義務もない。ああ、いい気持ちを叫んだら快感ホルモンが脳内で活発に流れ起こるだろう。しめしめだ。
ただしプリテンドはその場限りだからご用心。
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われはわがための阿弥陀仏なり。三月の梅を見ながら、しばらく大安心をして過ごす。