荘子とヨハネは、とても良く似ています。例えば、前回の記事で説明したヨハネ4章1~5節の「イエス」が実は「弟子たち」であること、これは『荘子』の「胡蝶(こちょう)の夢」の話と似ていると思います。中公文庫のカバーの蝶の絵は、「胡蝶の夢」が題材です(写真)。
この「胡蝶の夢」の話は『荘子 内篇』の斉物論篇の最後に出て来ます。今回は岩波文庫の金谷治氏の訳と注を引用します。「荘周(そうしゅう)」とは、荘子本人のことです。
「荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地」に達するなら、敵味方や彼我の区別なく皆が平和に暮らせるのではないでしょうか。ジョン・レノンの『イマジン』の世界にも通じるものがあります。
『ヨハネの福音書』においても弟子たちがイエスであり、イエスが弟子たちです。ヨハネはバプテスマのヨハネであり、使徒ヨハネであり、記者ヨハネであり、証人であり、愛弟子です。私たち読者も愛弟子であり、証人ですから、私たちもまたヨハネです。私たちは罪人であると同時に神の子でもあります。私たちは塵(ちり)や埃(ほこり)のような小さな存在であると同時に大鵬のようなスケールの大きな存在でもあります。
聖書には堅苦しいイメージがあるかもしれません。しかし聖書を深く知れば知るほど、様々な束縛から解放されて自由になります。中でも『ヨハネの福音書』は『荘子』と同じで頭抜けて自由な書です。次回以降も、ヨハネが荘子と同じようにいかに自由人であるかを紹介して行きます。(つづく)
この「胡蝶の夢」の話は『荘子 内篇』の斉物論篇の最後に出て来ます。今回は岩波文庫の金谷治氏の訳と注を引用します。「荘周(そうしゅう)」とは、荘子本人のことです。
【訳】むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう、自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。
【注】この章は「胡蝶の夢」として古来有名な章である。「物化」すなわち万物の変化とは要するにこうしたもので、因果の関係は成立せず、荘周と胡蝶との間には一応の分別相違はあっても絶対的な変化というべきものはない。荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地、それがここで強調される世界である。(金谷 治・訳注『荘子 第一冊[内篇]』岩波文庫 p.89)
【注】この章は「胡蝶の夢」として古来有名な章である。「物化」すなわち万物の変化とは要するにこうしたもので、因果の関係は成立せず、荘周と胡蝶との間には一応の分別相違はあっても絶対的な変化というべきものはない。荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地、それがここで強調される世界である。(金谷 治・訳注『荘子 第一冊[内篇]』岩波文庫 p.89)
「荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地」に達するなら、敵味方や彼我の区別なく皆が平和に暮らせるのではないでしょうか。ジョン・レノンの『イマジン』の世界にも通じるものがあります。
『ヨハネの福音書』においても弟子たちがイエスであり、イエスが弟子たちです。ヨハネはバプテスマのヨハネであり、使徒ヨハネであり、記者ヨハネであり、証人であり、愛弟子です。私たち読者も愛弟子であり、証人ですから、私たちもまたヨハネです。私たちは罪人であると同時に神の子でもあります。私たちは塵(ちり)や埃(ほこり)のような小さな存在であると同時に大鵬のようなスケールの大きな存在でもあります。
聖書には堅苦しいイメージがあるかもしれません。しかし聖書を深く知れば知るほど、様々な束縛から解放されて自由になります。中でも『ヨハネの福音書』は『荘子』と同じで頭抜けて自由な書です。次回以降も、ヨハネが荘子と同じようにいかに自由人であるかを紹介して行きます。(つづく)