平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

九万里の上空を飛翔する大鵬

2024-02-05 07:59:29 | 荘子と聖書
 静岡出身の横山芳介氏が作詞した「都ぞ弥生」の歌詞の1番を前回紹介しましたが、2番も紹介します。

豊かに稔れる石狩の野に 雁(かりがね)遥々沈みてゆけば
羊群(ようぐん)声なく牧舎に帰り 手稲の嶺(いただき)黄昏こめぬ
雄々しく聳ゆる楡(エルム)の梢 打振る野分に破壊(はえ)の葉音の
さやめく甍(いらか)に久遠(くおん)の光
おごそかに 北極星を仰ぐかな

 北大キャンパスに隣接する農場の西には手稲山が見えました。毎日の通学では農場の東端を通りましたから、広大な農場と手稲山がセットになって私の目に焼き付いています。当時の北大生は大きな事ばかり考えている者が多かったですが、校訓のようになっている「青年よ大志を抱け」の精神だけではなく、目に見える形で広大なキャンパスと農場があり、その中で日々を過ごしていたことが大きく影響していたと思います。

 私も大きな事ばかり考えていました。そして大学2~3年の頃は『荘子』の壮大なスケールに憧れを抱いていました。読み始めたきっかけは、『荘子』がノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏の愛読書であることを知り、どんな書か興味を抱いたからでした。『荘子』の冒頭の逍遥遊篇の書き出しを、当時読んでいた森三樹三郎・訳注の中公文庫から引用します。



 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。

 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海にうつろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。」(森三樹三郎・訳注『荘子 内篇』中公文庫 1974)

 北海道に住んでいた私は自分を魚の鯤(こん)であると思い、いつか鳥の大鵬に化身して南に向かって羽ばたき、九万里の上空を飛翔することを夢想していました。この『荘子』を愛読していたことが、後に出会った聖書の読み方に大きく影響していると思います。(つづく)
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