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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

ヨハネがマタイ・マルコ・ルカと異なる点の図解

2023-04-14 08:38:08 | 平和への道
 「ルビンの壺」の絵を使って、ヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは根本的に異なることを説明しようと思う。



 この有名な絵は、「壺」に見えたり「向き合う二人の顔」に見えたりする。壺を強く意識すると二人の顔は見えづらくなり、二人の顔を強く意識すると壺は見えづらくなる。

 この絵にたとえるなら、マタイ・マルコ・ルカの福音書は紀元30年頃の「地上のイエス」を描いた「壺」と言えるだろう。壺は手で触わることができ、地上のイエスも紀元30年頃の人々は手で触わることができた。しかし、21世紀の僕たちは触わることができない。



 一方、ヨハネの福音書の主役は天地創造~新天新地の永遠の中にいる「天の父と御子」である。天の父と御子は手で触わることはできないが、確かに存在していて、21世紀の僕たちも霊的に出会うことができる。僕たちは紀元30年頃の地上のイエスには会えないが、聖霊を通して天の御子には会うことができる。この出会いがヨハネの福音書の読者の霊性を豊かなに育む。そうして霊性が育まれたなら、マタイ・マルコ・ルカの福音書からも、より豊かな恵みを受け取ることができるようになるだろう。

 前回までの記事で説明して来たように、天の父と天の御子イエスは聖霊を通して地上の預言者たちに神のことばを伝えている。この「平和への道」のシリーズで、これまでに解説して来たことを、「ルビンの壺」の絵を使って下に示す。それぞれの図が持つ意味は、前回までの記事を参照していただきたい。







(つづく)
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公の場から姿を消したイエス

2023-04-13 10:21:21 | 平和への道
ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

で始まるヨハネの福音書は、イエスが「ことば」であることを、徹底して描いている。イエスが何度か「公」の場から姿を消しているのも、その表れの一つだ。

 たとえばヨハネ7章の3節、4節、

ヨハネ7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」

 これは北王国の滅亡後も、なお預言者たちの多くが北に残っていた状況を示していると考えられる。しかし、やがて預言者たちはアッシリアの占領下の北を離れて南へ移動した。それが10節であろう。

10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。

 そうして、ヒゼキヤ王の宗教改革によって、南王国の預言者たちの活動は活発になった。それが前回の記事で説明した、ヨハネ8章の「世の光」だ。

ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 このように、ヒゼキヤ王の治世においては律法が遵守されていた。しかし、前回の記事で示したように、次のマナセ王・アモン王(ヒゼキヤの子と孫)の時代は、律法がまったく守られない「悪魔の時代」であった。この時代に、律法の書が紛失してしまった。そして律法の書は、ヨシヤ王が神殿の修繕を行うための資金として神殿への過去の献金を調べている時に発見された(後述)。どうやら律法の書は、宮の献金箱の中に紛れ込んでしまっていたようだ。

 以上の状況をヨハネの福音書はヨハネ8章で、ユーモラスに描いている。

ヨハネ8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

 ここでイエスは献金箱の中に去って行くと言っている。イエスは「ことば」であるから、イエスは律法の書なのだ。このようにして、ヨハネの福音書はイエスが「ことば」であることを、様々な表現を用いて繰り返し読者に伝えている。

 そして、ヨシヤ王の時代に宮から律法の書が発見された。この時の状況を列王記第二22章は次のように記している。少し長いが、3節から11節までを引用する。

列王記第二22:3 ヨシヤ王の第十八年に、王は、メシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンをの宮に遣わして言った。
4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、の宮に納められていた金、すなわち、入り口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させよ。
5 彼らがの宮で工事をしている監督者たちにそれを手渡すようにせよ。そして、監督者たちは、神殿の破損の修理をするために、の宮で工事をしている者たちにそれを渡すようにせよ。
6 大工、建築する者、石工に渡し、神殿の修理のための木材や切り石を買わせよ。
7 ただし、彼らの手に渡した金の精算がなされる必要はない。彼らは忠実に働いているからである。」
8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「の宮で律法の書を見つけました」と言った。そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。
9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告した。「しもべたちは、神殿にあった金を取り出して、これをの宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」
10 さらに書記シャファンは王に告げた。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」シャファンは王の前でそれを読み上げた。
11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。

 こうして、律法の書に書かれている神のことばを聞いたヨシヤ王は、律法への目が開かれた。これが、ヨハネ9章の盲人の開眼として描かれ、イエスは「わたしが世の光です」と言っている。

ヨハネ9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

 ヨシヤ王は律法に関して盲人であったが、世の光であるイエスが王の目を開いたのだ。

 そして、ヨハネの福音書は11章でもう1回、イエスが公の場から姿を消した様子を描いている。

ヨハネ11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

 次回以降で説明するが、ヨハネ11章のラザロの死と復活は、南王国のエルサレムの滅亡とエズラ・ネヘミヤの時代の再建と重ねられている。この後、神のことばはイエスが宣教を開始するまでの約400年間、途絶えることとなった。ヨハネ11:54のイエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせずは、この旧約聖書と新約聖書の間の空白期間を示している。そして重ねられていた旧約聖書は、12章でマタイ・マルコ・ルカの福音書と合流する。これが、ヨハネ1~11章における重なりの構造だ。(つづく)
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ヒゼキヤ王とヨシヤ王の「世の光」の時代

2023-04-12 05:36:33 | 平和への道
 前々回、ヨハネ4章以降のイエスの南北移動が旧約聖書の列王記の北王国・南王国の記述と密接に連動していることを、指摘した。ヨハネの福音書のイエスは、

北(4章)→南(5章)→北(6章)→南(7~10章)

というように、南北の移動を繰り返している。そしてヨハネ6章の最後の方の66節が、列王記第二17章23節などと重ねられていることを説明した。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

列王記第二17:23 は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 ヨハネ6章でイエスから離れ去って行った弟子たちとは、北王国が滅亡した時代にアッシリアへ引かれて行った者たちのことなのだ。

 こうして、北王国は6章で滅んで存在しなくなったので、イエスは7章で南に移動して、7~10章までは専ら南のエルサレムにいる。つまり南王国にいる。今回は8章と9章の二つの「世の光の時代」と、その間にサンドイッチされた「悪魔の時代」について説明することにする。

 北王国が滅んで以降の南王国の王たちは列王記第二によれば、下記の通りである。

ヒゼキヤ王(世の光の時代) → マナセ王・アモン王(悪魔の時代) → ヨシヤ王(世の光の時代) → エホアハズ王・エホヤキム王(滅亡前夜の時代) → エホヤキン王・ゼデキヤ王(滅亡の時代)

 上記のうち、今回はヒゼキヤ王、マナセ王・アモン王、ヨシヤ王の時代について説明する。ヒゼキヤ王とヨシヤ王の時代が「世の光の時代」で、その間にサンドイッチされているのがマナセ王・アモン王の時代が「悪魔の時代」だ。

 詩篇119篇の詩人が賛美しているように、律法は「道の光」だ。

詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

 ヒゼキヤ王とヨシヤ王は律法を守った善い王だった。ヨハネの福音書のイエスは、この二つの善い時代のことを【世の光】を使って次のように表した。

ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

ヨハネ9:5 「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 そして、二つの【世の光】の時代の間にサンドイッチされている「悪魔の時代」について、イエスは【悪魔】ということばを使って、次のように語っている。

ヨハネ8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 これらの時代のヒゼキヤ王、マナセ王、アモン王、ヨシヤ王について、列王記第二はそれぞれ次のように記している。

【ヒゼキヤ王】
列王記第二18:3 彼(ヒゼキヤ)は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、の目にかなうことを行った。
5 彼はイスラエルの神、に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。
6 彼はに堅くつき従って離れることなく、がモーセに命じられた命令を守った。

【マナセ王】
列王記第二21:2 彼(マナセ)は、がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、の目に悪であることを行った。
16 マナセは、ユダに罪を犯させて、の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。

【アモン王】
列王記第二21:20 彼(アモン)はその父マナセが行ったように、の目に悪であることを行った。
21 彼は父の歩んだすべての道に歩み、父が仕えた偶像に仕え、それらを拝み、
22 彼の父祖の神、を捨てて、の道に歩もうとはしなかった。

【ヨシヤ王】
列王記第二22:2 彼(ヨシヤ)はの目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。

 ヒゼキヤ王とヨシヤ王は律法も守ったが、マナセ王とアモン王は律法を守らなかった。このマナセ王・アモン王の時代に律法の書が紛失して、ヨシヤ王の時代に発見されるという出来事があった。このことをヨハネの福音書がどのように描いているかを、次回説明することにする。(つづく)
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ユダヤ教とキリスト教を融合して一つにしたヨハネの福音書

2023-04-10 07:05:48 | 平和への道
 ヨハネはなぜ「福音書のイエスのことば」と「旧約聖書の神のことば」を重ねて、

福音書のイエスのことば
旧約聖書の神のことば

という重なり構造を持つヨハネの福音書を書いたのだろうか?

 今回は予定を変更して、このことを考えてみたい(予定では「南王国の末路」について書くことにしていた)。

聖霊のメカニズムを説明する目的
 ヨハネが重なり構造を持つ福音書を書いた目的の一つとして考えられるのは、「聖霊のメカニズムを説明するため」というものだ。しかし、「聖霊のメカニズム」という考え方はあまりに現代的すぎるので、これが主目的ではないだろう。ただ折角なので、復習の意味で「聖霊のメカニズム」を改めて説明しておきたい。

 神の御子イエスは、地上生涯の約30年間以外は、父とともに天にいる。父と子は一つの存在だ。一つである父と子は天から地上の人へ聖霊を遣わす。旧約の時代には預言者たちに聖霊を遣わし、新約の時代にはイエスを信じる者に聖霊を遣わす。

 旧約聖書に記されている神のことばは、天の父のことばを御子イエスが聖霊を通して地上の預言者たちに伝えたものだ。預言者たちは、このイエスが伝えた父のことばを人々に口頭で語ったり、石板や巻き物に書き記したりした。

 そして、現代の僕たちもイエスを信じて聖霊を受けるなら、聖霊を通して様々な教えを天から受けることができて折々に助けていただける。このことをイエスは最後の晩餐で弟子たちに教えた。たとえばヨハネ14:26だ。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 父・子・聖霊のうち、聖霊は最も分かりづらい。それは21世紀の現代の僕たちだけでなく、1世紀の人々にとっても分かりづらかっただろう。ヨハネの福音書は、この「聖霊のメカニズム」を教えてくれている。ただし、上述したように、これが重層構造(重なり構造)を持つという特異な福音書が記された主目的ではないだろう。

ユダヤ教とキリスト教を一つに融合する目的
 十字架で死んだイエスは旧約聖書で預言されていたメシア(キリスト)であると使徒たちは宣べ伝え、この教えがパウロたちによって地中海沿岸一帯に広がって行ったことが、使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)に記されている。この教えをユダヤ人たちの大半は受け入れず、異端と見なしてキリスト者を迫害した。ただし、エルサレムの神殿がまだあった時には、同じ場に集って同じ神を礼拝することができていた。エルサレムの神殿がユダヤ教とキリスト教の分断を防いで、つなぎ留めていたのだ。

 しかし、紀元70年にローマ軍の攻撃によって神殿が炎上して焼失してしまった。そしてユダヤ教徒はキリスト教徒を会堂から追放して、両者が同じ場に集う機会が失われてしまった。ユダヤ教がヘブル語聖書(旧約聖書)の正典に入れるべき書の検討なども為されて(ヤムニア会議。但し、この会議については異論もあるようだ)、ヨハネの福音書が執筆されたと考えられている紀元90年は、分断が決定的になっていたと考えられる。

 ヨハネは、天の父とイエスが一つの存在であることを重なり構造の福音書を書くことで示したかったのではないだろうか。ヨハネの福音書は、ヘブル語聖書(旧約聖書)の神が実はイエス自身であることを、目に見える文字で表し、且つ見た目には気付きづらい重なり構造という二重の表現で、ヘブル語聖書の神と福音書のイエスとを一つに融合している。イエスはユダヤ人たちに言った。

ヨハネ8:58 「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 このように、ヨハネは目に見える文字でイエスと父とが一つであることを示した。そしてさらに、モーセ・エリヤ・エリシャ・ホセア・アモスらの中にイエスがいたことを、気付きづらい形の重なり構造で示した。この重なり構造が気付きづらいのは聖霊の恵みに与からなければ見えないようになっているからだ。聖霊のメカニズムを理解した者は、この特異な構造から溢れ出る素晴らしい恵みに与ることができる。

 イエスが神の子キリストであると信じる者には誰にでも聖霊が注がれる。それゆえ聖霊の恵みに与っている者は世界中にたくさんいる。それなのに、ヨハネの福音書の重なり構造がこれまで気付かれていないのは、この福音書がマタイ・マルコ・ルカと同じように地上生涯のイエスを描いた書であると思い込まれているからであろう。しかし、ヨハネの福音書とはイエスが天の父と一つの存在であることを示した書であり、ユダヤ教とキリスト教を融合して一つにした書であり、イエスが父と共に聖霊を天から地上に遣わす働きをしていることを描いた書だ。

分裂・分断ではなく一つに融合する方向が平和への道
 結局、ユダヤ教とキリスト教は完全に分断されてしまった。そして、キリスト教はさらに東方教会と西方教会に分裂した。西方教会はカトリックとプロテスタントに分裂し、プロテスタントは無数に分裂している。そして、カトリックとプロテスタントの間では凄惨な戦争が繰り返されて来た。東方教会においても、ロシア正教徒とウクライナ正教徒との間の戦争が現在進行中だ。ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ教徒とのことだが、いずれにしても、皆が同じ神を礼拝している者同士だ。この状況を天の父とイエスがどれほど悲しんでいることか。

 ヨハネの福音書がどのような書であるか(イエスが天の父と一つの存在であることを示した書であり、ユダヤ教とキリスト教を融合して一つにした書であり、イエスが父と共に聖霊を天から地上に遣わす働きをしていることを描いた書)、このことを多くの人々が理解するなら、平和への道がきっと真っ直ぐになって行くだろう。(つづく)

イザヤ40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
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イエスの南北移動と北王国・南王国の末路

2023-04-09 08:39:08 | 平和への道
 前回までに、ヨハネの福音書と旧約聖書の重なりの第2位は「イエス(ヨハネ6章)とエリシャ(列王記第二4章)」で、3番目は「イエス(ヨハネ4章)とエリヤ(列王記第一17章)」であることを説明した。

 この機会に、ヨハネ4章以降のイエスの南北移動が旧約聖書の列王記の北王国・南王国の記述と密接に連動していることを、指摘しておくことにする。

 ヨハネの福音書のイエスは、

北(4章)→南(5章)→北(6章)→南(7~10章)

というように、南北の移動を繰り返している。

 前回説明したように、ヨハネ4章のイエスは北王国の預言者エリヤの中にいる。ヨハネ6章のイエスもまた北王国にいて、預言者エリシャの中にいる。そして、その後は同じく北王国の預言者であるホセア・アモスの中にもいたであろう。

 ヨハネ5章のイエスは南のエルサレムにいるので、エリヤ~エリシャと同時代の南王国の預言者の中にいるのだろう。この時代の南王国にはエリヤ・エリシャ級の有名な預言者はいないので、敢えて特定の預言者の名を挙げる必要はないだろう。大切なことは、ヨハネ4~6章においては北王国と南王国が並存していたということだ。

 しかし、ヨハネ6章の終盤で北王国は滅亡してしまった。それゆえにヨハネ7章以降のイエスはずっと南にいる。北王国の滅亡をヨハネ6章は次の形で記している。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 これに相当する北王国滅亡に関する列王記第二の記事を2つ挙げておこう。

列王記第二17:23 は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

列王記第二18:9 ヒゼキヤ王の第四年、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、
10 三年後にこれを攻め取った。すなわち、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリアは攻め取られた。
11 アッシリアの王はイスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に定住させた。
12 これは、彼らが彼らの神、の御声に聞き従わず、その契約を破り、のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。

 つまり、ヨハネ6:66のイエスから離れ去った弟子たちとは、アッシリアに引かれて行った北王国の民のことである。これがイエスにとって、どれほどの悲しみであったかは、ホセアを通して知ることができるだろう。

ホセア11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 イエスは北王国の民をアッシリアに引き渡したくはなかった。しかし、彼らが神に背を向け続けたので、仕方なしに北王国を滅ぼした。イエスがどんなに悲しかったことか、第3版の訳で引用しよう。もう一度、66節から引用する。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(第3版)

 この67節のイエスのことばからは、北王国の民が永遠に失われたことへの痛切な嘆きの声が聖書のことばの奥深くから湧き上がって来ている。この奥深い所からの嘆き、そして悲しみは表面上の活字には見えていないので、4/2の礼拝説教で語った広島平和公園の土の下から湧き上がって来る悲しみと同じ性質のものだ。このような聖書の表面上の活字には見えていない奥深い所にある悲しみ・痛みは父・子・聖霊の恵みの豊かさに包まれることで感じることができるようになるであろう。

 以上がヨハネ6章に示されている北王国の末路だ。南王国の末路については、次回以降に書くことにしたい。(つづく)
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重なりから知る父・子・聖霊の恵みの豊かさ

2023-04-08 08:54:57 | 平和への道
 前回の「ヨハネの福音書と旧約聖書の重なりトップ1・2」では、重なりの明白度が第1位の箇所は「荒野で蛇を上げたモーセ」(ヨハネ3:14と民数記21:9)であることを説明した。

 また、第2位は「五千人を満腹にしたイエス」(ヨハネ6:8-13)と「百人を満腹にしたエリシャ」(列王記第二4:42-44)の重なりであることを説明した。

 今回は、この「イエスとエリシャの重なりが何を示すのか?」を考察する。今回の考察は父・子・聖霊の恵みの豊かさを知る上で極めて重要だ。この恵みの豊かさを知るなら、ヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは全く異なる書であることが分かるであろう。

 父・子・聖霊の恵みの豊かさを知ることは平和への道を歩むためには必須だ。父・子・聖霊の三位一体の神の恵みの豊かさの中に入れられることで初めて、時空を超えた父と子の愛、そして悲しみを、聖霊を通して知ることができるようになるからだ。

神のことばは、イエスのことば
 さて、「イエスとエリシャの重なりが何を示すのか?」のヒントは、プロローグの「ことば」にある。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

 イエスは初めに神と共にいて、すべてのものを造った。そのイエスが「ことば」であるとヨハネは書いた。このことは、創世記1章の

創世記1:3 「光、あれ。」
6 「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
26「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」

などの神のことばが、すべてイエスのことばであることを示唆している。

 これはイエス自身が、

ヨハネ8:58 「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

と言い、また

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

と言っているように、父と子が一つであることと整合している。それゆえ、創世記1章の「光、あれ」や「さあ、人を…造ろう」などの神のことばは、すべてイエスのことばなのだ。そして創世記2章以降の神のことばも、すべてイエスのことばである。

預言者たちのことばは、イエスのことば
 上記の「神のことばは、イエスのことば」を踏まえるなら、預言者たちが人々に語った「神のことば」は、すべてイエスのことばである。

 そして、ヨハネの福音書はさらにもう一歩踏み込んで、預言者たちの普段のことばも、すべてイエスのことばであるとしている。それが、「イエスとエリシャの重なり」が示唆していることだ。預言者たちは聖霊を受けているので、彼らの内には聖霊が住んでいる。それはつまり、預言者たちの内にはイエスが住んでいるということだ。

 ここで、三番目の重なりの箇所として、「イエスとエリヤの重なり」を示す。ヨハネ4章でイエスはサマリアの女に水を所望した。

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 この箇所は、エリヤがツァレファテのやもめに水を所望した列王記第一17章の場面と重なる。

列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 この時、イエスは疲れていた(ヨハネ4:6)。この疲れは、イスラエルの王国が南北に分裂して北王国が不信仰の道を歩んでいることへの失望から来ていることを感じる。特にエリヤの時代のアハブ王の不信仰は深刻であった。それゆえイエスの疲労度も大きかったであろう。このように旧約の時代にいて人々の不信仰を悲しんで疲れているイエスを感じるなら、読者もまた時空を超えた父・子・聖霊の恵みの豊かさの中に入れられていると言って良いだろう。

僕たちの内にもいるイエス
 エリシャとエリヤは聖霊を受けていたから、彼らの内にはイエスがいた。そして、新約の時代には、イエスを信じる者には誰にでも聖霊が注がれるようになった。それゆえ、イエスを信じて聖霊を受けた僕たちの内にもイエスがいて、聖霊を通して父と子の交わりの中に入れられている。ヨハネはこの交わりに加わるようにと読者を招いている。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 この父と子の交わりの恵みの豊かさの中にどっぷりと浸かるなら、ヨハネの福音書がとてつもなくスケールが大きい、人知を遥かに超えた書であることが分かるようになるだろう。そうして、ヨハネの福音書を通して人知を超えた神の壮大な愛の中に入れられるなら、マタイ・マルコ・ルカの福音書からも、これまで以上に多くの恵みを受け取ることができるようになるだろう。

 多くの人々が父・子・聖霊の恵みの豊かさの中に入れられて、平和への道を歩み始めることができるようになることを願い、次回以降さらに、ヨハネの福音書と旧約聖書との重なりの箇所を紹介して行くことにしたい。(つづく)
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ヨハネの福音書と旧約聖書の重なりトップ1・2

2023-04-07 07:28:23 | 平和への道
 前回の「ヨハネの福音書の重層構造を発見した日」に書いたように、イスラエルの民と僕自身への天の父の愛の大きさを知ったことで、ふとヨハネの福音書12章の天の父のことば、

ヨハネ12:28 「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」(第3版)

の「わたしは栄光をすでに現した」とは、旧約の時代のことではないかと思った。

 だとすれば、ヨハネの福音書には旧約の時代のことがもっと多く隠されている可能性がある。もしかしたら、ヨハネの福音書は重層構造を持つ極めて興味深い書ではないか、そのように思い、旧約聖書との重なりを徹底的に調べてみることにした。そして検証の結果、多くの部分に重なりがあることが分かった。しかも、それらは旧約聖書の出来事の時代順にきちんと並んでいるのだ。

 きょうは、ヨハネの福音書と旧約聖書の重なりが顕著に見られるトップ1と2を紹介する。第1位は誰が見ても重なっていることがハッキリと分かる箇所だ。第2位もかなり濃厚に重なりが現れている箇所だから、やはり誰でも分かるだろう。

第1位
 荒野で蛇を上げたモーセ


 イエスはヨハネ3章で、モーセが荒野で蛇を上げたことに言及した。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

 「モーセが荒野で蛇を上げた」ことは旧約聖書の民数記21章に記されている。

民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 ヨハネ3:14と民数記21:9が重なっていることは誰が見ても明らかであり、疑いようがない。ただし、この一箇所だけではヨハネの福音書が旧約聖書と重なっているとは言えない。そこで、次の第2位以降を見て行くことにしよう。重なりの箇所が多ければ多いほど、ヨハネの福音書が旧約聖書と重なっていることが、より明白になって行く。

第2位
 大麦のパン20個と新穀1袋で百人を満腹にしたエリシャ


 イエスはヨハネ6章で大麦のパン5つと魚2匹で五千人を満腹にした。

ヨハネ6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。

 ここで注目すべきは「大麦のパン」だ。「五千人の給食」の奇跡は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書すべてが記している。しかし、パンを「大麦のパン」と記しているのはヨハネだけだ。ヨハネは明らかに、旧約の時代の預言者エリシャが大麦のパン20個と新穀の袋1つで百人を満腹にした出来事と重ねている。列王記第二4章だ。

列王記第二4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。のことばのとおりであった。

 以上の「五千人を満腹にしたイエス」と「百人を満腹にしたエリシャ」との重なりが何を意味するかについては、次の回で考察することにしたい。(つづく)
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ヨハネの福音書の重層構造を発見した日

2023-04-06 04:33:51 | 平和への道
 2011年6月17日(金)の朝6時頃、神学生だった僕は実習先の姫路教会の会堂で、日課の祈りと聖書通読の時を持っていた。この日の通読の箇所は旧約聖書のレビ記1章だった(当時は新改訳第3版だったので、第3版で引用する)。

レビ記1:1 はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたがにささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼がの前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。
4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
5 その若い牛は、の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。
6 また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。
7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。

 5節「注ぎかけなさい」、6節「切り分けなさい」、7節「整えなさい」。この「~なさい」という表現が連続して現れる箇所を読んでいる時、天の父の大きな愛を感じて涙が溢れ出て来た。天の父は信仰が幼いイスラエルの民に愛情をもって律法を授けていたと分かったのだ。それまでの僕は律法のことを人を縛る規則のように感じていた。しかし、律法とは愛であり、イスラエルの民が神から離れて行かないように律法によって守ろうとしていたのだ。この、天の父のイスラエルの民への大きな愛、そして僕自身にも注がれている大きな愛のことにそれまで気付いていなかったことを申し訳なく思い、涙が止まらなくなった。

 この天の父のイスラエルの民への大きな愛を感じたことで、ふとヨハネの福音書12章の天の父のことば、

ヨハネ12:28 「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」(第3版)

の「わたしは栄光をすでに現した」とは、旧約の時代のことではないかと思った。それまでの僕は【すでに現した栄光】とは、水をぶどう酒にした奇跡(ヨハネ2章)のような、ヨハネの福音書に書かれていることの範囲内であろうと考えていた。僕が使っていた注解書もそのように解説していた。しかし、実はヨハネ12:28の「わたしは栄光をすでに現した」とは旧約の時代のことではないか、ふとそのように思った。

 もし「わたしは栄光をすでに現した」(ヨハネ12:28)が旧約の時代のことであるなら、ヨハネの福音書には、旧約の時代のことがもっと多く隠されているのではないか、もしかしたら重層構造を持つ極めて興味深い書ではないか、そのように思った。そこで、ヨハネの福音書と旧約聖書との重なりを徹底的に調べてみることにした。(つづく)
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平和への道はヨハネの福音書のイエスが導く

2023-04-05 08:51:20 | 平和への道
 昨日、中立国だったフィンランドがNATOに加盟したことが報じられていた。これで、ロシアと西側諸国との間の溝はますます深まった。ベルリンの壁が崩壊した当時は、世界が一つになるという期待感があったと思うが、あれから30年以上が経った今は、当時よりもさらに分断が進んだ感がある。

 旧約聖書は、終わりの日にすべての国々がエルサレムに流れ来る様子を記していて(イザヤ2:2、ミカ4:2など)、世界は一つになることを預言している。

イザヤ2:2 終わりの日に、の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。

 新約聖書のヨハネの黙示録もまた、終わりの日の光景を次のように記して、天も地も一つになることを預言している。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 4節に「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」とあるが、今の世界は、これとは真逆の方向に向かっていることをウクライナの悲劇は顕著に示している。

 この状況を天のイエス・キリストがどんなに悲しんでいるかを、4月2日の礼拝説教、「パウロと共に神様の側から人間の側へ」で語った。この説教では引用しなかったが、イエスは皆が一つになるようにという天の父への祈りで最後の晩餐を締めくくっている。

ヨハネ17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 21世紀の今、世界が一つになる兆しは全く見られない。しかし、イエスがこのように祈っているのだから、世界は一つになる方向に必ず向かって行く。そうなっていないのは、ヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の書として読まれているかではないか。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上生涯のイエスが主役であるが、ヨハネの福音書の主役は天の父と天の御子イエスだ。そのことを本ブログで繰り返し解き明かして来たが、残念ながら、ほとんど伝わっていない。

 それゆえ、本ブログではヨハネの福音書がどのような書であるかを、明日以降、できる限りの頻度で伝えて行くことにしたい。ヨハネの福音書がどのような書であるかが多くの方々に広まるなら、世界は一つになる方向に必ず向かって行く。イエスの天の父への祈りは、必ず成就することになっているのだから。(つづく)
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