2019年7月14日礼拝メッセージ
『海の水が分かれた記事を信じますか?』
【出エジプト14:21~28】
はじめに
きょうの礼拝メッセージのタイトルは、『海の水が分かれた記事を信じますか?』というものにしてみました。いま礼拝メッセージでは、聖書通読をお勧めしながら創世記から始めて順次出エジプト記、レビ記と見て行くことを考えて進行させています。
ただ聖書通読は、教会の礼拝に継続的に出席している方々にお勧めしていることで、教会に初めて来た方や、二回目、三回目という方には馴染まないかもしれません。
それゆえ、教会に来るのは初めてという方がいらした場合にも興味を持っていただける要素も少しは織り交ぜたほうが良いであろうと思い、きょうはこのようなタイトルにしてみました。
きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。
①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
②不思議なことに満ちた自然界
③私は聖書をどのように信じているか
④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書
①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
きょうの礼拝の始まりの招きのことばは、詩篇66篇の5節と6節を司会者に読んでいただきました(週報p.2)。
5 さあ 神のみわざを見よ。神が人の子らになさることは恐ろしい。
6 神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。
「神は海を乾いた所とされた」というのは、きょうの聖書箇所にあるようにイスラエル人たちがエジプトを脱出した後で海の乾いた所を歩いて渡ったことを示していますね。そして、その次の「人々は川の中を歩いて渡ったというのは」、イスラエル人たちがヨルダン川を歩いて渡ったヨシュア記の出来事を示しています。このヨシュア記の出来事も知っておいていただきたいと思いましたから、このヨシュア記の出来事の記事を聖書交読の時にご一緒に読みました。
ヨシュア記の記事はいずれまた読むことと思いますから、きょうは出エジプト記の方に集中します。きょうの聖書箇所の出エジプト記14章の21節から25節までを交代で読みましょう(旧約p.124)。
21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
22 イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
23 エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。
24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
25 戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」
先週ご一緒に見たように、主はエジプトに対して十の災いを与えました。今週もこの十の災いを週報のp.2に残しておきましたから、ご覧下さい。これらはエジプト人にとっては災いでしたが、イスラエル人にとっては奴隷の働きから解放されることにつながった救いの恵みでした。
この十の災いの中でも特に十番目の初子の死は強烈でした。エジプトの長子は皆、人の長子から家畜の初子に至るまで皆、主によって打たれて死にました。ただしイスラエル人の家では鴨居と門柱にいけにえの羊の血を塗ったので、その家を主が過ぎ越して長子が殺されることはありませんでした。
これに懲りたエジプトの王のファラオはイスラエル人たちに出て行くように言いました。こうしてイスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱出することができました。しかし、ファラオの気が変わり、軍勢を出してイスラエル人たちを追い掛けました。彼らを逃がしてしまうと働き手の奴隷を失ってしまうからです。
そしてイスラエル人たちの行く手を海が阻んでいた時に背後からエジプトの軍勢が迫って来て、前にも後ろにも進めなくなってしまいました。その時に主は海の水を分けて海の中の乾いた場所を進むようにして下さいました。イスラエル人たちは海の中を進み、エジプトの軍勢もまた彼らを追い掛けて海の中の乾いた地に入って行きました。そして、イスラエル人たちが海を渡りきったところで、主はモーセに言われました。続いて26節から28節までを交代で読みましょう。
26 主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」
27 モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
28 水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
こうしてファラオの軍勢は海の中に消えてしまいました。
さて、きょうは、主が海の水を分けてイスラエル人たちが乾いた所を歩いたという、この記事を信じるか信じないか、という観点から考えてみることにしたいと思います。
長い信仰歴を持ち、日々聖書を読んでいる教会員の方々はこの記事の記述を信じていると思いますが、まだ聖書にそれほど親しんでいない方にとっては、この記事を信じる気持ちにはなれないというのが正直なところではないでしょうか。私自身も聖書の初心者の頃は、この記事は作り話のように感じていました。
②不思議なことに満ちた自然界
一般常識で考えるなら、海の水が分かれて人々が歩ける乾いた場所が現われるなんて、そんな非常識なことが起きるわけがないと思うことでしょう。それが普通の反応だと思います。
しかし、そもそも自然界には直感的には有り得ない非常識なことで満ちています。私たちが当たり前のように受け入れていることでも、よくよく考えてみると不思議なことはたくさんあります。
例えば、私がとても不思議だと思うことの一つに「重力」があります。丸い地球の反対側に住んでいる人たちは、どうして地球から落ちてしまわないのでしょうか?子供の頃にそんな風に思ったことはないでしょうか?丸い地球のどこに住んでいても地面が下にあるのは重力が働いているからですが、重力はとても不思議だと思います。
まず第一に重力は小さいのに大きいところが、とても不思議だと思います。重力の力は、他の力と比べるとあまり大きくはありません。例えば鉄のクリップや釘を机の上の置いておき、その少し上に磁石を持って来ると、クリップや釘は重力に逆らって上の方向に飛び上がって磁石に吸い付きますね。磁石の力のほうが重力よりも遥かに大きいからです。
或いはまた、街路樹から木の葉が一枚、落ちたとします。風がなければ木の葉は下に向かいますが、風が吹くとその葉っぱは横に飛んだり上昇気流があれば空の上の方まで舞い上がったりします。木の葉の重力よりも風の力のほうが強いからです。鳥が空を飛べるのも、体重が軽い鳥の重力があまり大きくはないからです。
しかし、重力は小さいとは言っても、私たちの体は地上にぴったりと張り付いていて、ジャンプしてもあまり高くは飛べません。重力は小さいとは言っても、私たち人間にとっては大きなものです。不思議ですね。つい最近、宇宙探査機の「はやぶさ2」が小惑星の「りゅうぐう」に2回目の着陸をして、人工クレーターを作った時に表面に現われた「りゅうぐう」内部の岩石の採取に成功した模様であることが報道されていました。
小惑星「りゅうぐう」の直径は約900メートルで重力は地球の8万分の1しかないそうです。それでも「りゅうぐう」の表面にある岩石が、どの方向にある物であっても重力によって吸い付いていて離れて行かないのですから、重力はやはり小さいけれど大きいのですね。実に不思議です。
重力の不思議さはまだまだあります。重力は遠く離れていても、力を及ぼします。例えば海に満潮と干潮があるのは、海の水が月の重力に引っ張られるからだそうです(月と反対の方向でも満潮になることの説明は省略します)。
どうして遠く離れた月が地球の水に力を及ぼすことができるのでしょうか?アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間が歪んでいるからだそうです。これもまた不思議ですね。2年前の2017年のノーベル物理学賞は重力波を検出した研究チームが受賞しました。ブラックホールが合体すると重力が大きく変化するため、それが空間の歪みを変化させて、重力波という波となって空間を伝わり、それを検知することに成功したということがニュースになりました。宇宙にはブラックホールという、光でさえ出て来ることができない重力の大きい場所があるそうです。これもまた不思議なことですね。
このように自然界には重力のことだけでも私たちの常識では考えられない非常識で不思議なことがいくつもあります。そう考えると、聖書の記述に非常識と感じる部分があったとしても、非常識な点においては自然界も同様なのですから、聖書の非常識なことを信じても、少しもおかしいことはないということになるでしょう。
③私は聖書をどのように信じているか
そういうわけで私は、出エジプト記のこの海の水が分かれた記事のことも信じています。このパートでは、私自身が聖書をどのように信じているかについて、考えてみます。私自身もこのことを、今までそれほど考えたことがありませんでしたから、私にとっても良い機会だと思っています。
まず言えることは、私は聖書を丸ごと信じているということです。ですから、この記事は信じて、あの記事は信じないというような区別はしていません。丸ごと信じていますから出エジプト記の海の水が分かれた記事も信じています。しかし、一字一句に至るまで記述のすべてをそのまま信じているかと言えば、そうでもありません。例えば、きょうの聖書箇所で言えば、出エジプト記14章21節には、
21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
とありますね。私は風の力だけで海の水を動かすことができるだろうか?という疑問を持っています。先ほど話したように海の水の満潮と干潮は月の重力によってもたらされますから、重力は海の水を動かすことができます。ですから、神様は風の力だけでなく重力も使ったかもしれない、などと考えます。昔の人は重力のことを知りませんでしたから、出エジプト記にも当然重力のことは書かれていません。
こんな風に、私は聖書に書かれていることは基本的に丸ごと信じていますが、当時の人々の科学知識が私たちよりも乏しかったことを加味して、現代の科学知識を補って考えます。ですから出エジプト14章21節に【主】が「強い東風で海を押し戻し」と書いてあっても、それをそのまま信じるというよりは、主は重力も使ったのではないかなどと考える、というようなこともしています。
なぜ私が基本的に聖書を丸ごと信じることができるかは、イースター礼拝でも話したように私はイエス・キリストの復活を信じているからです。新約聖書はイエス・キリストが実際に復活したことを証言しています。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書だけでなく、使徒の働きも証言していますし、パウロもコリント人への手紙第一で証言しています。パウロはコリント人への手紙第一で復活したキリストが五百人以上の兄弟たちに同時に現われたと書いています(Ⅰコリント15:6)。
また、使徒の働きは復活したイエスさまに出会ってイエス・キリストを信じ、聖霊を受けた使徒たちが劇的に変わったことを証言しています。人が劇的に変わるには、よほどの体験が必要ですから、使徒たちはよほどのことを体験したことになります。そのよほどの体験とは何かを考えるなら、彼らが復活したイエスさまと出会ったこと以外には考えられません。
それゆえ私は新約聖書の証言を信じてイエス・キリストの復活を信じています。そして、このことによって私は平安を得ましたから、自分が聖霊を受けたことも確信しています。そしてまた、死んだイエスさまが復活できたのは神様が万物を創造し、人に命を与えた全知全能のお方であるからであることを、確信を持って信じています。
④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書
この確信が得られると、聖書が格段に身近なものになります。それは神様の側から聖書の記述を見られるようになるからだと思います。
聖書の初心者の頃の私は、旧約聖書をあまり好きにはなれませんでした。旧約聖書には神様が怒っている場面が多く書かれているからです。これは正に人間の側から聖書を読む読み方であったなと思います。
このように人間の側から聖書を読むと、神様がどのようなお方であるかのイメージが、聖書の記者の記述に大きく左右されることになります。しかし、神様の側から聖書を読むことができるようになると、聖書の記者の書き方に神様のイメージが左右されなくなります。聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書だからです。この神様からの霊感をどのように受け留めるかは記者の個性によって異なって来ます。
神様からの側から聖書を読むなら、この個性に左右されなくなります。そして、神様が怒ることが多いこともよく理解できるようになります。イスラエルの民があまりにも不信仰だからです。例えば今日の聖書箇所の少し手前の出エジプト記14章の11節と12節には、ファラオの軍勢が後ろに迫っているのを見て恐れたイスラエルの民がモーセにこんなことを言ったことが書かれています。14章11節と12節をお読みします。
11 「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
主を信頼せずにすぐにこんなことを言うイスラエルの民の信仰は、本当に幼いものでした。そんなイスラエルの民を主は救いに導きました。神様の側から聖書を読むことができるようになるなら、神様の愛の深さもまた良く分かるようになります。そうして私自身もまた神様に愛されていることを感じることができるようになります。
このように神様の側から聖書を読むことができるようになるためには、聖書を全部通して読む、通読をすることが必要です。まだ聖書を全部通して読んだことがない方は、ぜひ通読にチャレンジしてみていただきたいと思います。そうして聖書の全体像を知るなら、やがては神様の側から聖書を読むことができるようになるでしょう。そうすれば、神様が海の水を分けて、乾いた所をイスラエルの民が歩けるようにしたことも、疑うことなく信じることができるようになるだろうと思います。
おわりに
繰り返しになりますが、聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書です。その霊感の受け留め方には記者の個性が出ますから、個性によって神様の書かれ方が異なって来ます。この書かれ方の違いに聖書の読者は左右されがちですが、神様の側から聖書を読むなら、記者の個性に左右されなくなります。
そのために、ぜひ聖書全体を通して読んでいただきたいと思います。来週は「律法の授与」について、出エジプト記とレビ記を引きながら、共に思いを巡らしたいと思います。
きょうの、主が海の水を分けた記事に思いを巡らしながら、しばらくご一緒に祈りましょう。
『海の水が分かれた記事を信じますか?』
【出エジプト14:21~28】
はじめに
きょうの礼拝メッセージのタイトルは、『海の水が分かれた記事を信じますか?』というものにしてみました。いま礼拝メッセージでは、聖書通読をお勧めしながら創世記から始めて順次出エジプト記、レビ記と見て行くことを考えて進行させています。
ただ聖書通読は、教会の礼拝に継続的に出席している方々にお勧めしていることで、教会に初めて来た方や、二回目、三回目という方には馴染まないかもしれません。
それゆえ、教会に来るのは初めてという方がいらした場合にも興味を持っていただける要素も少しは織り交ぜたほうが良いであろうと思い、きょうはこのようなタイトルにしてみました。
きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。
①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
②不思議なことに満ちた自然界
③私は聖書をどのように信じているか
④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書
①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
きょうの礼拝の始まりの招きのことばは、詩篇66篇の5節と6節を司会者に読んでいただきました(週報p.2)。
5 さあ 神のみわざを見よ。神が人の子らになさることは恐ろしい。
6 神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。
「神は海を乾いた所とされた」というのは、きょうの聖書箇所にあるようにイスラエル人たちがエジプトを脱出した後で海の乾いた所を歩いて渡ったことを示していますね。そして、その次の「人々は川の中を歩いて渡ったというのは」、イスラエル人たちがヨルダン川を歩いて渡ったヨシュア記の出来事を示しています。このヨシュア記の出来事も知っておいていただきたいと思いましたから、このヨシュア記の出来事の記事を聖書交読の時にご一緒に読みました。
ヨシュア記の記事はいずれまた読むことと思いますから、きょうは出エジプト記の方に集中します。きょうの聖書箇所の出エジプト記14章の21節から25節までを交代で読みましょう(旧約p.124)。
21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
22 イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
23 エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。
24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
25 戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」
先週ご一緒に見たように、主はエジプトに対して十の災いを与えました。今週もこの十の災いを週報のp.2に残しておきましたから、ご覧下さい。これらはエジプト人にとっては災いでしたが、イスラエル人にとっては奴隷の働きから解放されることにつながった救いの恵みでした。
この十の災いの中でも特に十番目の初子の死は強烈でした。エジプトの長子は皆、人の長子から家畜の初子に至るまで皆、主によって打たれて死にました。ただしイスラエル人の家では鴨居と門柱にいけにえの羊の血を塗ったので、その家を主が過ぎ越して長子が殺されることはありませんでした。
これに懲りたエジプトの王のファラオはイスラエル人たちに出て行くように言いました。こうしてイスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱出することができました。しかし、ファラオの気が変わり、軍勢を出してイスラエル人たちを追い掛けました。彼らを逃がしてしまうと働き手の奴隷を失ってしまうからです。
そしてイスラエル人たちの行く手を海が阻んでいた時に背後からエジプトの軍勢が迫って来て、前にも後ろにも進めなくなってしまいました。その時に主は海の水を分けて海の中の乾いた場所を進むようにして下さいました。イスラエル人たちは海の中を進み、エジプトの軍勢もまた彼らを追い掛けて海の中の乾いた地に入って行きました。そして、イスラエル人たちが海を渡りきったところで、主はモーセに言われました。続いて26節から28節までを交代で読みましょう。
26 主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」
27 モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
28 水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
こうしてファラオの軍勢は海の中に消えてしまいました。
さて、きょうは、主が海の水を分けてイスラエル人たちが乾いた所を歩いたという、この記事を信じるか信じないか、という観点から考えてみることにしたいと思います。
長い信仰歴を持ち、日々聖書を読んでいる教会員の方々はこの記事の記述を信じていると思いますが、まだ聖書にそれほど親しんでいない方にとっては、この記事を信じる気持ちにはなれないというのが正直なところではないでしょうか。私自身も聖書の初心者の頃は、この記事は作り話のように感じていました。
②不思議なことに満ちた自然界
一般常識で考えるなら、海の水が分かれて人々が歩ける乾いた場所が現われるなんて、そんな非常識なことが起きるわけがないと思うことでしょう。それが普通の反応だと思います。
しかし、そもそも自然界には直感的には有り得ない非常識なことで満ちています。私たちが当たり前のように受け入れていることでも、よくよく考えてみると不思議なことはたくさんあります。
例えば、私がとても不思議だと思うことの一つに「重力」があります。丸い地球の反対側に住んでいる人たちは、どうして地球から落ちてしまわないのでしょうか?子供の頃にそんな風に思ったことはないでしょうか?丸い地球のどこに住んでいても地面が下にあるのは重力が働いているからですが、重力はとても不思議だと思います。
まず第一に重力は小さいのに大きいところが、とても不思議だと思います。重力の力は、他の力と比べるとあまり大きくはありません。例えば鉄のクリップや釘を机の上の置いておき、その少し上に磁石を持って来ると、クリップや釘は重力に逆らって上の方向に飛び上がって磁石に吸い付きますね。磁石の力のほうが重力よりも遥かに大きいからです。
或いはまた、街路樹から木の葉が一枚、落ちたとします。風がなければ木の葉は下に向かいますが、風が吹くとその葉っぱは横に飛んだり上昇気流があれば空の上の方まで舞い上がったりします。木の葉の重力よりも風の力のほうが強いからです。鳥が空を飛べるのも、体重が軽い鳥の重力があまり大きくはないからです。
しかし、重力は小さいとは言っても、私たちの体は地上にぴったりと張り付いていて、ジャンプしてもあまり高くは飛べません。重力は小さいとは言っても、私たち人間にとっては大きなものです。不思議ですね。つい最近、宇宙探査機の「はやぶさ2」が小惑星の「りゅうぐう」に2回目の着陸をして、人工クレーターを作った時に表面に現われた「りゅうぐう」内部の岩石の採取に成功した模様であることが報道されていました。
小惑星「りゅうぐう」の直径は約900メートルで重力は地球の8万分の1しかないそうです。それでも「りゅうぐう」の表面にある岩石が、どの方向にある物であっても重力によって吸い付いていて離れて行かないのですから、重力はやはり小さいけれど大きいのですね。実に不思議です。
重力の不思議さはまだまだあります。重力は遠く離れていても、力を及ぼします。例えば海に満潮と干潮があるのは、海の水が月の重力に引っ張られるからだそうです(月と反対の方向でも満潮になることの説明は省略します)。
どうして遠く離れた月が地球の水に力を及ぼすことができるのでしょうか?アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間が歪んでいるからだそうです。これもまた不思議ですね。2年前の2017年のノーベル物理学賞は重力波を検出した研究チームが受賞しました。ブラックホールが合体すると重力が大きく変化するため、それが空間の歪みを変化させて、重力波という波となって空間を伝わり、それを検知することに成功したということがニュースになりました。宇宙にはブラックホールという、光でさえ出て来ることができない重力の大きい場所があるそうです。これもまた不思議なことですね。
このように自然界には重力のことだけでも私たちの常識では考えられない非常識で不思議なことがいくつもあります。そう考えると、聖書の記述に非常識と感じる部分があったとしても、非常識な点においては自然界も同様なのですから、聖書の非常識なことを信じても、少しもおかしいことはないということになるでしょう。
③私は聖書をどのように信じているか
そういうわけで私は、出エジプト記のこの海の水が分かれた記事のことも信じています。このパートでは、私自身が聖書をどのように信じているかについて、考えてみます。私自身もこのことを、今までそれほど考えたことがありませんでしたから、私にとっても良い機会だと思っています。
まず言えることは、私は聖書を丸ごと信じているということです。ですから、この記事は信じて、あの記事は信じないというような区別はしていません。丸ごと信じていますから出エジプト記の海の水が分かれた記事も信じています。しかし、一字一句に至るまで記述のすべてをそのまま信じているかと言えば、そうでもありません。例えば、きょうの聖書箇所で言えば、出エジプト記14章21節には、
21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
とありますね。私は風の力だけで海の水を動かすことができるだろうか?という疑問を持っています。先ほど話したように海の水の満潮と干潮は月の重力によってもたらされますから、重力は海の水を動かすことができます。ですから、神様は風の力だけでなく重力も使ったかもしれない、などと考えます。昔の人は重力のことを知りませんでしたから、出エジプト記にも当然重力のことは書かれていません。
こんな風に、私は聖書に書かれていることは基本的に丸ごと信じていますが、当時の人々の科学知識が私たちよりも乏しかったことを加味して、現代の科学知識を補って考えます。ですから出エジプト14章21節に【主】が「強い東風で海を押し戻し」と書いてあっても、それをそのまま信じるというよりは、主は重力も使ったのではないかなどと考える、というようなこともしています。
なぜ私が基本的に聖書を丸ごと信じることができるかは、イースター礼拝でも話したように私はイエス・キリストの復活を信じているからです。新約聖書はイエス・キリストが実際に復活したことを証言しています。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書だけでなく、使徒の働きも証言していますし、パウロもコリント人への手紙第一で証言しています。パウロはコリント人への手紙第一で復活したキリストが五百人以上の兄弟たちに同時に現われたと書いています(Ⅰコリント15:6)。
また、使徒の働きは復活したイエスさまに出会ってイエス・キリストを信じ、聖霊を受けた使徒たちが劇的に変わったことを証言しています。人が劇的に変わるには、よほどの体験が必要ですから、使徒たちはよほどのことを体験したことになります。そのよほどの体験とは何かを考えるなら、彼らが復活したイエスさまと出会ったこと以外には考えられません。
それゆえ私は新約聖書の証言を信じてイエス・キリストの復活を信じています。そして、このことによって私は平安を得ましたから、自分が聖霊を受けたことも確信しています。そしてまた、死んだイエスさまが復活できたのは神様が万物を創造し、人に命を与えた全知全能のお方であるからであることを、確信を持って信じています。
④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書
この確信が得られると、聖書が格段に身近なものになります。それは神様の側から聖書の記述を見られるようになるからだと思います。
聖書の初心者の頃の私は、旧約聖書をあまり好きにはなれませんでした。旧約聖書には神様が怒っている場面が多く書かれているからです。これは正に人間の側から聖書を読む読み方であったなと思います。
このように人間の側から聖書を読むと、神様がどのようなお方であるかのイメージが、聖書の記者の記述に大きく左右されることになります。しかし、神様の側から聖書を読むことができるようになると、聖書の記者の書き方に神様のイメージが左右されなくなります。聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書だからです。この神様からの霊感をどのように受け留めるかは記者の個性によって異なって来ます。
神様からの側から聖書を読むなら、この個性に左右されなくなります。そして、神様が怒ることが多いこともよく理解できるようになります。イスラエルの民があまりにも不信仰だからです。例えば今日の聖書箇所の少し手前の出エジプト記14章の11節と12節には、ファラオの軍勢が後ろに迫っているのを見て恐れたイスラエルの民がモーセにこんなことを言ったことが書かれています。14章11節と12節をお読みします。
11 「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
主を信頼せずにすぐにこんなことを言うイスラエルの民の信仰は、本当に幼いものでした。そんなイスラエルの民を主は救いに導きました。神様の側から聖書を読むことができるようになるなら、神様の愛の深さもまた良く分かるようになります。そうして私自身もまた神様に愛されていることを感じることができるようになります。
このように神様の側から聖書を読むことができるようになるためには、聖書を全部通して読む、通読をすることが必要です。まだ聖書を全部通して読んだことがない方は、ぜひ通読にチャレンジしてみていただきたいと思います。そうして聖書の全体像を知るなら、やがては神様の側から聖書を読むことができるようになるでしょう。そうすれば、神様が海の水を分けて、乾いた所をイスラエルの民が歩けるようにしたことも、疑うことなく信じることができるようになるだろうと思います。
おわりに
繰り返しになりますが、聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書です。その霊感の受け留め方には記者の個性が出ますから、個性によって神様の書かれ方が異なって来ます。この書かれ方の違いに聖書の読者は左右されがちですが、神様の側から聖書を読むなら、記者の個性に左右されなくなります。
そのために、ぜひ聖書全体を通して読んでいただきたいと思います。来週は「律法の授与」について、出エジプト記とレビ記を引きながら、共に思いを巡らしたいと思います。
きょうの、主が海の水を分けた記事に思いを巡らしながら、しばらくご一緒に祈りましょう。