平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

なぜ福音書は13~29歳のイエスを描かないのか?(2019.12.15 礼拝)

2019-12-16 08:49:17 | 礼拝メッセージ
2019年12月15日アドベント第三礼拝メッセージ
『なぜ福音書は13~29歳のイエスを描かないのか?』
【ルカ2:41~52】

はじめに
 きょうの聖書箇所にはイエスさまが12歳の頃のことが記されています。これはルカの福音書だけの記事です。マタイ・マルコ・ヨハネの福音書には書かれていませんから、ルカのこの12歳のイエスさまについての記述はとても興味深いものです。そして、ここを読むと15歳の時のイエスさま、20歳の時のイエスさま、25歳の時のイエスさまのことも知りたくなります。しかし、ルカは12歳の時のことしか書いていません。どうしてルカは12歳のイエスさまのことは書いたのに、それ以外の年齢のイエスさまについて書かなかったのでしょうか?

 きょうは、この素朴な疑問を出発点にして、週報p.2に載せた六つのパートで話を進めて行きます。

 ①15歳、20歳、25歳のイエスも知りたいのに・・・
 ②発信だけなら20歳でも開始可能な宣教
 ③イエスと弟子たちの日々を証した福音書
 ④イエスの風貌を描かない福音書
 ⑤読者がイエスと霊的な関係を築くための書
 ⑥イエスと私の日々を俯瞰的に証してみよう

①15歳、20歳、25歳のイエスも知りたいのに・・・
 ルカの福音書によれば、イエスさまが人々に教えを説き始めたのはおよそ30歳の頃でした。ルカ3章23節に、「イエスは、働きを始められたとき、およそ30歳で」と書いてあります。そしてマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書はどれも30歳の頃のイエスさまについての記述が大半です。例えばマルコの福音書は、いきなり30歳の頃のイエスさまから始まります。マタイはイエスさまが生まれる前後のことを書いていますが、やはり子供時代は描いていません。ヨハネも子供時代のイエスさまを描いていません。一方でルカだけは12歳のイエスさまを描いています。

 先ずはこの箇所を確認しておきましょう。ルカ2章41節、

41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。

 イエスさまの両親のヨセフとマリアは過越の献げ物を神殿に献げるために毎年ナザレからエルサレムに上っていました。この時期にはエルサレム以外に住んでいるユダヤ人たちも続々とエルサレムに上って行きました。ちなみにイエスさまが十字架に掛かったのも過越の祭りの時でしたから、エルサレムの住民だけでなく大勢のユダヤ人たちがイエスさまの十字架を目撃したのでした。

 さて、イエスさまが12歳になった時に、ある事件が起こりました。43節から書かれているように、祭りが終わって両親はエルサレムを離れてナザレへ向かっていましたが、そこにイエスさまはいませんでした。祭りの時は家族単位ではなくて、もっと大きな集団で移動していたようです。少年もたくさんいたのでしょうね。それで気付くのが遅くなってしまいました。両親は45節にあるようにイエスさまを捜してエルサレムまで引き返しました。そして46節にイエスさまが「宮」にいたと書いてあります。「宮」というのは神殿のことです。

 母のマリアは少年のイエスさまに言いました。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」するとイエスさまは答えました。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」

 これが、イエスさまが12歳の時の出来事です。では、なぜルカはこの12歳のイエスさまのことを記録しておく必要を感じたのでしょうか?推測するしかありませんが、ここを読むと、12歳のイエスさまは自分が神の子であることを自覚していました。49節に「わたしが自分の父の家にいるのは当然である」とあります。神の箱が置かれている神殿を「父の家」と言った12歳のイエスさまは自分が神の子であることに気付いていました。もっとずっと幼かった頃は気付いていなかった筈ですから、12歳の少し前ぐらいから自分は神の子であるとハッキリと自覚するようになったのではないか、そんな風に考えられます。

 では、なぜルカは15歳や20歳のイエスさまのことを描かなかったのでしょうか?私はその頃のイエスさまのことも知りたいです。皆さんも同じだと思います。ルカは51節に「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と書いていますから、ルカは12歳以外の少年時代のイエスさまのことも調べて知っていたと思われます。しかし、ルカはそれらを書きませんでした。マタイもマルコもヨハネも書きませんでした。どうしてなんでしょうか?
 
②発信だけなら20歳でも開始可能な宣教
 なぜ福音書の記者たちが12歳のことを除けば赤ちゃん時代と30歳以降のイエスさまのことしか書かなかったのでしょうか?私はあれこれ思いを巡らしました。すると、また別の疑問が浮かんで来ました。なぜイエスさまは30歳で教えを説き始めたのでしょうか?47節には、「聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」と書いてありますから、12歳のイエスさまは既に十分な知恵と知識を持っていました。ですから、30歳にならなくても、もっと若い時代に宣教を開始することもできた筈です。

 いま環境問題のことで、16歳のスウェーデン人のグレタ・トゥーンベリさんの発言と行動が非常に注目されていますね。16歳でも大きな発信力を持っていることが分かります。グレタさんは、大人たちが本気になって地球温暖化対策に取り組んでいないことに怒っており、このグレタさんの発言と行動が共感を呼んでグレタさんを支援する人々がたくさんいます。

 或いはまた、パキスタン人のマララ・ユスフザイさんは17歳でノーベル・平和賞を受賞しました。彼女もまた大きな発信力を持つ女性です。マララさんはパキスタンでは子供、特に女の子が教育を受けられないことで国が悲惨な状況から抜け出せないでいる現状を変えるよう勇敢に訴え続け、銃弾を受けて命を落とし掛けてもなお沈黙せずに訴え続けました。マララさんがノーベル平和賞を受賞した年の2014年の国連演説は日本でも大きく報じられましたね。この演説の最後で彼女は次のように訴えました。

One child, 1人の子供、one teacher, 1人の教師、one pen 1本のペン、and one book can change the world.そして1冊の本が世界を変えます。 Education is the only solution. 教育こそがただ一つの解決策です。Education First.教育を第一にすべきです。

 こう言ってマララさんは、子供の教育の重要性を訴えました。このマララさんやグレタさんの例からも分かるように、十代の後半でも大きな発信力を持つ人はいます。ましてイエスさまは神の御子ですから、20歳ぐらいで十分に宣教の開始が可能であったと言えるでしょう。しかし、イエスさまが働きを始めたのは、およそ30歳の時でした。

③イエスと弟子たちの日々を証した福音書
 イエスさまの宣教が30歳でようやく始まったのは何故か、そのヒントはマルコの福音書にあるように思います。マルコの福音書1章の14節から20節までを交代で読みましょう(新約p.65)。

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

 この箇所には、マルコの福音書でのイエスさまの第一声と第二声が記されています。第一声は、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。これだけなら、20歳のイエスさまでも大丈夫でしょう。しかし、第二声の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」は、どうでしょうか?20歳のイエスさまに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われて付いて行く大人は少ないかもしれませんね。子供なら付いて行くでしょうが、誘拐犯と間違われてしまうかもしれません。

 ここから、イエスさまが宣教を開始したのが30歳頃だった理由が分かります。「わたしについて来なさい」と言って、ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネが直ちに付いて行くためには、30歳のイエスさまが必要だったのでしょう。

 そして、このことから福音書がどういう書物であるかということも見えて来ます。福音書が地上生涯のイエスさまの伝記であるなら、ルカは少年時代のイエスさまについて、もっとたくさん書いたでしょう。しかし、ルカは書かず、マタイもマルコもヨハネも書かなかったということは、福音書はイエスさまの伝記ではなくて、イエスさまと弟子たちの日々を書いている書であるということでしょう。

④イエスの風貌を描かない福音書
 このように福音書の記者たちが少年時代のイエスさまを12歳以外は書いていないことから、福音書がどういう書物かが分かって来ます。そして、福音書はイエスさまの風貌もを一切描いていません。イエスさまは背が高かったのか低かったのか、髪は長かったのか短かったのか、髭を生やしていたのかいなかったのか、そういうことを一切描いていません。このことからも、福音書がどのような書であるかが、さらに浮かび上がって来ます。それは、「福音書は読者の私たちがイエスさまと霊的な関係を築くための書である」ということではないでしょうか。

 イエスさまはいつも私たちと共にいて下さると、キリスト教は教えます。そのいつも共にいて下さるイエスさまの風貌が自分の好みでなかったら嫌ですよね。風貌が却って日本人への伝道の邪魔をしている恐れがあります。日本人がイエスさまを受け入れない理由の一つに、西洋風のイエスさまの風貌が出回っているせいではないかと、私は思うほどです。

 実際、イエスさまを信じる前の私は髪が長くて髭面のイエスさまのことを胡散臭く思っていました。しかし、イエスさまと霊的な関係を築いてからは、西洋風のイエスさまを自分とは無関係と思うようになりましたから、気にならなくなりました。

 日本の教会の多くは西洋風のイエスさまの絵を何らかの形で掲げていると思います。それが良いのか悪いのか。ある人々には良いのかもしれませんが、ある人々には、もしかしたら良くないのかもしれない、そんな風に私は思っています。

 一つ確かに言えることは、福音書はイエスさまの風貌を一切描いていないということです。ここから汲み取るべきことがあるのではないかと思います。

⑤読者がイエスと霊的な関係を築くための書
 ここで改めて、福音書とは読者がイエスさまと霊的な関係を築くための書であることについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

 四つの福音書の中で最も早く書かれたのは恐らくマルコの福音書です。ただし、最も早いと言っても、どんなに早くても紀元50年代の後半でしょう。と言うことは、一番早いマルコの福音書でさえ書かれたのはイエスさまが十字架で死んで復活した時から30年近く経ってからということです。

 イエスさまの十字架から30年経てばイエスさまを直接知っている人々も高齢化しますし、紀元50年代から60年代に掛けてはローマ皇帝のネロによる迫害も厳しかった時期ですから、弟子たちは次々と死んで行きました。そういう中でイエスさまについて書き残す必要があったのだと思いますが、単にイエスさまの生涯の記録を伝記のような形で残すのではなく、福音書を読んだ読者もまたイエスさまに付いていく、そんな書を書く必要がありました。ただしイエスさまはもう天に帰っていますから、地上のイエスさまではなくて天のイエスさまに付いて行く、そういう書です。つまり読者は天におられるイエスさまと霊的な関係を築く必要があります。それゆえ福音書は極めて霊的な書です。

 福音書が霊的な書であることは、マルコの福音書の最初を見ても分かります。マルコの福音書は1章8節という早い段階で、バプテスマのヨハネのことばの次のことばを引用しています(週報p.2)

8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。

 このようにマルコの福音書は、イエスさまが聖霊のバプテスマを授けるお方であることを非常に早い段階で宣言しています。このことを決して軽視してはなりません。私たちはマルコが、イエスさまが聖霊のバプテスマを授けるお方であることを早い段階で宣言していることを重く受け留める必要があります。そうして私たちはイエスさまと霊的な関係を築く必要があります。

⑥イエスと私の日々を俯瞰的に証してみよう
 イエスさまは天に帰る前に、弟子たちに言いました。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 このことばを受けた弟子たちはイエスさまの証人となり、イエスさまを証言しました。そして、ペテロやヨハネの次の世代、そして次の次の世代の弟子たちはイエスさまとの霊的な出会いを経験して霊的な関係を築き、そのことの証人となり、それらが次の弟子、次の弟子へと引き継がれて来ました。ですから21世紀の私たちもイエスさまとの霊的な関係を築き、そのことの証言をしたいと思います。

 教会はもっともっとイエスさまとの霊的な出会いについて証言すべきだと思います。ただし、救いの証だけだとワンパターンになりがちかもしれません。そこで私がお勧めしたいのは、自分自身とイエスさまとの日々を俯瞰的に見て、その証言をしたらどうでしょうか、ということです。俯瞰的に見るとは、私とイエスさまとの関係を上から客観的に第三者的な目で見るということです。

 イエスさまが自分を守って下さっていたことを、その時には気付いていなくても、後になって気付くこともあるでしょう。それらについて証言するなら、証すべきことはたくさんあるでしょう。救われた時の証は一つしかできませんが、イエスさまが共にいて下さったことの証なら、たくさんあるはずです。過去を振り返るなら自分自身のことも第三者的な目で見ることができます。

 例として、私自身の神学生時代の証をします。私は神学校で学んでいる間は、早くそこから出たくて仕方がありませんでした。私が神学校に入学したのは48歳の時です。それまで自由気ままに暮らしていましたから、神学校の男子寮での団体生活はとても大変でした。しかし、今年の夏に1泊2日の卒業生リトリートがありましたから神学校を訪れました。そして神学生時代の生活を振り返ることができました。そして、私が神学校で過ごした3年の間、神様が私を愛していて下さり、私はその神様の愛に包まれながら聖書の学びや奉仕をしていたのだなということをしみじみと感じて、とても感謝に思いました。

 神学校にいる間、本当に早く出たくて仕方がありませんでしたが神様はそんな私を温かく見守り、豊かな愛を注いでいて下さいました。私の神学生生活は神様の豊かな愛の中で過ごすことができた素晴らしい時であったと今は思っています。

 また、神学校ではこんなこともありました。私の神学校生活で最も苦しかったのは1年生の時でした。入学直前まで自由な生活をしていたこともありますが、苦痛の最大の理由は日曜日に奉仕する教会が神学校と同じキャンパス内の教会だったことでした。奉仕先が神学校の外の教会なら電車に乗って遠くに行けて、それが気晴らしにもなります。しかし、奉仕先が神学校の教会だと1週間の7日間、ずっと神学校のキャンパスの中にいなければなりません。これは大変な苦痛でした。そんな私をイエスさまは次のような形で励まして下さいました。

 1年生の最後の3月でしたが、卒業生が企画する伝道会が教会でありました。その年の卒業生の一人に須郷裕介先生がいました。須郷先生は神学校に入学前は劇団四季のミュージカル俳優をしていました。そして、この伝道会では須郷先生が脚本を書いた「靴屋のマルチン」の劇が演じられました。主役のマルチンを須郷先生が演じて、私もマルチンの友人役で出演しました。この時の須郷先生の演技が素晴らしいものであったことは言うまでもありませんが、教会の多くの方がどういうわけか私の演技も誉めて下さいました。最初はお世辞だと思っていたのですが、2週間ぐらい経った後でも、「あの時の演技は良かったですね」と私に言って下さる方がいて、とてもうれしく思いました。今になって考えると、あの時、イエスさまが教会の方々を通して、苦しい中にいた私のことを励まして下さっていたんだなと思います。そんな優しいイエスさまに心から感謝しています。

 こんな風に自分の過去を客観的に振り返って見ると、イエスさまが自分を守って下さっていたこと、励まして下さっていたことなど、いろいろと思い当たることがあるのではないでしょうか。来年はそんな証を皆さんにたくさんしていただけると感謝だなと思います。

おわりに
 イエスさまは弟子たちに、イエスさまの証人になるように言いました。そうして福音書はイエスさまと弟子たちの日々を証言しています。私たちもまた、イエスさまが日々の私たちの暮らしに霊的に寄り添って下さっていることを証したいと思います。そうしてイエスさまのことを周囲の方々にお伝えできたらと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
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