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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

十字架は河口の汽水域(2019.3.24 礼拝)

2019-03-27 07:50:49 | 礼拝メッセージ
2019年3月24日礼拝メッセージ
『十字架は河口の汽水域』
【ヨハネ12:37~41】

はじめに
 私たちが、この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと二回となりました。先週のメッセージでは罪をテーマにして、中心聖句はヨハネ8:7 の「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」でした。イエスさまはパリサイ人たちに対して、もし自分に罪がないと思うなら、姦淫の罪を犯した女に石を投げなさいと言いました。この言葉を聞いた人々は、一人また一人とそこを去って行き、イエスさまと女だけがそこに残りました。つまり、人は誰もが罪人であるということです。
 人は誰もが罪人です。神様の目から見て、正しい者など一人もいません。従って、本来であれば神の国に入ることができる者など一人もいません。罪人のままでは神の国に入れないからです。神の国に入れない者は滅びるしかありません。しかし、世の人々を愛している神様は、イエスさまを十字架に送ることで私たちの罪を赦して神の国に入ることができるようにして下さいました。ヨハネ3:16が書いている通りです(週報p.3)。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 私たちは誰でも「イエスは神の子キリストである」と信じるなら聖霊が与えられて永遠の命を得て、神の国に入ることができます。

分かりにくいキリスト教の教え

 ただし、このキリスト教の教えは、21世紀の現代人にとっては非常に分かりにくいものです。特にキリスト教とは何の関係もなく子供時代を過ごして大人になった者には、極めて理解しづらいものです。きょう私が犯した罪を、明日イエスさまが十字架に掛かることで赦されるなら、話は分かります。しかし、きょう私が犯した罪が、なぜ2000年前の十字架で赦されるのでしょうか。もし、罪の問題が2000年前に解決していたなら、以降の世界はもっと平和になっていたはずです。ですから十字架以降の罪の問題は十字架では解決できていないのではないかという疑問が湧きます。これは当然の疑問であり、おかしな疑問ではありません。なぜなら、そもそも十字架は時間順で考えるなら、イエスさまが十字架に掛かる前に人々が犯した罪を赦すためだからです。それは、きょうの聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書53章を見れば分かると思います。イザヤの時代は旧約の時代ですから、当然のことながらイエスさまの十字架よりも前の時代です。イザヤ書53章の5節と6節をお読みします(週報p.3)。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 ここで「彼」とはイエスさまのことですね。そして「私たち」というのは旧約の時代の人々です。旧約の時代の人々はほとんどの場合、神様に背いていました。その背きの罪のためにイエスさまは十字架に掛かりました。そして、それによって人々に平安がもたらされました。
 きょうの聖書箇所のヨハネ12章は、このイザヤ書53章を引用しています。ヨハネ12章の37節と38節を交代で読みましょう。

12:37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

 38節の、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」というのはイザヤ書53章1節の引用ですね。イエスさまの時代の人々も神様から背いていて、イエスさまを信じようとしませんでした。
 イエスさまの十字架は、まず第一にはイエスさまが十字架に掛かる「前に」人々が犯した罪を赦すためのものです。しかし、父・子・聖霊の三位一体の神は永遠の中にいますから、イエスさまの十字架よりも「後に」生まれた21世紀の私たちの罪もまた赦されます。イザヤ書53章5節の「私たち」には、21世紀の私たちも含まれます。

十字架を河口の汽水域に例える
 このような分かりにくいキリスト教の教えを、どのように語れば、もっと分かりやすくなるでしょうか。このことに思いを巡らしていたところ、今回、タイトルに記したように十字架を川の汽水域に例えたらどうかと思いましたから、これからその説明をします。
 
 川の汽水域とは川の河口付近で海水と真水とが交じり合っている場所です。この海水と真水が交じり合う汽水域は、多くの生物が生息する豊かな場所です。汽水域の生物で有名なのはシジミ貝ですね。ヤドカリやカニ、ゴカイなどもたくさんいます。また、これらの生物を食料とする鳥たちも、この汽水域に集まってお腹を満たします。特に長い距離を旅するシギやチドリなどの旅鳥は、川の河口付近にしばらく留まって羽を休めると同時に食糧補給をたっぷりと行います。汽水域は旅をする鳥たちにとっては、飛行機が羽を休めて燃料を補給する空港のようなものとも言えるかもしれません。空港では様々な国籍の人々が行き交い、人間が食事をするフードコートやレストランなどが充実している点とも似ていると言えるかもしれませんね。
 この恵み豊かな汽水域を十字架と考えて、そこに向かって流れる川は旧約の時代であると例えてみたいと思います。川の源流にはアダムとエバの時代があります。そして川を上流・中流・下流の三つの区域に分けるとしたら、マタイの福音書の冒頭にある系図に習って、上流はアブラハムの時代からダビデの時代まで、中流はダビデの時代からバビロン捕囚の時代まで、そして下流はバビロン捕囚の時代からイエス・キリストの時代までということになるでしょうか。
 汽水域一帯は十字架の出来事があったイエス・キリストの時代であり、川が流れ込む海は十字架以降の新約の時代です。新約の時代の私たちは、この海の方にいます。さてしかし、海は満潮になると海水が川を逆流して川の河口部に入り込み、それゆえに汽水域ができます。海にいる新約の時代の私たちの罪がイエスさまの十字架によって赦され、またその十字架の出来事を身近に感じることができるのは、この汽水域への逆流があるからです。

平安を得ていたマリア、得ていなかったマルタ
 旧約の時代には川の流れのような時間の流れがありますが、海には流れがありません。海にも黒潮や親潮のような海流がありますが、それは風によって引き起こされるそうですから、海の深さに比べれば浅い部分だけの水の動きです。海の深い部分、すなわち深海では水の動きはほとんど止まっています。この深海部の海水のように時間が止まっている時、私たちは心の深い平安を得ることができます。
 この教会の礼拝メッセージでは既に何度も開いた箇所ですが、礼拝メッセージもあと残り2回ですから、過去に何度も開いた箇所でも、どんどん開きたいと思います。ルカの福音書10章の38節から42節までを交代で読みましょう(新約聖書p.136)。マルタとマリアの箇所です。

10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 ここで姉のマルタはイエスさまのもてなしの準備のために時間に追われていました。つまり川と海に例えるならマルタは川で、時間の流れに囚われ、時間の奴隷になっていました。一方のマリアは深い海の中にいて、時間の流れからは自由になっていましたから、心の深い平安を得ていました。私たちも、そのように時間の流れから自由になって、心の深い平安を得たいと思います。
 時間に追われていて心に平安がなかったマルタに対してイエスさまは言いました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

深い平安が得られる御父と御子との交わり
 一方、深い海のような心の深い平安を得ていたマリアは、御父と御子イエス・キリストとの交わりの中にいました。これも、何度も何度も開いた箇所ですが、もう一度開きたいと思います。ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.478)。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 聖霊を受けた私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。私たちは父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じることで、心の深い平安を得られます。イエスさまだけ、御父だけ、聖霊だけを感じるのであっても、それなりの平安を得ることができますが、父・子・聖霊の三位一体の神との交わりを感じるなら、もっともっと分厚く安定した心の平安を得ることができます。深海にある海水のように心が動かされることなく平安でいられます。傲慢と思われるかもしれませんが、私自身はかなりこの平安を獲得していると感じています。ですから、是非多くの方々と、この心の深い平安を共有したいと願っています。

行き巡る旧約と新約の時代

 ここでもう一度、川と海との関係について考えてみたいと思います。海には川の水が流れ込んでいますから、新約の時代の深い海にも旧約の時代の川の水が流れ込んでいます。河口の汽水域の水も流れ込んでいます。私たちは聖霊の時代を生きていますが、旧約の時代の川の水とイエスさまの時代の汽水域の水も流れ込んでいる海の中にいますから、私たちの交わりは御父また御子イエス・キリストとの交わりです。そして、海の水は蒸発して水蒸気になり、雲を作り、その雲は風によって陸地の山に運ばれます。雲は山の斜面にぶつかると上昇して温度が下がり、水滴となって山に雨を降らせます。その山に降った雨水が山の地面深くに吸い込まれ、そうして水が再び地表にしみ出した場所が源流となって川の流れが作られます。
 つまり川の水は海の水が元になっています。そういうわけで、旧約聖書の中にも新約の時代のイエスさまがあちこちに顔を出しています。その典型が、出エジプト記に記されている過越の羊ですね。きょうは、聖書をあちこち開いて申し訳ないのですが、最後の礼拝の一つ手前の礼拝ということで、ご容赦願いたく思います。出エジプト記の12章21節から24節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.119)。

12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
12:22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
12:23 【主】はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、【主】はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。

 旧約のモーセの時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。そのイスラエルの民を神様は救い出して下さいました。その時に犠牲になったのが過越の羊です。22節にあるように、羊の血を家の鴨居と門柱に塗ることで、イスラエルの民は滅びから免れました。
 ですからバプテスマのヨハネはイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのですね。最後に、ヨハネの福音書1章の29節と30節を交代で読みましょう。

1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

 バプテスマのヨハネは、イエスさまが自分より先にいたと言っていました。その通りですね。イエスさまは旧約の時代からおられました。そうして天の父と共に聖霊を通してモーセやイザヤなどの預言者たちに神のことばを伝えていました。その旧約の時代の川の水が海に注ぎ込んで新約の時代になります。その新約の時代の海の水が蒸発して、また旧約の時代に運ばれて行きます。

おわりに
 神様の時間は私たち人間の時間とは異なります。神様の時間に思いを巡らしてみることは、人間社会の中で翻弄されがちな私たちの心を、その渦中から救い出す働きがあります。是非、神様の大きなスケールの時間にも思いを巡らしてみることを、お勧めしたいと思います。
 きょうのメッセージをまとめると、きょうは大きく三つのことを話しました。
 ①2000年前の十字架によって私たちの罪が赦されるのは、十字架が汽水域にあるからで、海水側にいる新約の時代の私たちも満潮時には川の河口部に逆流して汽水域に入るからであること、
 ②川の流れの中にある旧約の時代と違って、新約の時代の私たちは深い海の中にいるので、心が乱されることなく深い平安が得られること、
 ③神様の時間は、人間の私たちの時間とは異なる中にあり、旧約と新約の時代、新約と旧約の時代の間を行き巡っています。そのようなスケールの大きな神様の時間を思い巡らすことによっても、人間社会の中で翻弄されがちな私たちは、その渦中から救い出される、
以上の三点を話しました。
 このように旧約の時代と新約の時代の全体を見渡すことで、私たちは心の深い平安を得ることができるようになります。このような大きなスケールでの思い巡らしをすることも、ぜひお勧めしたいと思います。
 お祈りいたします。
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神様はどんな罪を悲しむか(2019.3.17 礼拝)

2019-03-18 09:53:24 | 礼拝メッセージ
2019年3月17日礼拝メッセージ
『神様はどんな罪を悲しむか』
【ヨハネ8:1~11】

はじめに
 この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと3回となりました。その大切な3回の中の1回を使って、きょうは「罪」について語るように示されました。考えてみると、私はこれまでの礼拝説教や祈り会の説教の中で「罪」そのものをテーマにした説教はほとんどして来なかったような気がします。もちろん、「罪」については色々な機会に触れて来ました。しかし、それは「罪」がメインテーマではなくて、他のことがテーマの時に補足する形で罪について触れていた場合がほとんどであったような気がします。

逮捕者が出ると作品がお蔵入りになることへの疑問
 罪について皆さんとご一緒に考えてみたいと思わされたきっかけは、数日前に逮捕されたピエール瀧さんが出演した映画やドラマの作品が軒並みお蔵入りになってしまったからです。私はこのことを大変に憂慮しています。朝ドラで人気があった「あまちゃん」も、津波被害で不通になっていた三陸鉄道の全線開通に合わせて総集編の前編と後編が放送されることになっていましたが、何と前編だけが放送されることになって後編は放送されないことになってしまいました。後編にはピエール瀧さんが重要な役割で出演しているからなのでしょう。「あまちゃん」は前編と後編とで一つの作品なのに、ピエール瀧さんが出演していない前編だけを放送するというところに何とも言えない気持ちの悪さを感じます。
 この種の、逮捕者が出た作品がお蔵入りになることについては、私は約10年前に大変に苦く悲しい思いをしたことがあります。12年ほど前、私は酒井法子さん主演の『審理』という映画にエキストラで出演したことがありました。この映画は最高裁判所が企画・制作した裁判員制度をPRするための広報映画でした。酒井法子さんは裁判員に指名された主婦の役を演じていて、戸惑いながらも裁判員として裁判に参加して役割を果たし終えるまでを描いたフィクションです。映画では裁判官のアドバイスを受けながら複数の裁判員が議論する様子も描かれていて、この映画を観ることで裁判員制度について学べるようになっていて、裁判所では、この映画のDVDを無料で配布していました。しかし、10年前に酒井法子さんが覚醒剤使用の罪で逮捕されたことにより、DVDは回収されてお蔵入りになってしまいました。
 この映画を撮った原田昌樹監督は、この作品を完成させた後で癌のために亡くなりました。つまり、この『審理』という映画は原田昌樹監督の遺作でした。原田監督は癌に侵されていながら、そのことを周囲に隠してこの作品の完成のために全身全霊を傾けて、そうして完成後に間もなくして亡くなりました。それほどの渾身の作品なのに、酒井法子さんが逮捕されたことで、この作品のDVDはお蔵入りになってしまいましたから、私はとてもやり切れない気持ちになりました。ただ、この作品は酒井法子さんが主演でしたし、裁判員制度のPR映画という性質上から仕方がない面もあったかもしれません。
 しかし、今回お蔵入りになったピエール瀧さん出演の作品群は、ピエールさんが脇役のものばかりですし、官公庁によるPR映画でもありません。多くの人々の汗と涙で出来上がった作品を、脇役の一人の罪のために無にするようなことがあって良いものでしょうか?私はそのことの罪の方がよほど大きいのではないかと感じます。

人は誰もが罪人である
 私には理解不能ですが、逮捕者が出演した作品がお蔵入りになる理由の一つに、「犯罪者が出演していることで、それを観た人が不快に感じるから」というのがあるのだそうです。であるなら、不快に感じる人が観なければ良いだけの話です。そういう意見がSNS上で多く見られます。私もそう思います。ただし今日は視点を変えて、「犯罪者が出演している作品を観ると不快になる」という指摘には、人は誰もが罪人であるという意識の欠如が見え隠れしているように感じますから、そこをもう少し掘り下げてみたいと思います。
 その足掛かりとして、まず今日の聖書箇所を、ご一緒に読みたいと思います。有名な箇所ですから、ほとんどの皆さんの頭の中に入っていることと思いますが、改めて交代で読みたいと思います。

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 下の7章53節の脚注にあるように、この部分は古い写本には含まれていないということなので、私はヨハネの福音書を読む時、ここを飛ばして読むことが多いのですが、今回改めてこの箇所を読んでみて、この姦淫の女に石を投げずに去って行ったパリサイ人たちは偉かったなあ(褒め過ぎかもしれませんが)という感想を持ちました。現代の日本にいるような罪人を叩く人たちであれば、ここを去らずにいて女に石を投げたのではないか、そんな風に思うからです。少なくとも、この場にいた律法学者やパリサイ人たちは自分の中にある罪を自覚していました。作家の三浦綾子さんは『光あるうちに』の中で、「罪を罪と思わないことが最大の罪なのだ」と書いています。私もそう思います。自分の中にある罪に気付かず、人を罪人扱いすることは、とても大きな罪だと思います。

罪が赦されている私たち
 では仮に逮捕された俳優が出演している作品がお蔵入りにならずに放送されたなら、(私はそうなることを望みますが)、私たちは心の中でどう思ったら良いでしょうか。私なら、こう思うだろうと思います。「罪の種類は違っても、私も同じ罪人なのだから、その罪が赦されていることを感謝しよう。」
 私たちは罪人ですが、その罪はイエスさまの十字架によって赦されています。その赦されていることを忘れて人の罪を断罪することは、一万タラントの負債を免除してもらった家来がしたことと同じです。今度は以前にも開いたことがあるマタイの福音書18章の21節から35節までを少し長いですが交代で読みましょう。一万タラントの負債は、とても大きな負債です。王はその負債を免除しました。それは私たちが神様に背いていた大きな罪を赦していただいたのと同じことです。そのように大きな罪を赦していただいているのにも関わらず他人の罪を赦さないとしたら、それはさらに大きな莫大な罪と言えます。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 自分が罪人であり、自分が罪赦されている存在であることを覚えておくことは、とても大切なことです。そうでなければ今読んだ32節のように、「悪い家来だ」ということになってしまいます。

証し ~韓国人への差別意識を持っていた私
 人は、自分が育った環境によって、気付かないうちに罪人になっていて、自分でそのことに気付いていないことがあります。例えば差別の問題です。私が生まれ育った静岡市では、私の子供の頃には大人たちが普通に韓国人・朝鮮人を差別していました。そのことを思い出す出来事が最近ありましたから、次に証をさせていただきます。これから読むのは、最近私がFacebookに投稿した記事です。それを引用します。

(ここから引用)
 きのうJR清水駅前の清水マリナートで開催された映画『チルソクの夏』のチャリティー上映会と佐々部清監督のトークショー(主催:清水法人会)に参加して来ました。この映画は2003年に下関で先行上映された後、2004年に全国公開されました。2004年の春に新宿でこの映画を観て心をグサッと刺された私は上映最終日にもう一度新宿の映画館を訪れて、その時に野球帽をかぶった方が観客席の最後列にいるのを見て監督さんだと直感したので、声を掛けてパンフレットにサインをしていただきました。その後、自分の職場でこの映画の上映会と佐々部監督の講演会を企画・実施し、このことを通じて多くの映画ファンの仲間と知り合いになって交流が始まり、今に至っています。



 この映画は1977~1978年の下関と釜山が舞台で、両市の親善陸上競技大会で知り合った日韓の男女の高校生の交流を描いた純愛物語です。私が心を刺されたのは、ヒロインの下関の高校生の周囲の大人たちが韓国人・朝鮮人を差別している様子が自分の子供時代と重なったからでした。
 静岡の大人たちも普通に韓国人・朝鮮人を差別していました。その中で育った私はそれを特におかしいとは思わずにいて、差別意識が刷り込まれていました。そのことを示されたのが30代の後半に大学の留学生センターで働き始めてからでした。多くの留学生たちと接する中で自分の心の奥底には韓国人への差別意識があると気付き、何とかする必要を感じました。そんな時、当時所属していた日本野鳥の会が韓国バードウォッチング・ツアーを企画しているのを知って約1週間のツアーに参加しました。ツアーでは韓国南部の豊かな自然の中で野鳥観察や韓国料理を堪能するとともに地元の韓国人の方々とも交流することができました。そして、このツアーによって自分の中に根強くあった韓国人への差別意識はきれいに無くなり、かつて自分が親の差別意識を無批判に受け入れていたことを深く恥じ入りました。1999年頃の出来事です。
 そんなことがありましたから、映画『チルソクの夏』を初めて観た時、ヒロインの高校生が韓国人を差別する親に激しく反発するシーンに私は衝撃を受けました。自分は親たちの差別意識を当然のように受け継いでいたのに、このヒロインたちは違いました。自分の心の中に気付かないうちに存在する汚れについて、映画の高校生たちを通して改めて考える良い機会となりました。私にとって『チルソクの夏』はそういう大切な映画ですから、初めて観てから15年が経った今でも、少しも色褪せることがありません。
(引用おわり)

 自分とは違う環境で生まれ育った人々に根拠のない差別意識を持つ罪は、神様が最も悲しむではないかと思います。つい最近も白人至上主義者がニュージーランドのモスクで銃を乱射して多くの方々が亡くなるという痛ましい事件がありました。この事件があった町の名がクライストチャーチ(キリスト教会)という名であったことをイエスさまは本当に悲しんでおられることと思います。
 私の場合は幸いにもイエスさまと出会う前に職場の留学生センターで留学生たちと接することを通して、差別意識を持つことの罪に気付くことができました。そうして韓国バードウォッチング・ツアーに参加することで、このことの罪から離れることができました。このことで、やがて韓国人によって教会に導かれることになりましたから、イエスさまが導いていて下さったのだろうと思います。罪にどっぷりと浸かっている間はイエスさまが、そのことを悲しんでいることには気付くことができません。罪に気付くこととイエスさまの存在に気付くことは同じことと言えるのかもしれませんね。

他の人々を見下す罪は大きい
 ルカの福音書には、この差別の罪にどっぷりと浸かっているパリサイ人が登場しますね。次にルカ18章9節から14節を交代で読みましょう。

ルカ 18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

 どのような人たちにイエスさまは、この例え話をしたのか9節に書いてあります。それは「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」でした。これらの人々は、11節にあるようにこれらの人々心の中では自分が「奪い取る者、不正な者、姦淫する者」でないと思い込んでいました。このように自分の罪深さに気付かない人々が多くいることをイエスさまは悲しんでおられます。

おわりに
 最後にもう一度ピエール瀧さんが逮捕された事件に戻りたいと思います。犯罪者が出演している作品群はお蔵入りにすべきと考える人々からは、どこかこのパリサイ人たちが犯している罪の臭いが漂ってくるように感じます。
 ニュージーランドのクライストチャーチの事件、ピエール瀧さん出演の作品群をお蔵入りにした件など、世界も日本も神様からどんどん離れて行っているように感じます。神様はこのことをとても悲しんでおられることと思います。この神様の悲しみを感じることは信仰において、とても大切なことです。ですから来週も引き続き、神様が悲しむ罪について共に考えてみたいと思います。
 最後にヨハネ8章の7節から9節までを交代で読んで終わることにします。この現場を去って行ったパリサイ人たちは自分の中の罪を自覚することができましたから、少しホッとするのを感じます。

8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

 お祈りいたしましょう。
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真の礼拝とは何かを思い巡らす(2019.3.10 礼拝)

2019-03-11 09:34:55 | 礼拝メッセージ
2019年3月10日礼拝メッセージ
『真の礼拝とは何かを思い巡らす』
【Ⅰヨハネ4:13、ヨハネ7:37~39】

はじめに
 先週は月曜の午後から火曜の午前まで教団の若手牧師研修会が、火曜の午後から木曜の午前まで年会がありましたから、私は埼玉県のヌエックに車で行って来ました。行きも帰りも雨に降られながらの高速道路の走行となってしまいましたが、守られましたから感謝でした。皆さんのお祈りに感謝いたします。
 年会1日目の火曜日の晩には聖会Ⅰがあり、講師の先生が「真の礼拝を取り戻そう」というタイトルでメッセージを取り次いで下さいました。開かれた聖書箇所はイザヤ書6章の1節から8節までで、それに合わせて今日の聖書交読でも同じ箇所を交代で読みました。
 先生はご自身のこれまでの牧師人生を振り返り、礼拝を毎年50回、10年で500回、30年で1500回も捧げているうちに、いつの間にか真の礼拝から離れてしまっているのではないかと感じている、と話しておられました。決して他の牧師のことを言っているのではなく、自分自身のことであると言っておられました。しかし、多くの牧師がそれぞれに「自分も同じである」と講師の先生の話を聞いて示されましたから、メッセージの後で恵みの座が開かれた時には多くの牧師が続々と前方の恵みの座へと出て行きました。私もその一人です。
 イザヤ書6章でイザヤは主に出会い、主の臨在に触れました。それは圧倒されるほどの強烈な臨在感でした。もちろん、このような圧倒的な臨在感を普段の礼拝で毎週毎週感じるというわけには行かないでしょう。しかし、そこまでは行かなくても毎週の礼拝で私たちはほんの少しでも主とお会いすることができているでしょうか。主との出会いが少しもない礼拝を惰性で重ねてしまっていることはないでしょうか。それが先生の問い掛けでした。
 この聖会Ⅰが終わってから宿泊棟に戻り、私は同室になった先生たちといろいろなことを語り合いました。そして、その日の聖会メッセージについても話すことができました。年会ではBTCの卒業年が比較的近い牧師同士が同室になるように部屋割りが決められます。私たちの部屋は3人が泊まり、いろいろと語り合うことができましたから感謝でした。

真の礼拝を思い巡らす
 さて、その同室の先生の中の一人が、こんな話をしました。「自分はこれまでの牧師経験の中で一度だけ、これこそが真の礼拝ではないかと言える礼拝を経験したことがある」ということでした。それがどんな礼拝だったか、後で話しますから、皆さんも是非その時の礼拝の情景を思い巡らしてみていただきたいと思います。
 3週間前のメッセージで私はスポーツでも映画でも、ある程度自分の頭で考えることで、それらをより深く味わえるようになると話しました。100%受け身でスポーツ観戦や映画鑑賞をするのではなく、スポーツ選手や映画監督が何を考えながら一つ一つのプレーをしたり撮影をしているのか、その意図を探るなら、単に受け身で見るよりも選手や監督にぐっと近づけた気がして、そのスポーツや映画をより深く味わうことができます。もちろん素人がいくら頭を使っても、低レベルのことしか考えられません。しかし、それでも良いと思います。少しでも考えてみるなら、より理解が深まります。
 スポーツや映画だけでなく数学や物理などの学問でも同じですね。学問と言わず小学校の算数や理科の勉強でも同じです。学校の算数や理科では教師が何かを教えたら、その後で必ず練習問題を解くことになっています。そうして自分の頭を使って練習問題を解くことで、そのことが初めて身に付きます。
 聖書も同じです。聖書を算数や理科の教科書だとすると思い巡らしは練習問題です。単に聖書を読むだけでなく、その箇所について自分なりに思いを巡らしてみることで初めて聖書を深く味わうことができるようになります。

雪の日の礼拝
 これから話すことも皆さんの一人一人が自分なりの情景を思い浮かべながら聴いてみていただけたらと思います。年会の宿泊棟で同室だった先生は、次のように話して下さいました。

 その日、その地方では前日から多くの雪が降りました。普段は雪が降らない地域ですから、礼拝に無理をして出ると危険ということで礼拝は行わないことにしました。そうして礼拝を中止することを教会員に連絡しました。
 さてしかし、礼拝の時間になって一人のクリスチャンが教会を訪ねて来たそうです。その方は別の教会の会員で、雪のために自分の教会まで行くことができないために、近くの教会に来ることにしたということでした。それで、先生はその方のために礼拝を行うことにしたそうです。出席者は三人。先生と先生の奥様、そしてその日教会を訪ねて来た方です。奏楽は普段はピアノが上手な方が担当していますが、その日はピアノがあまり得意ではない先生の奥様が急遽行うことにしたそうです。

 以上が、その日にあったことのあらましです。先生は、この時の礼拝が今までの中で一番礼拝らしい礼拝であったと話していました。そうして、ご自分で次のように解説を付け加えました。

 礼拝とは捧げるものだ。捧げ物は神様に捧げる。この日は本当に「神様に捧げている」と感じた。自分は普段の礼拝のメッセージの御用では会衆の反応を気にしながら話している。つまり余計なことを考えている。きょうのメッセージは良いと思ってもらえるか、それともつまらないと思われてしまうか、そんな余計なことをつい考えてしまう。それが、この日はメッセージを聞いているのが他の教会の会員が一人いるだけだったから反応を気にすることなく話すことができた。また、妻のピアノが下手で、それがまた良かった。いつもの奏楽者はピアノがとても上手いので、その上手さをひけらかす傾向がある。それゆえ神様の方を向いているのでなく人の方を向いている。しかしピアノが下手な妻は一生懸命にピアノを弾いていて、本当に神様に捧げているという感じだった。礼拝は神様に捧げるものだから、これこそが真の礼拝だという気がした。

 こんな風に話して下さいました。これを聞いて、私はとても良い話を聞いたと思いました。しかし、ここで終わってしまっては、単に良い話を聞いたというだけで終わってしまいます。大切なのは、その先です。たぶん、その先生も気づいていない深い真理がそこには隠されています。私も聞いた直後はそれが何かは見えていませんでした。ただ何となく直感的に、そこには深い真理が隠されているように感じました。

そこに深い真理が隠されているかもしれない
 ここから少し脱線します。今から話すことは、雪の日の礼拝の話とは直接の関係はありませんから、雪の日の礼拝のことは、いったん脇に置いておいて下さい。
 皆さんは、「セレンディピティ」という言葉をご存知でしょうか。セレンディピティは科学の世界でよく使われる言葉で、「幸運な偶然を手に入れる力」というような意味で用いられます。科学では偶然が大きな役割を果たすことがしばしばあります。例えばたまたま犯したミスが大きな発見につながることがあります。実験で使う薬品を間違えたら未知の現象が起きて、大発見につながったというようなことです。薬品を間違えてしまえば、その実験は失敗ですが、大発見があったという意味では失敗ではないでしょう。肝心なのは未知の現象を目にした時に、そこには深い真理が隠されているという直感が働くかどうかで、そういう人がセレンディピティがある人と言うことができるでしょう。
 私自身にセレンディピティがあるか無いかは分かりませんが、私は小さな直感がきっかけで大きなことにつながって行くということを、しばしば経験しています。例えば私が初めて高津教会を訪れた日、その日は藤本満先生による「ガラテヤ人への手紙」の連続講解説教の初日でしたが、律法主義について藤本先生が語った「人は信仰に熱心になればなるほど神様から離れて行くことがある」ということばに不思議な魅力を感じました。その頃の私は聖書のことをほとんど何も知りませんでしたから、律法主義についても知るはずがありません。しかし「信仰に熱心になればなるほど神様から離れることがある」という逆説には何か大切なことが隠されていると直感したのだと思います。それが大切であるという意識もなかったと思いますが、そこには自分が求めている深い世界があるかもしれないと直感したのだと思います。その直感が、後に牧師になることにつながりました。
 ヨハネの福音書について深く思いを巡らすようになったことにも、小さなきっかけがありました。それはBTCの1年生の時に受けたヨハネの福音書を学ぶ授業で、講師の先生がヨハネはマタイ・マルコ・ルカと違って2章という早い段階で「宮きよめ」を書いたが、これは大きな謎だと話していました。この時私は、このヨハネの福音書の謎の背後には今まで誰にも知られていない深い真理が隠されていると直感して、それ以降、いつもヨハネの福音書の謎について思いを巡らすようになりました。そうしてそれが、この福音書が三つの時代の重なりの三層構造を持つという発見につながりました。
 聖書の人物たちの中にも、小さなことがきっかけで大きなことへとつながって行った人たちがいますね。ルツ記のルツなどは、その代表でしょう。最初に落ち穂拾いをした畑がボアズの畑でなかったなら、ルツとボアズが結ばれることはありませんでした。ルツが落ち穂拾いに出掛けた時、ルツは無意識の中でこの畑が良さそうだと直感したのだろうと思います。そういう意味でルツ記とはセレンディピティの物語とも言えるかもしれません。

私たちの外側と内側にいる神様
 脱線が長くなったので、元に戻します。私は年会の宿で同室だった先生から聞いた雪の日の礼拝の話には深い真理が隠されていると直感的に思いました。その話を聞いたのが年会1日目の夜のことでしたから、2日目の明け方、朝早くに目を覚ました私は布団の中でこの雪の日の礼拝の情景について思いを巡らしました。どうして、この先生はこの時の礼拝を、これこそが礼拝ではないかと感じたのか、このことを思い巡らしていた時に示されたのが、第一ヨハネの4章13節です。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 私たちが神の内にとどまるということは、神が私たちの外側にいて下さって私たちを包み込むようにして守っていて下さるということです。神様は翼を広げて私たちを覆って、私たちを外敵から守って下さいます。また、神様が私たちの内にとどまっているということは、神様が内側から私たちに声を話し掛けて下さっているということです。神様が私たちの外側にいて翼で私たちを守って下さっている時、私たちは守られていることを感じます。しかし、神様の声までは聞くことができません。神様の声を聞くことができるのは神様が私たちの内側に入って下さった時です。
 外側にいて守って下さる神様、そして内側にいて話し掛けて下さる神様、この両方を同時に感じる時、私たちは圧倒的な神の臨在に触れることができるのではないでしょうか。どちらか一方でも神様を感じることはできます。しかし、外側にいる神様の臨在感と内側にいる神様の臨在感が外と内の両方からがっちりと連結して噛み合う時、神様は圧倒的に私たちに迫って来るのではないかと思います。イザヤ6章で神様は正にイザヤの外側と内側の両方にいました。
 そして雪の日の礼拝で真の礼拝を捧げたと感じた先生も、外と内の両方に神様がおられることを感じたのではないかと思うのです。BTCにいる時に私たちは、牧師とは祭司であると同時に預言者でもあると教わりました。祭司と預言者とでは向いている方向が違います。祭司は人々の代表として神様に向かって祈りの言葉を捧げます。一方、預言者は人々の方を向いて神様のことばを人々に伝えます。祭司は神様に私たちを守って下さいと祈りますから、神様は祭司の外側にいます。一方、預言者は自分の内にいる神様の声を聞いて、それを人々に伝えます。
 礼拝を捧げる時、牧師は祭司として祈りを捧げ、そしてまた預言者として神の言葉を取り次ぎます。しかし、会衆が多いとつい余計なことを考えてしまいますから、神様との一体感がなくなってしまいます。神様との一体感がないなら真の礼拝からは離れてしまうでしょう。雪の日の礼拝においては会衆がたった一人しかおらず、しかもそれが他の教会の会員であったことから人間的な余計な思いからは解放されて神様との一体感を感じたのではないか、年会の2日目の朝、私は布団の中で思いを巡らしながら、そんな風に感じました。

私たちの内から流れ出す聖霊
 このことに思い至った時、牧師が受ける恵みの大きさに改めて感謝しました。祭司そして預言者として神様と一体になれることはとても大きな恵みです。ただし、それだと礼拝の恵みを牧師だけがたくさん受け取り、会衆の皆さんが受ける恵みは牧師よりもずっと少ないことになってしまいます。それで良いわけがありません。牧師と会衆の両方が共にたくさんの恵みを受けてこそ、初めて真の礼拝を捧げたということになるでしょう。牧師だけが真の礼拝を捧げたと感じて会衆が感じなかったとしたら、それを真の礼拝と呼ぶことはできないでしょう。そんな風に思っている時に示されたのが、ヨハネ7:37~39です。交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 聖霊はクリスチャンの心の奥底に入って内から外へと流れ出ます。これは牧師も会衆も同じです。礼拝にはクリスチャンではない方も集い、またクリスチャンであっても、まだ聖霊に満たされる恵みを知らないクリスチャンも集います。これらのまだ恵みを十分に知らない方々に向けて会衆から聖霊が流れ出て行くなら、それが真の礼拝ではないでしょうか。もしクリスチャンの会衆が礼拝で神と出会わないなら聖霊が溢れ出ることはなく、まだ恵みを知らない方々に向かって聖霊が流れ出ることはないでしょう。
 恵みをまだ知らない方々に向けて牧師だけが神様を語るのではありません。教会に集う信徒の皆さんもまた内から外へ聖霊が溢れ出て行くことでまだ恵みを知らない方々に向けて神様の恵みを何となく感じさせる。そうして、恵みを知らない方々が来週もまた礼拝に出席してみよう、そう思わせる雰囲気が自然と醸し出されるのが真の礼拝ではないでしょうか。もっと言えば、たとえ新しい方が会堂の中にいなくても、そこで真の礼拝が捧げられているならば聖霊が会堂の外にも流れ出て行って、会堂の外にいる方々がこの教会に入ってみようかなと思わせる力がある、それが真の礼拝と言えるのかもしれません。
 私が初めて高津教会を訪れた日は、藤本満先生のガラテヤ書の講解説教の初日の日であったことはもう何度も証ししました。しかし、私が翌週以降も高津教会に通い続けたのは実は説教だけが要因ではなかったのだと思います。教会の皆さんと共に賛美歌を歌い、祈りに加わることに何となく心地良さを感じていたのだと思います。礼拝の雰囲気は牧師だけが作るのでなく、教会の会員全体が作るものです。それは信徒の皆さんのお一人お一人の内に入った聖霊が外側に流れ出ることで作られる雰囲気なのだろうと思います。私はそれを心地良く感じたのだと思います。なぜなら教会に通い始めてから初めての聖餐式の日に大きな疎外感と孤独を感じたからです。私が初めて高津教会を訪れたのが2001年の8月12日で、それから私は一度も礼拝を休まずに通い続けて10月の第一聖日に聖餐式がありました。聖餐式が何かを知らない私は礼拝でパンを食べ、ぶどう液を飲むことを知ってワクワクしながらその時を待ちました。しかし、洗礼を受けていない者はパンとぶどう液が与えられないと知って愕然としました。そうして、今まで私に親しく声を掛けて下さっていた方のことが急によそよそしく感じられました。今までの親しげな様子は何だったのかと思いました。それで、もう教会へ行くのは止めようとすら思いました。しかし神様の憐れみによって踏みとどまり、その孤独感が却って洗礼を受けたいという気持ちに切り替わりました。

おわりに
 きょうは、真の礼拝とは何かについて、思いを巡らして来ました。真の礼拝においては出席者は神様と出会い、神様の臨在に触れることができます。その臨在感は、自分の外側におられる神様と内側におられる神様の両方を同時に感じる時に、強く感じることができます。外と内のどちらか一方でも神様の臨在を感じることはできると思いますが、両方を感じるなら、より一層神様の臨在を強く感じることができます。そうして、会員一人一人の内に入った聖霊が外に向かって溢れ出し、流れ出して行くほどになる、それこそが真の礼拝ではないか、そこまで思いを巡らすことができましたから感謝に思います。
 是非、皆さんのお一人お一人がご自身でも、真の礼拝とは何かについて、思いを巡らす機会を持っていただけたらと思います。
 お祈りいたしましょう。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。
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約束の聖霊 聖書の時代へのタイムスリップ(2019.3.3 礼拝)

2019-03-03 15:47:19 | 礼拝メッセージ
2019年3月3日礼拝メッセージ
『約束の聖霊 聖書の時代へのタイムスリップ』
【ルカ24:49、Ⅰヨハネ1:1~4】

はじめに
 3月に入りました。これからの1ヶ月間は、私たちの教会にとって締めくくりの時期であると同時に、次の4月からの新しいスタートに備える1ヶ月間でもあります。
 私自身も、この教会の締めくくりがきっちりとできるように、できる限りのことをするつもりでいますが、それと同時に次の4月からの新しいスタートに備えるための1ヶ月間でもあると考えています。

聖書を広いところに連れ出したい
 1ヶ月前の2月3日の礼拝のメッセージで私は恩田陸の小説の『蜜蜂と遠雷』について短く話しました。この小説では才能豊かな若いピアニストたちが、ある地方都市で開催された国際ピアノコンクールで互いに競い合いつつ、同時に互いに豊かな友情を育んで行く姿が描かれています。また彼らを支える多くの人々やコンクールの審査員たちの心の動きも豊かに描かれていて、本屋大賞と直木賞とをダブル受賞したことでも話題になりました。この国際ピアノコンクールは浜松国際ピアノコンクールがモデルになっているということですから、NHKが昨年の11月の実際の浜松での国際ピアノコンクールを取材した番組も放送されたりしました。
 先月の2月3日の礼拝メッセージの中で私は、この小説『蜜蜂と遠雷』の主人公の一人の風間塵が亡くなった自分の師匠と交わした約束がとても心に響いたという話をしました。その約束とは、「狭いところに閉じ込められている音楽を広いところに連れ出す」というものです。そして、これを私自身に与えられた使命であるとも感じるようになりました。それは、狭いところに閉じ込められている「聖書」を広いところに連れ出すというものです。
 先々週のメッセージでは、前半でスポーツの野球とカーリングの話、それから映画の『幸福の黄色いハンカチ』と『ラ・ラ・ランド』の話をしました。これらは、聖書を広いところに連れ出すための一環として取り入れたと私の中では考えています。スポーツや映画は多くの人々が親しんでいます。そういう場に聖書も連れ出すことで、もっと多くの方々に聖書を知っていただくきっかけにすることができないだろうか、そんな風に考えています。もちろん、道はそんなに簡単には開けないだろうとも思っています。道は険しいだろうと思います。しかし、少しずつでも、聖書を広いところに連れ出す働きに取り組んで行きたいと願っています。

約束されていた聖霊の授与
 そういうわけで、きょうも映画そしてテレビドラマと聖書とを絡ませることを考えています。先ほど、小説『蜜蜂と遠雷』の主人公の一人の風間塵が亡き師匠と約束を交わしたという話をしましたが、きょうは「約束」ということばを何回か使います。きょうのキーワードは「約束」です。そして最後に私たちには永遠の命が約束されていることを確認したいと思います。
 きょうの聖書箇所の一つめはルカの福音書24章からでした。もう一度、お読みします。

24:49 「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 ここに「約束」ということばが使われています。イエスさまは、「わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります」とおっしゃいました。この「父が約束されたもの」とは聖霊のことですね。そうして弟子たちは使徒の働き2章にあるように、ペンテコステの日に約束されていた聖霊を受けたことで聖霊から力が与えられてイエスさまの証人となってイエスさまについて人々に証をしました。
 この弟子たちは、実際に地上生涯のイエスさまと出会ってガリラヤでの日々、そしてガリラヤからエルサレムに至るまでの旅の日々をイエスさまと共に過ごした者たちでした。さらに、1世紀の末以降は弟子たちの弟子たちに受け継がれて2世紀以降へと引き継がれて、21世紀の私たちもまたイエスさまの証人となるべく日々を生きています。

聖霊を受けると福音書の世界に引き込まれる
 この1世紀の末から21世紀の現代までイエスさまの証人が絶えることなく脈々と引き継がれて来たことに、きょうのもう一つの聖書箇所のヨハネの手紙第一は大きな役割を果たして来たと言えるでしょう。第一ヨハネ1章1節、

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。

 このヨハネの手紙があることで、マタイ・マルコ・ルカそしてヨハネが描いた福音書のイエスさまは、こういうお方だったのだなと分かります。そして、私たちも聖霊を受けるなら、この交わりの中に入れていただくことができます。そして、私たちもまた喜びで満ちあふれます。3節と4節、

1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 聖霊を受けるなら、私たちはまるで自分もイエスさまの地上生涯と同じ時代を生きているような感覚になり、イエスさまとの交わりを経験することができます。例えば、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)というイエスさまのことばが、まるで自分に声を掛けて下さったことのように感じます。或いはまた、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)というイエスさまのザアカイへのことばを、まるで自分への声掛けのように感じる人もいることでしょう。
 ヨハネの福音書のイエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)、「来なさい。そうすれば分かります」(同1:39)ということばを自分への招きのことばと感じる人も、きっといるでしょう。このように聖霊を受けると私たちは1世紀の福音書の世界へと引き込まれていきます。それが、第一ヨハネ1章3節の「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」ということではないかと思います。
 こうして1世紀の過去に戻り、1世紀の時代の人々、そして御父と御子と交わることで私たちは喜びで満たされます。

タイムスリップの物語①『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
 このように過去にいる人々と交流して、また現代に戻って来ると現代での生活が喜びに溢れるものになるという話は、映画やテレビドラマ、小説や漫画などではタイムスリップ物として良く見られるものです。ここからは、聖書から少し離れて、三つの作品を紹介したいと思います。



 まず、とても有名な映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出してみましょう。この作品はパート3まで作られましたが、一つめのパート1を考えます。パート1は1985年に公開されました。主人公のマーティは現代の1985年を生きる高校生です。彼の父親は風采が上がらず、マーティが暮らす家庭の中はいつもどんよりとした感じです。ある時、マーティは年上の友人のドクがデロリアンという車を改造して作ったタイムマシンで30年前の1955年にタイムスリップしてしまいます。ここで彼は両親が結ばれることを助けます。そして1985年に戻って来たら、風采が上がらなかった父親は小説家として成功していて、どんよりしていた家庭も明るく洗練された雰囲気に変わっていました。この映画の面白い点はいろいろありますが、デロリアンという車が時速88マイルを越えないとタイムスリップできないこと、またそのためには莫大な電力が必要だったことが話を面白くしていましたね。1985年ではこの莫大な電力を得るためにプルトニウムを使っていましたが、1955年ではそれが得られなかったために、雷を利用しました。1955年にその町の時計台に雷が落ちることが歴史的に分かっていたからです。これは、よくできたフィクションで、ハラハラドキドキさせられる、とても面白い作品だったと思います。
 ただし、こういうデロリアンという車でタイムトラベルすることは現代の科学技術では不可能であることを私たちは知っています。ですから、この『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は単なるお話です。しかし、聖霊によって1世紀のヨハネたち、そして御父と御子との霊的な交わりに入れられるというのは現実に起きていることです。霊的な世界のことですから「現実」ということばは当てはまらないかもしれませんが、これは実際に私たちが経験していることです。イエスさまを信じないと経験できない世界のことですが、「イエスは神の子キリストである」と信じて聖霊を受けた私たちは、そのような霊的な交わりを経験して喜びで満たされますから、とても感謝に思います。

タイムスリップの物語②『コーヒーが冷めないうちに』
 次に、二つめのタイムスリップ物として、昨年公開された映画の『コーヒーが冷めないうちに』を紹介します。この映画を私は去年、清水町のサントムーンで観ました。ストーリー展開がとても面白く感じましたから、ネタバレをしてしまいますが、紹介したいと思います(ただし物語の細かい点は記憶が曖昧になった部分があるので、あまり正確ではないかもしれません)。この映画の舞台は、「フニクリ フニクラ」という変わった名前の喫茶店で、ヒロインは有村架純さんが演じた時田 数(ときた かず)という女性です。数(かず)はこの喫茶店でコーヒーを淹れていました。この喫茶店では、ある特定の席に座ってヒロインの数にコーヒーを淹れてもらうと、この喫茶店の中で、過去に戻ることができます。例えば、ある女性は交通事故で死んでしまった自分の妹がこの喫茶店に来ていた時代に戻って妹に会いたいと希望しました。或いはまた別の男性客は妻が若年性アルツハイマーに掛かってしまっていました。その妻の謎の行動を解き明かすために、この男性客は妻がアルツハイマーになる前にタイムスリップすることを希望します。そういう客の希望を聞いてヒロインの数は何人かの客にコーヒーを淹れてタイムスリップの手伝いをしてあげていました。
 さて、この数という女性は、いつも暗い表情をしていました。それは彼女がかつて自分の母親に見捨てられたと思い込んでいたからでした。そこで彼女に惹かれて付き合い始めたボーイフレンドは、本当に母親が彼女を見捨てたのかどうかを過去に戻って確かめたら良いのになと思っていました。ところが、このタイムスリップをするには時田家の血を引く女性にコーヒーを淹れてもらう必要があります。彼女が自分のために自分でコーヒーを淹れるという方法ではタイムスリップはできません。ですから、彼女自身が過去に戻って、本当に母親が自分を見捨てたのかを確かめることはできませんでした。
 そんな中、ボーイフレンドの彼は良いアイデアを思い付きます。このアイデアを彼は彼女には打ち明けないでいましたが、ある日、少女がこの喫茶店に現れて、ヒロインの数のためにコーヒーを淹れてあげます。それで数は過去に戻ることができて、実は母親は自分を見捨てたわけではないことを知ります。こうしてヒロインの数は現代に戻ってからは喜びに溢れて未来へと向かっていくことができるようになりました。もはや暗い表情で毎日を生きることはなくなりました。このからくりは、この映画の最後に種明かしされます。ヒロインの数にコーヒーを淹れてあげた少女は後に数とボーイフレンドが結婚して二人の間に生まれた娘でした。この少女も時田家の血を引くために、コーヒーを淹れて数のタイムスリップを助けてあげることができました。この少女にコーヒーを淹れてあげたのは未来で母親になっていたヒロインの数でした。未来の数は自分の娘にコーヒーを淹れてあげて娘を過去に戻し、そこで娘が数にコーヒーを淹れてあげて、数は過去に戻ることができました。このようにして数は自分の母親が自分を見捨てたわけではないことを知ることができたのでした。ちょっとややこしいですが、私はこの三世代にわたる母と娘の家族愛の物語をとても心地よく感じました。その他、数が淹れたコーヒーで過去にタイムスリップした客たちは皆が豊かな家族愛を持つ人々でした。これらの家族愛に私は心を洗われるような気持ちになりましたから、好きな映画の一つになりました。
 繰り返しますが、これはフィクションですから、単なるお話です。しかし、聖霊を受けた私たちは実際に1世紀のヨハネたちと交わり、御父と御子と交わることができます。

タイムスリップの物語③『約束のステージ』
 最後に三つめとして、もう一つ、最近感銘を受けたタイムスリップ物のテレビドラマを紹介したいと思います。ドラマのタイトルは『約束のステージ』です。このテレビドラマは私が応援している佐々部清監督が演出した2時間ドラマで、2月22日の金曜日の晩に放送されたものです。これもすみませんが、かなりネタバレをします。
 主演は土屋太鳳さんで、共演は百田夏菜子さん、向井理さん、石野真子さんらです。この物語は2019年の現代から始まります。土屋さん演じるヒロインの翼は、ある東北のさびれた田舎町に住む20歳の女性です。翼は石野真子さんが演じる母が営む小さな食堂で、母と共に働いています。母の名前は雪子といいます。翼は歌手になりたいという夢を持っていましたが、今一つ頑張れないでいました。そんな娘に対して母の雪子はまだ20歳なのだから目標に向かって頑張るように発破を掛けます。しかし、そんな母のことばに翼は反発して母に聞きます。「お母さんは今まで頑張って来たことがあるの?」すると母は答えました。「それなりに頑張って来たわよ」。この母のことばに対してつばさはひどいことを言います。「頑張って来た結果がこれ?」翼はさびれた田舎町で小さな食堂を経営して満足しているように見える母にひどいことを言って外に飛び出します。そして、友人の家に泊めてもらおうと向かう途中で1975年にタイムスリップしてしまいます。その1975年で翼は百田夏菜子さんが演じる同じ「つばさ」という名前の20歳の女性と出会います。1975年のつばさもまた歌手になりたいという夢を持っていました。そしてつばさは本気で自分の夢に挑戦したいと思っていました。一方の2019年からタイムスリップしたほうの翼は相変わらず自分の夢に本気で挑戦することには躊躇していました。そんな彼女でしたが、1975年のつばさが夢に向かって頑張ろうとしている姿に刺激を受け、また彼女たちを支えて応援する人々と交わるうちに次第に変えられて行き、自分も本気で歌手を目指そうと決意します。翼を本気で頑張る者へと変えた1975年のつばさは、実は翼の母親でした(ネタバレしてすみません)。そのことに翼が気付いた時、20歳の母のつばさは翼のもとを去ってしまっていましたから、もう会えませんでした。この悲しみが彼女を大きく変えて自分一人で夢に向かって頑張る力を彼女に与えたのでした。このドラマの最後で翼は再びタイムスリップして2019年の現代に戻ります。彼女は食堂の母親のもとに一目散に走って行って「会いたかった」と抱きつき、「ごめんなさい」と謝ります。そんな母親は彼女に優しく「お帰り」と言います。ドラマはここで終わりますが、翼はきっとこれからの自分の人生を前向きに生きて行くことでしょう。

神様にひどいことを言っていた私
 このドラマを見て私は、母親にひどいことを言っていた時の翼はイエス・キリストを知る前の私に良く似ているなと思いました(クリスチャンの多くがそうでしょう)。イエス・キリストを知る前の私は、神様に対してひどいことを言ってばかりいました。しかし、聖書と出会い、イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受け、1世紀の人々そして御父と御子との交わりに入れられることで、自分が神様に対してひどいことを言っていたことに気付かされて悔い改めました。そうして21世紀の現代でイエスさまと共に前向きに生きることができるようになりました。多くのクリスチャンが同じ経験を持っているでしょう。そしてクリスチャンには永遠の命が約束されています。
 ここまで3つのタイムスリップ物の例、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『コーヒーが冷めないうちに』、『約束のステージ』を見て来ました。この三つに共通するのは、主人公たちが過去にタイムスリップする以前は、現代を明るく前向きな気持ちで生きることができていないことです。しかし、現代から過去にタイムスリップして、過去の時間の中で生きている自分の家族に会うことで自分の心の内に変化が起こり、現代に戻って来た時には明るい気持ちで前向きに生きることができるようになりました。そのように明るく前向きに生きる者には、明るい未来が約束されています。

聖書を読むことは過去へタイムスリップして現代に戻ること
 今回、これらの映画やドラマを取り上げたのは、「聖書を広いところに連れ出す」ための試行錯誤の一環として行ったものですが、「聖書を広いところに連れ出す」ことはクリスチャンとクリスチャン以外の方々の双方にとって良いことではないかと感じています。「聖書を広いところに連れ出す」ことをすれば、まだ聖書についてよくご存知でない方々に聖書を知っていただく機会を広げることにつながるでしょう。しかし、それだけでなく私たちクリスチャンにとっても聖書以外のこととつなげて考え直してみることで、聖書の素晴らしさを改めて確認できる機会となるように思います。
 多くの方々が聖書の魅力を知ることができるように、そうして永遠の命の約束を神様からいただくことができますように、また私たちクリスチャンもさらに聖書への理解を深めて、御父と御子イエス・キリストとの交わりを深めて行くことができますように、そして永遠の命の約束をさらに確かにすることができますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
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神から人への接近、人から神への接近(2019.2.17 礼拝)

2019-02-18 07:48:35 | 礼拝メッセージ
2019年2月17日礼拝メッセージ
『神から人への接近、人から神への接近』
【ヨハネ1:29、47】

はじめに
 私たちクリスチャンが聖書を深く味わうことで得ている平安の恵みを、どうしたらもっと多くの方々と分かち合うことができるでしょうか。最近、私は以前にも増して、このことを良く考えるようになりました。
 きょうの前半では、聖書以外のスポーツ観戦と映画鑑賞を例に考えてみて、後半は聖書を開きながら、このことを考えてみたいと思います。

自分で考えることで味わえる深さ
 スポーツ観戦や映画鑑賞を深く味わうためには、どんなことが必要か考えてみた時に私が思ったことは、次の二つです。一つは、トップレベルの選手や監督たちに関心を持つこと、そして二つめは、それらのトップレベルの選手や監督たちが何を考えながら仕事をしているのかを、ほんの少しでも良いから自分で考えてみることではないか、ということです。すると、スポーツや映画をより深く味わえるようになると思います。
 特にスポーツにおいてはトップレベルの試合を見ることが大事ではないかと思います。トップレベルの選手はどんなことを考えながらプレーをしているのか、素人の私たちにはその全貌を知ることはもちろんできません。でも、ほんの少しでも分かると、分からなかった時と比べて、選手の気持ちに少しは近づくことができると感じます。すると、その競技がずっと味わい深いものになります。しかし、そのためには、多少は自分の頭で考えてみることも必要だろうと思います。
 例えば私は野球の大リーグ中継を良く見ます。野球のピッチャーでコントロールの良い選手は、内角と外角を投げ分けて打者を打ち取ったり三振に切って取ったりします。外角を何球か攻めておいて、次に内角に投げると打者は容易に打つことはできません。逆に内角を攻めておいて外角を攻めるのも有効です。では、なぜ内角と外角を投げ分けることが有効なのか(野球の解説者は「目線」について良く話しますが)、自分で考えて自分なりの納得を得るなら、格段に面白さが深まります。内角と外角だけでなく高めの球と低めの球もあります。それらのコースの投げ分けをピッチャーはどのように有効利用しているのか、多少なりとも自分で考えられるようになると、ほんの少しだけ選手に近づけたような気がして、それまでよりも野球を深く楽しむことができるようになります。
 冬のスポーツでは、私はカーリングの試合を観戦するのが好きです。最初に見始めた頃は、カーリングの面白さが良く分かりませんでしたが、何年も続けて見ていると、段々と分かって来ます。そうして、テレビで試合を観戦しながら、次のストーン(石)は、あの辺りに投げるのが良いのではないかと、解説者が言う前に自分で考えられるようになります。もちろん多くの石が溜まった複雑な局面では、分からないことが多いですが、単純な局面では次の石はどこに投げたら良さそうか、かなり分かるようになって来ました。そうして、自分で考えながら試合を見ることができるようになったことで、カーリングの観戦を以前と比べてずっと深く楽しむことができるようになりました。やはり多少なりとも自分の頭を使って考えることは、何かを深く楽しみためには、必要なことではないかと思います。

『幸福の黄色いハンカチ』のラストシーンについての考察
 次に映画の話をします。まずは多くの人が観たことがあると思われる、山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』のラストシーンについて考えてみます。以前、この教会でもラストシーンを短くご一緒に観たことがありましたね。この映画では北海道の網走の刑務所を出所した勇作(高倉健)が、夕張にいる妻の光枝(倍賞千恵子)に一枚の葉書を書いて投函します。「もし、まだ1人暮らしで俺を待っていてくれるなら…鯉のぼりの竿に黄色いハンカチをぶら下げて欲しい」というものです。そして、ラストシーンでは、何十枚もの黄色いハンカチがはためいているシーンが映し出されます。この映画の公開当時、ハンカチの数があまりに多いことを批判した映画ファンがいました。派手すぎて映画の雰囲気がぶち壊しだというわけです。このことについて私も自分なりに考えてみると、そのたくさんのハンカチのシーンには山田洋次監督のメッセージが込められているように感じます。この映画は、ずっと夫の勇作の心の動きを追っています。妻の光枝の心の動きを追った場面は、夫の勇作に比べると、そんなに多くはありません。しかし、ラストのたくさんのハンカチのシーンでは、それを引っくり返すぐらいに妻の光枝の心情が豊かに表現されています。そこには、山田洋次監督が映画の観客に対して、妻の光枝についても色々と思いを巡らして欲しいというメッセージが込められているように感じます。光枝がどんな思いで勇作を待ち、葉書を受け取った時に何を感じ、そうしてハンカチを売っている店に行って店員さんが不思議がるぐらいにたくさんのハンカチを買い、何を思いながらたくさんのハンカチをひもにくくり付けたのか、映画には直接的には描かれていませんが、たくさんのハンカチはそれらを豊かに表現していると思います。それらのことにも思いを巡らしてみて欲しい、そんなメッセージを感じます。山田洋次監督はそのようには考えていなかったかもしれません。しかし、自分の頭でこのラストシーンについて思いを巡らしてみることで、この映画をよりいっそう深く味わうことができます。

『ラ・ラ・ランド』の空白の5年間についての考察
 もう一つ、先々週の2/8の金曜ロードショーで放送された映画『ラ・ラ・ランド』の最後のほうのシーンについて考察してみたいと思います。ネタバレになってしまいますが、地上波で放送された映画ですから、お許し下さい。
 この『ラ・ラ・ランド』という映画はアメリカのロサンゼルスが舞台で、セブという男性とミアという女性が主人公です。セブは売れないジャズのピアニストですが、ジャズの店をいつか持ちたいという夢を持っています。ミアにもハリウッドの女優になりたいという夢があってカフェの店員をしながら毎週のようにたくさんのオーディションを受けていますが、合格して役をもらえることになかなかつながりません。その二人が互いに引かれ合って、一緒に暮らし始めるようになりますが、相変わらず二人とも夢を実現することができないでいました。そんな中、二人は励まし合います。セブはミアに、オーディションを受けてばかりいないで、自分で脚本を書いて一人芝居の公演をしたらどうかと勧めます。一方、ミアはセブに、セブが開くジャズの店の名前は「SEB♪S」にすべきと言って、自分で看板をデザインしてセブに渡します(セブは「Chicken on a Stick」という店名にこだわっていたのですが)。そして映画の終盤でついにミアが映画の主役を得るチャンスをつかみます。ミアの一人芝居の公演が関係者の目にとまったのでした。映画はハリウッドではなくてパリで撮影されることになっていました。それでセブはミアに女優の仕事に専念するよう勧め、しばらく離れようと言います。そうして二人はしばらく離れて暮らすことにしますが、離れていても二人は愛し合っていることを互いに確認します。
 そして場面は5年後に切り替わります。ミアは有名な女優になっていました。ミアは結婚して子供もいました。しかしミアの夫はセブではありませんでした。どうしてそうなったのか、二人が離れて暮らしている間に何があったのか、観客は分からないでいます。ある晩、ミアと夫は子供をベビーシッターに託して外で食事をします。食事の後で、車に乗って帰ろうとした所で、近くの店からジャズの音楽が聞こえて来ます。そのジャズに反応した夫はミアを誘って二人はジャズの店の前まで行きます。何とその店は元カレのセブの店で、ミアがデザインした看板を使っていました。先にセブの店に入って中の様子を見たミアの夫は店の雰囲気が気に入ってミアに入ろうと誘い、そうしてテーブルに座ったミアは、店のオーナーとしてジャズのステージ上にいたセブと5年ぶりで再会しました。
 私はこの『ラ・ラ・ランド』を2年前に映画館で2回観ました。この時は、セブとミアが離れて暮らしていた空白の5年間について、なかなか想像できないでいました。しかし、今回テレビで3回目を見た時に、そのヒントとなる場面を発見しました。ミアの夫がジャズに反応したこと、しかもセブの店の雰囲気を夫が気に入ったこと、この二つのシーンです。ここから、ミアの夫はセブと同じ音楽の好みを持っているということが分かります。そして夫がミアを店に入ろうと誘ったことから、ミアもジャズが好きなことを夫が知っていたことが分かります。ミアはセブと出会う前まではジャズに興味がありませんでした。しかし、セブがジャズの魅力を熱く語り、二人で一緒に聞くようになったことでミアもジャズを好きになっていたのでした。

セブが愛したジャズがミアと夫を近づけた
 ここから空白の5年間に何があったかを想像することができます。パリで女優の仕事に専念するためにセブと離れて暮らし始めたミアは、孤独を感じた時にはジャズを聴くことが慰めになっていたのだろうと私は想像します。パリにはジャズの良い店があると別れる前にセブはミアに話していました。そのジャズの店にミアはきっと行っていたのだと思います。そうして、パリでジャズ好きの今の夫と出会い、ジャズのことで意気投合したのではないか。そんな風に私は想像します。つまり、ミアとセブはお互いに離れていた間も、ちゃんと互いのことを想っていたということです。ミアはジャズの店に行くことでセブのことを想っていました。セブは自分の店を持つことになった時に、ミアがデザインした看板を用いました。セブが自分の店を持てたのは、ミアが有名な女優になったことでセブも発奮したからではないか、そんな風にも想像できます。
 この空白の5年間について思いを巡らすためのヒントを発見できないでいる間、私はミアがセブではない男性と結婚したことにとても戸惑っていました。しかし、ミアがセブと離れていた間もミアがジャズを愛していたこと、つまりセブを愛していたことに思い至り、戸惑いが消えてこの映画を深く味わうことができるようになったと感じています。私の思い巡らしは、もしかしたら的外れかもしません。しかし、自分の頭で考えることは、スポーツでも映画でも、何にせよ、何かを深く味わうためには、必要なことだと思います。
 前置きが長くなりましたが、ここから先は、聖書を見て行きます。きょうのタイトルは『神から人への接近、人から神への接近』です。「どちらの側」からのアプローチなのかを自分で考えながら読むと、聖書への理解は一層深まると思います。先ほど例を挙げたように野球のピッチャーは内角側を攻めるか外角側を攻めるかが大きなポイントになります。カーリングではハウス(石が溜まる場所)の外側を攻めるか中心側を攻めるかが大きなポイントになります。映画の『幸福の黄色いハンカチ』では「夫の勇作の側」の心の内が映画のほとんどを支配していましたが、最後の最後で「妻の光枝の側」の心の内が圧倒的に表現されました。『ラ・ラ・ランド』では、セブのジャズの店に入ろうと誘ったのがミアの夫の側であったことが、空白の5年間を読み解く重要な鍵であることを示しました。ここからの聖書では、神の側から人に近づいた場面と、人の側から神に近づいた場面に注目します。

神に接近したヤコブ
 まず「人の側からの神への接近」から見て行きます。ヨハネ1章47節をご一緒に読みましょう。

1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 この場面の注目ポイントは、ナタナエルの側からイエスさまに近づいて行ったということです。ナタナエルは人であり、イエスさまは神ですから、人の側から神の側に近づいて行った場面であることに注目する必要があります。そして旧約聖書の人物の中で人の側から神に近づいた人と言えばヤコブでしょう。ヤコブは神様と格闘しました。それほどまで神様に接近しました。そのヤコブの場面を、今度はご一緒に見てみましょう。創世記32章の24節から28節までを交代で読みましょう。

32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 この時、ヤコブは兄のエサウと20年ぶりに会う直前でした。20年前、ヤコブは兄のエサウになりすまして「エサウです」と偽り、父のイサクを騙して祝福を横取りしました。このことに怒ったエサウから逃れてヤコブは20年間、伯父のラバンの所に身を寄せていました。しかしヤコブはラバンの元を離れて故郷に帰ろうとしていました。そのために避けて通れないのが兄のエサウに再び会うことでした。ヤコブは兄に復讐されることを心配して恐ろしくて夜になっても寝られず夜通し神様に祈る中でどんどん神様に接近して行って格闘するまでになっていました。神の人はヤコブに言いました。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言いました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
 すると神の人はヤコブに聞きました。「あなたの名は何というのか。」その問いにヤコブは、今度は偽らずに「ヤコブです」と正直に答えました。もはや「エサウです」と偽りませんでした。このことが神の人の心に適いました。それゆえ神の人は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」こうして、これ以降、ヤコブはイスラエルとも呼ばれるようになりました。そうしてヤコブの12人の息子たちはイスラエルの12部族の祖先になりました。

ヤコブと格闘した神の人は神の御子イエス
 もう一度、ヨハネ1章47節に戻ります。お読みします。

1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 お分かりの通り、ヨハネはここで創世記32章の出来事を重ねています。イエスさまに近づいて行ったナタナエルは、神に必死に祈って近づいて行った格闘したヤコブです。そうしてヤコブは自分の名を偽らずに正直に答えてイスラエルの名を与えられましたから、イエスさまはおっしゃいました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
 ヨハネが創世記の神の人とイエスさまとを重ねたということは、ヤコブと格闘した神の人とは実は神の御子イエスさまであったとヨハネは私たちに教えています。つまりイエスさまは、時間を越えて旧約の時代と新約の時代に同時に存在しています。先々週と先週の礼拝では、復活したイエスさまが天に上げられる様子を弟子たちが見上げていた使徒の働き1章とルカ24章の場面をご一緒に読みました。そうして、イエスさまが天上と地上の両方の空間に存在することを感じることで素晴らしい平安が得られることを話しました。そして、きょうはイエスさまが旧約の時代と新約の時代の両方の時間に存在することを話しました。このようにイエスさまは時間も空間も超越した存在です。このことを感じることで私たちは苦しいことばかりが多い現実から解き放たれて、素晴らしい心の平安を得ることができます。現実の生活では私たちは湖でおぼれかけたペテロのように苦難の中にありますが、時間と空間を越えたイエスさまに思いを巡らすことで現実を離れて平安が得られることは素晴らしいことではないでしょうか。

アブラムに声を掛けたのは神の御子イエス

 次に、今度は神の側から人に接近したことを示している箇所を、ご一緒に読みましょう。ヨハネ1章の29節です。ご一緒に読みましょう。

1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。

 ここでの注目ポイントは、イエスさまの側からヨハネの方に近づいて行ったということです。つまり神の側から人に接近したということです。そして、もう一つ見逃してはならないのは、ここで初めてイエスさまが登場するということです。1章18節まででも、「ことば」とか「この方」という呼び方でイエスさまは登場していますが、この18節まではプロローグであり、本編は19節から始まります。そうして本編に入って29節で初めてイエスさまが登場します。これは旧約の時代で言えば、イスラエルの歴史が始まったアブラハムの時代です。マタイの福音書1章の冒頭のイスラエル人の系図はアブラハムから始まりますね。ヨハネの福音書の本編の旧約の時代もアブラハムから始まります。23節でヨハネはこう書いています。
 
1:23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

 新約の時代の主の道をまっすぐにしたのはバプテスマのヨハネです。そして旧約の時代の主の道をまっすぐにしたのはアブラハムです。つまりヨハネの福音書の記者のヨハネはここでアブラハムとバプテスマのヨハネとを重ねています。ですから、29節の神の側から人に接近した場面は、創世記12章で主がアブラムに近づいて語り掛けた場面に重ねられています。創世記12章の1節から4節までを交代で読みましょう。ここからイスラエルの歴史が始まりました。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 福音書の記者のヨハネは、イエスさまがバプテスマのヨハネに近づいて行ったことと神がアブラムに声を掛けたこととを重ねています。ということは、アブラムに声を掛けたのは実は神の御子イエスさまだったのだということをヨハネは私たちに教えています。福音書の冒頭でヨハネはイエスさまのことを「ことば」と呼び、「ことばは神とともにあった」と書きました。つまり神のことばはイエスさまを通して旧約の時代の人々に伝えられていました。このことをヨハネは旧約の時代の重要な出来事を重ねることで私たちに教えてくれています。

聖書の記者に近づける幸い
 さて、ここで今日の話の原点に戻りたいと思います。それは、スポーツでも映画でも聖書でも何ごとも自分の頭で考えることで、それらを格段に深く味わうことができるようになるということです。野球のピッチャーやカーリングの選手が球や石を投げる時の組立を、たとえ自分が素人であっても素人なりに考えるなら、ちょっとだけ選手に近づけた気がして、それまでよりも格段に深く味わえるようになります。映画で鍵となるような場面に気づいたなら、その映画の監督はなぜそのような場面を組み込んだのか考えることで、その監督に少しだけ近づけた気がします。たとえ的外れであったとしても良いです。自分で考えることで、その世界の人たちに少しだけ近づくことができます。聖書も同じです。自分で考えることで聖書の記者に近づけた気がして、素晴らしく幸せな気分になります。
 皆さんも、是非ご自分で考えてみて下さい。例えばヨハネの福音書が重ねるアブラムとヤコブの間には、イサクも重ねられているはずです。どのように重ねられているでしょうか。ヤコブの後にはヨセフが重ねられているでしょうか。モーセはどうでしょうか。自分で考えてそれらが見えて来ると、ヨハネに近づけた気がして、そうして御父と御子との深い交わりに入れられて大きな喜びが得られます(Ⅰヨハネ1:3-4)。考える対象はヨハネの福音書に限りません。聖書66巻のすべての書が対象になります。そうして聖書の記者たちに近づき、聖書を深く味わう感動を得ていただきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
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父のみもとでつながる幸い(2019.2.10 礼拝)

2019-02-11 10:36:53 | 礼拝メッセージ
2019年2月10日礼拝メッセージ
『御父のみもとでつながる幸い』
【Ⅰヨハネ4:13~17】

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは、『御父と天でつながる幸い』です。このタイトルは、かなり分かりづらいだろうと思いますから、まず簡単に今日私が話したいことの概略を説明して、次に段々と詳しい説明に入って行きたいと思います。
 年度がわりまでの残された期間で皆さんにどんなメッセージを取り次いだら良いかを、このところ私はずっと考えています。そうして示されていることは、クリスチャンとしての私が、どのようにして心の深い平安を得ているかをお伝えすべきではないかということです。教会のすべての皆さんが既に心の深い平安を得ているなら、このメッセージは必要ないかもしれません。しかし、まだ十分な平安を得ていない方もいらっしゃるのではないかと思います。そのような方に是非参考にしてもらいたいと思うのです。私の読み方がそのまま皆さんの平安に直ちにつながることはないかもしれませんが、何かの参考にはしていただけるかもしれません。また、すでに心の平安を得ている方にも、まだイエス・キリストの福音を知らない方々に伝道する際の多少の参考にはしていただけるかもしれないと思っています。

御父とは隔絶されていた旧約の時代
 私がなぜ心の深い平安を得ているか、それは簡単に言えば、天の御父との近しいつながりを感じているからです。それが、どういうことかを少しずつ説明して行きたいと思います。
 まず旧約の時代から話を始めます。旧約の時代には、神の箱が幕屋または神殿の至聖所に置いてありました。至聖所は聖所の垂れ幕の向こう側にあり、その中に入ることが許されるのは一年に一回、大祭司のみでした。父なる神は天におられ、また地上にも遍く存在していますから決して神の箱の中に納まっているわけではありません。それでも地上において神の霊が最も濃厚に現れるのが神殿の至聖所だと言えるでしょう。その一年に一回の儀式を旧約聖書のレビ記で確認しておきましょう。ここに「垂れ幕」があることが注目ポイントです。
 レビ記の16章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.205)。16章の全体をじっくり読みたいところですが、時間の関係でごく一部だけにします。まず2節をご一緒に読みましょう。

16:2 【主】はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。

 この垂れ幕の内側の聖所にみだりに入った者は神に打たれて死んでしまいます。つまり、御父はみだりに近づいてはいけない存在です。御父は聖なるお方ですから、汚れた人間が近づくことは許されません。もう一箇所、16章の12節と13節を交代で読みましょう。彼というのはアロンのことです。

16:12 彼は【主】の前の祭壇から炭火を火皿いっぱいに、また、粉にした香り高い香を両手いっぱいに取り、垂れ幕の内側に持って入る。
16:13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲が、あかしの箱の上の『宥めの蓋』をおおうようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。

 アロンはまず垂れ幕の内側に香を焚いて、煙の雲を作っておく必要がありました。神を直接見ると、打たれて死んでしまうからです。御父はそれほどまでに、人間からは隔たった存在でした。

真っ二つに裂けた垂れ幕
 しかし、ご承知のようにイエス・キリストが十字架で死なれた時、この神殿の幕が真っ二つに裂かれました。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書にこのことが書かれています。どの福音書でも良いのですが、マルコにしましょうか。マルコ15章の37節と38節を交代で読みます。

15:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 こうして、イエスさまが十字架で死ぬことによって、私たち人間と御父との間を隔てていた垂れ幕が取り払われました。それまでは罪で汚れた人間は聖い御父に近づくことが許されていませんでした。しかし、その罪が赦されて御父に近づくことができるようになりました。ただし、無条件で近づくことができるわけではありません。自分が神から離れていた罪を悔い改めて、イエスが神の子キリストと信じる必要があります。すると聖霊を受けて、聖霊を受けた者は内側から聖められます。そうして初めて御父に近づくことできて、御父と共にいることを感じることができるようになります。すると、深い平安を得ることができます。
 このように私たちは罪が赦されて聖霊を受け、御父が共におられることを感じることで深い平安を得ます。

天の御父に私たちが共にいるという感覚
 しかし、私が皆さんと分かち合いたいと願っていることは、さらにその先のもっともっと深い平安です。それは、この地上にいる私たちに天の御父が共におられるという感覚ではなく、天におられる御父に私たちが共にいるという感覚です。このことを上手くお伝えできるかどうか、分かりませんが、できるだけ分かりやすく話してみたいと思います。
 先週、使徒の働き1章を開いて、復活したイエスさまが天に上げられる様子を弟子たちが見上げていた箇所を共に読みました。そして、その弟子たちの様子がまるで現代の種子島宇宙センターでロケットの打ち上げを見ている人々のようだということを話しました。そして私自身もアメリカのケネディ宇宙センターでスペースシャトルが打ち上げられる様子を見たことがある経験を話しました。きょうはルカの福音書24章をご一緒に読みましょう。このルカ24章にも使徒の働き1章と同じように、天に上げられるイエスさまを弟子たちが見上げていた様子が書かれています。ルカ24章の49節から51節までを交代で読みましょう。

24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

 こうしてイエスさまは天に上げられて天の御父のみもとに行かれました。天の御父のみもととは、ヨハネ1章18節(週報p.13)によれば、父のふところです。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 御父と御子はこの天上から地上の私たちに聖霊を遣わします。すると地上の私たちは天の御父と御子が共にいて下さることを感じて平安を得ます。この時に私がお勧めしたいのは、地上にいる私たちに御父と御子が共にいて下さるという感覚だけではなく、天にいる御父と御子に私たちが共にいるという感覚をも同時に持つ、ということです。

聖霊を受けると天に上ることができる私たち
 週報のp.3に載せましたが、イザヤ40章31節でイザヤは、

イザヤ40:31 主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。

と預言しています。聖霊を受けた私たちは天に上り、天の御父と御子と共にいる感覚を味わうことができます。私自身も聖霊に満たされていると感じる時は、このように天上に浮上している感覚を味わっています。すると、素晴らしい平安が得られます。地上の様々なことから解放されて、御父と御子との純粋な交わりの中に聖霊によって入れられていることを強く感じます。それはつまり父・子・聖霊の三位一体の神との純粋な交わりの中に入れられるということです。地上にいると様々なことに煩わされて御父と御子との交わりを十分に感じることができませんが、天上においては純粋な交わりの中に入れていただくことができます。それゆえ莫大な平安が得らます。
 私は、聖霊を受けることで得られる、このような天上での三位一体の神との純粋な交わりの感覚を多くの方々と分かち合えたらと願っています。なぜ私がそんなことを考えるかというと、そうでなければ、例えば浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞が説く、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救われて極楽に往生できますよという教えとキリスト教とは一体どこが違うのかという問いに上手く答えることができないように思うからです。地上にいて神の愛を受けているだけなら、地上にいて仏の慈悲を受けているのと五十歩百歩のような気がします。五十歩百歩であれば仏教を信じている方々に敢えてキリスト教をお伝えする必要があるでしょうか。傍から見れば浄土宗や浄土真宗と同じように見えるキリスト教をお伝えするのは何故か、もっと明らかな違いをお伝えできなければならないように思います。

聖霊を受けているという確信

 それに対する一つの答えは念仏を唱えても聖霊を受けることができないけれど、イエスは神の子キリストと信じれば聖霊を受ける、だからキリスト教は浄土宗・浄土真宗とはぜんぜん違いますというものでしょう。しかし、私自身の経験で言うなら、地上での御父と御子との交わりを感じるだけでは、自分が聖霊を受けているという確信が得られないでいました。それが、天に浮上する感覚が得られるようになってからは、自分には確かに聖霊が注がれているという確信を持つようになりました。自分が受けている教えをどのように確信するかは、とても大切だと思います。信じなければいけないと思って頑張って信じるのと、頑張らなくても疑いようのない確信が与えられているのとでは、ぜんぜん違います。
 親鸞の弟子の唯円が書いたという『歎異抄』の2章には、とても興味深い記述があります。それによれば、親鸞自身は念仏を唱えれば極楽往生できるかについて、必ずしも確信が持てていなかったようです。

 以下に現代語訳の抜粋を引用します。
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【歎異抄第二章現代語訳(歎異抄.comより)から抜粋し、さらに一部改変して読みやすくしたもの】
 親鸞はただ、「本願を信じて念仏を唱え、弥陀に救われなさい」と教えるよき人・法然上人の仰せに従って、信じるほかに、何もないのだ。
 念仏は地獄へ行く悪い言葉という者があるようだが、そういうことなのか、それとも、これまで教えてきたように、極楽に往くための言葉か、 今さらこの親鸞に、言わせるつもりか。まったくもって私の知るところではない。
 たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、私は何の後悔もないのだ。

 なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になれる私が、念仏したから地獄に落ちたのであれば、だまされたという後悔もあろう。
 だが、何の善行もできない親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。
(だから念仏に何の効き目がなかったとしても、つまり法然にだまされて地獄に行ったとしても、それはそれで仕方のないことだ)
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 この親鸞の、「たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、私は何の後悔もないのだ」という言葉は強烈ですね。これは例えばキリスト教の牧師の私が、「たとえヨハネにだまされて地獄に堕ちても、私は何の後悔もないのだ」と言うようなものでしょう。ヨハネの言っていることが本当かどうか、私は自信が持てないと告白しているようなものです。
 親鸞はもちろん法然の教えを信じていたと思いますが、それでも自分が信じていることを他の人にも適用できるかどうかを断言していません。
 地上にいて単に人間を超越する神や仏から救いの恵みを受けるだけでは、確信を得るには至らないようです。
 しかし、天に上る感覚を得るなら別です。聖霊を受けて天に上る感覚を得るなら、確かに自分は聖霊を受けているという確信を得ることができます。そして、きょうの聖書箇所のヨハネの手紙第一の言葉もそのまま自分のこととして確信を持って受け入れることができるでしょう。

私たちが天におられる神のうちにとどまる
 第一ヨハネ4章13節、

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 もし天に上る感覚を得ているなら、「私たちが神のうちにとどまる」とは私たちが天におられる神様のうちにとどまると感じることができます。そして「神も私たちのうちにとどまる」では、地上にいる私たちに神さまがとどまることを感じます。つまり天上で神様と共にいることと地上で神様と共にいることを同時に感じることができます。
 続いて14節から17節を交代で読みましょう。

4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

 17節に「私たちもキリストと同じようである」とあります。これは様々な解釈が適用できますが、きょう話したことに沿って解釈すれば、イエス・キリストは天の御父のふところにおられます。そうして聖霊を受けた私たちもまた、天に上る感覚を得て、イエスさまと共に天の御父のふところに共にいることを感じます。そうして深い平安を得られますから、さばきの日のことについて何の心配もありません。

おわりに
 きょうは、天上と地上の両方で同時に三位一体の神様と共にいる感覚を得ることで味わえる深い平安について話しました。天上と地上に同時にいるということですから、空間的なことです。この空間に加えて、時間においても過去も未来も三位一体の神様と同時にいるという感覚を得ると、さらにもっとずっと深い平安を得ることができます。このことについては、次回の礼拝メッセージで話すことにしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
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新しい契約(2019.1.27 礼拝)

2019-01-29 08:06:42 | 礼拝メッセージ
2019年1月27日礼拝・教会総会メッセージ
『新しい契約』
【マタイ18:21~27、26:26~29、ヨハネ17:21~23】

はじめに
 教会総会を前に短く(15分程度)、メッセージを取り次がせていただきます。
 先週の礼拝メッセージでは旧約の時代の古い契約について共に学びました。そして今日は新しい契約について共に学びます。

人々が神を信頼したから結ばれた古い契約
 先週話したメッセージの重要なポイントは、古い契約であっても新しい契約であっても神様に対して全幅の信頼を寄せることが前提になっているということです。そうして先週はアブラハムの時代とモーセの時代の事例をご一緒に学びました。神様はアブラハムに対して、彼の子孫が星の数のように増えるとおっしゃいました。その時、アブラハムにはまだ子供がいませんでしたし、しかもかなりの高齢になっていました。もし彼が疑い深い人間だったら神様の言うことを信じなかったでしょう。しかし、アブラハムは神様を信じました。神様はそれを義と認めてアブラハムと契約を結びました。そしてモーセの時代の人々も神様を信頼して、「主の言われたことをすべて行います」と口をそろえて言いました。それゆえ神様はモーセを通じてイスラエルの人々に律法を授けました。
 このように旧約の時代の古い契約は、まず人間の側が神様を信頼したからこそ結ばれたものです。決して神様が一方的に人間と契約を結んだものではありません。しかし旧約聖書の最後にあるマラキ書の時代の人々は、この前提を忘れていました。神様はマラキの時代の人々も愛していたのに、彼らは「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと言っていました。このマラキ書1章2節からは神様の深い失望を感じ取りたいということを先週は話しました。

新しい契約のために必要だった罪の赦し
 旧約の時代には神様のことばは預言者を通して人々に伝えられました。預言者は聖霊を受けていましたから、天の神様のことばを受け取ることができました。その神様のことばを預言者たちは人々に伝えていました。しかし、そのような間接的な方法では人々はどうしても神様から離れてしまうことになります。そこで神様は新しい契約を結んですべての人々に聖霊を授けることにしました。一人一人に聖霊を授ければ、人々は神様のことばを聖霊を通して直接受け取ることができます。預言者を通して間接的に神様のことばを受け取るのでなく、自分の内に入って下さった聖霊を通して直接神様のことばを聞くことができます。そうすれば神様から離れることはないでしょう。
 しかし、この新しい契約が結ばれるためには「罪の赦し」が必要でした。人々が聖霊を受けるには、人々はあまりにも罪で汚れていました。人がいかに罪深い存在であるかは、旧約聖書を読むと良く分かります。アダムとエバは神様が食べてはならないと言った善悪の知識の木の実を食べてしまい、アダムの息子のカインは弟のアベルを殺してしまいました。モーセの時代の人々は「主の言われたことをすべて行います」と言ったのに、わずかな期間の後に早くも神様から離れてしまいました。旧約の時代の人々の罪深さの事例を挙げ始めたら切りがありません。それぐらい旧約聖書には人間の罪深さを示す記述で溢れています。

罪の赦しのために十字架で流された血
 さて、ここからは新しい契約の話に進みます。新しい時代の契約においても人間の側が神様に全幅の信頼を寄せていることが必要です。それゆえイエスさまと弟子たちはガリラヤからエルサレムまでを時間を掛けて共に旅する中で信頼関係を築いていきました。そして、イエスさまは最後の晩餐の場で新しい契約を結ぶ時に、このようにおっしゃいました。マタイ26章28節です。

26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

 イエスさまは十字架に掛かって血を流しました。それによって人々の罪が赦されることになりました。
 この罪とは旧約の時代の人々が神から離れて犯した罪であり、そしてそれは現代の私たちの罪でもあります。現代の私たちもまた古い契約の時代の人々と同じくらいに神様から離れているという罪を犯しています。カインのような殺人は犯していないかもしれませんが、カインと同じくらいに神様から離れています。いえ、カイン以上かもしれません。
 その重い罪を神様は赦して下さるというのです。それがどれほど気前の良い話かということを例え話で伝えているのが、マタイ18章の21節から27節です。まず21節と22節を交代で読みましょう。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。

 なぜイエスさまが七回を七十倍するまで赦すべきとおっしゃったのか、それはペテロそして私たちがこれまで神様に何度も何度も赦していただいて来たからです。ペテロも私たちも、神様から離れる罪を犯した回数は七回では利かないでしょう。私たちは何度も何度も神様から離れる罪を犯し続けて来ました。七回を七十倍してもまだ足りないのではないでしょうか。そんな私たちを神様は赦して下さったのですから、私たちも他の人々を赦さなければなりません。

返済できないほどの負債を抱えている私たち
 多くの罪を赦していただいたペテロと私たちは一万タラントの負債を免除してもらった者に例えられます。23節と24節を交代で読みましょう。

18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。

 「清算」ということばが出て来ましたね。これは古い契約の時代の罪を清算して新しい契約の時代に入るということです。まず連れて来られた者は一万タラントの負債がありました。一万タラントがどれぐらいの金額か、下の脚注を見ると、「一タラントは六千デナリに相当。一デナリは当時の一日分の労賃に相当」とあります。これを現代の金額に直すと、最近は一日分の労賃が安いと思いますから一万円ももらえないと思いますが、計算し易くするために仮に一万円としましょう。すると一タラントは六千万円です。したがって一万タラントは一万×六千万円で、六千億円です。一日の労賃がこの半分だとしても三千億円です。年末ジャンボ宝くじが一等前後賞合わせて十億円ということですから、その何百倍もあります。
 私たちが犯した罪の大きさはそれほどまでに大きいのですね。これほどの大きな罪を償うことなど私たちには到底できません。つまり負債を返済することはできません。25節と26節を交代で読みましょう。

18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。

 テレビドラマなどでおなじみですが、26節の、「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」は、借金の返済を迫られた人なら誰でも言うことですね。言わば決まり文句です。しかし、そんな何千億円もの負債を返せるわけがありません。それで、27節。

18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

 何という気前の良さでしょうか。神様は素晴らしく気前の良いお方です。私たちが犯した神様から離れていた罪も、この神様の気前の良さによって赦されたものです。ただし、そのためにはイエス・キリストが十字架で血を流す必要がありました。

私たちが一つになるよう天の父に祈ったイエス・キリスト
 マタイ26章の26節から29節までを交代で読みましょう。

26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

 こうして私たちの罪が赦されたから、私たちは聖霊を授かることができたのですね。私たちが聖霊を受けるには、まずはイエスさまが十字架で血を流すことによって罪が赦される必要がありました。そうして初めて私たちは聖霊を受けることができるようになりました。
 イエスさまはまた、この最後の晩餐の場で私たちに一つになるようにおっしゃいました。最後に、ヨハネの福音書17章の21節から23節までを交代で読みましょう。

17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 これから私たちは教会総会を開いて、A教会と一つになるための議決を行います。このヨハネ17章でイエスさまが「一つになる」ことを天の父に祈ったのは、もちろんもっと大きなことのためです。教会同士が一つになるということよりも、もっと大きな単位で私たちが一つになるということです。しかし、その大きなことの中には私たちの教会がA教会と一つになるということもまた、含まれています。
 十字架によって罪が赦された私たちは、イエスさまの下で一つになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
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契約の前提となる神への全幅の信頼(2019.1.20 礼拝)

2019-01-21 08:10:34 | 礼拝メッセージ
2019年1月20日礼拝メッセージ
『契約の前提となる神への全幅の信頼』
【マラキ1:1~2】

はじめに
 この会堂で礼拝を捧げるのも、あと10回程度となりました。まだ細かい日程を決めていませんから、あと何回と正確に言うことはできませんが、概ねあと10回程度だろうと思います。
 この約10回の礼拝のメッセージで何をお話しするか、先週からあれこれ考えていました。去年の11月の段階では、聖書の書を一つずつ取り上げて「マタイの福音書の魅力」とか「ヨハネの福音書の魅力」などとすることを考えていました。しかし、ここへ来て、もう少し大きな観点からメッセージを取り次がせていただきたいと思いました。それで、これからの何回かは、旧約聖書と新約聖書とを交互に1回ずつ取り上げる形式にすることを考えています。 

誰もが聖霊を授かる恵み
 昨年の11月に『旧約聖書の魅力』というタイトルで1度お話をして、12月には4回、四つの福音書の魅力について私が感じていることを話しました。11月の『旧約聖書の魅力』においては、旧約の時代のイスラエルの民が、いかに神様から離れていたかということを話しました。イスラエルの民は、時々は悔い改めて神様と共に歩もうとしますが、すぐにまた神様から離れてしまいました。それは、彼らが聖霊を受けていなかったからだという話をしました。聖霊を受けないと内側からの神様の語り掛けがありません。ですから預言者を通して神様のことばを受け取るということになります。旧約の時代には預言者には聖霊が注がれていましたから、神様のことばを受け取ることができました。それを聖霊が注がれていない一般の人々に伝えていました。しかし、そういう間接的な方法では、人々はどうしても神様から離れてしまうことになります。そこで神様は、方針を大々的に変えて、一般の人々にも聖霊を授けることにしました。ただし無条件に聖霊を授けるわけではありません。これまで神に背を向けていた罪を認めて「イエスが神の子キリストである」ということを信じる者に聖霊を授けるという条件を設けました。
 これはものすごく気前の良い話です。どんな極悪人であったとしても、それまでの罪を認めて「イエスは神の子キリストである」と信じさえすれば救われて聖霊が授けられます。そうして聖霊を授かった者は神様からの語り掛けを自身の内側から直接受けることができるようになりますから、素晴らしい恵みの中に入れられます。去年の12月の四つの福音書の魅力を語るメッセージでは、そのような聖霊の観点から話をさせていただきました。

「契約」の観点から旧約と新約の時代を眺める
 さて今回と次回は「契約」という観点から旧約の時代と新約の時代を眺めてみたく願っています。ご承知のように旧約と新約の「約」は「契約」の「約」です。来週の教会総会では、私たちは合併契約書案に基づいてA教会と合併する契約を結ぶことについての承認の議決を行います。それゆえ、今週と来聖日は「契約」という観点から旧約と新約の時代を眺めるよう導かれました。

大きな悲劇を経験して来たイスラエルの民
 それでは、その入口として先ずは今日の聖書箇所を、もう一度、今度は交代で読みたいと思います。マラキ書1章の1節と2節です。

1:1 宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ【主】のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──【主】のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。

 マラキ書は旧約聖書の最後の書です。預言者マラキの時代まで、イスラエルの民はいろいろなところを通って来ました。彼らが神様から離れてしまうことが多かったことで、彼らは悲惨な目にも遭いました。どれが一番の悲劇か、一番とか二番とか順番を付けられるようなものではないかもしれませんが、敢えて順番を付けるとすれば一番の悲劇はノアの時代に洪水によってノアの一家以外の人類が滅ぼされてしまったことでしょうか。二番目に悲惨だったのは北王国の滅亡でしょうか。そして三番目は南王国の滅亡でしょうか(個人的な感想です)。
 なぜ北王国が二番目で南王国が三番目かというと、南王国の民はバビロンに捕囚に引かれてから約70年後にエルサレムに帰還することが許されたからです。一方で北王国の民はアッシリアに引かれた後、帰還することが許されず「失われた十部族」などとも呼ばれています。イスラエルの部族は12ありますが、ヨセフ族がマナセ族とエフライム族の二つの半部族に分かれましたから、「失われた十部族」を考える時には13の部族を考えると分かりやすいと思います。北王国がアッシリアに滅ぼされた時、南王国にいたユダ族、ベニヤミン族とレビ族の3部族だけが残りました。そして、これらの三つの部族は南王国の滅亡後も失われることなく残りました。これは不幸中の幸いだったと思いますから、十部族が失われた北王国の滅亡のほうが、より悲劇的であったと言えるのではないかと思います。

神の深い失望
 これらの悲劇を通して、イスラエルの民は神様との関係について様々なことを学んだはずです。しかし、結局は何も学んでいなかったのだなという、何とも言えないガッカリ感が、このマラキ1章2節からは漂って来ます。神様の失望感の深さは、いかばかりだったでしょうか。私たちは、神様の深い失望を、このマラキ1章2節から感じ取りたいと思います。

1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 このようにマラキの時代のエルサレムの民からは、契約の前提となる神様への信頼が全く感じられません。南王国のエルサレムはバビロン軍によって滅ぼされ、人々は捕囚としてバビロンに引かれて行きました。しかし約70年後にエルサレムへの帰還が許されてエズラの時代には神殿が再建され、ネヘミヤの時代には城壁が再建されました。これらはすべて、神様による守りと助けと励ましがあったからこそ、できたことです。そうしてマラキの時代に至っています。このように神様は人々を愛していて、再びエルサレムの神殿で礼拝を捧げることができるようにして下さいました。その神様に対して人々は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと寝ぼけたことを言っています。このようなイスラエルの民の不信仰に対する神様の失望感の深さはいかばかりだったでしょうか。
 旧約聖書を読み込まないと、このような人々に対する神様の深い愛とガッカリ感を感じることは、なかなか難しいかもしれません。しかし、このような旧約の時代における神様の深い失望があったからこそ、新約の時代を生きる私たちは父・子・聖霊の三位一体の神様から素晴らしい恵みをいただくことができるようになりました。このことを是非とも皆さんと分かち合いたいと思います。ですから旧約聖書を読み込むことを私は皆さんに強くお勧めしたいと思います。そうして神様の深い愛と失望感への共感を深めていただきたいと思います。

契約の前提となる「信頼」
 私たちが誰かと契約を結ぶ時、契約を結ぶ前に、先ず相手を信頼する必要があります。相手が信頼できるか分からないけれど、とりあえず契約してみて、ダメだったら破棄しましょうということはしないでしょう。相手が信頼できるからこそ契約書を交わして契約します。時おり報道される会社同士の合併などを見ていても、会社のトップの社長同士の話し合いで「合併しましょう」ということになっても、そのまま合併契約に至るとは限らないことが分かります。両方の会社の担当者が合併に向けて協議を重ねる中で信頼関係が醸成されて、互いに信頼できるということになれば、合併契約を結ぶことになるでしょう。しかし、協議の過程で相手をどうしても信頼できない、或いは互いの利益にならないということになれば契約には至らないでしょう。
 では教会の合併の契約の場合はどうでしょうか。会社の合併と似ている点もありますが、異なる点もあります。教会の合併の場合は、どちらの教会も神様に対して全幅の信頼を寄せていることを確認し合うことが、先ずは大前提となるのではないでしょうか。そのことが確認できていれば、二つの教会の間にある多少の違いは神様の御守りと御助けと励ましによって乗り越えて行くことができるでしょう。去年の教会総会からの私たちの1年間は、それを確認するための1年間であったということができるかもしれません。
 信仰生活においては、先ずは神様に全幅の信頼を寄せることが大切です。古い契約の時代においても、このことが大前提になっています。しかし、マラキの時代の人々は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと言っていましたから、契約の前提ができていませんでした。

アブラムが神を信じたので結ばれた契約
 私たちが神様と契約を結ぶ時、契約書の文言は神様によって与えられます。会社の合併のように二つの会社の間で契約書の文言を刷り合わせて契約書を作成するということはしません。神様が私たちを愛していて下さり、守って下さっていることが分かりますから、その神様に全幅の信頼を寄せることで契約が結ばれます。マラキの時代にはそれができていませんでしたが、創世記の時代のアブラムにはできていました。創世記15章の5節と6節を交代で読みましょう(旧約聖書p.21)。

15:5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
15:6 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 主はアブラムに、彼の子孫は星のように増えると仰せられました。この時、アブラムにはまだ子供がいませんでしたし、既にかなりの高齢になっていましたが、主のことばを信じました。続いて7節と8節を交代で読みます。

15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した【主】である。」
15:8 アブラムは言った。「【神】、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」

 すると主は言われました。9節と10節を交代で読みます。

15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。

 これは契約を結ぶ儀式のための準備でした。アブラムが主を信じたので、契約が結ばれることになったのですね。そして17節で契約の儀式が執り行われました。

15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

 こうして契約が結ばれました。まずアブラムが主を信頼したという前提があったから契約が結ばれました。

イスラエルの民が神を信じたので結ばれた契約
 モーセの時代の契約も同様です。まずイスラエルの民が主を信頼して契約を守ると言ったので、主はモーセを通して契約のことばを伝えて、その後に契約が結ばれました。今度はモーセの時代を見ましょう。まず19章5節をお読みします。

19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

 主がモーセを通してイスラエルの民に律法を授けるのは20章からですから、この19章の段階ではまだ律法は与えられていません。まず5節で主は、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」とモーセを通して仰せられました。それに対してイスラエルの民は8節のように答えました。19章8節、

19:8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは【主】の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて【主】のもとに帰った。

 それゆえ主は20章から、モーセを通して十戒から始まる律法を授けました。ただし、まだ契約は結ばれていません。契約が結ばれたのは24章です。24章3節、

24:3 モーセは来て、【主】のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「【主】の言われたことはすべて行います。」

 そうして契約を結ぶ儀式が行われました。4節から8節までを交代で読みましょう。

24:4 モーセは【主】のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
24:5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を【主】に献げた。
24:6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
24:7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
24:8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」

 こうして契約が結ばれました。今ご一緒に読んだように、神様と旧約の民との間の契約は、決して神様の側から一方的に結んだ契約ではありません。民が神様を信頼して契約を結ぶ意志を示したから結ばれた契約です。しかし、イスラエルの民はこの契約を守ることができませんでした。マラキの時代に至っては、このモーセの時代の初心をまったく忘れてしまっていました。

おわりに
 契約を結ぶに当たっては、先ずは神様に全幅の信頼を寄せることが大前提となります。それは古い契約であっても新しい契約であっても同じです。次回の来聖日には、新しい契約について短く共に学びたいと思います。イエスさまが弟子たちと新しい契約を結んだのは最後の晩餐においてでした。このことを学び、その後に教会総会を開催して、A教会との合併契約書案に基づく合併を承認するかの議決を行うことにします。私たちは心を整えて来週の教会総会に臨みたいと思います。これからの一週間、イエスさまが私たちを整えていて下さいますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

24:6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
24:7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
24:8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」
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新年の天の虹からのメッセージ(2019.1.6 新年聖餐式礼拝)

2019-01-07 08:46:45 | 礼拝メッセージ
2019年1月6日新年聖餐式礼拝メッセージ
『新年の天の虹からのメッセージ』
【ヨハネ15:1~5】

はじめに
 きょうはまず、1月2日の夕刻にあったことから話を始めたいと思います。
 私は夕方はなるべく海岸の防潮堤の上か下をゆっくり走るようにしています。ただし天気が悪い日は走りません。1月2日の夕刻は、あられ混じりの小雨が降っていて天気はあまり良くありませんでした。ですから走るかどうか迷いましたが、年末年始に食べ過ぎていたので運動をしておきたかったことと、西の空は良く晴れていたので雨が強くなることはないだろうと判断して走り始めました。この日は風はそれほどありませんでしたが、小雨という気象条件でしたから、防潮堤の上ではなくて、向こう側の下側を走りました。防潮堤の下は上よりも風が弱く、所々で松林の下を通ります。松林の下では雨をしのぐことができます。ですから風や雨の時は私は防潮堤の向こう側の下を走ります。ちなみに私は防潮堤のこちら側の松林の中は走りません。こちら側の道からは海も富士山も見えないからです。

沼津の天空に現れた大きな虹

 この日もいつものように、まず西に向かって走り、大きくて目立つマンションのベルメゾン原の辺りで引き返して来ました。ここからベルメゾン原まで約2.5kmです。ですから私が走る距離はいつも往復5km程度です。以前は、もう少し長く走っていたこともありましたが、疲れるのでやめました。5km程度が私にはちょうど良いようです。
 さて、この日、ベルメゾン原で引き返して途中の松林を抜けた所で、北東の空に虹が架かっているのが見えました。東に向かって走っていましたから、西南方向からの西日を受けて虹が架かっているのが見えたのです。それで、私は防潮堤の上に上がることにしました。防潮堤の下では、虹の下の方が見えなかったからです。この時はまだ、虹は半円にはなっておらず、半円の1/3程度でした。しかし、しばらくすると半円状になりました。やはり半円になるかならないかでは、美しさがぜんぜん違うと思いました。そして、この日何よりも素晴らしかったのは、防潮堤の上から見たことで、南西に沈む夕陽と北東に架かる虹の両方を楽しむことができたことです。防潮堤のこちら側にいたら、建物に隠されて虹の一部しか見ることができなかったでしょうし、夕陽は松林と防潮堤に隠されていたでしょう。防潮堤の上にいたことで、虹の全体と夕陽の両方を楽しむことができました。
 ただし少し残念だったのは、カメラを持っていなかったことです。私は走る時には携帯電話は持って出ません。走る時にポケットの中で上下に動くと走りにくいからです。それで、教会に急いで携帯を取りに帰ることも考えましたが、防潮堤に戻る前に虹が消えてしまうかもしれませんから、取りに帰るのはやめて自分の目に虹を焼き付けることに専念することに決めました。私の役割は、この素晴らしい光景を写真で人々に示すことではなくて、ことばで伝えることだと思ったからです。
 とは言え、ことばはそう簡単には出て来ませんでした。聖書で虹が出て来る記事ではノアの洪水の後の場面が有名ですが、3.11の津波被害のこともありますし、最近でもインドネシアで津波の大きな被害があったばかりですから、メッセージとしては誤解を招く恐れがあって、あまりふさわしくないと思いました。それで2日の晩から3日、4日と思い巡らし、昨日の5日の朝からようやく今日のメッセージとしてお伝えできることはが示されたように感じています。それは、きょうの週報にも書きましたが、

 「虹は父・子・聖霊の三位一体の神が太陽のプロジェクターを使って天の水滴のスクリーンに投影した、壮大な聖書のメッセージ」

ではないかということです。

太陽のプロジェクターで投射された天からのメッセージ
 虹は、太陽の光が水滴の中で反射した光が見えているものです。太陽の光は色々な色の光が重なり合っています。そうして水滴がプリズムとして働きますから、太陽の光は水滴の中に入った時に屈折して様々な色に分かれます。そして、出て来る時も屈折しますから、幅が広がって大きな幅を持った帯状の虹が現れます。
 さて虹の色は七色に例えられることが多いですが、実は色の数は無限にあります。そして聖書のことばも光を放っています。詩篇119篇の詩人は、「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」(詩篇119:105)と詩っています。その光の色もまた、無限にあると言えるのではないでしょうか。まず聖書の光は最低でも66の色があります。聖書には66の書があるからです。そして、一つ一つの書からも様々な色の光が出ています。例えば、詩篇は一つの書としてカウントしますが、詩篇の一つの書だけでも150もの詩が収められています。また、一つの詩でも例えば詩篇119篇には176もの節があります。そうすると、やはり聖書のことばの光の色は無限であると言えるでしょう。
 そして、この聖書の光の無限の色は、父・子・聖霊の三位一体の神が作り出しています。プロジェクターの光の色は、赤・緑・青の光の三原色が作り出していて、赤・緑・青のそれぞれの色が多いか少ないかで様々な色が作り出されていると思います。聖書の光も父・子・聖霊が様々に重なり合って多様な色の光が出ていると言えるのではないでしょうか。例えば旧約聖書では父の光の成分が多く、福音書は子の成分が多く、使徒の働きやパウロの手紙は聖霊の成分が多いといった具合です。
 そして感嘆すべきは天の虹のプロジェクターとスクリーンとの距離です。太陽がプロジェクターですから地球上の水滴のスクリーンまで、その距離の大きさに感動します。三位一体の神様は宇宙という大きな空間を使って私たちに大きなメッセージを送って下さっていると受け留めたいと思います。もちろん宇宙全体の大きさから言えば、太陽と地球の距離など取るに足りない短い距離でしかありません。しかし太陽系を超える銀河や、それらすべてを含む大宇宙の大きさは想像を絶しますから、とりあえずは太陽と地球との距離を想像するだけでも良いのではないかと思います。と言うのは、普段の私たちは神様のメッセージをとても狭い範囲でしか捉えておらず、大きくてもせいぜい地球レベルでしか捉えていないだろうと思います。ですから太陽系レベルの大きさでも、なかなか考えることができていないと思います。

スケールの大きなキリスト教
 元旦礼拝でお伝えした今年の教会のメッセージは、こういう大きなスケールで捉えていただけると感謝だなと思います。今年の私たちの教会の聖句は、ローマ人への手紙12章10節の、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」です。今年私たちは他教会と一緒になりますから、私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合わなければなりません。そういうわけで、この聖句が示され、今年の教会の聖句としました。しかし、キリスト教とはこのように真面目できよい生活を尊ぶ宗教だと世間からは思われているふしがあり、中にはクリスチャンでも、そのように思っている人がいることに、私は常日頃から若干の危惧を抱いています。
 私たちがきよい生活を目指すのは、乱れた生活では霊性が整わずに、その結果、神様との豊かな交わりができなくなるからです。マタイの福音書5章8節でイエスさまはおっしゃいました(週報p.3)。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」。心をきよく保つなら霊性が整えられて神を見ることができます。すなわち三位一体の神様との豊かな交わりの中に入れていただくことができます。イエスさまを信じないで聖霊を受けていない人々は、このことの豊かな恵みを知りませんから、クリスチャンのきよい生活の表面だけを見て、キリスト教とは真面目できよい生活を尊ぶ宗教だと思っていると思います。それゆえキリスト教が矮小化されてしまって、三位一体の神様が宇宙スケールの壮大なお方であることが伝わっていないことを私自身はとても残念に思っています。キリスト教はそんな小さな宗教ではありません。
 きょうの聖書交読でエペソ人への手紙3章をご一緒に読んだのは、それゆえでもあります。このエペソ人への手紙からはキリスト教がいかにスケールの大きな宗教であるかが分かると思います。もう一度、エペソ3章の14節から21節までを交代で読みましょう。

3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 私たちは18節と19節にあるように、人知をはるかに越えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかをしっかりと理解できる力を持ちたいと思います。決して小さなものに矮小化してはならないと思います。

スケールの大きなイエスにとどまる
 ローマ12章10節でパウロは「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」と書いていますが、「互いに愛し合いなさい」はもともとはイエスさまがおっしゃっていたことです。元旦礼拝でも共に読みましたが、ヨハネ13章の34節をご一緒に読みましょう。

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 このように言われたイエスさまは大きなお方であることを覚えていたいと思います。そしてイエスさまは15章12節でも、互いに愛し合うようにおっしゃっています。ご一緒に読みましょう。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 そして、もう一ヵ節、15章17節も、ご一緒に読みましょう。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 イエスさまは15章でこのようにおっしゃる前に、きょうの聖書箇所の1節から5節までのことをおっしゃいました。15章の1節から5節までを交代で読みます。

15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 イエスさまは4節で、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。このように「互いに愛し合いなさい」と言い、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃったイエスさまはパウロがエペソ人への手紙3章で書いたように、人知をはるかに越えた大きさの愛を持つお方であることを、しっかりと覚えておきたいと思います。一度信仰を持っても教会から離れて行く方々もいますが、その方々はイエス・キリストが人知をはるかに越えた愛を持つお方だということを実感できていなかった方々ではないかなあという気がします。実感していれば、イエスさまからの巨大な引力を感じて離れることはないのではないかとも思います。
 人知をはるかに越える愛を持つイエス・キリストが「わたしにとどまりなさい」とおっしゃるのですから、私たちはイエスさまにとどまっていたいと思います。他教会と一緒になると、この会堂での礼拝がなくなりますから、これまでと違って来ます。なかなか礼拝に出席できなくなる、ということもあるかもしれません。しかし、イエスさまは「わたしにとどまりなさい」とおっしゃっています。ですから私たちはイエスさまにとどまりたいと思います。

おわりに
 これから聖餐式を執り行います。聖餐式はイエスさまとの食事の場です。イエスさまと共に食事ができることは、イエスさまにとどまっている者の特権です。イエスさまは最後の晩餐の場で「わたしにとどまりなさい」とおっしゃり、そうして十字架へと向かっていきました。このイエスさまの人知をはるかに越えた大きな愛に思いを巡らし、聖餐式に臨みたいと思います。
 お祈りいたします。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
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兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい(2019.1.1 元旦礼拝)

2019-01-04 11:01:12 | 礼拝メッセージ
2019年1月1日元旦礼拝メッセージ
『兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい』
【ローマ12:9~12】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。
 新年の最初の礼拝では毎年、その年の教会の聖句を発表することにしています。今年の私たちの教会の聖句はローマ人への手紙12章10節の、

「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」

 今年の教会の聖句をこのローマ12:10にしたのは何ゆえか、皆さんはもう気づいておられると思います。言うまでもなく、それは今年の春に私たちの教会が他教会と一緒になる運びになっているからです。私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いたいと思います。
 教会が異なれば、文化の違いのようなものが生じることは避けられないことです。同じ教団の教会でも、かなりの違いがあります。私は神学生の頃に実習で様々な教会に遣わされましたが、本当にいろいろでした。同じ教団の教会とは思えないというギャップを感じたこともありました。まして教団が違えば、さらに違いは大きくなるでしょう。しかし、違うとは言っても同じイエス・キリストを主と仰ぐキリスト教会であることに変わりはありませんし、私たちの教会は様々な点で非常に近い関係にあります。ですから私たちは今年の春に一緒になる教会の皆さんと兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いながら信仰の道を共に歩んで行きたいと思います。
 きょうは、パウロがこのような手紙を書いたことの背景を共に学び、それからその他の書などからも関連することを学んで行くことにしたいと思います。

食事の問題を抱えていたローマの教会
 以前、礼拝メッセージの中でも取り上げたことがありましたが、ローマの教会では信徒同士が対立する問題を抱えていました。パウロがこのローマ人への手紙を書いた時、パウロはまだローマを訪れたことがありませんでした。それなのにパウロがローマの教会が抱えていた問題を伝え聞いて知っていたということから、この問題がかなり深刻であったことが伺えます。対立点として具体的に書かれているのは、食事の問題です。以前も取り上げたことがありますが、ローマ14章を、ご一緒に見て行くことにしましょう。
 14章の1節から4節までを交代で読みましょう。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
14:4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

 野菜しか食べない弱い人とは、どういう人なのか、ここだけだと分かりにくいですが、14節と15節を読むと、もう少しはっきりします。14節と15節、

14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

 ここを読むと、野菜しか食べない人は、肉が汚れていることを気にしている人のようです。例えば市場に出回っている肉は、一度偶像に捧げられた肉かもしれませんし、捧げられていない肉かもしれません。それは買う側にはなかなか分からないことです。そのことを気にして肉を食べない人がいたと言われています。コリント人への手紙を読むと、この辺りの事情がもう少し分かりますが、きょう、ご一緒に分かち合いたいことは、偶像に捧げた肉を食べるか食べないかの問題についてではなく、異なる考え方を持つ多様な人々が集う教会の教会員が、いかにして一つにまとまって行くかということですから、そちらのほうに集中することにします。

兄弟愛をもって互いに愛し合うために
 ローマ人への手紙を12章から見て行きます。兄弟愛をもって互いに愛し合うためには、自分中心であってはなりません。パウロはまず、自分のからだを神にささげることを勧めます。1節、

12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

 教会に集う者たちは、自分中心ではなくて神中心になる必要があります。そのように神中心になった者は、この世と調子を合わせて、世の人々のように争い事に明け暮れることはありません。2節、

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 自分で自分を変えるのでなく、神に自分を変えていただきなさいとパウロは勧めます。自分で自分を変えようとしている間は、神のみこころは何かが分かりません。しかし自分を神に捧げてすべてを神に委ねるなら、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるようになります。
 牧師の私自身は一緒になる教会に皆さんと行くわけではありませんが、いま私は私自身も一緒に行くつもりになって、パウロの勧めを読んでいます。そのように、具体的なことを思い浮かべながら、このローマ12章を読むと、心への響き方が全然違いますね。一昨日の賛美歌で、「人生の海の嵐に」を歌った時も、昨年の一年間にあったことを思い浮かべながら歌ったら、この賛美歌がとても心に響いてきました。やはり聖書や賛美歌はただ漠然と読んだり歌ったりするのでなく、具体的な事柄を思い浮かべながら読んだり歌ったりすべきだということを改めて教えられた気がします。

思い上がってはいけない
 続いて3節、

 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。

 霊的に整えられて神との交わりが深まると、ついつい気が大きくなってしまうかもしれません。私などはそういう傾向がありますが、そんな風に思うべき限度を超えて思い上がってはいけないのですね。神様が私に与えて下さった信仰の量りも、思い上がっていると大きな量りが与えられていると勘違いしてしまうかもしれませんが、慎み深く考えなければいけないのでしょう。この点は私自身は大いに反省させられます。
 続いて4節と5節、

12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

 同じような表現は第一コリントにもありますね。教会の中にあって私たち一人一人はひとつの器官です。心臓には心臓の働きがあり、胃には胃の働きがあり、腸には腸の働きがあります。6節から8節、

12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。

 このように、それぞれに与えられた賜物に応じて私たちは教会で奉仕します。ただし、今年の私たちの場合は、最初は様子を見たほうが良いだろうと思います。様子をみながら少しずつなじんで行くべきだろうと思います。

へりくだることの手本を示したイエスさま
 そうして、きょうの聖書箇所に入って行きます。9節と10節、

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 兄弟愛をもって互いに愛し合うためには思い上がらずに自分を低くする必要があります。そうして相手をすぐれた者として尊敬しなければなりません。
 この、自分を低くすることのお手本を示しているのが、イエスさまですね。一昨日の年末感謝礼拝のメッセージの時にも開きましたが、ヨハネの福音書13章を、きょうもご一緒に読むことにしたいと思います。ヨハネ13章の4節と5節を、交代で読みましょう。

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 このようにイエスさまは最後の晩餐の場で弟子たちの足を洗い、自分を低くすべきであることを率先して示されました。そうして14節でおっしゃいました。14節、

13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

 それからイエスさまは弟子たちに新しい戒めを与えました。34節ですね。

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 人々の間で争い事が生じる時には、だいたいの場合、自分が相手よりも上だと思っていることが多いのではないでしょうか。イエスさまは自分を低い立場に置くことを勧め、互いに愛し合いなさいという戒めを弟子たちに与えました。

神であるにもかかわらずへりくだったお方
 イエスさまは神であるにも関わらず、弟子たちの足を洗うという自分を低い場所に置くことができるお方でした。イエスさまがへりくだった方だというと、ピリピ人への手紙2章を思い起こす方も多いでしょう。今度はピリピ2章の1節から8節までを交代で読みましょう。

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 このピリピ人への手紙も、ただ漠然と読むのでなく、これから一緒になる教会の皆さんと一緒になって信仰の道を歩んで行くことを具体的に考えながら、読みたいと思います。

おわりに
 このピリピ2章に書かれているイエスさまのことを思い、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったイエスさまのことを思い、そうして今年の私たちの教会の聖句のローマ12章10節を読むなら、これから一緒になる教会の皆さん方と共に信仰生活を送る上で、このことが大切であることが、一層よく分かるでしょう。教会はキリストの体ですから、へりくだったイエスさまの御姿をお慕いしながら、今年私たちは新しい場所へと踏み出して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」
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ヨハネの福音書の魅力:1書で2度おいしい(2018.12.30 年末感謝礼拝)

2018-12-31 08:21:55 | 礼拝メッセージ
2018年12月30日年末感謝礼拝メッセージ
『ヨハネの福音書の魅力:1書で2度おいしい』
【ヨハネ1:35~40】

はじめに
 きょうは今年最後の礼拝です。今の日本では「平成最後の」という枕詞(まくらことば)で溢れています。平成最後のクリスマス、平成最後の大掃除、平成最後の仕事納め、平成最後の大晦日、平成最後の紅白歌合戦など、とにかく何でもかんでも「平成最後」ということになります。
 それは私たちの教会も同じですね。私たちの教会は来年の春に他教会と合併する予定ですから、あらゆる行事が「最後の何とか」ということになります。1回1回の礼拝を私たちは大切に守って行きたいと思います。

一書で2度おいしい福音書
 さて12月の礼拝メッセージは4回のシリーズで、これまでに『マルコの福音書の魅力』、『マタイの福音書の魅力』、『ルカの福音書の魅力』というタイトルで話をして来ました。そして今日のタイトルは『ヨハネの福音書の魅力』です。このタイトルには「1書で2度おいしい」というサブタイトルも加えました。この「1書で2度おいしい」とは、どういうことか。きょうのメッセージでは、あまりもったいぶらずに最初のほうで解き明かすことにします。というのは、『ヨハネの福音書』は「1書で2度おいしい」ということを思い巡らしていたら、これはヨハネに限らず、『マタイの福音書』も『マルコの福音書』も『ルカの福音書』も皆、「1書で2度おいしい」ということに気付いたからです。ですから、ヨハネの「1書で2度おいしい」を簡単に説明した後で、マタイ・マルコ・ルカについても振り返ることにして、最後にもう一度ヨハネに戻る、きょうのメッセージはそういう組立になっています。
 私が子供の頃、テレビのコマーシャルでアーモンドグリコの「1粒で2度おいしい」というキャッチコピーが盛んに流れていました。最近は聞くことがなくなりましたから、もうアーモンドグリコは売っていないのかなと思っていたら、今でもちゃんと売っているのですね。ネットで検索したら出て来ました。「1粒で2度おいしい」というキャッチコピーも健在でした。アーモンドグリコの「1粒で2度おいしい」は、キャラメルの中にアーモンドの粒が入っていて、口に入れるとまずキャラメルの味を楽しむことができ、次にアーモンドの香ばしさも楽しむことができるというものです。これが「1粒で2度おいしい」ということです。

1度目と2度目以降で異なる読み方
 では『ヨハネの福音書』の「1書で2度おいしい」とは、どういうことかを早速説明したいと思います。きょうの聖書箇所をもう一度、今度は交代で読みたいと思います。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 この箇所は礼拝でも、もう何度も取り上げましたから、私たちがここを読むのは1度目ではありませんが、もし1度目だとしたら、ここに書いてある通りに素直に読むべきです。しかし2度目以降に読む時には違う味わい方ができますでしょう。それが「1書で2度おいしい」ということです。
 1度目にこの『ヨハネの福音書』を読んで20章の最後まで来ると、次のように書いてあります。

20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 この『ヨハネの福音書』を読んで「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、その人は聖霊を受けて永遠の命を得ることができます。そうして聖霊を受けた者は御父と御子との交わりの中に入れられます。

聖霊を受けると御父と御子との交わりの中に入れられる読者
 次にヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.478)。ここも礼拝では良く開く箇所ですが、この手紙は『ヨハネの福音書』の記者のヨハネと同じヨハネが書いたものです。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 ヨハネは福音書を書くことで私たち読者にイエスさまのことを伝えてくれました。そうして私たち読者が「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、私たちは聖霊を受けて御父また御子イエス・キリストとの交わりに入れられます。そうして私たちは喜びが満ちあふれます。「喜びが満ちあふれる」とは「聖霊に満たされる」ことだと言っても良いでしょう。そうして聖霊に満たされた状態でもう一度『ヨハネの福音書』を読むなら、まったく違った読み方をすることができます。

聖霊を受けると復活したイエスと出会う読者
 もう一度ヨハネ1章35節に戻ります。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。

 この二人の弟子が誰かと言うと、40節に

1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

とありますから、一人はアンデレであったことが分かりますが、もう一人は誰か分かりません。一度目に読む時は誰か分からないでも良いのですが、聖霊に満たされて二度目に読むなら、それは読者自身のことかもしれません。なぜならヨハネの手紙第一の1章で読んだように、読者はヨハネたちの交わりの中に入れられたからです。
 従って、35節の「ヨハネ」も一度目に読む時は「バプテスマのヨハネ」ですが、2度目に読む時は「福音書の記者のヨハネ」かもしれません。すなわち使徒ヨハネです。聖霊を受けた読者は使徒ヨハネとの交わりの中に入れられて、使徒ヨハネの導きで復活したイエスさまと出会うことができます。36節、

1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。

 このイエスさまは復活したイエスさまです。使徒ヨハネは復活したイエスさまを見て、「見よ、神の子羊」と言いました。37節、

1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 こうして聖霊を受けた読者は復活したイエスさまに付いて行きます。38節と39節、

1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 イエスさまがどこに泊まっておられるのか、一度目に読む時には地上生涯のイエスさまですから、地上のどこかの家か宿ということになります。しかし聖霊に満たされて二度目以降に読む時には、復活したイエスさまがおられる所は天の御父のみもとです。ですから、39節で聖霊に満たされた読者が見るイエスさまが泊まっておられるところとは、天の御父のおられるところかもしれません。なぜなら聖霊に満たされた読者は御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられているからです。

マタイ・マルコ・ルカでも味わえる「1書で2度おいしい}
 このように、聖霊を受けた読者が二度目以降に『ヨハネの福音書』を読むなら、一度目とは違う読み方を楽しむことができます。これが『ヨハネの福音書』は「1書で2度おいしい」ということです。しかし考えてみると、これは『ヨハネの福音書』に限らないのですね。『マタイの福音書』でも『マルコの福音書』でも『ルカの福音書』でも同じことです。例えばマタイ5:16(週報p.3)の

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」

の「光」とは何か、1度目に読む時はよく分からないと思いますが、聖霊を受けた者が読むなら「光」とは聖霊のことであると分かるでしょう。
 また、マタイ13章にある種まきの例えの、「別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」(マタイ13:8、週報p.3)の「良い地」とは「聖霊を受けた者」のことであり、結んだ「実」は、パウロがガラテヤ5章に書いた「御霊の実」と結び付けて考えることもできるでしょう。すなわち「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22-23)。

 このように、同じ『マタイの福音書』でも『ヨハネの福音書』でも、読者の霊的な状態によって違う読み取り方ができます。聖書にはこう読むべきだという決まりはありません。読む者の霊的なレベルに応じて豊かな霊的な糧を与えてくれます。ですから、読み方によって分派・分裂が生じてしまうのは、とても残念なことだと思います。
 聖書が豊かな内容を含んでいることは、例えば太陽の光に例えられると思います。太陽の光は、虹を見れば分かるように、いろいろな色の光を含んでいます。目には見えない赤外線や紫外線も含んでいます。目に見えない天にいるイエスさまは赤外線や紫外線に例えられるかもしれません。目に見える赤い光や青い光もあります。これらは全部太陽の光です。聖書にもいろいろな色の光があります。それに応じるようにしてキリスト教が分派・分裂しているのは本当に残念なことだと思います。虹のように光の色が分かれることを「分光」と言いますが、キリスト教の教派も分派・分裂しています。しかし、聖書の光の色が分光するのはキリストの教えの豊かさのゆえなのですから、いくつもの教派に分派・分裂してしまうのは、とても残念なことだと思います。

イエスの愛弟子へと成長する読者
 さて、「1書で2度おいしい」味を味わえるのは『ヨハネの福音書』に限らずマタイ・マルコ・ルカも皆そうだと言いましたが、ヨハネでしか味わえない独特の味もあります。それは、「イエスの愛弟子」です。最後に愛弟子の箇所を何箇所かご一緒に見て、今年最後のメッセージを閉じたいと思います。
 まずヨハネ13章を見ましょう。13章の3節から5節までを交代で読みましょう。

13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 これは十字架の前日の最後の晩餐の場面のことです。ここでイエスさまは弟子たちの足を洗いました。そして、この弟子たちの中には「イエスの愛弟子」もいました。

13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 1章を読んだ時に、聖霊を受けた読者はイエスさまの弟子となってイエスさまに付いて行くことができるようになると話しましたが、そうして2章、3章、4章とイエスさまと一緒に旅を続けて行くことで、弟子として段々と成長して行き、13章で遂に愛弟子にまでなる、と読むこともできるでしょう。ただし読者自身が、この最後の晩餐の席に自分も参加していると感じられるぐらいにイエスさまとの深い交わりの中に入れられるためには、かなり整えられた深い霊性が必要でしょう。私もまだまだですから、そういう整えられた者になりたいと思います。
 続いて十字架の場面の19章の25節から27節までを交代で読みます。

19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 ここにも愛弟子がいます。私たちは、この十字架の場面にも霊的に立ち会うことができるほどに、イエスさまとの深い交わりの中に入れられたいと思います。
 そして、21章の最後の24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 私たち一人一人は聖霊を受けてイエスさまと霊的に出会いました。そうして多くの恵みをいただきました。その恵みを証ししたものもまた、福音書です。今年、私たちの教会では教会員のご労によって証し集を発行することができました。この証し集もまたイエスさまからいただいた恵みを証ししたものです。或いは以前、私たちは第一聖日の礼拝では救いの証しや恵みの証しの時を持っていました。その一部はインターネットのブログでも公開しました。それらは私たちの恵みの証しのほんの一部で、まだまだ書き記していないこともたくさんあります。そして、そのような証しは日本中、世界中の教会で為されていて、それらもまた恵みの証しのごく一部でしかないでしょう。ですから、それらを一つ一つすべて書き記すなら、25節にあるように、世界もその書かれた書物を収められないというのは本当のことです。決して大げさなことではありません。

おわりに
 ここまで今年最後のメッセージで、『ヨハネの福音書の魅力』を分かち合うことができて感謝でした。一度目に『ヨハネの福音書』を読む時には、イエスさまのことをそんなに身近には感じないでしょう。しかし、この書を読めば読むほどイエスさまとの交わりの中にどんどん深く入れられるようになり、愛弟子へと成長して行くことができます。それが『ヨハネの福音書』の魅力だと思います。
 イエスさまが私たちに、「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」と声を掛けて下さったことに感謝して、来年もまたイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「あなたがたは何を求めているのですか」
「来なさい。そうすれば分かります」
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ルカの福音書の魅力(2018.12.23 礼拝)

2018-12-25 17:46:19 | 礼拝メッセージ
2018年12月23日クリスマス礼拝メッセージ
『ルカの福音書の魅力』
【ルカ3:21~22】

はじめに
 クリスマスおめでとうございます。
 クリスマス礼拝のきょう、イエス・キリストのご降誕を心一杯お祝いしたいと思います。全国の教会では、きょうのクリスマス礼拝で洗礼を受ける方も多くいらっしゃると思います。新しいクリスチャンの誕生をも私たちは心一杯お祝いして、その方々のこれからの信仰の歩みが豊かに祝されますようにも、お祈りしていたいと思います。
 すでに何度か話しましたが、2018年の今年のカレンダーの曜日の巡りは、広島と長崎に原爆が投下されて終戦となった1945年と同じです。そして、アメリカで同時多発テロがあった2001年とも同じです。つまり1945年も2001年も12月23日がクリスマス礼拝の日でした。そして実は、私が出身教会の高津教会で洗礼を受けたのが、2001年の12月23日でした。私は17年前のきょう、公式にクリスチャンになりました。

人はいつクリスチャンになるのか
 人がいつ、クリスチャンと呼ばれるキリスト教徒になるのか、公式的にはやはり洗礼を受けた時だと思います。しかし、実質的には聖霊を受けた時がクリスチャンになった時だと言えると思います。「イエスさまは神の子キリストである」と信じた者に神様は聖霊を授けて下さいます。ただし、洗礼は人間の牧師が授けるものですから、自分がいつ洗礼を受けたかは分かりますが、聖霊は目に見えない神様が授けて下さいますから、自分がいつ聖霊を受けたのかは、とても分かりにくいと思います。イエスさまの弟子たちがペンテコステの日に聖霊を受けた時のように、天から突然、激しい風が吹いて来たように響きが起こり、家全体に響き渡った(使徒2:2)というようなことが起これば、非常に分かりやすいですが、たいていは気付かないうちに聖霊を受けていることが多いのではないでしょうか。
 かつて私は、自分がいつ聖霊を受けたのかを考えたことがあります。そうして私が聖霊を受けたのは「パウロがダマスコ途上でイエス・キリストと出会ったことを信じた時」であろうと今は考えています。しかし、100%の確信があるわけではありません。そうではないかなと思っている程度です。
 ただ、自分が一歩一歩クリスチャンへと向かう階段を上って来た過程というのは思い返すことができますから、その中のどこかであることは確かだと思います。一歩一歩クリスチャンへと向かう階段というのは、もう少し具体的に言えば、例えば、明日は教会に行こうと思った日などのことです。そうして教会に導かれた私は、次には自分の聖書が欲しいと思いました。これも結構、重要な一歩だったと思いました。それから、まだ洗礼を受けることなど全く考えていなかった頃に聖餐式がありました。聖餐式の間、その恵みに与ることができなかった私は会堂の中でとても孤独に感じました。その時初めて、いつかは洗礼を受けることを考え始めるかもしれないと思いました。そして、その機会は思ったよりも早く訪れました。ただし、自分が洗礼を受けたいと思っていることを表明するまでには、それなりの葛藤がありました。私は神社で参拝することが好きでしたから、神社を参拝する生活から離れたくないとも思い、かなり悩みました。また、家族がどう思うかということも、とても気になりました。そういう思いを先ずは牧師の藤本先生ではなくて少し年上の信徒に打ち明けました。そして、それが藤本先生に伝わって祈っていただいたりしました。そういう数々のステップを少しずつ踏んだ末に洗礼を受けて、公式にクリスチャンになりました。ただし後になって考えると、洗礼を受けるよりも、もっと早くに「イエスさまは神の子キリストであると信じて」聖霊を受けて、実質的にはクリスチャンになっていたのだと思います。

ルカの福音書と使徒の働きを並べると聖霊のことがよく分かるという魅力
 さて、前置きが少し長くなりましたが、きょうのクリスマス礼拝のメッセージのタイトルは『ルカの福音書の魅力』です。前々回は『マルコの福音書の魅力』、前回は『マタイの福音書の魅力』というタイトルで話をしました。これは私が個人的にマタイとマルコの福音書のどんな所に魅力を感じているかという話でしたが、マタイの福音書もマルコの福音書も、共に聖霊を受けることの大切さを読み取ることができるという点に、私は大きな魅力を感じています。そして、クリスマスにイエスさまがこの世にお生まれになったのは、地上で弟子たちにこれらのことを教えて、後に聖霊を与えることに備えさせるためだ、ということをマタイとマルコの福音書が暗に伝えていることにも魅力を感じています。
 そして、今日これから話す『ルカの福音書の魅力』は、今年の前半の礼拝でも取り上げましたが、ルカが福音書の次に使徒の働きを書き、この二つの書を並べて考えると、ますます聖霊の重要性が分かるという点にあると思います。もしルカの福音書の後に使徒の働きが書かれていなければ、私たちは聖霊の大切さをほとんど知ることができなかったかもしれません。パウロの手紙には聖霊のことがたくさん書かれていますが、聖霊がどういう状況で弟子たちに授けられたのかは使徒の働きがなければ分かりませんから、2世紀以降の私たちは聖霊のことがよく分からないでいたでしょう。
 聖書を開いて具体的に見てみましょう。まず、きょうの聖書箇所のルカ3章21節と22節を交代で読みましょう。

3:21 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 このことはマルコの福音書とマタイの福音書にも記されていますが、ある意味、これが救い主としてのイエス・キリストが誕生した時だと言っても良いと思います。ヨセフとマリアの子としてイエスさまが生まれた時は人としてのイエスさまの誕生であって、救い主としてのイエスさまの誕生は、この3章の21節と22節にあるような天から聖霊を受けた時であったと言えるのではないかと思います。
 イエスさまはヨハネ3章の5~7節でおっしゃいました(週報p.3)。

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 このヨハネ3章7節でイエスさまは「あなたがたは新しく生まれなければならない」とおっしゃいました。人は聖霊を受けることで新しく生まれ変わります。イエスさまは、ご自身が聖霊を受けることで率先してそのことを示して下さったように思います。

聖霊を受けて新しく生まれ変わった弟子たち
 このように、人が聖霊を受けることで新しく生まれ変わることを私たちクリスチャンが理解できるのは、ルカが使徒の働きを書いてくれたからこそであると言えるでしょう。
 使徒の働きの2章をご一緒に読みましょう。この使徒の働きもまた、ルカが書いたものです。使徒2章の1節から4節を交代で読みましょう。

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 この時に弟子たちは聖霊を受けて新しく生まれ変わりました。彼らがどんな風に新しくされたのか、それはペテロの説教を読めば分かるでしょう。同じ使徒2章の14節には、こうあります。

2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。

 そうしてペテロは堂々とした説教を行い、最後にこう締めくくりました。38節から41節までを交代で読みましょう。

2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

 ペテロの説教を聞いて、その日、三千人ほどが仲間に加えられました。皆さん良くご存知のように、ペテロは五十日ほど前のイエスさまが逮捕された時、イエスさまのことを知らないと三度も言いました。ペテロはそう言ってイエスさまを裏切った臆病者でした。そのペテロがこんな風に堂々と説教できる者に新しく生まれ変わりました。それは聖霊を受けたからです。そして聖霊を受けた者の中にはイエスさまがいます。ですから、この説教はペテロがしているというよりも、ペテロの中のイエスさまがしているとも言えるでしょう。
 もしルカが福音書と使徒の働きを書かなければ、聖霊を受けた者の中ではイエスさまが働いているということも、良くは分からなかったでしょう。
 ルカの福音書の魅力は、このように、この福音書が使徒の働きとセットになっていることで聖霊の働きがよく分かるようになっている点にあると思います。

神様の御心が分かるようになる
 ルカの福音書の魅力はまだまだあります。あともう一つ挙げておきたいと思います。それは、聖霊を受けることで神様の御心が分かるようになるということです。もちろん神様の御心のすべてが分かるわけではありませんが、聖霊を受けると人間の立場からではなく、神様の立場から人を見ることができるようになります。例えば神様はすべての人を愛しておられることが、使徒の働きのパウロの伝道旅行から見て取れるようになります。パウロたちが伝道旅行へと押し出されて行って異邦人に伝道したのは、神様がすべての人を愛しておられ、すべての人を救いたいと願っておられるからです。ユダヤ人だけではなく異邦人をも神様は救いたいと願ってらっしゃいます。そうして使徒の働きを読んでパウロの異邦人伝道のことを知るなら、ルカの福音書15章の「放蕩息子の帰郷」の物語も、これは異邦人の救いを描いたものであろうということも示されます。放蕩息子とはアブラハムの時代の頃に父の家を出た異邦人のことであり、使徒の時代になって父の家に帰って来たということを「放蕩息子の帰郷」の物語から思い巡らすことができるようになります。これは、使徒の働きという続編が無ければ思い至らないことです。
 そうして神様はすべての人を愛しておられるということを知るなら、私たちが神様を愛するだけでなく隣人をも愛さなければならないことの意味も分かるようになります。イエスさまは律法の大切な教えとして、まず第一に「神を愛すること」を挙げましたが、もう一つ「隣人を愛すること」も大切だとおっしゃいました。それは、神様はすべての人を愛しておられ、すべての人を救いたいと願っているから、私たちもまた神様を愛するだけでなく、神様のようにすべての隣人を愛さなければならないということではないでしょうか。ルカの福音書と使徒の働きが無ければ、私たちはこのことも十分には理解できなかったでしょう。

聖霊を受けることと洗礼を受けることの両方が大切
 きょうのメッセージの最初に、私たちはいつクリスチャンになるのか、という話をしましたね。公式的には人がクリスチャンになるのは洗礼を受けた時だけれども、実質的には聖霊を受けた時だと話したという話をしました。洗礼を受けることと聖霊を受けること、両方ともとても大事なことです。残りの時間で、このことを話して、きょうのクリスマスのメッセージを閉じたいと思います。
 聖霊を受けることと洗礼を受けることは両方が大事なことであり、両方が必要なことです。ですから私たちは、この二つをセットとして捉えたいと思います。
 私が聖霊の大切さばかりを話しますから、もしかしたら洗礼を受けることは、それほど大切ではないと私が考えていると思われているかもしれませんが、そんなことはぜんぜんありません。洗礼を受けて公式的にクリスチャンを名乗るようになることは、とても大事なことです。それは、洗礼を受けて自分がクリスチャンであることを表明するようになることで、多くの人々にイエス・キリストを信じることをお勧めできるようになるからです。また、洗礼を受けることで正式に教会員の一員になります。そうして月定献金を捧げるようになります。それは教会を支える一員になるということです。キリストの体である教会を支える者になるということは、大きな喜びです。
 来年、私たちの教会は他の教会と合併します。今年は、そのことに備える一年になりました。そして、教会同士の合併という大きな課題に向き合うことで、「教会って何だろう」ということを考えることになる機会となりました。皆さんのお一人お一人も考えたことと思いますし、私も改めて考える機会になりました。そうして、きょうのクリスマス礼拝に、このメッセージを取り次ぐことができることを、とても感謝に思っています。

神を愛することと隣人を愛することの両方と関連する聖霊と洗礼
 聖霊を受けることと洗礼を受けることの両方が大切であると話しましたが、それは神を愛することと隣人を愛することの両方が大切であることと密接に関連していると言えるでしょう。
 聖霊を受けることで私たちは神様と深くつながることができるようになり、神様をより深く愛することができるようになります。そうして神様の御心も少し分かるようになります。すると神様はすべての人を愛していることが分かり、神様がすべての人を愛するように私たちも隣人を愛さなければならないことが分かります。教会は、その隣人を愛することの拠点となります。まずは教会員同士が愛し合い、そして、その輪を広げることで、教会の外にいる隣人の方々をも愛することができるようになります。そのように教会が存在することで私たちは隣人を愛する働きを、一人でいる時よりもしっかりと進めることができるようになります。洗礼を受けて公式的なクリスチャンになるということは、その働きを担うということです。ですから、聖霊を受けて、そしてまた洗礼も受けるという、実質的にも公式的にもクリスチャンになることが大切です。両方を受けることで私たちは神様を愛し、隣人をも愛することができるようになります。

おわりに
 聖霊を受けることと、洗礼を受けることの、どちらが先になるのかは人によって異なることでしょう。どちらが先であったとしても、両方を受けることが大切です。そうして私たちは神様を愛し、隣人を愛することができるようになりたいと思います。
 最後にルカの福音書の10章の25節から28節を交代で読みましょう。

10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 お祈りいたしましょう。
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マタイの福音書の魅力(2018.12.9 礼拝)

2018-12-11 08:00:04 | 礼拝メッセージ
2018年12月9日礼拝メッセージ
『マタイの福音書の魅力』
【マタイ22:1~14】

はじめに
 アドベント第二礼拝の今日のメッセージのタイトルは、『マタイの福音書の魅力』です。先週のメッセージのタイトルは『マルコの福音書の魅力』でした。先週までの流れを、ごく簡単に振り返っておくと、先月の11月に『旧約聖書の魅力』と題して、旧約聖書全体の大まかな流れをご一緒に見ました。この時に見たのは、旧約の時代の人々は神様と共に歩むことが苦手で、すぐに神様から離れてしまっていたということでした。そして結局のところ、人は聖霊を受けなければ神様と共に歩むことはできないのだということでした。そしてそういう目で、四つの福音書の中で最初に書かれたと考えられるマルコの福音書の最初のほうを眺める、ということをしました。マルコの福音書では早い段階で、「この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります」というバプテスマのヨハネのことばが読者に伝えられます。そして、イエスさまご自身も天から聖霊を受けたことが早い段階で読者に伝えられます。これは、聖霊を受けることが何よりも大切であることをマルコがとにかく早く読者に伝えたかったからではないか、そのような話をしました。
 それから礼拝では話しませんでしたが、先週の水曜日の祈り会では、マルコという人に焦点を当てました。聖霊を受けて聖霊に満たされることの大切さをマルコ自身が他の誰よりも身にしみて痛感していたから、マルコは聖霊を重視する福音書を書いたのであろうという話をしました。この水曜日の祈り会のメッセージはブログにアップしてありますから、お時間があったら読んでみていただきたいと思います。マルコは若い時にパウロの第一次伝道旅行から離脱してしまうという挫折体験を持っていました。この時のマルコはまだ聖霊に満たされていなかったから、イエス・キリストの証人になる力を聖霊から受けないでいて、それゆえ脱落してしたのではないか、そういう内容の話をしました。

今年の教会の聖句のおさらい
 そして今週のマタイの福音書でもまた、「聖霊の大切さ」という観点から、この福音書を眺めたいと思います。なぜ私がそんなに聖霊にこだわるのか、一つには今年の私たちの教会の聖句が、週報の1ページ目にあるように聖霊についてのみことばであるから、とも言えます。

「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」(Ⅰヨハネ4:13)

 今年の1月の始めの段階では、他教会との合流へと向かうという大きな流れは決まっていましたが、そこに至る具体的な日程は何も決まっていませんでしたから、いろいろと不安がありました。1月の時点では様々に不安を抱えていました。しかし聖霊が自分に与えられていることが自覚できているなら不安は小さく抑えられますし、聖霊が最善の方向へと導いて下さることを願って祈ることもできます。困難な中を歩んでいる時、聖霊を受けていることを自分が自覚できているかどうかは非常に大切なことです。聖霊が与えられているという確信があるなら、多少のことではへこたれません。それゆえの第一ヨハネ4:13のみことばでした。2018年の締めくくりの時期の今、私たちは聖霊の恵みについて改めて思いを巡らしたいと思います。そして、イエスさまは人々に聖霊のバプテスマをお授けになる前に、まずはヨセフとマリアの子としてこの世に生まれて人々に教えを説いた、そのこともしっかりと胸に刻みたいと思います。

人間に直接的に関わる聖霊
 さて、マタイの福音書もまた、聖霊の大切さが書かれているという目で眺めるなら、いろいろなことが見えて来ます。時間の関係で多くを見ることはできませんが、いくつか拾って行きたいと思います。
 まず私の目に留まったのは1章18節です。お読みします。

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。

 この箇所からは父・子・聖霊の三位一体の神の聖霊が、どのような神であるかが分かると思います。それは人間に直接的に関わることは、聖霊が担当しているということです。天の父は天にいます。御子も、地上生涯の時には地上にいましたが、地上生涯の前の旧約の時代には父と共に天にいましたし、十字架の死からの復活後もまた天の父のもとに帰りました。そういうわけで父も子も基本的には天にいます。ですから地上の私たち人間と直接的に関わっているのは聖霊です。天の父のことばも聖霊を通して人々に伝えられます。そして、その聖霊は天にいる御父と御子が地上に遣わします。ヨハネの福音書の15章26節(週報p.3)でイエスさまがおっしゃっている通りです。

ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 このように、聖霊は基本的には天にいる御父と御子から遣わされます。基本的にはと言うのは、イエスさまが地上での宣教を始めた時に受けた聖霊は、その時はイエスさまは天にはいませんでしたから、この時には御父が聖霊を遣わしたのでしょうね。

聖霊が与えられなければ行えない「山上の説教」の教え
 さて、こうしてマタイ1章18節からイエスさまの地上生涯の物語が始まって行きます。そして3章には、マルコ1章と同じようにバプテスマのヨハネが登場して、11節でイエスさまのことを「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」と言いました。
 そして4章で御霊に導かれて荒野に上って行き、5章から7章に掛けては「山上の説教」でのイエスさまのことばが記されています。ここでイエスさまが説いていることの大半は、聖霊を受けた人でなければ為し得ないようなことです。例えば5章8節の「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」や9節の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」は、聖霊を受けた人のことを言っていると考えると理解しやすいと思います。また、去年の教会の聖句であった14節の「あなたがたは世の光です」、新改訳の第3版では、「あなたがたは、世界の光です」になっていましたが、この光も聖霊のことと読み取りたいと話しましたね。14節から16節までを交代で読みましょう。

5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 この16節のように光を人々の前で輝かせることができるのは聖霊を受けた者でなければできないことです。或いはまた、39節の、

5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

という教えもまた聖霊を受けた者でなければできないことです。

婚礼の礼服もまた聖霊
 さて、きょうの聖書朗読で司会者に読んでいただいた箇所は、マタイ22章の1節から14節です。ここに出て来る礼服のことを、私は今までどう解釈したら良いか悩ましく思っていました。この礼服もまた聖霊であると考えれば理解しやすいのではないでしょうか。ここは少し丁寧に見て行きたいと思います。まず1節から6節までを交代で読みましょう。

22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。

 この4節に書かれている披露宴への招待のことばの「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」は、ルカの福音書15章の「放蕩息子の帰郷」の話を重ねると分かりやすいでしょう。放蕩息子の父は、弟息子が悔い改めて父の家に戻って来た時に肥えた子牛をほふって祝宴を開きました。しかし、兄息子はこの祝宴に加わることを拒否しました。この兄息子とはユダヤ人たちのことであるという話を以前、しましたね。このマタイ22章で披露宴に来ようとしなかった招待客は旧約の時代のイスラエル人たちです。イスラエルの民は選ばれた民でしたから、招待客でした。そして6節の「王のしもべたち」というのは預言者たちのことです。旧約の時代の預言者たちの多くは迫害に遭って殺されました。
 続いて7節には

22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。

とあります。焼き払われた彼らの町というのはバビロン軍に滅ぼされたエルサレムのことですね。これが旧約の時代に起きたことでした。
 ですから8節以降は新約の時代のことです。8節と9節を交代で読みましょう。

22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』

 王はイスラエルの民のために披露宴の用意をしましたが、招待したイスラエル人たちはふさわしくありませんでした。それで9節では「出会った人をみな披露宴に招きなさい」と言いました。新約の時代には誰でも披露宴に招かれます。
 続いて10節と11節を交代で読みます。

22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。

 この中に婚礼の礼服を着ていない人が一人いた、ということです。これをどう解釈したら良いか、以前は悩ましく思っていましたが、この礼服とは聖霊のことだと考えると分かりやすいと思います。続いて12節から14節までを交代で読みましょう。

22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

 この例え話は天の御国のことであるイエスさまは2節でおっしゃっていますから、礼服を来ていなくて外の暗闇に放り出された者とは聖霊を受けていない者のことでしょう。
 新約の時代の婚礼の披露宴の参加者、すなわち天の御国に入る者は、聖霊を受けた者です。以前から何度も話しているようにヨハネの福音書2章のカナの婚礼に参加していたガリラヤ人の弟子たちとはペンテコステの日に最初に聖霊を受けたガリラヤ人の弟子たちのことですから、新約聖書では婚礼と聖霊とは強い関係があるようです。

ともし火の油もまた聖霊
 もう一箇所、マタイの福音書で婚礼と関係のある箇所を読みましょう。マタイ25章の1節から12節までを交代で読みましょう。

25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
25:4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
25:6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
25:10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
25:11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』

 10節にあるように、油を持っていた賢い娘たちは婚礼の祝宴の場に入ることができました。しかし油を持っていなかった愚かな娘たちは婚礼の祝宴の場に入ることができませんでした。この油も聖霊のことであると考えると分かりやすいでしょう。この例え話も1節にあるように御国についての話です。天の御国に入れるのは聖霊を受けた者だけです。
 イエスさまは、地上での宣教で弟子たちに、天の御国について多くのことを教えて、そうして十字架に掛かって死に、復活した後で天に昇って私たちに聖霊を授けて下さるようになりました。

おわりに
 最後にヨハネの福音書の16章7節(週報p.3)をご一緒に読んで終わりたいと思います。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 イエスさまが地上におられた時は、イエスさまと直接会って話をした人々だけにしか恵みが届きませんでした。しかし、イエスさまが天に帰ったことで、21世紀の日本に住む私たちもまた聖霊を受けることで、聖霊を通してイエスさまにお会いできます。この素晴らしい聖霊の恵みを人々に与えるためには、先ずはイエスさまはまずは人として地上に遣わされる必要がありました。イエスさまがこの世に生まれたクリスマスを待ち望むアドベントの時期の今、改めてこのことに思いを巡らしてイエスさまに感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
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マルコの福音書の魅力(2018.12.2 礼拝)

2018-12-04 08:16:02 | 礼拝メッセージ
2018年12月2日アドベント第一礼拝メッセージ
『マルコの福音書の魅力』
【マルコ1:1~12】

はじめに
 きょうはアドベント第一礼拝です。クリスマスの日のイエス・キリストのご降誕に向けて私たちは心を整えて行きたいと思います。この12月、16日の合同礼拝を除く4回の礼拝では四つの福音書の魅力について、分かち合いたいと願っています。
 第一回目の今日はマルコの福音書の魅力を分かち合いたいと思います。当初は新約聖書の順番通りにマタイから始めようと思っていましたが、マルコから始めることにしました。それはマルコの福音書が四つの福音書の中では一番最初に執筆されたと考えられているからです。新約聖書の順番通りにマタイが最初に書かれたと考える聖書学者も一部にはいるようですが、聖書学者の多くはマルコが最初に書かれたと考えているとのことです。私もそんな気がしています。なぜかと言うと、マルコの福音書にはイエス・キリストの生誕の物語が書かれていないからです。最初に生誕物語が書かれているマタイの福音書が書かれて、次に生誕物語が書かれていないマルコの福音書が書かれたと考えるのは、ちょっと不自然ではないかなという気がしています。それから旧約聖書からの流れを受けて福音書が書かれたと考えた場合に、マルコの福音書が最初に書かれたと考えたほうが自然のように思えます。

聖霊を受けなければ人は神から離れる
 先月、この12月に四つの福音書の魅力について分かち合うのに先だって11月には、『旧約聖書の魅力』というタイトルで一度話をしました。この時には一回のメッセージで旧約聖書の全体を駆け足で眺めるということをしました。その回で話したことは、人間は結局は聖霊を受けなければ神様から離れてしまうのだということでした。まずはアダムとエバが神様から離れました。次にはアダムとエバの子孫たちも神様から離れましたから、ノアとノアの家族以外は洪水によって流されて滅ぼされてしまいました。そのノアの子孫たちもバベルの塔を築こうとして神様から離れていました。そこで神様はアブラハムを召し出してイスラエル人を選びの民とし、モーセを通じて律法を与えました。律法を守ることで神様から離れないようにするためでした。しかし、イスラエルの民は律法を守らなかったので、北王国も南王国も滅ぼされてしまいました。南王国が滅ぼされた時には首都のエルサレムの城壁は破壊され、神殿も火で燃やされてしまい、人々はバビロンに捕囚として引かれて行きました。これに懲りたユダヤ人たちはエルサレムに帰還して神殿を再建した後は律法を守るようになりました。けれどもそれは形式的なものであったことが旧約聖書の最後の書であるマラキ書に記されています。結局のところ、人は聖霊を受けなければ神様と共に歩むことができないのです。先月の『旧約聖書の魅力』というメッセージでは、以上のような話をしました。
 この「人は聖霊を受けなければ神様と共に歩むことができない」という旧約聖書の時代からの流れでマルコの福音書を眺め直してみると、今まで見えなかったことがいろいろと見えて来ます。きょうはそのことを分かち合いたいと思います。

いきなり「イエスは神の子キリスト」と宣言するマルコ
 マルコの福音書の始めのほうを読むと、非常にせっかちな感じを受けます。マルコはイエス・キリストが人々に聖霊を授ける者であったことをとにかく早く書きたくてしょうがないという雰囲気を感じます。そのせっかちさは、早くも1章1節に現れています。ご一緒に1章1節を読みましょう。

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。

 このマルコの福音書1章1節を、ヨハネの福音書20章31節(週報p.3)と比べてみて下さい。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 このヨハネ20章31節はヨハネの福音書の最後の締めくくりの節です。この後にまだ21章がありますが、ヨハネはこの20章31節でこの福音書の執筆目的を書いて一旦この書を閉じています。ヨハネは福音書を1章から20章まで、ず~っと書いて来て、そうして最後に「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」と書きました。
 それに対してマルコはいきなり「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と書いて、イエスさまが神の子キリストであることを明らかにしています。ヨハネはイエスさまに関わるいろいろなことを書く中で読者が段々と「イエスは神の子キリストである」ことを知ることができるように書き進めていますが、マルコはいきなりド~ンと「神の子、イエス・キリスト」と書いて「イエスは神の子キリストである」と宣言しています。
 さてキリストとは救い主のことです。イエスさまは救い主でした。ではイエスさまはどうやって人々を救ったのでしょうか。それは聖霊を授けることによって救ったのですね。悔い改めるだけでは救いは完了していません。旧約の時代の人々は何度も悔い改めましたが、すぐにまた神様から離れてしまいました。それは聖霊を受けていなかったからです。人が救われるためには聖霊を受けることが必要です。

聖霊のバプテスマを授けるイエス
 マルコの福音書は、それを早いテンポで明らかにして行きます。1章の2節から4節までを交代で読みましょう。

1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 2節と3節でマルコは、イエス・キリストの道を整えるためにバプテスマのヨハネが遣わされたことを明らかにしています。そして4節で、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマについて説いたことが記されています。罪を悔い改めてヨハネから水のバプテスマを受けるなら、後にヨハネより力のある方から聖霊のバプテスマを受けることにつながります。それが「主の道を備える」ということです。5節から8節までを交代で読みましょう。

1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 5節にあるように罪を告白してバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けることで、聖霊のバプテスマを受けるための準備が整えられました。そして8節では力のある方が聖霊のバプテスマを授ける救い主であることが明らかにしています。ここまで読むと、聖霊を受けることこそが何にも増して重要であることをマルコが非常に早いテンポで読者に伝えていることが分かると思います。

自身でも聖霊を受けたイエス
 続いて9節と10節を交代で読みます。

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

 ここでは人としてのイエスさまが水のバプテスマを受け、そのことによって天から聖霊を受けたことが示されています。イエスさまは水のバプテスマを受けることで天からの聖霊を受けた人の第一号でした。パウロは第一コリント 15:20(週報p.3)でイエスさまが 「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と書きましたが、イエスさまは水のバプテスマを受けることで聖霊を受けた者の初穂でもあったのですね。
 続いて11節と12節を交代で読みます。
 
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

 この11節と12節は聖霊を受けた私たちクリスチャンのことでもあります。私たちもまた聖霊を受けることで神の子とされました。ですから私たちが救われて聖霊を受けた時にも天の父は私たちに「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言って喜んで下さいました。ルカの福音書にはいなくなった羊を見つけたら大きな喜びが天にはあると書いてありますね。また放蕩息子が父の家に帰った時には祝宴が開かれました。このように天の父は私たちが救われて聖霊を受けた時にも喜んで下さいました。しかし、聖霊を受けた私たちクリスチャンは良いことばかりがあるわけではありません。12節にイエスさまが御霊によって荒野に追いやられたように、私たちもしばしば荒野に追いやられて試練に遭います。しかし聖霊を受けているならサタンの誘惑からも守られます。
 このように、人は聖霊を受けなければ救われないという旧約聖書の流れからこの福音書を読むなら、マルコもまた、聖霊を受けることが何よりも大事なことであることを伝えようとしているということが読み取れます。マルコはそれをイエスさまの地上生涯を描くことで読者に伝えようとしているのだと気付きます。

新しいぶどう酒とは聖霊
 そのような目で、もう少しマルコの福音書を読み進めてみたいと思います。マルコ1章には、イエスさまが人々の中にいた悪霊を追い出したことが書かれています。私たちの中にもかつて悪霊がいて、聖霊を受けることでイエスさまが悪霊を追い出して下さったと読み取れるかもしれません。また、2章でイエスさまは新しい皮袋の話をしています。2章の21節と22節を交代で読みましょう。

2:21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
2:22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 ここで新しいぶどう酒とは聖霊のことでしょう。ヨハネの福音書2章のカナの婚礼の場面でイエスさまはきよめの水をぶどう酒に変えました。このカナの婚礼のぶどう酒は聖霊でもあります。イエスさまはきよめの水をぶどう酒に変えることで、水によるきよめから聖霊によるきよめの時代に移ったことを示しました。そして、このマルコ2章の新しいぶどう酒も聖霊のことでしょう。古い皮袋とは、罪を悔い改めていない古い自分のことであると読み取りたいと思います。イエスさまは罪を悔い改めないで古い自分のままでいる者には、決して聖霊を授けることはありません。

聖霊を冒瀆する者は永遠の罪に定められる
 そして聖霊を受けない者は永遠に赦されずに永遠の罪に定められるとイエスさまはマルコ3章で言いました。マルコ3章の28節から30節までを交代で読みましょう。

3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
3:29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

 30節に、「彼らが、『イエスは汚れた霊につかれている』と言っていた」とあります。彼らとは律法学者たちのことです。22節に、エルサレムから下って来た律法学者たちが「彼はベルゼブルにつかれている」と言っていたとありますが、ベルゼブルとは悪霊のかしらのことです。イエスさまは聖霊に満たされていました。聖霊に満たされたイエスさまのことを汚れた霊につかれていると律法学者たちは言ったのですから、それは聖霊を冒瀆することになります。そのような者が聖霊を受けることはありませんから、永遠のいのちを受けることはなく永遠の罪に定められます。

「良い地」とは聖霊を受けた者
 このように聖霊を受けることが何よりも大切だとマルコの福音書が伝えているという目でこの福音書を読むなら、種まきの例えにもまた聖霊のことが書いてあると読み取ることができるでしょう。この種まきの例えは4章に書かれています。イエスさまは4章8節で、

4:8 「別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

と言いました。そして20節でその解き明かしをしています。4章20節、

4:20 「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

 この「良い地」とは聖霊を受けた人のことだと読み取ることができるでしょう。聖霊を受けていない人でも、一応はみことばを耳で聞くことはできます。しかし、聖霊を受けていない人はみことばを聞いても実を結ぶことはありません。やはり聖霊を受けることが何よりも大切です。

まだ聖霊を受けていなかった弟子たち
 最後にマルコ4章の35節から41節を交代で読んで、きょうのメッセージを閉じることにします。

4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

 この時、弟子たちはまだ聖霊を受けていませんでした。ですから同じ舟にイエスさまが乗っているのに激しい突風が吹いた時に弟子たちは舟が沈むことを恐れて怖がりました。逆に言えば、聖霊を受けていれば何も恐れることはないのだということを、ここから学ぶことができます。
 このように、私たちは聖霊を受けることが何にも増して大切なことなのだということを学べることが『マルコの福音書の魅力』であることを、きょうはお話ししました。このことを皆さんと共に分かち合うことができたことを感謝に思います。
 お祈りいたしましょう。

1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
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走るべき道のりを走り終える(2018.11.11 礼拝)

2018-11-12 11:58:55 | 礼拝メッセージ
2018年11月11日召天者記念礼拝メッセージ
『走るべき道のりを走り終える』
【Ⅱテモテ4:6~8】

4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

はじめに
 先ほど報告した通り、他教会との合併に向けて歩みを進めています。きょうはご遺族の方々が多数いらして下さっていますから、初めに、このことに至った経緯を少しお話ししておくことにします。

(中略)

注ぎの捧げ物
 さて、きょうの聖書箇所はテモテへの手紙第二の4章です。この手紙はパウロがテモテに宛てた手紙です。当時、パウロはローマの獄中で捕らわれの身になっていました。一方、テモテはエペソの教会を牧会していました。テモテはかつてパウロがアジアとヨーロッパ各地で伝道旅行をしていた時に一緒に連れて行った若者で、パウロにとっては弟子のような存在です。パウロと行動を共にすることでテモテは様々なことを学ぶことができました。
 この手紙をテモテに宛てて書いた時、パウロはそう遠くない時期に自分はローマ皇帝の迫害によって死ぬであろうことを覚悟していました。そのことが、4章6節からも伺えます。

4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。

 「私が世を去る時が来ました」は分かりやすいですから、パウロが自分の死を覚悟していることが分かると思います。では、その前の「私はすでに注ぎのささげ物となっています」とは、どういうことでしょうか。ここでパウロは、神殿で捧げられていた、いけにえの動物に自分を例えています。神殿では牛や山羊(やぎ)や羊などが犠牲のいけにえとしてささげられ、ほふられて、その血が祭壇や神の箱に注がれました。この動物の血を用いた儀式によって人間の罪が贖われました。これらの儀式については旧約聖書の『レビ記』に詳しく書かれていますから、機会があったら是非読んでみて下さい。なぜなら、この旧約の儀式は新約のイエス・キリストの十字架と密接に関係しているからです。イエス・キリストは十字架で血を流し、この十字架の犠牲によって私たちの罪が赦されるようにして下さいました。それゆえ、イエス・キリストが十字架で流した血は、しばしば旧約の儀式の動物の血に例えられます。そして、パウロもまた迫害の犠牲になって血を流して死ぬことを予感していましたから、この4章6節で、「私はすでに注ぎのささげ物となっています」と書きました。

走るべき道のりを走り終えたパウロ
 続いて7節、

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 パウロがどのような生涯を過ごしたのか、その概要は新約聖書の『使徒の働き』を読むと分かります。パウロはかつては、自身がキリスト教徒を暴力によって迫害する者でした。そんなパウロの前に、ある時、復活したイエス・キリストが現れて、彼に「なぜわたしを迫害するのか」と語り掛けました。この復活したイエスとの出会いによってパウロはそれからの人生が180度変わって、それ以降はキリスト教を伝道するようになりました。パウロは特にユダヤ人ではない異邦人への伝道に用いられて、アジアとヨーロッパで多くの教会を開拓しました。そんなパウロは、7節で、

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

と書きました。
 週報の3ページ目に記した、先に天に召された私たちの教会の先輩方も、勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。私たちもまた、信仰の先輩方に習いたいと思います。そうして先輩方は、「義の栄冠」を得ました。この「義の栄冠」について、パウロは次のように書いています。8節、

4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

 この「義の栄冠」には、キリスト教の教えが凝縮されているように感じますから、少し丁寧に説明してみたいと思います。

義の栄冠
 「義の栄冠」の「義」には「正しい」という意味があります。ですから、「義の栄冠」は正しい人に与えられます。「義の栄冠」が与えられた正しい人、すなわち神の御心にかなう人は天国に入り、「義の栄冠」が与えられなかった、神の御心にかなわなかった人は神から永遠に見離されます。では、神様はどういう基準で、その人を正しいか正しくないかを評価するのか、それは神様にしか分からないことですが、その基準が相当に厳しいことだけは確かです。
 例えばノアの箱舟の時代には、神様はノアとノアの家族以外の人間は、洪水によって滅ぼしてしまいました。そのことは旧約聖書の『創世記』に書いてありますから、是非読んでみて下さい。また、アブラハムの時代に神様はソドムとゴモラの町を滅ぼしました。このソドムとゴモラがどのくらいの人口の町だったのかは分かりませんが、大きな町であったことは確かです。その中に10人正しい人がいれば神様は滅ぼすことはしないとアブラハムに約束しましたが、結局ソドムとゴモラは滅ぼされましたから、正しい人は10人もいなかったことになります。このことも旧約聖書の『創世記』に書かれています。
 いずれにしても、どういう人が正しいのか、或いは正しくないのかは、非常に分かりづらいものでした。それで、神様は先ずイスラエルの民族にモーセを通して律法を与えることにしました。そして、律法を守る者が正しい者であるという基準を示しました。律法の代表は、モーセの十戒です。十戒とは十の戒めのことで、「わたしのほかに神々があってはならない」、「偶像を造ってはならない」、「主の御名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、聖なる日とせよ」、「あなたの父と母を敬え」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽りの証言をしてはならない」、「隣人の家を欲しがってはならない」というのがモーセの十戒です。このモーセの十戒は旧約聖書の『出エジプト記』に記されています。しかし旧約聖書の『列王記』によれば、結局、イスラエルの人々はこの律法を守らなかったので、イスラエルの王国とユダの王国は神様によって滅ぼされてしまいました。そうして、これに懲りた人々は律法を守るようになりましたが、形式的に守るだけで、大切なことが守られていませんでした。その大切なこととは、「神を愛すること」と、「隣人を愛すること」です。
 そこで神様は方針を大転換しました。神様は独り子のイエスを地上に送って、「イエスは神の子であり、救い主である」ということを信じる者が正しい者である、ということにしました。どんなに悪い者であったとしても、「イエスは神の子であり、救い主である」と信じる者は、正しい者であるということにしました。例えば、新約聖書の『ルカの福音書』の十字架の場面では、イエスさまの隣の十字架に付けられた罪人がイエスさまに、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」これはつまり、この罪人は「イエスは神の子であり、救い主である」と信じたということです。すると、イエスは彼に言いました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」つまり、彼は正しい人だと認められたということです。この十字架の罪人のように、それまでの基準では、とうてい正しい人だとは認められない者であっても、「イエスは神の子であり、救い主である」と信じるなら、神様は正しいと判定して下さるようになりました。

ワンセットの「命の創造」と「イエスの復活」
 さてしかし、こういう話は聖書が浸透していない日本では、なかなか分かっていただくことが難しいのが現状です。まず、どうして神が正しいか正しくないかを判定するのか、なぜそんな権威を持っているのか、ということが理解されません。それに対する答えは、神が人の命を造ったからです。しかし、日本では「生命は偶然によって誕生した」と学校で教えますから、「神が人の命を造った」と言ってもすぐには信じてもらえません。私自身もキリスト教の信仰を持ったのは41歳の時でしたから、当初は神様が人の命を造ったということを、どうしたら確信できるかということが、私の中で問題になりました。それに対する私の私自身への答えは、「命の創造」と「イエスの復活」はワンセットになっているというものでした。「イエスの復活」を信じるなら、「神が命を創造したこと」も信じられると思いました。十字架で死んだイエスを生き返らせることができる全能の神なら、命を創造できる筈です。ですから「イエスの復活」を信じた私は「神が命を創造した」ことも確信できるようになりました。
 では、私が何によって「イエスの復活」を信じたかというと、それはパウロの人生が180度変わったことによります。それまでキリスト教徒を迫害していたパウロが逆にキリスト教を伝道するようになりました。それは、よほどのことがあったということです。よほどのことが無ければ人の人生が180度変わることなど有り得ません。そのよほどのことが何であったか、それはパウロが復活したイエスと出会ったことだと彼自身が証言しています。ですから私はパウロの証言を信じて「イエスの復活」を信じました。そして信じたことによって私は聖霊を受け、私自身も聖霊を通して復活したイエスと出会うことができました。
 そのようにして復活したイエスと出会ったキリスト教徒は無数にいて、1世紀から21世紀の今日に至っています。例えば日本に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルですが、当時、ヨーロッパの宣教師たちが続々とキリスト教を宣教するために東アジアに船でやって来ました。ザビエルの後も宣教師たちが続々と日本にやって来ました。今ならヨーロッパから日本まで飛行機で1日で来られますが、当時は船で何ヶ月も掛かりました。しかも、まだスエズ運河などありませんでしたから、アフリカ大陸の南を通って来なければなりませんでした。このアフリカ大陸の南の海域は、海難事故が多いことで有名ですから、命がけでやって来ました。船が難破して途中で命を落とした者もいるでしょう。また、長い航海で体調を崩して亡くなった者もいたでしょう。それほどの危険を冒しても宣教師たちがやって来たのは、彼らが復活したイエスと出会ってパウロのように変えられたからだとしか考えられません。パウロが命がけで伝道したように、宣教師たちも命がけで伝道しました。現代でも危険な地域で伝道している宣教師がたくさんいます。もちろん、海外に出なくても国内で奮闘しているキリスト教徒もたくさんいます。
 そうして多くのイエスを信じる者たちが、勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通して、「義の栄冠」を得ました。先に天に召された私たちの教会の信仰の先輩方も同様です。

おわりに
 そして私たちのインマヌエル沼津キリスト教会も、この今沢の地で勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えつつあります。私たち一人一人の信仰生活は場所を変えてまだまだ続きますが、インマヌエル沼津キリスト教会としての活動は、走り終えつつあります。
 私たちは、この最後の走りを主の御心にかなう形で走り終えたいと思います。信仰の先輩方が建て上げて下さった教会を継続できないのは残念ではありますが、一人一人の信徒の信仰の走りはまだまだ続きますから、信仰の先輩の走りに習って、勇敢に戦い抜いて行きたいと思います。ご遺族の皆様には、是非このことをご理解いただき、私たちが最後の走りを主の御心にかなう形で走り終えることができるように、お祈りいただきたいと思います。
 ご一緒に、お祈りいたしましょう。

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
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