<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ためしに仏の役を演じてみる

2015年03月15日 12時00分35秒 | Weblog

能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん) 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)     浄土真宗「正信念仏偈」より

能く一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

ご飯を口に入れて30回噛んで咀嚼して舌の上に寝かしておくと唾液で甘くなる。今日は魂のご飯をそうしてみる。まったく自己流の咀嚼である。だから紛(まがい)い物であるが。

一念を一心にして阿弥陀仏の本願を聞いてよろこぶ信心をおこせば、凡夫生活の煩悩はそのままにして、いながら阿弥陀仏の涅槃寂静(大安心)を頂く身となる。

阿弥陀仏の大安心を我が身に得るなどと、できるわけがない。そう、できるわけがない。でも、でもでも。捨てたもんでもない。わずかだが一縷の望みがないわけではない。

英語のpretendは<ふりをする>ことだ。<なったつもりになる>ことだ。喜ぶこころ、信じ慈愛するこころなど一念のうちに発(おこ)す能力はない。ないのをあると偽装するのだ。舞台に立った役者はその役に成りきって芝居を打つ。でも偽装罪には当たらない。人は一生で仏の役どころを演じるための練習を積み重ねる。そうだ、だから、練習をしていると思えばいいのだ。そして<その気になる>。阿弥陀仏の気持ちを味わってみるのだ。涅槃(大安心)などというのは阿弥陀仏にしか体得できないはずだが、阿弥陀仏はわれわれにそれを体得することを願っているのだから、試しに<そうなってみる>のもあながち悪いことではないはずだ。「何を言っているんだ、おまえは低下の者、垢まみれ煩悩まみれ悪行まみれではないか、などと揶揄しないで置く、しばらくは。

たった一念でいいから、いま此処でよろこびの心を発してみるがいい。そうすればたちどころに阿弥陀仏と等しい涅槃が味わえる。この指止まれ。阿弥陀仏が誘って来る。なら、「乗った!」である。そんなにシンプルでいいんだったら、後ずさりすることはない。もらった大安心は返却の義務もない。ああ、いい気持ちを叫んだら快感ホルモンが脳内で活発に流れ起こるだろう。しめしめだ。

ただしプリテンドはその場限りだからご用心。

われはわがための阿弥陀仏なり。三月の梅を見ながら、しばらく大安心をして過ごす。

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わたしはわたしの阿弥陀仏です

2015年03月15日 11時33分50秒 | Weblog

声に出して読むのがいい。わが声は天地万物をよろこばす声として授与されている。だから朗らかに読むのがいい。発声は朗々と声高く、がいい。そうすれば天地万物はよろこんで来る。知らず知らずに嬉しい嬉しいを音にして弾ませてくる。これを聞く。

わたしはわたしの阿弥陀仏です 

わたしのためにわたしの中で活動する阿弥陀仏です

これでわたしが安堵いたします

安堵したわたしは上求菩提(じょうぐぼだい)をいたします

阿弥陀仏の菩提、無上安穏の仏智をわがものにして

天地よりも先にわたしがまっさきによろこびます

この世に生きていることをよろこびます

そんなことまでよろこぶのかというくらいにたくさんたくさん

これをみんなに伝えます

おのずからこれが下化衆生(げげしゅじょう)になります

これでわたしはみんなの阿弥陀仏になります

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後先も見ず 期待もせず

2015年03月15日 11時04分10秒 | Weblog

深めのプランター数個にアスパラガスの根株の植え付けをした。6株で560円の。土の中で1,2年寝かしておけば次の活動を始めるのではないか。まあ、気長に待とう。霜の降りることももうないだろうから、赤馬鈴薯もそろそろいいかと思ったので、これも一袋の種芋を植え付けた。今日の空はどんよりしていて、人を誘惑して来ない。

わが農事は幼児のままごと遊びといっしょだ。泥捏ね土遊びは他愛がない。これをしたところでわが功績が縦に高く積み上がることはない。功績にもならない。曰く、無功徳。何の得にもならない。無用の用だ。

遊ぶ戯れると書く「遊戯(ゆげ)」は自由人の所作である。何かのためにするのは下の下だ。誰かのためにするのも同種だ。目的を設けてするのも中の中だ。後先も見ず期待もせず、永遠の現在に夢中になっている、これが老荘哲学の謂う上の上だ。

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我が世の春を春ごとにせむ

2015年03月15日 08時04分15秒 | Weblog

夜が長い。夜明けが待ち遠しい。夜中頻繁にトイレに通うのは老いの通例だろうが、こうなるといきおい睡眠が浅くなる。浅くなると夢が多くなる。しかも悪夢のたぐいだ。いらいらが来る。ぼやきが出る。不安感にさいなまれる。これを除去しようとして布団を被って奮闘する。

寝てすぐに目覚めてBSチャンネル1を見たら、テニスの錦織選手の特集番組があっていてこれにつきあった。世界ランキング1位のジョコビッチ選手との試合も一部分再放送されていた。ナダル選手の強さにも圧倒された。選手はみな精悍だ。迫力がある。スポーツ音痴なのに、なんだか楽しんだ。

弟に借りた鈴木大拙博士のアメリカでの講演収録の日本語訳本「真宗入門」を開いて寝ながら読み進めて、寝ては起き、起きて読んで、もうすぐ読み終えるところまで来た。キリスト教文化圏のアメリカ人に阿弥陀仏のいわれをやさしく説いたものだが、それでもなお愚鈍のさぶろうには理解が行き届かなかった。いよいよいらいらした。

長く生きてきてこうである。夜中のこのいらいらぶりは何だ。精神の薄っぺらさは何だ。ちっとも成長を遂げていないことを再認識させられる。もうすぐ終焉を迎える段階に来ているというのにまだ山の麓をぐるぐると回っているだけで、高度を上げる段階でもない。小さい頃に見た老人はもっと賢者だった。余裕綽々として見えた。いま自分がその老境を辿ってみて、我が内の空っぽを感じて焦燥感が募るばかりだ。

短歌でも捻ろう。

明るさと朗らかさとはわが老いの武器なり 襲い来る魔を鬩(せめ)ぐ

淺底のわが精神の軟弱を繕(つくろ)いをれば辛夷来て笑む

白梅の色は匂へど散りぬるを 我が世の春を春ごとにせむ 

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