<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

アスパラガスの植え付け

2015年03月20日 19時45分55秒 | Weblog

こんばんは。今日はお昼から外に出て、畑にアスパラガスの株根を植えました、たいそう沢山。30cm以上穴を掘って。植える時季は3月まで。もうちょっと遅いかもしれない。夕方日が暮れて終わりました。アスパラガスは、説明書によると肥料を好むと書いてあったので、油粕、鶏糞、化学肥料を少しずつ施肥しました。いつになるのかは分かりませんが、発芽してくるのが楽しみになりました。柔らかな白い茎を食べるには工夫が要ります。お米の籾殻を堆くかぶせておかねばなりません。何でも手が要ります。愛情を欲しがるのかもしれません。

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われをば無上仏にならしめんとして全宇宙が動く

2015年03月20日 15時04分07秒 | Weblog

自然(じねん)といふは、自はをのずからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾(ほうに)といふ。

法爾といふは、この如来の御ちかひになるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆへに、行者のはからひなきをもて、この法の徳ゆへにしからしむるといふなり。

すべてひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とすとしるべしとなり。

自然といふは、

もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまふすとぞききてさふらふ。

ちかいのやう(要)は、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。無上仏とまふすは、かたちもなくまします、かたちもましますぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。

かたちもましますぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とはまふすぞとききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。

「真宗聖教全書」より

ここをほんの少し味わいたい。あんまりたくさんは腹が太ってしまう。

法爾(ほうに)とは「法のあるがままに」「如来の誓いのままに」ということ。法爾だから自然(じねん)である。自ずからしかあらしめられている法に、こちらから付け加えたり差し引いたりの酌量をしない。はからわない。疑いを挟まない。法とはダンマのこと。この宇宙界の真如。ハタラキ。仏界のエネルギー活動の全体。ここではそれを<御はからい>としてある。これは<行者のはからい><凡夫のはからい>の対極にあるものである。この故に義なし。人間サイドの義、主義主張がない。こちらからの采配をしない。注釈を入れない。捏ね回さない。

阿弥陀仏の<御はからい>の内容は、さぶろうを無上仏にならしめようという誓いである。さぶろうの計らいごときでさぶろうは無上仏にはなれない。

無上仏になればさぶろうは形をなくして次なる次元、ハイヤーステージへ移行する。ここでは示すべき形はもはや無用なので阿弥陀仏にそっくり預けてしまう。これで無上涅槃に入る。さぶろうが無上涅槃に入る。

われをば無上仏にならしめんとして全宇宙が動く。こんな無上歓喜を、さぶろうが歓喜していいか。いい。此処で今そうしていいか。存分にそうしていい。それが阿弥陀仏の誓いであって、阿弥陀仏をよろこばせることである。

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救われている人の領収書念仏

2015年03月20日 13時22分54秒 | Weblog

なむあみだ、せかい(世界)も、わしも、こくう(虚空)も、しゃべつ(差別)なし。これがひとつのなむあみだぶつ。    「妙好人浅原才市集」より

浄土真宗の信者で市井の念仏者のことを妙好人という。浅原才市(1850~1932)は岩見(現在の島根県太田市温泉津町)の人である。生涯、下駄職人であった。鉋屑に信仰の証の詩を書き付けた。彼は学者のように学問があるわけではない。すべて平仮名書きである。詩の小片は合わせて7000首もある。聴聞に通っていた小浜の安楽寺住職梅田謙敬によって見出され、鈴木大拙博士の「日本的霊性」の中で紹介された。学問、知識、観念の念仏宗ではなく、妙好人の場合は実生活そのものが阿弥陀信仰の念仏のハタラキ場であった。

「わしも虚空も差別なし。これが一つの南無阿弥陀仏」という自他合一、梵我一如の悟りを開いている点は、まるで座禅をもっぱらにする禅宗徒のようでもある。

「才市は幸せ、案じ煩うこともなし。念仏称えることもなし。あなたの慈悲に救われてご恩嬉しや、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏は寝ても南無阿弥陀仏、起きても南無阿弥陀仏。行住坐臥の南無阿弥陀仏。働くも南無阿弥陀仏。帳面つけるも編む阿弥陀仏。何の中からも南無阿弥陀仏。慚愧をしては南無阿弥陀仏。歓んでは南無阿弥陀仏。慚愧をしては南無阿弥陀仏」  楠恭編「浅原才市の歌」より (読み易いように筆者が漢字に直した)

念仏称えなくともいい、と言いながら、念仏が出る出る。救って欲しいの請求書念仏ではなく、救われている人の領収書念仏である。

「才市がご褒美の風邪を引いた。念仏の咳が出る出る南無阿弥陀仏」こう歌う。風邪も咳も妙好人にとっては阿弥陀仏からの有り難いご褒美であった。「ご恩嬉しや、ご恩嬉しや」を繰り返してはじわりじわりじわりじわり信仰を深めているようだ。

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フィーリングでいいんですね

2015年03月20日 12時01分46秒 | Weblog

「ほう」 今日は、昨日までの陽気続きで一気にチューリップが開花しました。20個ほどの赤い冠が玄関のそばの花壇を美しくしています。それで、僕は、感歎の「ほう」の溜息を洩らしました。すると冠の下の口が「ふふ」と笑みを洩らしました。20個ほどもいっしょにそうしたので、そこが赤く明るく朗らかになりました。

僕は、外から戻って来ました。することもとりたててはないので、やっぱりクラシックのヴァイオリン名曲集を聞いています。ヘッドフォンは使わず、ボリュームを中くらいにして。こころも体も癒やされます。音楽に関する専門的な知識はゼロですが、蓄積した知識の量ではなく、その場のフィーリングでいいんですね。助かります。

フィーリングでいいんだったら、積み重ねが要らないで済みます。その場で感じたらいいからです。「感じる」っていいですね。勝手にいい方に明るい方に感じればいいのですから。それで心地よくなっていれば、これはとってもシンプルです。無上安穏の境地を誘(いざな)う仏陀を感じたり、目の前にやさしいエンジェルを感じたり、上昇を遂げた雲の上の柔らかさを感じたり、大好きなあの人の手を感じたりするのに、別立ての道具は揃えなくともいいのです。ただ感じればいいのですから。

 

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感動の共鳴板

2015年03月20日 09時14分23秒 | Weblog

おはようございます。あ~んとあくびが出る。なにしろ、夜中はずっとずっと夢見の劇場中継オンパレード。眠りは浅瀬だ。海藻がゆらゆら揺れて夢の小魚がちょろちょろする。目覚めたらへろへろに疲れている。夢の劇作家を引き受けているのは誰? わたしの潜在意識? 意識の氷山が毎日流れ着いてくる。これを見ているのは誰? わたしの顕在意識? ふたりだけで遣り取りすればすむものを。

外をぶらり見回ってきました。そうです。鹿の子百合が誕生しているのですよ。親指大の発芽。これが赤いんです。ずばり赤ちゃんです。おぎゃあおぎゃと産声を上げています。でね、赤ちゃんには早速ぎょろりとした目があって、それを大きく見開いて春の大空を見ているんです。なにしろ初めて見る大空だから、鹿の子百合という意識体が感動を腹一杯食べているふうなのです。それでそのおこぼれを頂戴します。感動の共鳴板になるとこれがもらえます。

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