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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

海の水が分かれた記事を信じますか?(2019.7.14 礼拝)

2019-07-16 00:15:17 | 礼拝メッセージ
2019年7月14日礼拝メッセージ
『海の水が分かれた記事を信じますか?』
【出エジプト14:21~28】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージのタイトルは、『海の水が分かれた記事を信じますか?』というものにしてみました。いま礼拝メッセージでは、聖書通読をお勧めしながら創世記から始めて順次出エジプト記、レビ記と見て行くことを考えて進行させています。

 ただ聖書通読は、教会の礼拝に継続的に出席している方々にお勧めしていることで、教会に初めて来た方や、二回目、三回目という方には馴染まないかもしれません。

 それゆえ、教会に来るのは初めてという方がいらした場合にも興味を持っていただける要素も少しは織り交ぜたほうが良いであろうと思い、きょうはこのようなタイトルにしてみました。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
②不思議なことに満ちた自然界
③私は聖書をどのように信じているか
④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書

①海と川の乾いた所を歩いて渡ったイスラエルの民
 きょうの礼拝の始まりの招きのことばは、詩篇66篇の5節と6節を司会者に読んでいただきました(週報p.2)。

5 さあ 神のみわざを見よ。神が人の子らになさることは恐ろしい。
6 神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。

 「神は海を乾いた所とされた」というのは、きょうの聖書箇所にあるようにイスラエル人たちがエジプトを脱出した後で海の乾いた所を歩いて渡ったことを示していますね。そして、その次の「人々は川の中を歩いて渡ったというのは」、イスラエル人たちがヨルダン川を歩いて渡ったヨシュア記の出来事を示しています。このヨシュア記の出来事も知っておいていただきたいと思いましたから、このヨシュア記の出来事の記事を聖書交読の時にご一緒に読みました。

 ヨシュア記の記事はいずれまた読むことと思いますから、きょうは出エジプト記の方に集中します。きょうの聖書箇所の出エジプト記14章の21節から25節までを交代で読みましょう(旧約p.124)。

21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
22 イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
23 エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。
24 朝の見張りのころ、は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
25 戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」

 先週ご一緒に見たように、主はエジプトに対して十の災いを与えました。今週もこの十の災いを週報のp.2に残しておきましたから、ご覧下さい。これらはエジプト人にとっては災いでしたが、イスラエル人にとっては奴隷の働きから解放されることにつながった救いの恵みでした。

 この十の災いの中でも特に十番目の初子の死は強烈でした。エジプトの長子は皆、人の長子から家畜の初子に至るまで皆、主によって打たれて死にました。ただしイスラエル人の家では鴨居と門柱にいけにえの羊の血を塗ったので、その家を主が過ぎ越して長子が殺されることはありませんでした。

 これに懲りたエジプトの王のファラオはイスラエル人たちに出て行くように言いました。こうしてイスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱出することができました。しかし、ファラオの気が変わり、軍勢を出してイスラエル人たちを追い掛けました。彼らを逃がしてしまうと働き手の奴隷を失ってしまうからです。

 そしてイスラエル人たちの行く手を海が阻んでいた時に背後からエジプトの軍勢が迫って来て、前にも後ろにも進めなくなってしまいました。その時に主は海の水を分けて海の中の乾いた場所を進むようにして下さいました。イスラエル人たちは海の中を進み、エジプトの軍勢もまた彼らを追い掛けて海の中の乾いた地に入って行きました。そして、イスラエル人たちが海を渡りきったところで、主はモーセに言われました。続いて26節から28節までを交代で読みましょう。
 
26 はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」
27 モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
28 水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。

 こうしてファラオの軍勢は海の中に消えてしまいました。
 さて、きょうは、主が海の水を分けてイスラエル人たちが乾いた所を歩いたという、この記事を信じるか信じないか、という観点から考えてみることにしたいと思います。

 長い信仰歴を持ち、日々聖書を読んでいる教会員の方々はこの記事の記述を信じていると思いますが、まだ聖書にそれほど親しんでいない方にとっては、この記事を信じる気持ちにはなれないというのが正直なところではないでしょうか。私自身も聖書の初心者の頃は、この記事は作り話のように感じていました。

②不思議なことに満ちた自然界
 一般常識で考えるなら、海の水が分かれて人々が歩ける乾いた場所が現われるなんて、そんな非常識なことが起きるわけがないと思うことでしょう。それが普通の反応だと思います。

 しかし、そもそも自然界には直感的には有り得ない非常識なことで満ちています。私たちが当たり前のように受け入れていることでも、よくよく考えてみると不思議なことはたくさんあります。

 例えば、私がとても不思議だと思うことの一つに「重力」があります。丸い地球の反対側に住んでいる人たちは、どうして地球から落ちてしまわないのでしょうか?子供の頃にそんな風に思ったことはないでしょうか?丸い地球のどこに住んでいても地面が下にあるのは重力が働いているからですが、重力はとても不思議だと思います。

 まず第一に重力は小さいのに大きいところが、とても不思議だと思います。重力の力は、他の力と比べるとあまり大きくはありません。例えば鉄のクリップや釘を机の上の置いておき、その少し上に磁石を持って来ると、クリップや釘は重力に逆らって上の方向に飛び上がって磁石に吸い付きますね。磁石の力のほうが重力よりも遥かに大きいからです。

 或いはまた、街路樹から木の葉が一枚、落ちたとします。風がなければ木の葉は下に向かいますが、風が吹くとその葉っぱは横に飛んだり上昇気流があれば空の上の方まで舞い上がったりします。木の葉の重力よりも風の力のほうが強いからです。鳥が空を飛べるのも、体重が軽い鳥の重力があまり大きくはないからです。

 しかし、重力は小さいとは言っても、私たちの体は地上にぴったりと張り付いていて、ジャンプしてもあまり高くは飛べません。重力は小さいとは言っても、私たち人間にとっては大きなものです。不思議ですね。つい最近、宇宙探査機の「はやぶさ2」が小惑星の「りゅうぐう」に2回目の着陸をして、人工クレーターを作った時に表面に現われた「りゅうぐう」内部の岩石の採取に成功した模様であることが報道されていました。

 小惑星「りゅうぐう」の直径は約900メートルで重力は地球の8万分の1しかないそうです。それでも「りゅうぐう」の表面にある岩石が、どの方向にある物であっても重力によって吸い付いていて離れて行かないのですから、重力はやはり小さいけれど大きいのですね。実に不思議です。

 重力の不思議さはまだまだあります。重力は遠く離れていても、力を及ぼします。例えば海に満潮と干潮があるのは、海の水が月の重力に引っ張られるからだそうです(月と反対の方向でも満潮になることの説明は省略します)。

 どうして遠く離れた月が地球の水に力を及ぼすことができるのでしょうか?アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間が歪んでいるからだそうです。これもまた不思議ですね。2年前の2017年のノーベル物理学賞は重力波を検出した研究チームが受賞しました。ブラックホールが合体すると重力が大きく変化するため、それが空間の歪みを変化させて、重力波という波となって空間を伝わり、それを検知することに成功したということがニュースになりました。宇宙にはブラックホールという、光でさえ出て来ることができない重力の大きい場所があるそうです。これもまた不思議なことですね。

 このように自然界には重力のことだけでも私たちの常識では考えられない非常識で不思議なことがいくつもあります。そう考えると、聖書の記述に非常識と感じる部分があったとしても、非常識な点においては自然界も同様なのですから、聖書の非常識なことを信じても、少しもおかしいことはないということになるでしょう。

③私は聖書をどのように信じているか
 そういうわけで私は、出エジプト記のこの海の水が分かれた記事のことも信じています。このパートでは、私自身が聖書をどのように信じているかについて、考えてみます。私自身もこのことを、今までそれほど考えたことがありませんでしたから、私にとっても良い機会だと思っています。

 まず言えることは、私は聖書を丸ごと信じているということです。ですから、この記事は信じて、あの記事は信じないというような区別はしていません。丸ごと信じていますから出エジプト記の海の水が分かれた記事も信じています。しかし、一字一句に至るまで記述のすべてをそのまま信じているかと言えば、そうでもありません。例えば、きょうの聖書箇所で言えば、出エジプト記14章21節には、

21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。

とありますね。私は風の力だけで海の水を動かすことができるだろうか?という疑問を持っています。先ほど話したように海の水の満潮と干潮は月の重力によってもたらされますから、重力は海の水を動かすことができます。ですから、神様は風の力だけでなく重力も使ったかもしれない、などと考えます。昔の人は重力のことを知りませんでしたから、出エジプト記にも当然重力のことは書かれていません。

 こんな風に、私は聖書に書かれていることは基本的に丸ごと信じていますが、当時の人々の科学知識が私たちよりも乏しかったことを加味して、現代の科学知識を補って考えます。ですから出エジプト14章21節に【主】が「強い東風で海を押し戻し」と書いてあっても、それをそのまま信じるというよりは、は重力も使ったのではないかなどと考える、というようなこともしています。

 なぜ私が基本的に聖書を丸ごと信じることができるかは、イースター礼拝でも話したように私はイエス・キリストの復活を信じているからです。新約聖書はイエス・キリストが実際に復活したことを証言しています。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書だけでなく、使徒の働きも証言していますし、パウロもコリント人への手紙第一で証言しています。パウロはコリント人への手紙第一で復活したキリストが五百人以上の兄弟たちに同時に現われたと書いています(Ⅰコリント15:6)。

 また、使徒の働きは復活したイエスさまに出会ってイエス・キリストを信じ、聖霊を受けた使徒たちが劇的に変わったことを証言しています。人が劇的に変わるには、よほどの体験が必要ですから、使徒たちはよほどのことを体験したことになります。そのよほどの体験とは何かを考えるなら、彼らが復活したイエスさまと出会ったこと以外には考えられません。

 それゆえ私は新約聖書の証言を信じてイエス・キリストの復活を信じています。そして、このことによって私は平安を得ましたから、自分が聖霊を受けたことも確信しています。そしてまた、死んだイエスさまが復活できたのは神様が万物を創造し、人に命を与えた全知全能のお方であるからであることを、確信を持って信じています。

④聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書
 この確信が得られると、聖書が格段に身近なものになります。それは神様の側から聖書の記述を見られるようになるからだと思います。

 聖書の初心者の頃の私は、旧約聖書をあまり好きにはなれませんでした。旧約聖書には神様が怒っている場面が多く書かれているからです。これは正に人間の側から聖書を読む読み方であったなと思います。

 このように人間の側から聖書を読むと、神様がどのようなお方であるかのイメージが、聖書の記者の記述に大きく左右されることになります。しかし、神様の側から聖書を読むことができるようになると、聖書の記者の書き方に神様のイメージが左右されなくなります。聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書だからです。この神様からの霊感をどのように受け留めるかは記者の個性によって異なって来ます。

 神様からの側から聖書を読むなら、この個性に左右されなくなります。そして、神様が怒ることが多いこともよく理解できるようになります。イスラエルの民があまりにも不信仰だからです。例えば今日の聖書箇所の少し手前の出エジプト記14章の11節と12節には、ファラオの軍勢が後ろに迫っているのを見て恐れたイスラエルの民がモーセにこんなことを言ったことが書かれています。14章11節と12節をお読みします。

11 「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 主を信頼せずにすぐにこんなことを言うイスラエルの民の信仰は、本当に幼いものでした。そんなイスラエルの民を主は救いに導きました。神様の側から聖書を読むことができるようになるなら、神様の愛の深さもまた良く分かるようになります。そうして私自身もまた神様に愛されていることを感じることができるようになります。

 このように神様の側から聖書を読むことができるようになるためには、聖書を全部通して読む、通読をすることが必要です。まだ聖書を全部通して読んだことがない方は、ぜひ通読にチャレンジしてみていただきたいと思います。そうして聖書の全体像を知るなら、やがては神様の側から聖書を読むことができるようになるでしょう。そうすれば、神様が海の水を分けて、乾いた所をイスラエルの民が歩けるようにしたことも、疑うことなく信じることができるようになるだろうと思います。

おわりに
 繰り返しになりますが、聖書は神様が記者に霊感を与えて書かれた書です。その霊感の受け留め方には記者の個性が出ますから、個性によって神様の書かれ方が異なって来ます。この書かれ方の違いに聖書の読者は左右されがちですが、神様の側から聖書を読むなら、記者の個性に左右されなくなります。
 そのために、ぜひ聖書全体を通して読んでいただきたいと思います。来週は「律法の授与」について、出エジプト記とレビ記を引きながら、共に思いを巡らしたいと思います。
 きょうの、主が海の水を分けた記事に思いを巡らしながら、しばらくご一緒に祈りましょう。
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過越の恵み(2019.7.7 聖餐式礼拝)

2019-07-08 08:09:52 | 礼拝メッセージ
2019年7月7日聖餐式礼拝メッセージ
『過越の恵み』
【出エジプト12:21~28】
『過越の恵み』

はじめに
 礼拝メッセージでは、皆さんに聖書通読をお勧めしています。聖書全体を見渡せるようになることで私たちは大きな恵みをいただくことができます。

 それゆえ、この礼拝メッセージにおいても聖書をなるべく大きな視野で眺めることができるように、一つの書を大体2週間ぐらいで終えて、次の書に進もうと思っています。私たちはすでに先週と先々週の2週間、創世記を開きましたから、きょうの後半では出エジプト記に入ります。

 週報p.2に載せたように、きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①私たちは、なぜ祈るのか
 ②主のご計画という大船の船長のイエス
 ③百万人を動かした十のしるし
 ④過越と最後の晩餐と聖餐式

①私たちは、なぜ祈るのか
 先週の礼拝メッセージでは、主がアブラムと契約を結ぶ儀式を行った場面までを見ました。まだアブラハムにもなっていないアブラムの時代のことです。ここから今日はモーセの時代の過越の出来事までを眺めることにしています。

 アブラムがアブラハムになり、息子のイサクが生まれてからもアブラハムの身辺には様々なことがあったことが創世記を読むと分かります。そして息子のイサクにもまた色々なことがあり、イサクの息子のヤコブも様々な中を通りました。さらにヤコブの息子のヨセフは、兄たちによってエジプトに向かう商人に売られてしまったために、様々な苦労を経験しました。そして、モーセもまた、エジプトを脱出するイスラエル人のリーダーになるよう主から召し出されるまでには、色々なことを経験しました。

 きょうの、この限られた時間の中でこれらの様々な出来事の中で何を取り上げるべきか、思いを巡らす中で、私はふと思いました。これらの出来事の中で、何が偶然の出来事で、何が主のご計画によって為されたことなのでしょうか?

 アブラハム・イサク・ヤコブからヨセフ・モーセに至るまで、すべてのことがイスラエル人がエジプトから脱出した出来事へとつながっています。どれか一つでも違うことが起きていたら、そこから先は聖書の記述とは違うことが起きていたでしょう。すると、すべてのことは主のご計画の通りのことだったのでしょうか?例えばヨセフの兄たちはエジプトに向かっている商人にヨセフを売りました。この時、もし商人がエジプトではなくてメソポタミアのバビロン方面に向かっていたら、その後の展開はどうなっていたでしょうか?

 ヨセフの兄たちの近くをたまたまエジプトに向かう商人が通り掛かったのは、主のご計画だったのでしょうか?バビロンは有り得なかったのでしょうか?別の言い方をするなら、主のご計画ではヨセフをバビロンに送ることだったのに、たまたまエジプトに向かう商人が通り掛ったので、主はご計画をバビロンからエジプトに変更した、ということは考えられないでしょうか?

 私たちは良く、主のご計画ということを口にします。主のご計画は確かに存在します。しかし主は細かいことまですべての計画を立てて、その通りに実行されているのでしょうか?例えば明日の天気、明後日の天気まですべて細かく決めているでしょうか?人間の行動はお天気に大きく左右されますから、主はお天気を決め、私たち人間の行動までを細かく計画して、その通りに物事を動かしているのでしょうか?

 それは有り得ないですよね?主は全知全能のお方ですから、もちろん細かいことまで決めて人を動かすこともできます。しかし、そんなことをしたら、私たちはただのロボットになってしまいます。主はそんなことは望んでおられません。主が望んでいることは、私たちがロボットのように命令に忠実に動くことではなく、私たちが主の語り掛けに自発的に応答して主に付き従って行くことです。

 ですから主は私たちに対して常に語り掛けてはいるものの、ほとんどの場合はそれ以上の介入はせずにいて、ただ見守っています。だからこそ、私たちは祈るんですね。すべての未来が決まっているのなら祈っても仕方がありません。未来で決まっているのは大まかなことだけで細かいことは決まっていません。しかも、主は大部分のことには介入しないでいます。

 だからこそ、私たちは祈ります。主が、私たちが願う方向に介入して下さることを祈ります。ですから、もし私たちが祈り願うことが主の大きなご計画の方向に沿うものであるなら、主はきっと応えて下さることでしょう。

 そこで、もう一度考えてみましょう。主が決めておられる大きなご計画と、決めておられない細かいことの境い目はどこにあるのでしょうか?

 そのことを考えるのに、先週開いた創世記の15章13節と14節を、もう一度ご一緒に読むことにしたいと思います(旧約p.22)。交代で読みましょう。

13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。

 13節で主はアブラムに、「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」と仰せられました。ですから、このことは主のご計画で決まっていました。しかし、この地が「エジプト」とはおっしゃっていません。ですから、ヨセフを兄たちから買った商人がもしバビロンに向かっていたのなら、イスラエル人たちはバビロンで奴隷になって四百年間奴隷になっていたということも有り得るのではないかと私は思います。

 これはかなり極端な考え方かもしれませんが、ここで私が言いたいのは、主のご計画は大まかなことは決まっていても、細かいことは決まっていないということです。だからこそ、私たちは祈ります。そうして、主の大きなご計画の中で、小さな私たちは与えられた人生を精一杯生きて行きます。

②主のご計画という大船の船長のイエス
 次の2番目のパートに進みます。

 ここでは、主の大きなご計画を大きな船に例えてみたいと思います。大きな船は、どんな嵐の中でも決して沈むことがありません。小さな舟なら沈んでしまうような大嵐の中でも大丈夫です。そうして目的の港に向かって逸れることなく航行して行きます。

 主に信頼して信仰の道を歩む者とは、この大きな船に心を寄せる者と言えるのではないでしょうか。アブラハムもイサクもヤコブも、そしてヨセフもモーセも、嵐に遭遇して、時に沈みそうになる時もありました。しかしおぼれずにいて信仰の道を歩み通すことができたのは、大きな船に心を寄せていたからです。この大きな船の船長は、即ちイエスさまのことだと言って良いでしょう。イエスさまはアブラハムより前からいました。イエスさまは創世記の初めの時代から人々と共にいて、主の大きなご計画という船の船長をしています。

 ここでルカの福音書の8章22節から25節までを交代で読みましょう(新約p.128)。

22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

 小さな私たち一人一人の人生には様々なことがありますから、私たちは嵐の中を進んでいるようなものです。それら私たちが遭遇する出来事の一つ一つについて、それが主のご計画と関わっているものなのか関わっていない唯の偶然のものなのか、私たちには知ることが許されていません。しかし、主が大きなご計画をお持ちで、私たちがその中で生かされていることだけは確かです。この主に信頼して心を寄せているのなら、少々の嵐に遭ったとしても、信仰を持つ者を主が悪い方向に導くはずがありませんから、私たちは心の平安を保つことができます。

 聖書通読を私がお勧めするのは、主の大きなご計画を知って、その中を進む大きな船の船長であるイエスさまに心を寄せることができるようになるためです。そうして心の平安を得るためです。この素晴らしい恵みをぜひ多くの皆さんと分かち合いたいと思います。

③百万人を動かした十のしるし
 三番目のパートに進みます。
 ヤコブの息子のヨセフは兄たちによってエジプトに向かう商人に売られてしまい、エジプトに連れて行かれます。しかしヨセフはエジプトで王のファラオに次ぐ第二の地位に就いて、大きな飢饉が起きた時にヤコブの家族をエジプトに呼び寄せました。

 イスラエル人はエジプトで大いに増えて、奴隷として働かされるようになりました。そして主は、奴隷の重労働に苦しんで泣き叫ぶイスラエル人をエジプトから出すことにします。そのエジプト脱出のリーダーに指名されたのがモーセです。エジプトの王のファラオはイスラエル人たちがエジプトから出て行くことを許しませんでしたから、主はエジプトで十のしるしを行って、それに懲りたファラオがイスラエル人を追い払うように仕向けることにしました。

 この十のしるしを週報のp.2に載せました。それらは、①ナイル川の水を血に変える、②蛙、③ブヨ、④アブ、⑤家畜の疫病、⑥腫れもの、⑦雹、⑧いなご、⑨暗闇、⑩初子の死です。これらのしるしは、エジプト人たちにとっては災いでしたが、イスラエル人たちにとっては奴隷の身分から救出されるための救いの恵みでした。

 しかし、それにしても、イスラエル人をエジプトに出すために、十ものしるしが必要だったのでしょうか?かつての私は、エジプトの王のファラオが何度も何度も頑なになることに首をかしげていました。せいぜい5回も災いがあれば懲りるのではないか、そんな風に思っていました。

 しかし、今ではこの十回はエジプト人が懲りるためではなく、百万人ものイスラエル人たちが主を信じ、モーセをリーダーと認めるために必要だったのだろうなと思っています。この十回のしるしの間、モーセは何度も何度も繰り返しファラオに会いに行きました。このようにイスラエル人のエジプト脱出のために誠実にまた謙虚に働くモーセの姿を見てイスラエル人たちの心の中にはモーセを信頼する気持ちができていったのだろうと思います。

 イスラエル人の数は戦闘要員の成人男子だけで六十万人いましたから、女性や子供、老人を含めれば百万人を越えていたことでしょう。この百万人の心が一つにならなければエジプト脱出という大きなことを成し遂げることはできません。そのために十回ものしるしが必要だったのでしょう。

 そうして、十番目のしるしの過越の時を迎えます。

④過越と最後の晩餐と聖餐式
 四番目のパートに移ります。きょうの聖書箇所の出エジプト記12章の21節から見ていきます(旧約p.119)。21節から24節までを交代で読みましょう。

21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
23 はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。

 ここにあるように、イスラエル人たちは羊の血を鴨居と門柱に塗りました。そうして主はこの血がある家を過ぎ越しましたから、イスラエル人の長子や家畜の初子が主に打たれることはありませんでした。

 この時に犠牲となったいけにえの羊は、後(のち)のイエス・キリストですね。イエス・キリストは十字架で血を流して死にました。このイエスが神の子キリストであると信じる者は神によって滅ぼされることなく永遠の命を得ます。人は皆が罪人ですから本来なら皆が滅ぼされるべき者たちですが、主の憐れみによって過ぎ越していただけるのです。

 続いて25節から28節までを交代で読みましょう。

25 あなたがたは、が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。
26 あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、
27 あなたがたはこう答えなさい。『それはの過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。
28 こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 この過越の儀式はイエスさまの時代にも守られていました。旧約の時代には、律法が守られておらず、この儀式が途絶えていた時期もありましたが、南王国が滅ぼされてエルサレムの人々がバビロン捕囚となり、その後にエルサレムへの帰還が許されてからは、この儀式を守るようになっていました。

 そしてイエスさまは過越の祭りの時にエルサレムで十字架に掛かって死にました。十字架に掛かる前の晩の最後の晩餐の食事は、過越の食事でした。ルカの福音書22章の7節から13節までを交代で読みましょう(新約p.165)。

7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、
10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

おわりに
 きょう、これから私たちはイエスさまとの聖餐の食事の恵みをいただきますが、その前に、もう一度、きょうのメッセージを振り返っておきたいと思います。

 神様は大きなご計画を持って進めておられます。イスラエルの民がエジプトで奴隷になり、そこから脱出して再び先祖アブラハムが住んだ地のカナンに戻ることは神様のご計画でした。そして、神の御子イエス・キリストが十字架に掛かって死ぬこともまた、神様のご計画のうちにあることでした。

 しかし、世の中で起こることのすべてが神様のご計画として決まっているわけではありません。大部分のことについて、神様はただ見守っているだけで必要な時にしか介入をしません。だからこそ、私たちはお祈りします。そして、神様を信頼して、神様のご計画という大きな船の船長であるイエスさまと人生の航海を共にします。この大きな船は決して沈むことがありません。それゆえ私たちは船長のイエスさまと共に人生を歩むなら、心を乱すことなく平安でいることができます。

 出エジプトの時代、過越の羊の犠牲によって百万人以上ものイスラエル人たちが奴隷の苦しみから救い出されました。そして、イエスさまが十字架で血を流すことによって、どれくらい多くの人々が救われたでしょうか。これから聖餐の恵みに与る私たちもその中の一人です。しかし、イエスさまを信じていない方々もたくさんおられます。

 この地域にもイエスさまを信じていない方々がたくさんおられます。私たちは地域の多くの方々がイエスさまが船長の船に乗り、私たちと共に聖餐の恵みに与ることができる日が来るように、祈りつつ、共に働いて行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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イスラエルの歴史の始まり(2019.6.30 礼拝)

2019-07-01 08:10:22 | 礼拝メッセージ
2019年6月30日礼拝メッセージ
『イスラエルの歴史の始まり』
【創世記12:1~4 、マタイ1:1、17】

はじめに
 礼拝では皆さんに聖書全体を通して読む、聖書通読をすることをお勧めしています。既に皆さんの多くが聖書通読を行っていることと思いますが、まだ全体を読んだことがなくて聖書の全体像を知らない方もおられるのではないかと思います。ぜひ聖書全体を読み通してみて下さい。

 そうして聖書全体を見渡せるようになることで、キリストの愛の大きさを知ることができるようになると思います。

 パウロが書いたエペソ人への手紙は私が大好きな書の一つですが(たぶんベスト3ぐらい)、その3章17節から19節までには次のように書いてあります(週報p.2)。

エペソ3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るためには聖書全体を見渡せるようになることが不可欠であろうと思います。その助けになるように、この礼拝のメッセージのシリーズでは、聖書の各書をある程度大きな視野で見ることにしています。

 前回は創世記の1章を開いて、神様が天と地を造り、私たちの命を造り、「それは非常に良かった」ということを話しました。しかし、アダムとエバが神様の命令に従わなかったために人のうちに罪が入り、魂が死んでしまいました。そうして罪の中で人々がもがき苦しむ「旧約の時代」が延々と続いていくことになります。

 「旧約の時代」、神様は律法を授けることで人々が神様と共に歩むことができるようにして下さいました。しかし人々はなかなか律法を守ることができませんでした。イエス・キリストはそのように罪で苦しむ人々の魂を生き返らせて救うために、この世に来て下さり、十字架に掛かりました。これが前回話したことのあらましです。

 きょうはアダムとエバの時代以降の創世記の時代を、アブラハムの時代まで見ることにします。そうして次回はヤコブとヨセフの時代を短く見てからモーセの時代に入り、過越の出来事の記事をご一緒に見た後で聖餐式を執り行うことにしたく思っています。

 きょう話す三つのパートは、次の通りです(週報p.2)。

①ノアの洪水の後でも良くならなかった人々
②アブラハムから始まったイスラエルの歴史
③モーセの時代の律法授与を見据えていた主

①ノアの洪水の後でも良くならなかった人々
 では一番目のパートから見て行きましょう。

 神様が食べてはならないと命じていた善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムとエバはエデンの園を追い出されました。その後、二人には子供ができます。最初の子がカインで、次の子がアベルでした。そして兄のカインは弟のアベルを殺してしまいました。神様から心が離れてしまったアダムとエバの子供のカインもやはり、神様から心が離れていたのですね。そういうわけで、増え広がっていった人類のほとんどは悪に染まっていました。

 創世記6章の5節から8節をご一緒に見ましょう(旧約p.8~9)。

創世記6:5 は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6 それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そしては言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
6:8 しかし、ノアはの心にかなっていた。

 地上の人がいつも悪に傾くのをご覧になった主はノアとノアの家族、そして一つがいずつの動物たちを除いては大洪水によって流して滅ぼすことにしました。それで主はノアに巨大な船を作るように命じました。洪水によって地上が水没しても船に乗っている者たちは助かるようにするためです。

 そうしてノアとノアの家族以外の人類は死に絶えてしまいました。ですから、その後の人類は皆がノアの子孫ということになります。ノアは主の心にかなっていましたから、この後の人類は悪に傾くことはないだろうというわけです。しかし残念ながら、そうはなりませんでした。人々は、今度は天に届くバベルの塔を建設することを企てました。

 今度は創世記11章の4節をお読みします。

創世記11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂(いただき)が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

 天に届く塔を建てるということは、人類が神様の目を持つということです。聖霊を受けていない人々が神様の目を持ったら、どんな悪いことをたくらむか分かりません。それを心配した神様は人々のことばを混乱させてバベルの塔の建設を中止に追い込みました。

 この礼拝のシリーズで私は皆さんに鳥のように高い所に昇って神様の視点を持つことをお勧めしていますね。それはイエス・キリストを信じて聖霊を受けた者だから許されることでしょう。それでも人間は思い上がりやすい罪の性質を持っていますから、高い所からの視点を持つだけでなく、弟子たちの足を洗ったイエスさまのように低い所にも下りて行って、低いところからの視点も同時に持つ必要があります。聖霊を受けないで高い所に昇るだけでは、人はバベルの塔の建設を目論んだ人々のようになってしまいます。

②アブラハムから始まったイスラエルの歴史
 続いて2番目のパートに移ります。きょうの聖書箇所の12章の1節から4節までを交代で読みましょう。

創世記12:1 はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは、が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 アブラムというのはアブラハムのことです。主が言われた「わたしが示す地」というのはカナンの地のことです。ここからイスラエルの歴史が始まりました。この12章の出来事の前の11章がバベルの塔の章です。そして、バベルの塔の前にノアの洪水がありました。ノアの洪水によって主は地上から悪を消し去ろうとしましたが、そうは行かず、人々はバベルの塔の建設を目論みました。そこで主は、もう一度やり直すことにしました。

 今度の方式は、ノアの洪水のように人類を滅ぼすことではなく、先ず一つの民族、すなわちイスラエルの民族を選び、彼らに律法を授けて主と共に歩むようにして、その後に全人類がイスラエルに倣ってヤハウェの神を礼拝するようにしよう、というものでした。
 そうしてイスラエルの歴史が始まりました。この旧約の時代のイスラエルの歴史を1つのページで見渡せるのがマタイの福音書の1ページ目にある系図ですね。今度はマタイ1章1節をご一緒に読みましょう。

マタイ1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 そうして2節から「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、」というようにアブラハムの子孫たちの名前が刻まれて、この1ページ目だけで旧約の時代のイスラエルの歴史全体を見渡せるようになっています。このように神様の視点で旧約の時代の歴史の全体を見渡せることは素晴らしいことです。カタカナが多くて読みづらいと思わずに、是非この系図に慣れ親しんでいただきたいと思います。

 旧約聖書を通読すれば、これらの名前の多くは出て来ますから、通読を行うことでこの系図にも親しみやすくなります。ただしバビロン捕囚の後は見慣れない名前も出て来ます。それは旧約聖書の最後のマラキ書が書かれてからイエス・キリストの誕生までは聖書が400年間の沈黙の期間に入ったからです。そうしてイエス・キリストが生まれます。今度は16節と17節を交代で読みましょう。

マタイ1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。

 この旧約の時代、大半のイスラエル人の心は神様から離れていました。バビロン捕囚の後は、これに懲りて人々は律法を守るようになりました。しかし、それはすぐに形骸化して形だけ律法を守り、心は神様から離れているパリサイ人のようになってしまいました。

 やはり人は聖霊を受けて心の内側に神様に入っていただかない限りは、神様と共に歩むことができません。そのためにイエス・キリストがこの世に生まれて十字架に掛かりました。イスラエルはこのことを学ぶのに、アブラハムからイエス・キリストまで約二千年間の年月を要しました。

③モーセの時代の律法授与を見据えていた主
 続いて三番目のパートに移ります。

 創世記12章でアブラムに声を掛けてカナンの地に向かうように言った主は、この時から既にモーセの時代を見通していました。それが分かるのが、主がアブラムと契約を結んだ場面です。創世記15章を開いて下さい(旧約p.21)。ここに不思議な契約の儀式のことが書かれています。7節から21節までを読みます。

創世記15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである。」
8 アブラムは言った。「、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」
9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。
11 猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。
12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。
13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」
17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
18 その日、はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、
21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」

 この不思議な契約の儀式について簡単に見ておきましょう。主はアブラムに牛とやぎと羊を真っ二つに切り裂いて、それらを向かい合わせに並べるように命じました。この契約の儀式は、もし契約を破ったら、その契約を破った者はこのように真っ二つに切り裂かれるということを意味しているそうです。それで契約を交わした者たちは、この二つに切り裂かれた動物の間の通路を通る儀式を行うそうです。

 しかし、17節にあるように、この時の契約で通路を通ったのは神様だけでした。アブラムは通りませんでした。このことから、このアブラムと主の契約の儀式はイエス・キリストの十字架の予表とも言われています。つまり神様のイエスさまだけが十字架で切り裂かれて、人は罰せられることなく死を免れて罪が赦されたというわけです。

 さて、この契約の儀式で主は13節のように仰せられました。

13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。

 これはアブラムの孫のヤコブの時代に、ヤコブの一族がエジプトに行って住むようになることを指していますね。まずヨセフがエジプトに売られて行き、そこでヨセフはエジプトの王に次ぐ二番目の地位に就いて、大飢饉があった時に家族を呼び寄せました。そうしてヤコブの子孫たちがエジプトで増えて、やがては奴隷となって苦しめられることになります。続いて14節、

14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。

 これはモーセがリーダーとなってイスラエル人たちがエジプトを脱出することを指していますね。そうしてエジプトを脱出したイスラエル人たちは約束の地のカナンに向かう途中のシナイ山のふもとで律法を主から授けられます。このように主は、アブラムと契約を結んだ時から既にモーセの時代の律法の授与を見据えていました。

 シナイ山のふもとで律法を授かったイスラエル人の数は、民数記によれば軍隊に登録された成人男子だけで60万人いました(民数記2:32)。民数記の「民数」は民の数が数えられるということですから、民数記には民の数が書かれています。軍隊に登録された成人男子だけで60万人ですから女性や子供、老人を加えれば全体で100万人を越えていたでしょう。主はこの100万人以上の民に対してシナイ山のふもとで律法を授けました。何と効率的な方法でしょうか。

 仮にヤコブの時代にヤコブの家族だけに律法が授けられていたとしたら、伝言ゲームのようにしてモーセの時代には誤った形に変形していたかもしれません。100万人に伝えられれば互いに教え合うことで誤った形で伝わることを防げます。

 ただしヤコブの子孫がカナンの地の中で100万人に増えれば、全員を集めて律法を授けることは困難でしょう。人は簡単には主の言うことを聞かないからです。その場に集まらない者がきっといることでしょう。主から離れる者がいることはアダムやカインの事例で既に分かっていることです。しかしエジプトで増えて全員が一時(いっとき)に脱出して集団で移動するなら、その途中で全員に向けて律法を授けることができます。

 主の為さることは本当にすごいと思います。人間の知恵では計り知れない方法で主は100万人を越えるイスラエル人たちに一括して律法を授けました。主はアブラムと契約の儀式を執り行った時から、このモーセの時代のエジプト脱出のことを見据えていたのだと思います。

 来週はイスラエル人たちがエジプトを脱出した時の過越の出来事の記事を共に読むことにします。この過越の出来事をイスラエル人たちはとても大切にし、イエスさまの時代にも過越の祭りが行われていました。イエスさまは十字架に掛かる前の晩、弟子たちと共に食事をしました。その最後の晩餐は過越の食事でした。来週はこの場面を見た後で聖餐式に臨みます。

おわりに
 きょうはカインとアベルの時代からノアの時代、バベルの塔の時代、アブラムの時代までを駆け足で見渡しました。この時代から既にモーセの時代が見据えられていて、後にはイエスさまの十字架へとつながって行きます。このスケールの大きな旧約の時代のイスラエルの歴史に思いを巡らすことで、キリストの愛の大きさを感じたいと思います。イスラエルの歴史のスケールの大きさを感じれば感じるほど、キリストの愛の大きさもまた感じられることと思います。

 そうしてキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するなら、私たちは心の平安を得てゆったりとした気持ちになることができ、多少のことなら動揺せずに心の平安を保ちながら過ごすことができるようになることと思います。

 聖書全体を読み通すことをお勧めするのは、通読すれば心の平安が得られるからです。もし、まだ聖書を通読していない方がいらしたら、ゆっくりで構いませんから、毎日少しずつ聖書を読んで下さい。

 イスラエルの壮大な歴史に思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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それは非常に良かった、しかし(2019.6.23 礼拝)

2019-06-24 10:50:57 | 礼拝メッセージ
2019年6月23日礼拝メッセージ
『それは非常に良かった、しかし』
【創世記1:1、31 、ローマ5:17~19】

はじめに
 礼拝メッセージでは、聖書通読の重要性について分かち合いたいと願っています。このシリーズは、そもそもは私たちがもっと聖霊を感じることができるようになりたいという願いから始まっています。そのためにお勧めしているのが、一日のうちで最上の時間帯に祈りと聖書通読とディボーションの時を持つことです。その三つのうちの一つの聖書通読について、礼拝では取り上げて行きます。

 聖書を部分的に読むだけでなく全体を通読することをお勧めするのは、天高く昇った鳥のように聖書全体を見渡すことができるようになるためです。鳥の目を持つことで私たちは神様に少し近づくことができます。神様に近づくなら聖霊を以前よりも強く感じることができるようになるでしょう。ただし高い所に昇って神様に近づくと私たちは高ぶって傲慢になる恐れがありますから、弟子たちの足を洗ったイエスさまのように低い所に下がって行く者でもありたいと思います。

 イエス・キリストを深く理解するには高い所からと低い所からの両方の視点を持つことが大切であろうと思います。どちらか一方ではなく、両方です。高い所からと低い所からの両方の視点を持つことで、神であり人であるイエスさまのことを、より良く理解できるようになると思います。神であり人であるイエスさまのことを理解できるようになると、聖霊のこともまた理解できるようになり、聖霊を強く感じることができるようになります。

 聖書通読をお勧めするシリーズの第1回目の先週は、「律法の授与」と「聖霊の授与」という観点から聖書全体を見渡しました。きょうからは部分に入って行きます。だいたいの予定では、2週間で1つの書の学びを終えたいと考えています。たった2週間で創世記を終えるのはやや乱暴ですが、創世記にじっくりと取り組むとなかなか出エジプト記に移れません。すると聖書全体を見渡せるようになりたいという、このシリーズの趣旨に沿わなくなりますから、1つの書を2週間ぐらいで見渡すぐらいのペースで進んで行きたいと思います。

 そういうわけで今週と来週の2回で創世記を終えて再来週の7月7日の聖餐式礼拝のメッセージでは出エジプト記の過越の場面を学ぶことにします。イエスさまは最後の晩餐で弟子たちと過越の食事を取りましたから、聖餐式礼拝の日に出エジプト記の過越の場面を学ぶことは、タイミングとしてピッタリであろうと思います。

 さて、創世記の学びの1回目のきょうは、週報p.2に記したように、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ① それは非常に良かった
 ② 魂が死んだアダムとエバ
 ③ アダムとイエスと私たち

① それは非常に良かった
 まず、創世記の1章1節を、ご一緒に読みましょう。

1:1 はじめに神が天と地を創造された。

 これがすべての出発点です。神様が宇宙を造り、私たちが住む地球を造り、私たちの命を造りました。この出発点があるから、私たちは神様のおっしゃることに従わなければなりません。天と地を造り、私たちの命を造ったのが神様ではなく、偶然によってできたとしたら、私たちは聖書に書いてある神様の命令に特に従う必要はないでしょう。

 しかし、神様が私たちの住む場所と私たちの命を造られたのですから、私たちは神様がおっしゃることに従わなければなりません。イースター礼拝の時に話しましたが、イエス・キリストの復活を信じるなら、神様が万物を創造したことを信じることができます。

 続いて1章のおしまいの31節をご一緒に読みましょう。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神様ははじめの六日間で天と地と動植物そして人間の、すべてをお造りになりました。第1章をざっと見ておきましょう。神様は一日目に光を造りました。そして二日目に大空を造りました。三日目に地を造り、その地に生える植物を造りました。四日目に星を造り、太陽と月を造りました。五日目に水中の生き物と鳥を造りました。そして六日目に陸の動物と人間を造りました。そして31節で、先ほどご一緒に読んだようにご自分が造ったすべてのものをご覧になりました。「見よ、それは非常に良かった」と創世記は記しています。

 神様が造られたものは、非常に良いものでした。このことをしっかりと覚えておきたいと思います。私たちが暮らしている今の世界には良くないものごとがたくさんあります。しかし、神様が造られた当初は、非常に良いものでした。

 では、当初は非常に良かったのが、どうして悪くなってしまったのでしょうか。それはアダムとエバの心が神様から離れたことから始まったというのが、聖書の記していることです。

② 魂が死んだアダムとエバ
 旧約聖書を読むと、神様から心が離れた人々のわがままな言動が山のように出て来て、ため息が出ます。それは最初の人間であったアダムとエバの時代から始まっていました。聖書を全部読み通した経験が無い方でも、このアダムとエバの記事はほとんどの方が読んだ経験を持っておられることでしょう。創世記3章の1節から6節までを交代で読みましょう(旧約p.4)。

3:1 さて蛇は、神であるが造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 こうしてアダムとエバは、神様が食べてはならないと命じていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そして、このことでアダムとエバの魂が死んで、神様から心が離れてしまいました。「食べたら死ぬ」と神様がおっしゃっていたのは、肉体が死ぬことではなくて、魂が死ぬことだったのですね。魂が死んでしまうと心は神様から離れてしまいます。

 きょう、この箇所から分かち合っておきたいことは、アダムが率先して禁じられている木の実を食べたわけではないということです。ここには蛇が関わっています。つまり悪魔による誘惑が関わっています。悪魔は非常に巧妙に人を誘惑して、人を神様から遠ざけようとします。この箇所からも悪魔の巧妙さがよく読み取れます。

 蛇の姿をした悪魔はまず、妻のエバのほうに近づいて誘惑しました。神様が善悪の知識の木の実を食べてはならないと命じたのはアダムに対してでした。エバはそれを神様から直接聞いたわけではなく、アダムから間接的に聞いていたようです。ですから妻のエバのほうが悪魔の罠に掛かりやすかったのですね。こうしてエバは易々と悪魔の手に乗ってしまいました。そうしてエバはアダムにもその木の実を与えたので、アダムは食べてしまいました。

 悪魔は本当に巧妙だと思います。皆さんはC.S.ルイスの小説『悪魔の手紙』を読んだことがあるでしょうか。この小説には人から神様を遠ざけようと悪魔があの手この手を駆使して働いている様子がリアルに描かれています。これはもちろんルイスによるフィクションですが、悪魔がどんな風に働いているかを想像するのに、とても参考になります。

 例えば、ある人が図書館のような静かな場所で深遠な問題について考え始めたとします。そのまま放っておくて、その人は神様について考えるようになるかもしれません。そこで悪魔はその人の耳元で、そろそろ昼ごはんを食べに外に出たらどうかとささやきます。そうして、その人が図書館を出て外の騒音に満ちた雑踏の中に入るなら、もはや神様について考える心配がなくなりますから、悪魔の誘惑は成功したことになります。

 とにかく悪魔はあの手この手で人を神様から遠ざけようとします。イエスさまでさえ、悪魔の誘惑に遭いましたね。今度はルカの福音書にある、悪魔がイエスさまを誘惑した箇所をご一緒に読みましょう。ルカ4章の1節から8節までを交代で読みましょう(新約p.115)。

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、
4:2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」
4:4 イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
4:5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、
4:6 こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。
4:7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」
4:8 イエスは悪魔に答えられた。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

 まだ続きがありますが、ここまでとします。このように、悪魔は執拗に誘惑して、人が神様から離れるように仕向けます。その人が神様に心を向ければ向けるほど悪魔は熱心に働きます。アダムとエバはその餌食になってしまいました。

 悪魔は、その人が神様の良い働き人であればあるほど熱心に誘惑すると言われています。私たちは主のために良い働きをしたいと願っていますから、私たちは悪魔に狙われやすい者たちであることもまた、自覚していたいと思います。

③ アダムとイエスと私たち
 人はアダムとエバの最初の時代から神様から離れてしまうことになりました。そうして旧約の時代の全般に亘って人は神様と共に歩むことができませんでした。アダムの命令違反によって人間の魂が死んでしまったからです。人間の魂が生き返るには、その人のうちに聖霊が入る必要があります。聖霊がうちに入れば、それは神様がうちに入るということですから、神様と共に歩むことができるようになります。しかし、そのためには、イエス・キリストの十字架が必要でした。

 きょうのもう一つの聖書箇所のローマ人への手紙5章を、ご一緒に読みましょう。17節から19節までを交代で読みましょう(新約p.305)。

5:17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
5:18 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

 このローマ人への手紙でパウロは、一人の違反によって死が支配するようになったと書いています。一人の違反とはアダムが神様の命令に違反して善悪の知識の実を食べてしまったことです。このことによって人の魂を死が支配するようになりました。それを一人の人イエス・キリストの十字架という義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるようになりました。

 しかし、それにしてもアダムの時代からイエスさまの十字架まで、何と膨大な時間が掛かったことでしょうか。イエスさまが十字架に掛かるまでに、人は多くの失敗を繰り返して、罪について学ばなければなりませんでした。

 そして、イエスさまの十字架から二千年が経った今でもなお、多くの人々の心が神様から離れたままです。一体どうして、こんなことになっているのでしょうか?

 きのう、私は説教の準備で、原稿をここまで書き進めて来て、はたと考え込んでしまいました。どうして、いつまで経っても人は、なかなか神様に立ち返ることができないでいるのでしょうか?そうして思いを巡らしている時に思ったのが、これから話すことです。

良くない状態に慣れ親しんでしまっている私たち
 創世記には、このように書かれています。

「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31)

 神様が万物を創造されたばかりの頃、それは非常に良かったのです。この非常に良かった状態に対する憧れや想像力が私たちには欠如しているのではないか、そんな風に思いました。私たちは、今の良くない状態の世の中にあまりにも慣れ親しんでしまっているのではないでしょうか?世の中とはこんなもんだと思い込んで、この世の中にどっぷりと浸かってしまっているのではないでしょうか?

 では、どうしたら「非常に良かった」状態への憧れと想像力を回復することができるでしょう?難しい問題ですが、やはり私たちはマルタではなくてマリアになる必要があるのではないかと思います。マルタのようにバタバタと動き回る時間をできる限り少なくして、マリアのように静かにイエスさまのみもとに座って神のことばに聞き入る時間をなるべく多く取る入れることができるようになることが必要なのかもしれません。

 私の前任地の沼津教会は駿河湾のすぐそばに位置していました。走れば教会から1~2分で防潮堤の上に立つことができました。その防潮堤の上を私は週の半分は夕刻に走っていました。海沿いの防潮堤の上は周囲の視界がほぼ360度開けていますから、太陽と月の位置もよく分かります。私が走るのは午後5時頃から6時ぐらいの間(夏の場合。冬は午後4時頃から5時ぐらいの間)とだいたいの時刻が決まっていましたから、何ヶ月間か走っているうちに太陽の沈む位置が季節によってどのように変わるか、また月の位置が日によってどのように変わるかも分かるようになって来ました。

 そうして天体のゆったりとした動きが分かるようになることで私は分刻みの時計の支配から解放されて、天の支配を感じることができるようになりました。つまり忙しいマルタからゆったりとしたマリアに近づくことができました。

 私たちの多くはマルタです。イエスさまの比較的近くにはいるものの、マリアほどにはイエスさまの近くにいません。そうしてイエスさまから離れたところでバタバタしながら心を乱しています。そうではなくて、マリアのように、もっとイエスさまの近くにいたいと思います。

 そうしてゆったりして心の平安を保つなら、神様が「非常に良かった」とおっしゃった状態への憧れと想像力を回復できるのではないかと思います。

 心を穏やかにして、神様が「非常に良かった」とおっしゃった状態はどんなであっただろうかと、思いを巡らすことができる私たちでありたいと思います。
 ご一緒にお祈りしましょう。

「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31)
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聖書全体を鳥瞰(ちょうかん)する楽しさ(2019.6.16 礼拝)

2019-06-17 09:43:28 | 礼拝メッセージ
2019年6月16日礼拝メッセージ
『聖書全体を鳥瞰(ちょうかん)する楽しさ』
【エレミヤ31:31~34】

はじめに
 先週のペンテコステ礼拝のメッセージでは、祈りと聖書通読とディボーションの時を一日の中のどこかで持つことをお勧めしました。朝でも昼でも夜でも、どの時間帯でも構いませんから、できれば自分にとって最上の時間帯を神様にささげて、神様との交わりの時を持つようにするなら、「聖霊」を豊かに感じることができるようになるでしょう。

 祈りと聖書通読とディボーションの三つのうち、先週の礼拝ではディボーションについて話し、ディボーション用の本の中の一つとして『エマオの道で』を紹介しました。

 また祈りについては、木曜日の祈祷会でシリーズで取り上げることとしました。シリーズの1回目の13日の祈祷会には週報のp.2に記したように、「ヒゼキヤの祈りを聞かれた主」(Ⅱ列王記20:1~11)と題したメッセージで、主がヒゼキヤの寿命を15年増し加えた記事を共に読んで祈りの力について、共に思いを巡らしました。

 そして礼拝では、今週から聖書通読の重要性についてシリーズで学んで行くことにしたいと思います。きょうの第1回目は、週報のp.2に記したように次の三つのパートで話を進めて行きます。
 
 ①聖書通読はなぜ必要か
 ②効果的な方法で授与された律法
 ③律法の授与から聖霊の授与に至る流れ

①聖書通読はなぜ必要か
 では一番目のパートに入って行きます。

 聖書を最初から最後まで読み通すこと、すなわち創世記から黙示録までを通して読む聖書通読が、なぜ必要なのでしょうか?それは、きょうの説教のタイトルで示したように「聖書全体を鳥瞰(ちょうかん)する楽しさ」を味わえるようになるためだと私は考えます。他にも理由はいろいろありますが、私は、先ずこのことを第一に挙げたいと思います。「鳥瞰」とは鳥のように高い所に上がって全体を眺めることを言います。これは高い所におられる神様の視点に近づいて行くということです。神様に近づくことは大きな喜びです。

 私たちは「人間的」にはへりくだって、弟子たちの足を洗ったイエスさまのように低い所へ降りて行くべきです。しかし「霊的」には引き上げられて神様に近づくべきでしょう。単に霊的に引き上げられるだけでは高ぶって傲慢になる危険性がありますが、イエスさまのようにへりくだることでバランスを取ることができます。

 神様は高い所から常に全体を見渡しています。そのように神様に近い視点で全体を理解した上で部分を読むと、その部分のことが、より良く分かって来ます。すると全体がさらに分かるようになるという、良い循環が生まれます。

 映画やテレビドラマでは、一つのシーンは大抵の場合、登場人物がいる場所の全体を写すカットと登場人物をアップで写すカットとで構成されています。例えば、今NHKで放送している朝ドラの『なつぞら』では、広瀬すず(静岡市清水区出身)さんが演じる主人公のなつが、漫画映画を作る会社での試験を何度も受けていますね。そういう主人公の試験のシーンでは、まずは試験会場全体を写すカットから入って、次に試験課題に取り組む主人公の姿をアップで写すカットへと移行します。主人公のアップだけでは試験会場全体の雰囲気が分かりませんから、全体像が必ず必要になります(一つのシーンをカット割りせずにズームインする場合もあります)。

 この試験会場のようなシーンでは、主人公のまわりに座っている他の受験生はだいたいがエキストラ(その他大勢)です。いま言ったように試験会場全体を写す全体像は必ず必要ですからエキストラはドラマには欠かせない存在です。私は映画やテレビドラマの撮影にエキストラとして参加する趣味を持っていて、今でも一年に一回ぐらいですが、撮影現場に行っています。そういうわけで、映画やテレビドラマがどんな風に撮影されているかを多少は知っています。

 仮に、もし皆さんのお一人お一人が主人公のドラマが作られるとして、この礼拝堂での礼拝のシーンの撮影が行われるとしましょう。すると、先ずはカメラを礼拝堂の後ろの方か横の方に据えて礼拝出席者の全員が写るカットが撮られるでしょう。次に、例えば今日の礼拝の司会者の○○さんが主人公だとしたら、カメラを前方に据えて○○さんの顔と、あと出席者の半分くらいが写るカットが撮られるでしょう。そして最後にカメラが○○さん一人だけに寄ったアップのカットが撮られることでしょう。このように、主人公がいる場所の全体像と主人公のアップとが組み合わされることで、主人公がどのような中にいるかが、より良くわかるようになります。

 聖書にはモーセやダビデ、イエスさまやペテロなど様々な人物が登場します。出エジプト記やサムエル記、福音書では、それらの人物がクローズアップされています。それらの書を読む時には、単に一つの書に注目するだけでなく、その書が聖書全体の中でどのような役割を果たしているかを意識しながら読むと、その書の登場人物のことをさらに良く理解できるようになり、ひいては聖書全体をより良く理解できるようになるでしょう。

 このように聖書全体を視野に入れながら一つ一つの書を読むことができるようになるためには、聖書通読はどうしても必要なことです。その準備として今日は、この1回の説教で、できるだけ聖書全体を見渡すことを目指しています。そのための聖書箇所として、まずエレミヤ書31章の31節と32節を交代で読みましょう(旧約聖書p.1351)。

31:31 見よ、その時代が来る──のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──のことば──。

 32節から見て行きます。イスラエル人たちがモーセに率いられてエジプトを脱出した時、彼らは主と契約を結んで律法が与えられました(出エジプト19:5、24:6-8)。しかし、彼らは律法を守りませんでしたから、主は新しい契約を結ぶと31節で言っておられます。「見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」

 新しい契約とは、どんな契約でしょうか?続いて33節と34節を交代で読みましょう。

31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 33節の、「律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」とは、「聖霊を与える」ということです。聖霊が心の中に住むようになれば、神様が人の心に直接語り掛けるようになりますから、隣人や兄弟に「を知れ」と言って教える必要がなくなります。イエス・キリストはこのことのため、すなわち人々が聖霊を受けるようになるために十字架に掛かりました。聖霊が人の心の内に入って住むようになるためには、先ずはその人の罪が赦されて心の内がイエスさまの血によってきよめられる必要があります。イエス・キリストはこのことのために十字架で血を流しました。

 これが律法の授与と聖霊の授与の観点から見た場合の聖書の全体像と言えるでしょう。聖書とは、なぜイエス・キリストが十字架に掛からなければならなかったかを、その全体で表している書であると言えるでしょう。ですから、聖書を読む時には、どの箇所を読むにしても、この全体像を意識して読むと良いと思います。つまり、いま読んでいる部分がイエス・キリストの十字架とどう関わっているかを意識しながら読むなら、その部分への理解が深まり、ひいては聖書全体への理解が深まるでしょう。

 聖書にはあちらこちらに罪深い人間の姿が描かれています。これらはすべてイエス・キリストの十字架へとつながって行きます。聖書通読で聖書を読み進めて行くと、罪深い人間の姿を何度も何度も、これでもかと言うほど繰り返し見せられて嫌になるほどです。しかし、この罪深い人々の姿を通して、私たちが神様と離れずに歩むには、どうしても聖霊に心の内に入っていただく必要があったのだということが理解できるようになります。そしてイエスさまの十字架がどうしても必要であったことが分かるようになって来ます。

②効果的な方法で授与された律法
 次に二番目のパートに移ります。

 きょうの聖書箇所のエレミヤ書31章の31節から34節までを読むなら、「律法の授与」と「聖霊の授与」が聖書全体の物語の中でいかに大きな出来事であったかが、よく分かるでしょう。ここでは、「律法の授与」がいかに効果的に行われたかということを、「創世記から出エジプト記に至る流れ」という観点から考えてみたいと思います。

 イスラエル人の歴史は、アブラハムから始まりました。仮に「律法の授与」がアブラハム一人に対して行われ、それが代々受け継がれていくという方式だったら、どうだったでしょうか。「主を愛しなさい」ということに関わる律法であれば、アブラハム一人から伝えられる方式でも良かったかもしれませんね。

 しかし律法は、もう一つ「隣人を愛しなさい」という戒めも大きな部分を占めます。すると、アブラハム一人から伝わる方式では、上手く行かない気がします。なぜならアブラハムの時代には、まだイスラエル人の隣人が十分にはいないからです。イスラエル人が増えて行くのはアブラハムの孫のヤコブ以降です。ですから隣人が十分に増える時代まで待つ必要があったと言えるでしょう。

 しかし一つの民族が増えて行く過程では、彼らが住む地域の面積も増え広がって行くことでしょう。すると大きく散らばった人々の全員を一箇所に集めて主の律法を授けるのは、容易なことではないでしょう。そういう意味で、イスラエル人たちがヤコブとその息子たちの時代にエジプトに移住したことは、律法の効果的な授与という観点から見ると、これ以上ない状況だったと言えると思います。

 聖書の舞台を神様に近い視点の高い所から眺めながら、共に思いを巡らしてみていただけたらと思います。律法の授与に向けて、主はまずヨセフをエジプトに向かわせました。そして、エジプトの王に次ぐ第二の地位に着いたヨセフはやがてヤコブの家族をエジプトに呼び寄せ、そこでイスラエル人たちは大いに増えます。そして、十分に増えたモーセの時代になった段階で主はイスラエル人の全員をエジプトから脱出させて、約束の地カナンに向かわせ、その途中のシナイ山のふもとで律法を授けました。

 大勢のイスラエル人全員を一箇所に集めて律法を授けるのに、これ以上に効果的な方法が他にあるでしょうか?人間の小さな知恵ではとうてい思いつかない壮大な方法で、主はイスラエルの民に律法を授けました。そういうドラマの大きな流れを意識しながら、一人一人の人物にクローズアップすると、聖書をより深く楽しめると思います。

 例えば、兄たちによってエジプトに向かう商人に売られたヨセフの苦悩は大変なものでした。しかし主がヨセフと共にいたために、ヨセフはこの苦悩を糧にして立派な人物へと成長して行きます。ヨセフがエジプトの王に次ぐ第二の地位に着くことができたのも、苦難によって品性が練られたからこそでしょう。

 ヨセフが兄たちに憎まれていた理由は、彼が生意気だったこともあるでしょうが、父のヤコブがヨセフを特にかわいがっていたという事情もあります。ヨセフの母はラケルでしたが、兄たちの母はラケルの姉のレアや女奴隷でした。ヤコブはレアよりもラケルを愛していましたから、ヨセフをかわいがったのは当然でしょう。しかし、このことによってヨセフは兄たちに憎まれるようになりました。

 また、ヤコブがレアとラケルの姉妹を妻に持つようになったのは、ヤコブが兄のエサウから長子の権利を横取りし、また父イサクからの祝福も横取りしたからです。このことでヤコブは兄のエサウから逃げなければならなくなり、母リベカの兄のラバンのところに身を寄せなければならなくなったからです。

 これらのすべてがシナイ山のふもとでのイスラエル人全員に対する律法の授与へと結びついて行きます。聖書は本当に面白いと思います。

③律法の授与から聖霊の授与に至る流れ
 ここから三番目のパートに移ります。

 主は、人々が主と共に歩むことをいつも望んでおられます。アダムとエバのように主から心が離れることなく、いつも心を主の方に向けて日々を過ごすことを望んでいます。律法が授けられたのも、そのためです。律法の戒めに従って主を愛し、隣人を愛していれば、主から離れずにいることができます。

 そのために、主はシナイ山のふもとでイスラエルの民の全員に対して律法を授けました。しかし、イスラエル人たちはなかなか律法を守ることができないで、すぐに主から離れてしまうことを繰り返しました。主から離れたことを主が怒ると彼らは震え上がって主に立ち返り、主と共に歩むようになります。ところが、少し時間が経つとすぐにまた離れてしまう、ということを彼らは繰り返しました。旧約聖書には、そのことが延々と記されています。

 この旧約の時代のイスラエルの民の姿は私たち自身の姿でもあります。私自身も主から離れやすい者であることを、旧約聖書から学ばされています。聖書通読をして聖書を創世記の始めから読むことをお勧めするのは、読めば読むほど自分自身のみじめな姿をも知ることができるようになるからです。

 そうしてイスラエル人たちがすぐに主から離れてしまう姿を見て、改めて自分自身を見つめ直すなら、聖霊が一人一人の心の内に入って下さるようになったことが、どんなに素晴らしいことであったかが良く分かって来ます。

 旧約の時代に聖霊を受けていたのはモーセやイザヤやエレミヤなどの預言者たちだけでした。聖霊を受けた預言者は主の声を直接聞くことができましたから、彼らは自分が聞いた主の声を人々に伝えていました。しかし、この方式だと一般の人々は預言者を通して「間接的」に主の声を聞きますから、どうしても主から離れやすくなってしまいます。やはり主と共に歩むには、誰にでも聖霊が注がれる必要がありました。そうすれば、主の声が一人一人に直接届くようになりますから、きょうの聖書箇所のエレミヤ31章34節にあるように、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『を知れ』と言って教える必要がなくなります。

 ただし聖霊は神様です。聖霊が私たちの内に入って下さるということは、神様が私たちの内に住むようになるということです。神様が住むには私たちの心はあまりにも汚れています。そのためにイエス・キリストが十字架で血を流すことがどうしても必要でした。イエスさまが神の御子であり、救い主であることを信じるなら、私たちは罪が赦されてイエスさまの血によって罪がきよめられます。

 先週のペンテコステ礼拝の聖書交読では、使徒の働き2章の五旬節の日の出来事の箇所を読みました。この日、エルサレムには「七週の祭り」(出エジプト34:22、申命記16:10)で多くの人々が集まっていましたから、弟子たちが聖霊を受けた時の様子を多くの人々が目撃しました。シナイ山のふもとで律法が授けられた時の状況と良く似ていますね。聖霊の授与はこのように、律法の授与の時と同じように、とてもドラマチックな方法で行われました。

おわりに
 きょうは聖書全体を「律法の授与」と「聖霊の授与」という二つの観点から眺めてみました。他の観点からの眺め方も、もちろんあります。マタイの福音書1章の最初にある系図を見ると、マタイが「ダビデ王」と「バビロン捕囚」の二つを重視していることが分かります。この「ダビデ王」と「バビロン捕囚」の二つの観点から聖書全体を眺めても良いでしょう。

 いずれにしても、聖書全体を眺めるためには鳥のように高い所に上がって「鳥瞰する」必要があります。きょうの礼拝の聖書朗読の前には、教会福音讃美歌210番の「主を待ち望む者は」をご一緒に歌いました(週報p.2にも記しました)。

  主を待ち望む者は新たに
  力を受けて昇る
  走り疲れず 歩みて倦まず
  鷲のように昇る

 この歌詞はイザヤ書からの引用です(イザヤ40:31)。鷲や鷹のような猛禽類の鳥は上昇気流に乗って、天高くまで昇ることができます。私たちはこの讃美歌の歌詞の鷲のように聖霊の風の力を受けて天高く昇りたいと思います。そうして聖書全体を眺めることができるようになりたいと思います。聖書全体を頭に入れながら、個々の書のモーセの記事やダビデの記事を読みたいと思います。そうすれば、聖書をより一層深く味わえるようになると思います。

 これはとても楽しいことですから、私たちは喜びに溢れることができます。なぜなら、鷲のように高い所に昇って聖書全体を眺めることで私たちは神様に近づいて行くことができるからです。神様はいつも人類の歴史全体を眺め渡しています。その上で私たちの一人一人を愛し、励ましで下さっています。この神様に近づくということは、聖霊を通して御父と御子イエス・キリストとの交わり(Ⅰヨハネ1:3)に入れていただくということです。この交わりに入れていただくと私たちは喜びに満ちあふれます(Ⅰヨハネ1:4)。この喜びを皆さんと共に分かち合いたいと思います。

 来週からは聖書の全体像を踏まえながら、創世記の学びから入って順次、出エジプト記、レビ記、民数記と学んで行くことにします。創世記のどこがどのようにイエス・キリストの十字架へとつながって行くでしょうか?そのようなことに思いを巡らしながら、ご一緒に学んで行きたいと思います。

 これからのこの学びが祝されますように、お祈りいたしましょう。
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霊想(ディボーション)で聖霊を感じる幸い(2019.6.9 ペンテコステ礼拝)

2019-06-10 10:16:49 | 礼拝メッセージ
2019年6月9日ペンテコステ礼拝メッセージ
『霊想(ディボーション)で聖霊を感じる幸い』
【マルコ1:35】

はじめに
 きょうはペンテコステの日です。聖書交読でご一緒に読んだ使徒の働き2章に記されているように、この日、イエスさまの弟子たちは天から降(くだ)った聖霊を受けました。

 これは1世紀のことだけではありません。21世紀の私たちもまた、「イエスは神の子キリストである」(ヨハネ20:31←ブログ用の引照)と信じるなら聖霊を受けます。つまり、信仰者はみな聖霊をうけています。

 さてしかし、聖霊は目に見えませんし、私たちの場合には聖霊が激しく降ったわけではありません。交読した使徒2章には「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」(使徒2:2)とあります。私たちにもこれぐらい激しく聖霊が降っていれば気付くことができると思いますが、多くの場合はソフトに降ります。すると、イエスさまを信じて聖霊を受けている筈であっても、自分は本当に聖霊を受けているのだろうか?と疑問に思うこともあるでしょう。

 私もかつては自分が本当に聖霊を受けているのか、自分の中で確信を持てていない時期がありました。しかし今は100%の確信を持っています。それは私が神様との良い交わりの時を持つようになったからです。神様との交わりを通して私は自分が聖霊を受けているという確信を持ちました。きょうはまず、その私の体験談を話して、次いで皆さんにお勧めしたいことを話して行くことにします。

静かな環境で神様との交わりの時を持つ幸い
 自分は聖霊を受けていると私が確信できるようになったのは、神学生の時でした。3年間を過ごした横浜のBTC(聖宣神学院)も、インターン実習生として過ごした姫路の教会も、共に静かな環境の中にありました。特に姫路教会で過ごした経験が大きかったと思います。BTCも良い環境の中にありましたが団体生活を送っていましたから、心を乱されることもよくありました。そういう団体生活での学びも、もちろん貴重なものでした。しかし姫路では静かな環境の中で一人暮らしをしていましたから、本当に神様との良い交わりの時を持つことができたと思います。

 きょうの聖書箇所のマルコ1章35節には、イエスさまが寂しい場所に行って祈ったことが書かれています。

マルコ1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 姫路教会はこのような所にある、と言うと言い過ぎかもしれませんが、教会の目の前には広大な田んぼが広がっていて、とても静かな環境の中にあります。姫路市自体は静岡市と同じように新幹線のひかり号が止まる都会ですが、教会は姫路駅から北の方向にバスで20分以上掛かる場所にあります。

 静岡市内で言えば池ヶ谷の北の麻機小学校の校区や、池ヶ谷の東の竜南小学校の校区に広がる田園地帯のような感じです。麻機や竜南の地域も昔と比べるとだいぶ田んぼが少なくなりましたが、まだまだのどかな感じが残っていると思います。姫路教会もそのような、のどかな地域にあります。

 今、姫路教会にはインターン実習生の竹内神学生が派遣されています。彼は私と同じ高津教会の出身です。竹内神学生も、姫路教会の静かな環境の中で、霊的に恵まれた学びの時を持つことができることと思います。

 さて、私はこの姫路教会の恵まれた環境の中で毎朝早くに起きて、神様との良い交わりの時を持つことができました。そして、このことで、自分には確かに聖霊が注がれているという確信を持つことができました。きょうは、この体験を基にして皆さんにお勧めしたいことを三つのパートに分けて、話します。三つのパートは週報のp.2に載せましたから、ご覧下さい。

 ①最上の時間帯を神様にささげる幸い
 ②霊想(ディボーション)のすすめ
 ③霊想書『エマオの道で』の紹介

 先週と同じ様にパートとパートの変わり目では一呼吸置いて、変わり目をお伝えするようにしますから、仮に途中で話に付いて行くことができなくなっても大丈夫です。パートの変わり目ではまた一緒になることができます。そうして、皆さんと離れ離れにならないように気を付けたいと思います。
 
①最上の時間帯を神様にささげる幸い
 まず1番目にお勧めしたいのは、神様との交わりの時を持つ時間帯は自分にとっての最上の時間帯にするということです。

 創世記にはアダムとエバの息子のアベルが、自分の羊の初子、すなわちメスの羊が初めて産んだ子どもの中から、肥えたものを主にささげたと記されています(創世記4:4)。新改訳の第3版では「最上のもの」となっています。カインも穀物のささげ物をしますが、それが初物であったとも最上のものであったとも記されていません。問題は動物だろうが収穫物であろうが、もっとも良い物をささげたいという「真実な心」の問題であったことがわかります。

 ちなみにマラキ書には最上のものをささげないイスラエルの人々を批判する主のことばがあります。

 ですから神様との交わりの時を持つ時間帯も、最上でありたいと思います。私の場合は朝ごはんを食べる前の時間帯が、何をするにも一番集中できて、何でも効率良くできる時間帯です。この時間帯に仕事をすれば、ものすごくはかどりますから、ついつい仕事をしたくなります。しかし、そこをぐっとこらえて、神様に最上の時間帯をささげるなら、本当に恵まれます。やはり、神様は最上のものをささげることを喜んで下さるのですね。

 どの時間帯に一番集中できるかは、人それぞれだと思います。夜が最上の時間という方もいるでしょう。皆さんお忙しいことと思いますが、ぜひ最上の時間帯を神様との交わりの時に当てることをお勧めしたいと思います。そうすれば神様からの恵みをたくさん受けて、自分が聖霊を受けていることを実感できるようになることと思います。

 この神様との交わりの時を、私はまずお祈りから始めて、次いで聖書通読、そしてディボーションの順番で行っています。この順番も人それぞれで良いと思いますが、この三つのこと、すなわち神に祈る、神に聞く、そして聴いたことを思い巡らすことを、ぜひ行うことをお勧めしたいと思います。

 この三つうち、祈りについては今週の祈祷会からシリーズでご一緒に考えることにしたいと思います。祈りについて私自身が示されていること、或いは祈りについての本に書かれていることで皆さんに紹介したいことなど、祈祷会では祈りについてシリーズで共に思いを巡らす時を持ちたく願っています。

 また、礼拝メッセージでは次の聖日から聖書通読の重要性について、シリーズで共に学ぶことにしたいと思います。聖書を読む時、私たちはその箇所だけの狭い範囲で読みがちです。もちろん、そのような読み方もありますが、神様との交わりを感じ、聖霊を感じるには、もっと大きな範囲で読めるようになると良いと思います。
 例えば、先週の礼拝ではヨハネの福音書を開きました。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37~38)

 先週話したことは、まずは私たちが礼拝で聖霊に満たされるなら、私たちの内から聖霊が溢れ出し、この礼拝堂が聖霊で満たされるようになるということでした。すると、この礼拝に訪れた方が霊的に目覚めやすくなり、新しいクリスチャンが誕生する希望もまた溢れるようになります。さらに願わくば、この礼拝堂から聖霊が溢れ出して近隣一帯に生ける水の川が流れ出るなら、近隣の方々の渇いた心を潤すようにもなるでしょう。この教会の礼拝堂がその生ける水の川の水源になることができたら本当に素晴らしいことだと思います。
 このように聖霊に満たされるようになるには、まず私たちの心の内がきっちりと整えられる必要があります。そのために先週はもう一ヵ節、出エジプトを引用しました。

「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出エジプト25:8)

 私たちの内に聖霊に住んでいただくようになるためには、旧約の時代の人々が幕屋をきっちりと造ったように、私たちの内もきっちりと整える必要があります。そのためには礼拝の前に心を整えることはもちろん、毎日、心を神様に向けると良いでしょう。日々、祈りと聖書通読、そしてディボーションの時を持って、毎日を神様に整えていただきながら過ごすことができれば良いと思います。

②霊想(ディボーション)のすすめ
 次に2番目のパートの「霊想(ディボーション)のすすめ」に移ります。

 いまさっき話したように次の祈祷会からはシリーズで祈りについて学び、礼拝では聖書通読について学ぶ予定ですが、ディボーションについては今日の1回で終わる予定です。

 ディボーションという英語の動詞はdevoteです。devoteを英和辞典で調べると「ささげる」とあります。ディボーションの時というのは、まさに私たちの心を神様にささげる時ですね。ですから、自分にとっての最上の時間帯をディボーションの時としたいと思います。何でも効率良くできる最上の時間帯には、自分のことに時間を使いたくなるかもしれませんが、神様との交わりのために、時間を使いたいと思います。

 日曜日の礼拝も同じですね。日曜日が仕事の日という方もいますが、大半の人は日曜日には仕事がありません。ですから自分のことに時間を使うことができます。教会に通う習慣が無い日本人の目にはクリスチャンはとても奇妙に映ることでしょう。どうしてクリスチャンはゆっくり休める日曜日に、或いは自分のしたいことができる日曜日に、教会に通うのか不思議に思うことでしょう。

 休日の日曜日は私たちが自由に使える最上の曜日です。だからこそ、私たちはこの最上の曜日に礼拝をささげることで、この曜日を神様にささげたいと思います。そうすれば神様は喜んで下さり、私たちを豊かに祝福して下さるでしょう。

 さてディボーションの方法には、特に決まった仕方はないと思いますが、何か信仰書を1ページか2ページぐらい読んで、その内容に思いを巡らすと良いと思います。信仰歴が長い方は、いろいろな信仰書をお持ちでしょうから、過去にディボーションで使った本を再び使ってみるのも良いだろうと思います。後で紹介しますが、私も静岡に来てから、姫路で使っていたディボーションの本を再び使っています。そうして姫路時代に恵まれていたことを思い出しました。そのことが今日のメッセージにつながっています。

 ディボーションに用いる信仰書はどんな書でも良いとは思いますが、やはり1月1日から12月31日までの日付が入っているものが使いやすいだろうと思います。私が姫路時代に使っていて、いま静岡で再び使っているデニス・キンローの『エマオの道で』とロイドジョンズの『一日一言』はこのタイプです。河村従彦先生が翻訳したジョン・シーモンズの『新しい朝に』と『主を仰ぐ朝』もこの日付が入っているタイプで、お勧めできる良書だと思います。これらの中で、きょうは『エマオの道で』を紹介したいと思います。

③霊想書『エマオの道で』の紹介
 毎日のディボーションに用いる書として、デニス・キンローの『エマオの道で』は、とてもお勧めの書です。まず何と言ってもキンロー先生の文章の内容がとても深いです。あとで6月9日の記事を紹介しますが、毎日このキンロー先生の深い文章を味わうことで、自然と信仰が深められて行くように感じます。

 私は沼津にいた6年間は、この『エマオの道で』をほとんど開いたことがありませんでした。けれども、いま静岡で再び『エマオの道で』を読み返しながら、私が沼津教会の説教で語っていた信仰の骨格は、姫路時代に『エマオの道で』を読むことで培われたものであったと改めて感じています。

 お勧めの理由の二つめとして、その日に読むべき聖書の箇所が聖書全体からランダムに引かれていることを挙げたいと思います。特定の箇所に偏らずに、翌日は前日とぜんぜん違う聖書箇所が引かれます。すると、ふだん自分があまり親しんでいない箇所が突然出て来ます。私で言えば雅歌やヤコブ書などです。そうすると、自分がそこをあまり読んでいないことを示されて読むことになりますから、自分の足りないところを補うことができます。そうして、何ヶ月か読み進むうちに聖書全体を概観できる力も自然と身に付いて行くように思います。

 お勧めの理由の三つめは、電子書籍のKindle版が発売されていることです。紙の本は絶版になっていますが、Kindle版は今でも1200円で購入可能です。電子版は3ヶ月ごとの4つに分かれていますから、とりあえず300円で購入して読んでみて、気に入ったらまた次の3ヶ月分を買うことにしても良いでしょう。Kindleは専用の機器を買わなくてもスマホ、タブレット、パソコンにアプリをダウンロードして利用することも可能です。

 ここで、6月9日の記事を紹介します。
(メッセージを聞きやすいものにするために、説教では表現を変えて、全体をもっとスリムにして紹介しました。聖書訳も元の本は口語訳ですが、新改訳2017年版に改めました。さらにヨハネの手紙第一1:7の引用は省略しました。ブログ掲載に当っては、元の本の通りのものを引用して掲載します。)

○6月9日「受け入れること 従うこと」
 聖書箇所:ヨハネの福音書1章35~51節

 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。(ヨハネ1:43、口語訳)

 キリストを受け入れなさい、と私たちはよく言います。しかしイエスのことばは「私に従ってきなさい」でした。この二つの表現は意味が違います。「受け入れなさい」とは、私たちのうちにある空虚さ、罪責間、喪失感を前提にしています。主体は人間の側にあり、キリストが私たちの必要をどう満たすかということを表しています。

 「私に従ってきなさい」となると、また違ってきます。焦点はキリストにあり、私たちにはありません。自分とその欠陥に埋もれた人生ではなく、キリストとその召しに注目した上で、自分の人生に改めて焦点をあてることを意味しています。従うということは私たち自身が主導権を神に明け渡していくことです。突然私たちの視野の中に十字架が見えるようになります。これがイエスがピリポに言われた時に指し示していた場所です。

 キリストを受け入れなさいと人々に勧めることは間違いではありません。なぜならキリストなしでは満たされるべきところが空しいままであり、負う必要のない重荷を背負っているからです。しかし私たちは人々をその状態のままで留めておくわけにはいきません。もし人々がキリストのうちに見いだしたことを保とうとするなら、「私に従って来なさい」という第二の言葉にも耳を傾けなければなりません。

 受け入れることだけを語り、従うことを語らない福音には警戒しましょう。救いは受け入れた時だけの経験ではありません。それはキリストのうちに留まることです。私たちは救いの力を体験したなら、キリストと共に歩まなければなりません。救いとはキリストの臨在によってもたらされるものです。

 「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩むならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(第一ヨハネ1:7、口語訳)。
(引用はここまで)

おわりに
 きょうのペンテコステ礼拝のメッセージでは、自分が聖霊を受けていることが確信できるようになるために、どうしたら良いだろうかということをお話ししています。聖霊を豊かに感じるためには、今のキンロー先生の文章にあったように、単にイエスさまを受け入れるだけでなくてイエスさまに従う者へと変えられることが必要でしょう。単に受け入れるだけでは、心の中はまだまだ自分中心です。最上の時間帯は自分のために使いたいとまだまだ強く思うことでしょう。

 しかしイエスさまに従い、心をイエスさまに明け渡して行くなら、心の中がイエスさまに占められるようになって聖霊を豊かに感じることができるようになります。すると最上の時間帯を神様にささげることも抵抗なくできるようになります。

 一朝一夕にはそのような者には変えられませんが、日々、最上の時間帯を神様にささげ、神様との交わりの時を持つようにするなら、いつの間にか聖霊を豊かに感じることができる者へと変えられているでしょう。

 ぜひ、日々ディボーションの時を持つことをお勧めしたいと思います。

 最後に、マルコ1:35をもう一度、ご一緒に読みましょう。

1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 お祈りいたしましょう。
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会堂を満たす聖霊は私たちの胎から出る(2019.6.2 礼拝)

2019-06-03 09:29:40 | 礼拝メッセージ
2019年6月2日礼拝メッセージ
『会堂を満たす聖霊は私たちの胎から出る』
【出エジプト25:8、ヨハネ7:37~38】

はじめに
 来週のペンテコステの日に向けて、ここ何週間かは聖霊について学んでいます。今週は「会堂を満たす聖霊」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

 礼拝の祈りの時などに私たちは「この会堂を聖霊で満たして下さい」と祈ることがあります。会堂が聖霊で満たされるためには、どんなことが必要でしょうか。きょうはそのことに、思いを巡らしてみたいと思います。

礼拝を魅力的にするために
 私たちの教会はこれから先、伝道活動を積極的に行っていきたいと願っています。先週は伝道委員会も持たれました。伝道のために様々なアイデアを考えて行きたいと思います。きょうの午後の役員会では駐車場の南東側への掲示板の設置も提案する予定です。それらの新しいことを考えると同時に毎週の礼拝を、より魅力的なものにして行くことも、大切なことでしょう。

 礼拝が魅力的なら、この教会を訪れた方が、「来週もまた教会に来てみよう」と思っていただけることでしょう。私たちが捧げる礼拝は、そういうものでありたいと思います。

 そのためには牧師の私の説教をもっと分かりやすいものにする必要がありますね。そのことは私の側で努力します。しかし礼拝は説教だけで成り立っているわけではありません。前奏と招きのことばから祝祷と後奏に至るまで、すべてが礼拝です。その礼拝プログラムの全てに皆さんも関わっています。ですから魅力的な礼拝は、私たちの皆で作り出すものです。野田秀先生が書かれた『礼拝のこころえ』という本がありますから、読んでみることを、お勧めしたいと思います。

 それでは、きょうの説教に入って行きます。今週から説教の流れ全体を3つのパートに分ける形式にして、その3つのパートを週報に箇条書きにすることにしましたから、ご覧下さい。

 私がこれまで3分割の説教をして来なかったのは、霊的に恵まれるためには全体を一つの流れにしたほうが良いだろうと考えていたからです。しかし、一つの流れにすると、もし流れから取り残された人がいた場合に、その人はそこから後はずっと付いて行けなくなってしまいますね。3つのパートに分けてパートの変わり目をハッキリさせるなら、たとえ途中で付いて行けなくなっても、パートの変わり目には、また一緒になることができるでしょう。今週からはパートの変わり目をハッキリとお伝えするようにして、説教中に皆さんと離ればなれにならないように気を付けたいと思います。
 さて、きょうの説教の3つのパートは次の通りです。

 ① 新約の時代の「聖所」は、私たちの内にある。
 ② 礼拝時に会堂を満たす聖霊は私たちのコイリア(腹・胎のギリシャ語)から流れ出る。
 ③ 会堂を訪れた方がどれくらい霊的に目覚めるかは、礼拝の時に会堂がどれくらい聖霊で満たされているかによる。

① 新約の時代の「聖所」は、私たちの内にある
 では1番目の、「新約の時代の『聖所』は、私たちの内にある」から見て行きます。 
 きょうの最初の聖書箇所の出エジプト記25章8節(旧約p.144)を、ご一緒に読みましょう。

25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

 聖所というのは、旧約の時代には幕屋や神殿のことでした。次の9節で主は、「幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない」と仰せられました。そうして幕屋の作り方を細かく指示しました。たとえば、今開いているp.144の隣のp.145の26章の1節と2節には、次のように記されています。

26:1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。
26:2 幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビトで、幕はみな同じ寸法とする。

 主はどうして幕屋の作り方を、こんなにも細かく指示したのでしょうか。それは、神様がその幕屋に入るからですね。神様が入る場所をいい加減に作って良いはずがありません。それは旧約の時代であっても新約の時代であっても同じです。新約の時代であっても神様が入る場所は、きっちりと作らなければなりません。

 私たちが旧約聖書を開く理由の一つは、旧約の時代には目に見える形のものが多いからです。新約の時代のことは目に見えない霊的なことが多いですから、その分、とても分かりづらいです。しかし旧約の時代のことの多くは目に見えます。

 例えば旧約の時代に主はモーセを通じて人々に律法を与えました。律法は石板や巻き物に書かれましたから、目に見えます。また今ご一緒に読んだように、主は聖所を作るように人々に言い、主はそこに住むと仰せられました。この幕屋もまた、目に見えるものです。

 一方の新約の時代には主は律法の代わりに聖霊を与えます。聖霊は目に見えません。そして聖霊は私たちの内に住みます。私たちの内もまた目には見えません。現代ではエックス線や超音波などで私たちの体の内側が見えるようになりましたね。しかし聖霊が住む場所としての私たちの内側は決して目で見ることができません。

 ですから、新約の時代の聖霊のことを知るためには、旧約聖書がとても役に立ちます。出エジプト記の25章から30章に掛けては幕屋とそこに置く備品をきっちりと作らなければならないことが書いてありますから、まだ読んだことがない方は是非、読んでみていただきたいと思います。

 さて、では新約の時代の私たちは、聖霊が住んで下さる私たちの内側を、どれだけきちんと整えているでしょうか。幕屋のようにきっちりと作っているでしょうか。律法主義的になってはいけませんが、だからと言って、あまり整えずに聖霊を迎え入れて良いはずがありません。

 ここで、皆さんの多くが良くご存知のマルタとマリアの姉妹(ルカ10:38~42)のことを考えてみたいと思います。口で説明しますから聖書を開かなくて結構です。

 マルタとマリアの姉妹はイエスさまを家に迎え入れました。これはイエスさまの地上生涯の時の出来事ですから、現代の私たちはこれをペンテコステの日以降のことに置き換えて読むのが良いと思います。つまりマルタとマリアは自分の内にイエスさまの霊、すなわち聖霊を迎え入れました。

 この聖霊を迎え入れたマルタとマリアの姉妹の内側の状態は、ぜんぜん違うものでした。姉のマルタはおもてなしの準備でバタバタしていて、せっかくイエスさまが内(家)に入って下さったのにイエスさまの話を聞く余裕がありません。

 一方、妹のマリアはイエスさまのことばに聞き入っていました。ですからマリアの内は聖霊で満たされていたでしょう。その反対に姉のマルタの内は、聖霊が入ってはいても、決して満たされてはいなかったでしょう。マルタとマリアのどちらが良いかは明らかですね。イエスさまはマルタにおっしゃいました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。」(ルカ10:41-42)

 私たちは少なくとも週に1回、礼拝の時だけは私たちの内を妹のマリアのように整えて、聖霊に満たされたいと思います。もちろん、これは最低限の目標です。できれば毎日、いつでも聖霊に満たされていたいと思います。しかし忙しい私たちはそういうわけにもいきません。ですから、少なくとも週に1回の礼拝の時にはしっかりと私たちの内側を整えて礼拝に臨み、聖霊に満たされたいと思います。そうすれば礼拝は魅力的なものになって行くのではないでしょうか。

②会堂を満たす聖霊は私たちの胎から流れ出る
 次に二番目のパートの「礼拝時に会堂を満たす聖霊は私たちのコイリアから流れ出る」について見て行きます。

 ここまでは、「私たちの内」を満たす聖霊について話をして来ました。次に「会堂」を満たす聖霊について考えてみたいと思います。きょうの二つめの聖書箇所のヨハネ7章37節と38節を交代で読みましょう(新約p.194)。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 人の心の奥底から流れ出る生ける水の川とは、御霊、すなわち聖霊のことであると、次の39節を読むと分かります。つまり私たちの心の奥底から流れ出る聖霊が、この会堂を満たします。もし心の内がマルタのように整えられずにいて聖霊に満たされないなら、私たちから聖霊が流れ出ることはないでしょう。しかし、妹のマリアのように聖霊に満たされるなら、私たちから聖霊が溢れ出て行き、この会堂を聖霊で満たすようになるでしょう。

 さて38節の「心の奥底から」というところに*(星印、アステリスク)が付いていますね。そこで下の脚注を見ると、直訳では「腹から」なのだそうです。この「腹」をギリシャ語では「コイリア」と言い、「コイリア」はヨハネの福音書ではもう一箇所、ニコデモの箇所で使われています。

 イエスさまはニコデモに言いました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。するとニコデモはイエスさまに言いました。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」(ヨハネ3:4)。この母の「胎」がコイリアです。

 ルカの福音書にはイエスさまの母のマリアが受胎告知を受けた後で、エリサベツに挨拶に行ったらエリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネが喜んで踊ったことが書かれています(ルカ1:39-44)。このエリサベツの「胎」もコイリアです。

 また、使徒の働きには「生まれつき足の不自由な人」(使徒3:2、14:8)が二ヵ所で登場します。この「生まれつき」はギリシャ語では、「母のコイリアから」となっています。つまり「生まれつき足の不自由な人」とは「母の胎の中にいた時から足が不自由だった人」ということです。これらを参照すると、聖霊がその人の「心の奥底」から流れ出るとは、聖霊がその人の「胎」から流れ出ることなのだ、ということが分かります。

 イエスさまを信じた人が聖霊に満たされるなら、聖霊がその人の「胎」から流れ出て、会堂を聖霊で満たします。そして、その聖霊で満たされた会堂から新たなクリスチャンが生まれるなら、その会堂もまた「胎」であると言えるでしょう。私たちは「母親の胎」から生まれました。そして新しいクリスチャンは、聖霊に満たされた会堂という「母胎」から生まれます。

③聖霊に満たされた会堂が新しいクリスチャンを生む
 最後に三つめのパートを考えましょう。ここまでのことを考え合わせるなら、「会堂を訪れた方がどれくらい霊的に目覚めるかは、礼拝の時に会堂がどれくらい聖霊で満たされているかによる」と言えるでしょう。もし私たちがマルタのようにバタバタしているなら、私たちが聖霊に満たされることはありません。すると聖霊が会堂に溢れ出ませんから、会堂は聖霊に満たされません。

 聖霊に満たされていない会堂に近隣の方が来ても、霊的に目覚めていただくことはできないでしょう。近隣の方が来て、その方に霊的に目覚めていただくためには、まずは私たちが聖霊に満たされる必要があります。そのためには、礼拝に臨む前から私たちは礼拝に備えて心を整える必要があります。

 現代の多くのキリスト教会では受洗者の数が減っています。もしかしたら原因の一つは、現代のクリスチャンが忙しすぎて聖霊に満たされないから、ということもあるかもしれません。よく言われることですが、計算機や情報機器の発達によって現代人の仕事の効率は格段に上がったのに、効率が上がった分、却って忙しくなってしまいました。

 効率が上がった分、仕事を早く済ませて、後はのんびりできるかと思ったら、労働時間は変わらずにそこにたくさんの仕事を詰め込むようになりましたから、却って忙しくなってしまいました。このようにして皆がのんびりできない姉のマルタのようになってしまったら、新たにクリスチャンになる人の数は減る一方でしょう。

 今から考えると私が高津教会で洗礼を受けた2001年は、既に21世紀になっていたとはいえ、世の中全体が今に比べればまだまだノンビリしていたような気がします。私が初めて高津教会を訪れたのは2001年の8月12日でしたが、その日以降私は、一度も礼拝を休まずに教会に通い、その年のクリスマス礼拝の日に洗礼を受けました。聖霊は目に見えませんから確かなことは言えませんが、その時の高津教会の会堂が聖霊で満たされていたから、私も霊的に目覚めることができたのかもしれません。

 私が教会に通うようになった直接のきっかけは、父が膵臓ガンで死んだことでした。父は体調不良で入院して病院で検査を受け、検査結果で膵臓ガンと分かってから1週間も経たないうちに死んでしまいました。今でもその1週間のことは鮮明に覚えています。私は仕事を休んで静岡の日赤病院の父の病室に泊まり込みで付き添っていました。父には膵臓ガンのことを告げずにいましたが、私たち家族は父の命があと1週間ぐらいであることを医師から聞いて知っていました。

 その父が入院していた時、私は父の病室で父と一緒にテレビを見ていました。2001年6月8日、テレビのニュースが、大阪の池田小学校で多くの児童が刃物で殺されたことを伝えていました。その痛ましいニュースを父と見ながら私は、死んだ子供たちが旅立った「あの世」へ、もうすぐ父も行くのだなと思っていました。それまでの人生で私はその時ほど自分を無力であると感じたことはありませんでした。子供たちが殺されたというニュースを二人で見ていた時、父はまだ生きていましたが、その父の命を救うことが私にはできないことに、何とも言えない無力感を感じていました。

 そして今の私は牧師として、「魂の救い」という意味で別の無力感を感じています。そんな時、つい最近、川崎市の登戸でスクールバスを待っていた児童が殺傷されるという事件がありましたから、2001年の父の病室でのことを再び思い出すこととなりました。あの時の私も無力でしたし、今の私も無力です。しかし、無力だからと言って自分が何も変わらずにいて良いということにはならないでしょう。このようなことが起こらない社会になるよう、私自身も、そして私たちの教会もまた、変わらなければならないのだと思います。

 そうして思ったことは、人々が「ほっこり」できる場所を提供することなら、私たちにもできるのではないか、そんな風に思いました。今は世の中全体に余裕がなくて、ひどく息苦しくなっていることを感じます。何か事件が起きると、犯人を厳罰に処するべきだという声が支配的になって、「罪人を決して赦さないぞ」という空気が社会全体に蔓延します。そうして私たちの社会はますます息苦しくなって行きます。

 そんな中、私たちが「ほっこり」できる場を提供できるようになるなら、ほんの少しぐらいは、社会を変えることができるかもしれません。もちろん、世の中が劇的に変わるようなことはできないでしょう。それでも私たちが何も変わらないでいるのでなく、私たちが変わることで、ほんの少しでも社会に良い影響を与えることができるようになれれば良いと思います。

 マリアは姉のマルタが忙しくバタバタしていることにはお構いなく、イエスさまの話に聞き入っていました。そんなマリアを想像すると、ちょっとほっこりしませんか?そんな風に、まずは私たち自身がほっこりして、マリアのように聖霊に満たされたいと思います。そうして私たちの胎から溢れ出た聖霊で会堂を満たし、その中に新しい方々をお招きしたいと思います。

おわりに
 きょうはタイトルに「胎」ということばを使いました。私のような男性には本来の意味での「胎」はありませんから、違和感を覚えた方もおられるかもしれません。しかし、男性であってもその人の内から聖霊が溢れ出て、会堂を満たし、その聖霊によって新しくクリスチャンが生まれるなら、男性にも「母胎」があると霊的な意味では言えるでしょう。

 ですから私たちクリスチャンは、女性も男性も霊的な母胎を持っています。この母胎から溢れ出る聖霊でこの会堂を満たして、ここを訪れた方が新たに霊的に目覚めるための、お手伝いをしたいと思います。

 さらに願わくば、この会堂からも聖霊が溢れ出して近隣一帯に流れ出て行き、人々の心を潤すようになるなら、何と素晴らしいことでしょうか。
 
 そのことに私たちが用いられることを願いながら、一言お祈りを致しましょう。

「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出エジプト25.8)
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:38)
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五旬節に向けた聖霊の学び3(2019.5.26 礼拝)

2019-05-27 10:21:18 | 礼拝メッセージ
2019年5月26日礼拝メッセージ
『五旬節に向けての聖霊の学び(3)』
【ヘブル10:8~20】

はじめに
 きょうは『五旬節に向けての聖霊の学び』の3回目です。聖霊を受けると私たちの内側には変化が現れます。どんな変化が現れるかをシリーズでお話ししています。きょうが3回目の学びで、次聖日の6月2日が4回目の学び、そうして6月9日の五旬節(ペンテコステ)の日を迎えます。このシリーズでの話の流れを私がどのように組み立てているか、まずその概略を話しておきます。

これまでと今後の聖霊についての話
 先々週の第1回目の学びでは、聖霊を受けると私たちの内にイエスさまが入り、そうして私たちの内でイエスさまが働いて下さり、また内から話し掛けて下さることを話しました。ヨハネの福音書4章の始めのほうにはイエスさまがバプテスマを授けたことが書かれていますが、ヨハネがここで描いているバプテスマは、使徒の働きの時代に弟子たちの内たちにいたイエスさまが授けていたバプテスマのことです。ですから21世紀の牧師の私が新しくクリスチャンになる方に授ける洗礼も、私が授けるのではなくて私の内におられるイエスさまが授けるものです。

 或いはまたイエスさまを信じて聖霊を受けると私たちは内に入って下さったイエスさまと霊的に出会うことができます。ヨハネ4章でサマリア人たちが出会ったイエスさまも、彼らの内に入ったイエスさまです。サマリア人たちは使徒の働きの時代にピリポのサマリア伝道でイエスさまを信じました。それゆえ彼らは聖霊を受けましたから、イエスさまと霊的に出会うことができました。

 そして先週の召天者記念礼拝で話したことは、私たちは聖霊を受けると御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただけますから、聖書の時代を大昔のこととは感じなくなるということです。それゆえ、この交わりの中に入れていただくなら信仰の先輩方のことも身近に感じるようになります。

 アブラハム・イサク・ヤコブの旧約の時代の先輩方はもちろん、ペテロやパウロなどの使徒の働きの時代の先輩方を身近に感じるようになります。さらにはルターやウェスレーや札幌農学校のクラーク先生のことも身近に感じるようになり、先に天に召されたこの教会の信仰の先輩方のことも、たとえ直接お会いしたことがなくても身近に感じるようになります。

 さて3回目のきょう話すことは、私たちが聖霊を受けると「十字架」が私たちの中心になるということです。きょうのメッセージの後半には、ヨハネの福音書19章の十字架の場面でイエスさまを見上げていた愛弟子とは私たちのことであるということを話したいと思います。

 そして4回目の6/2は、きょうのこのイエスさまの十字架を見上げていた愛弟子とは私たちのことであるという話を受けて、私たちが聖霊を受けると私たちの中に「自分はイエスの愛弟子である」という自覚が生まれるということを話したいと思います(5追記:予定を変更して6/2は愛弟子のことではなくて、礼拝についての話をすることにします)。

 聖霊を受けると私たちはイエスさまの弟子になります。これは従来から言われていることです。その私たちをイエスさまは愛して下さっていますから、私たちはイエスさまに愛されている弟子、つまり愛弟子なわけです。ヨハネの福音書が描く愛弟子を自分のことと感じるか感じないかは別にして、いずれにしても私たちはイエスさまの愛弟子です。このことを来週は深めてみたいと思います。

人々の自発的な応答を待っている神様
 これらのことは、これまでのキリスト教会ではあまり語られて来なかったことかもしれません。私がどうして新しいメッセージを語る必要性を感じているのか、それは新しいメッセージは今の右肩下がりのキリスト教を再び右肩上がりにする力を持つと考えているからです。

 別に新しいメッセージを語らなくても神様は大きな力を持っていますから、従来と同じメッセージを宣べ伝えていても神様は人々の心を変えることが可能でしょう。しかし、神様はその力を滅多なことでは行使しません。それでは人々を強制的に回心させることになるからでしょう。神様が力を行使しないということは、人々を強制的に回心させても神様は少しもうれしくないということではないでしょうか。

 神様はいつも人々に声を掛けていて、人々が応答するのを待っています。応答するよう強制するのではなくて、人々のほうから自発的に応答するのを神様は待っておられます。ただしパウロのような優れた器の場合には神様は力を行使して激しい現れ方をします。

 しかし、私たちのような一般の者たちに対してはパウロの時のような激しい現れ方はしません。ですから、微かに分かる程度の神様の声が一般の方々に届くようにするには、様々な工夫が必要だと思います。時代が変われば従来のメッセージでは一般の人々になかなか届かなくなるでしょう。それゆえ21世紀の現代においては21世紀のメッセージを語る必要があるだろうと、私は思っています。

ささげ物を喜ばなかった神様
 では、今週のメッセージに入ります。先ほど話した通り、きょう話すことは私たちが聖霊を受けると、「十字架」が私たちの中心になるということです。そのことを見るために、きょうの聖書箇所としてヘブル書10章を選びました。

 まずヘブル書10章の8節と9節を交代で読みましょう。

10:8 以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
10:9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。

 8節には、神殿に捧げられるいけにえや、きよめの捧げものを神様が喜ばなかったとイエスさかがおっしゃったということが書かれています。神殿にきよめの捧げ物をすることは、神様が命じたことです。旧約聖書のレビ記にはそのことが延々と書かれています。例えば週報のp.3に載せたようにレビ記4章13節から15節には次のように書かれています。

4:13 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、【主】がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、
4:14 自らの罪が明らかになったときに、その集会の人々は罪のきよめのささげ物として若い雄牛を献げ、それを会見の天幕の前に連れて行く。
4:15 会衆の長老たちは【主】の前でその雄牛の頭に手を置き、【主】の前でその雄牛を屠る。

 このように幕屋や神殿に罪のきよめの捧げ物をしなさいと命じたのは神様なのに、なぜ神様は喜ばなかったのでしょうか。

 それは、この捧げ物の儀式が形式的なものに成り下がり、民の心は神様から離れていたからでしょう。神様が一番望んでおられることは人々がいつもしっかりと神様のほうを向いていることです。罪のきよめの捧げ物の儀式を行なうのも、そのためです。神様から心が離れて罪を犯した時、神様はそのことで人間を罰することをせず、動物のいけにえを代わりに捧げることで赦して下さいました。

 しかし、人間の側はそれを形骸化してしまって、いけにえの動物を捧げても神に立ち返らず、人の心は神様から離れたままになってしまいました。

いけにえの動物に代わって十字架に付いたイエス・キリスト
 イエスさまは、このことを変えるために、この世に来られました。続いてヘブル書10章の10節から13節までを交代で読みましょう。

10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
10:11 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、
10:12 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
10:13 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。

 動物のいけにえを繰り返しささげても、人々の罪を除き去ることはできませんでした。それゆえイエスさまがこの世に来られて十字架に付けられました。このイエスさまの十字架は、ただ一度限りのことです。イエスさまのただ一度の十字架で、救いが永遠に完成されました。14節をご一緒に読みましょう。

10:14 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

 イエスさまはただひとり十字架に付くことで、無数のいけにえの動物たちにはできなかったことを完成されました。すなわち「イエスは神の子キリストである」と信じる者には聖霊が注がれて罪がきよめられます。そうして、その者は聖なる者とされます。

時間の流れ的にはおかしな順番
 さてしかし、このことはクリスチャンの私たちにとっては当たり前のようなことですが、クリスチャンではない人々にとっては非常に分かりづらいことです。なぜ21世紀の私たちの罪までもが1世紀の十字架によってきよめられるのでしょうか。1世紀の十字架の出来事があった時、私たちはまだ生まれていませんでした。私たちどころか私たちの両親も生まれていませんでしたし、おじいさんおばあさんも生まれていませんでした。1世紀の十字架の時、私たちはまだ生まれていませんでしたから、まだ罪も犯していません。それなのに、なぜクリスチャンは当たり前のように「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かった」と言うのでしょうか。

 これは、まさに聖霊の働きです。聖霊を受けると聖書の時代を身近に感じるようになります。もっとピンポイントに言うなら、十字架を身近な出来事として感じるようになります。そうして十字架が私たちクリスチャンの中心になります。

 冷静に考えると、これは時間の流れ的には、おかしなことです。自分が犯した罪が十字架によってきよめられるとしたら、時間の流れから言えば普通は十字架の前に犯した罪でなければ十字架によってきよめられないはずです。しかし、聖霊を受けるなら20世紀や21世紀に犯した罪であっても1世紀の十字架によってきよめられると確信できるようになります。これは正に聖霊の働きによるものです。

 ですから自分の罪の深さがよく分かるようになるには聖霊を受ける必要があります。そういう意味で、聖霊を受ける前の人に罪の悔い改めを迫るのは、あまり合理的ではないと私は個人的には思っています。自分の罪深さを理解することはもちろん非常に大切なことですが、それはイエスさまを信じて聖霊を受けなければ理解できないことですから、聖霊を受ける前の人には、別のアプローチを考えることも必要だと思います。

聖霊の働きの不思議さ
 では、どういうアプローチをすれば良いか、私はモーセの例が参考になると考えます。週報のp.3に載せましたが、出エジプト記3章3節には、このように書かれています。

3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」

 モーセは燃える柴がなぜ燃え尽きないのか、とても不思議に思い、そうして主の使いに近づいて行きました。それは即ちイエスさまに近づいて行ったということです。これはとても参考になる事例だと思います。聖霊の働きはとても不思議ですから、もっとその不思議さを語り、そのことをまだイエスさまを知らない方々に興味を持っていただくために用いることを考えても良いのではないかと思います。

 「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かりました」と当たり前のように言うよりも、「イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったとクリスチャンが言うことの背後には、実はとても不思議な聖霊の働きがあります」と言ったほうが、一般の方々に興味を持っていただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 私たちはイエスさまの十字架よりも後に生まれたのに、私たちが犯す罪は、私たちが生まれる前の十字架によってきよめられます。つまり時間が逆行します。聖霊にはこのような不思議な働きがあります。

漂流感覚が止まった経験の証し
 ここで私が経験したことの証しを挟みます。

 先週の証しでは、私は学生時代には身近に感じていなかった札幌農学校のクラーク先生のことを、クリスチャンになった後で北大に行ったら、とても身近に感じるようになっていたという話をしました。2003年のことでした。実はこの同じ時に私はもう一つの興味深い体験をしました。

 私は北大に1978年に入学して1988年まで学生(学部生と大学院生)として札幌に住んでいました。この10年間の札幌での学生生活の思い出を私はとても愛おしく思っていて、札幌を離れてからしばらくの間は毎年のように札幌に行って、その思い出に浸り、感傷に浸っていました。そして年を経るごとに、その学生時代が遠ざかって行くことにますます感傷的になっていました。その時の私は時間の中を漂流しているような感じでした。

 楽しかった学生時代を陸地に例えて、時間の海を漂流する私はどんどん陸地から離れていく様子を想像していました。漂流ですから、これからの自分がどこに向かおうとしているのかも分かりませんでした。分かっているのは陸地からはどんどん遠ざかっているということだけでした。そのことを寂しく思い、且つ行き先の分からない漂流感の中で漠然とした不安を抱えていました。そうして毎年札幌を訪れるたびに学生時代という陸地が遠ざかっていることを感じて感傷に浸っていました。

 ところがクリスチャンになってから、そういう漂流感覚がすっかり無くなっていたことに2003年に札幌に行った時に気付きました。その時はなぜだろうと不思議に思いましたが、これもまさに聖霊の働きです。聖霊を受けたことによって私の中では十字架が中心になり、十字架の港に錨が下ろされました。錨が下ろされましたから、そこから漂流して行くことがなくなったのですね。

 十字架はいつも身近にあって遠ざかって行くことはありません。そうして私は、聖霊を受けて十字架が中心になると、時間の中を漂流する不安からも解放されて心の深い平安が得られることを知りました。

 聖霊の働きは、本当に不思議です。こういう不思議な世界があることを、特に若い方々にアピールして興味を持ってもらうことは、とても大切なことではないかと私は考えます。

十字架のそばにいた愛弟子
 さて最初に予告した通りに、ここでヨハネの福音書19章の十字架の場面を見て、来週のメッセージへとつなげて行きたいと思います。ヨハネの福音書19章の25節から27節を交代で読みましょう。

19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 イエスさまの十字架のそばにはイエスさまの愛する弟子、すなわち愛弟子がいました。これはヨハネの福音書だけにしか書かれていない記述です。例えば週報p.3に載せたルカの福音書23章は、このように書いています。

23:49 しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。

 マタイとマルコの福音書によれば、弟子たちは皆、逃げてしまっていて、イエスさまの十字架を見ていたのは女たちだけでした。それも十字架のそばではなくて、離れた所から見ていました。ルカの福音書は女たちだけでなく知人たちもいたと書いていますが、やはり十字架からは離れていて、弟子たちはやはり逃げていてそこにはいませんでした。

 では、ヨハネはなぜ十字架のそばに愛弟子と女たちがいたと書いたのでしょうか。それは、この愛弟子とは私たちのことだからです。聖霊を受けると私たちの中心は十字架になりますから、聖霊を受けた私たちは十字架のイエスさまをすぐそばで見上げることになります。ヨハネの福音書は、このように私たち読者を時間の縛りから解放してイエスさまの時代へと誘い、イエスさまと1章から21章までを一緒に旅する機会を与えてくれていて、19章では私たちは十字架のそばにいます。

十字架に付いて聖霊の時代への道を開いたイエス
 最後に、ヘブル書10章のきょうの聖書箇所の残りの部分を読んで終わることにします。15節から20節までを交代で読みましょう。

10:15 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、
10:16 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、
10:17 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。
10:18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。
10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 全部の節を丁寧に説明する時間はありませんから、19節と20節だけを説明します。旧約の時代には聖所には1年に1回、大祭司だけが入ることが許されていました。聖所では垂れ幕の向こう側に神の箱が置かれていました。この場に入れるのは大祭司だけでしたが、イエスさまの十字架以降は誰でも聖霊の働きによって御父と御子との交わりに入れていただけるようになりました。この十字架のことを、ヘブル書の記者はイエスさまの肉体という垂れ幕であると書いています。イエスさまは十字架を通して私たちのために、聖霊の時代という新しい生ける道を開いて下さいました。

 十字架はイエスさまの肉体ですが、このイエスさまの肉体を通して私たちに与えられるのはイエスさまの霊である聖霊であり、そうして聖霊が与えられると私たちは御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられます。

 イエスさまは肉体を持つ人間であり、また霊的な神様でもあります。私たちはこのことを覚えたいと思います。人間のイエスさまに親しみを感じることは、とても大切なことですが、それが過ぎるとイエスさまを紀元30年頃の時間に縛り付けてしまい、私たちもまた時間に縛られることになります。私たちは時空を超えた神様としてのイエスさまにも親しみを感じて私たちも時間の縛りから解放されたいと思います。その入口がイエスさまの十字架です。

 ヘブル書10章20節が書くように、イエスさまはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、新しい生ける道を開いてくださいました。ですから私たちは肉体のイエスさまに縛られることなくイエスさまが開いて下さった新しい道を聖霊に満たされながら歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
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五旬節に向けた聖霊の学び2(2019.5.19 礼拝)

2019-05-20 12:33:01 | 礼拝メッセージ
2019年5月19日召天者記念礼拝メッセージ
『五旬節に向けての聖霊の学び(2)』
【Ⅰヨハネ1:1~4】

はじめに
 きょうは召天者記念礼拝です。先に天に召された信仰の先輩のことを思いながら、聖霊についても学ぶ時としたいと思います。そうして私たちの信仰についての再確認もできたらと願っています。

 きょう、会堂の前方には多くの先輩方の写真が置かれています。また週報には召天者名簿を折り込みました。私の前任地の沼津の教会でも毎年召天者記念礼拝の日には召天者のリストを週報に含めていましたが、召天者の数は静岡教会ほど多くはありませんでしたから、この教会のこれまでの信仰の歩みの足跡の大きさを改めて感じているところです。

 この召天者名簿に名前が記されている方々の大半と私は直接にはお会いしたことがありません。しかし、同じ聖霊を受けたクリスチャンとして御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられた者としての親しみを感じています。イエスは神の子キリストと信じて聖霊を受けた者同士なら、たとえ地上で会ったことがなくても父・子・聖霊の親しい交わりの中に入れられていることを感じることができますから、本当に感謝に思います。

私たちを雲のように取り巻く信仰の先輩たち
 きょうの聖書交読ではヘブル人への手紙を開きました。週報のp.3にも載せましたが、12章1節にはこのように書かれています。

ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 この12章の前のヘブル書11章には、アダムの子のアベルから始まって、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセなどの先人たちの信仰のことが書かれています。そうしてヘブル書の記者は12章1節で、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と書いています。

 ヘブル書の記者がこの手紙を書いている相手は1世紀のクリスチャンです。1世紀のクリスチャンを、これらの信仰の先輩たちが雲のように取り巻いていました。そして21世紀の私たちも同じ聖霊を受けたクリスチャンですから、やはりアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセなどの信仰の先輩たちが私たちを雲のように取り巻いています。そして同様にしてこの静岡教会の先に天に召された先輩たちもまた、私たちを雲のように取り巻いています。

 こうして私たちは先輩たちが雲のように取り巻く中で一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、忍耐をもって信仰の道を走り続けます。私たちの地上生涯には困難が多くて大変なことも多いですから、もし一人でこの信仰の道を走らなければならないとしたら、苦しいばかりで耐えられないかもしれません。

 しかし、私たちには礼拝に共に集う兄弟姉妹がいます。そうして互いに祈り合って励まし合うことができます。そしてさらには先に天に召された信仰の先輩たちが雲のように私たちを取り巻いています。何とも心強いことだと思います。

 しかも、そこにはイエスさまも共にいて下さって、御父までもがいて下さいます。なぜなら御父とイエスさまとは一つだからです。週報p.3に載せましたが、ヨハネは福音書の10章30節で、

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

と書いています。

受洗後に身近になったクラーク先生

 ここで私が経験したことの証しを一つ挟みたいと思います。それは、私がクリスチャンになって初めて、札幌農学校の初代の教頭のクラーク先生のことを身近に感じるようになったという経験です。

 私は1978年に北海道大学に入学しました。北大は最初は札幌農学校として1876年に開学しました。ですから私が入学した年の2年前に開学100周年記念事業が行われていました。入学した頃はまだ、その100周年事業の余韻が残っていて、大学生協の本屋には北大百年に関する本や初代教頭のクラーク先生に関する本などがたくさん置かれていました。

 ちなみに私は北大百年を2年遅れで逃してしまいましたが、静高百年のほうは1年早く卒業したために逃してしまいました。静高百年は私が卒業した年の1978年に、卒業した後で祝われました。また安東小学校の開校百年が1974年に祝われた時も、私は2年前に卒業してしまっていましたから行事に出席することができませんでした。このように私は1~2年早かったり遅かったりで小学校、高校、大学の開学百年に現役の生徒としてどれにも参加することができませんでしたから、とても残念に思っています。

 さて北大に話を戻すと、私は大学生の頃、クラーク先生のことを百年前の大昔の人だと感じていました。遠い昔の人だと思っていましたから、親しみを感じることもほとんどありませんでした。それが、2001年のクリスマスに高津教会で洗礼を受けて、2003年に学会で北大を訪れた時に、自分がクラーク先生にかなり親しみを感じていることに気付いて、とても不思議な気持ちになりました。

 また単に親しみを感じるだけでなくて、1978年には百年前の大昔の人と感じていたクラーク先生のことを、わずか百年前のつい最近の人だと感じるようになっていました。

 これは正に聖霊の働きによるものでしょう。2003年の当時は、この聖霊の働きについて深く思い巡らすことはありませんでしたが、その後、神学校に入ってから聖霊の働きについて深く思いを巡らすようになり、或いはまた姫路の教会に派遣されて以降にヨハネの福音書は父・子・聖霊が重なる独特の重なりの構造を持っていることが分かって来るにつれて、聖霊にはこのようにとても興味深い働きがあることを私は理解しました。

 つまり、自分が聖霊を受けると、大昔の人であっても同じように聖霊を受けた人なら、とても身近に感じるようになるということです。

聖霊に満たされる喜び
 ここで今日の聖書箇所のヨハネの手紙第一の冒頭の箇所をご一緒に読み、その後に私の経験について改めて考察して、最後に今日の午後に予定している墓前記念会のことにも、少し触れたいとおもいます。
 それでは、ヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 まず4節から見て行きます。ヨハネは4節で「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです」と書いています。この喜びとは、聖霊に満たされる喜びです。聖霊に満たされて父・子・聖霊の交わりの中に入れていただくこと、これほど大きな喜びはないでしょう。

 私たちの生活は苦しいことが多いですが、時にはうれしいこともありますね。そのような時に私たちは喜びに溢れます。大人になる前のことで言えば、高校や大学の入学試験に合格することは大きな喜びでしょう。学校で自分が所属したり応援したりしている部活が地方大会や全国大会で良い成績を上げれば、それも大きな喜びでしょう。部活でなくても習い事などが上達することもまた大きな喜びです。

 大人になって仕事で良い働きができたら大きな喜びがありますし、新しい家族ができて子供や孫に恵まれることも大きな喜びでしょう。

 では、これらの人生における喜びと、聖霊に満たされる喜びとを比較するとどうでしょうか。きのう私はメッセージの準備をしながら、このことに思いを巡らしていました。そして示された聖句が、週報p.3に載せたヨハネ16:13と8:32です。

ヨハネ16:13 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」
ヨハネ8:32 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 聖霊に満たされると私たちを真理を知り、真理は私たちを自由にします。この聖霊によって与えられた自由を感じる喜びは、人生の中で味わう入試の合格や新しい家族ができた時の喜びとは一味も二味も違う、魂の領域の深い喜びです。

魂の自由を知る喜び
 先週の礼拝メッセージで私は時間に縛られているイエスさまの話をしました。聖書の読者の多くはイエスさまを紀元30年頃の時間に縛り付けてしまっています。しかしイエスさまは実は時間から自由になっているお方です。

 その時間から自由になっているイエスさまは旧約の時代のエリヤの中にもいて、同時に使徒の働きの時代のピリポやペテロやサマリア人たちの中にもいます。さらにイエスさまは同時にまたモーセの中にもいますし、エリシャの中にもいますし、21世紀の私たちの中にも同時にいます。昔モーセの中にいたイエスさまが何千年か経過した後に今は私たちの中にいる、というのではなくて、イエスさまはモーセの中にも私たちの中にも同時にいます。これが時間から自由になって永遠の中にいるイエスさまです。

 聖霊に満たされて、この時間から自由になった永遠の中のイエスさまとの交わりの中に入れていただくなら、私たちの魂もまた時間から解放されて自由になります。私たちの体は時間に縛られていますが、魂は自由になることができます。

 この魂の自由を知ることは素晴らしい喜びです。この魂の自由を知る喜びを私は多くの方々と分かち合いたいと願っています。そうすれば多くの方々が心の平安を得て、世界は平和へと向かって行くだろうと思います。

イエスと弟子たちとの交わりがあったからこそ
 ただし、これは霊的な領域のことですから、目に見えない霊を感じることは難しいことです。その難しいことを容易にするために、イエスさまはペンテコステの日以降に私たちに聖霊を与える前に、まずは肉体を持って弟子たちと過ごす時を持って下さいました。ヨハネの手紙第一1章1節から3節までにヨハネはそのことを書いています。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

 このヨハネたちによる肉体を持ったイエスさまとの交わりの証しがあるからこそ、21世紀の私たちもまた、イエスさまを信じて聖霊を受けるなら、イエスさまとの交わりをしっかりと感じることができるのですね。本当に感謝なことです。

 先に天に召された信仰の先輩たちは、すでに体の縛りから自由になっていますから、イエスさまと同じように時間の縛りから自由になっていることでしょう。地上にいる私たちの場合には体に縛られていますが、聖霊に満たされるなら先輩たちと同じように父・子・聖霊の交わりの中に入れていただくことができることに感謝したいと思います。

クラーク先生はわずか百年前の最近の人
 話を2003年の私の経験に戻します。この時の私は洗礼を受けてから一年半しか経っていませんでしたから聖霊についての深い理解はありませんでした。しかし聖霊の働きによってクラーク先生のことをわずか百年前のつい最近の人として感じて、親しみを感じていたのだと思います。

 2003年の私は高津教会のメッセージを聞いて旧約聖書の学びも始めていましたから、そのことも大きな助けになっていたと思います。私は2001年に洗礼を受けてからの何年かは自分で聖書を積極的に読むことをしておらず、専ら礼拝のメッセージから聖書を学んでいました。

 高津教会の礼拝メッセージは2001年と2002年は新約聖書が中心でしたが、2003年の1月からは藤本先生の「祈り人びと」のシリーズが始まっていて、アブラハムから順に旧約の時代の人々について学んでいました。旧約の時代は新約の時代からもさらに何千年も前のことです。そのような何千年も前の人々のことを、私は身近に感じるようになっていました。

 クリスチャンになった私は何千年も前の旧約の時代の人々を身近に感じるようになっていましたから、わずか百年ちょっと前のクラーク先生は本当に最近の人です。1978年に北大に入学してから洗礼を受ける2001年まで、私にとってのクラーク先生はずっと大昔の人物でした。北大で学生として過ごしている間も、その印象は変わりませんでした。それがイエスは神の子キリストと信じてクリスチャンになってからはクラーク先生を身近に感じるようになりましたから、それはやはり聖霊の働きによるのだということになるでしょう。

 そういうわけで、私は先に天に召された静岡教会の先輩方のほとんどとお会いしたことはありませんが、クラーク先生と同じように親しみを感じています。そうして先輩方が雲のように取り巻いていることを感じます。私たちがモーセやエリヤ、ペテロやヨハネ、そして、この教会の信仰の先輩方に親しみを感じるのは、時間から自由になっているイエスさまがおられて、イエスさまはその先輩方と共におられるのと同時に私たちにも共におられることを覚えて感謝したいと思います。

墓への埋葬が繰り返されることの感謝
 さて、きょうはお天気が今一つすっきりしませんが、おそらく藤枝霊園に行って墓前記念会を行えるだろうと思っています(雨が降り出せば来週に順延します)。最後に簡単に、墓前記念会で引用する予定の列王記第一の聖句について触れておきたいと思います。

 週報に挟んだ午後の墓前記念会のプログラムに、列王記第一の聖句を載せました。

【 列王記第一2章10節 】
 こうしてダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。
【 列王記第一11章43節 】
 ソロモンは先祖とともに眠りにつき、父ダビデの町に葬られた。
【 列王記第一14章31節 】
 レハブアムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。

 このように、ダビデの子孫たちは王位を受け継いで、亡くなればダビデの町に葬られて行きました。ご承知のように四百年後にエルサレムはバビロン軍に滅ぼされましたが、それまではダビデの子孫たちは王位を受け継いで、亡くなれば葬られることが続いて行きました。エルサレムが滅んだことは残念なことでしたが、形あるものはいつかは滅びますから、滅びる前の時代に、王位が受け継がれて行ったことに目を向けて、神様の御守りに感謝したいと思います。

 この春、沼津教会は働きを終えてシオン教会と合流しました。去年の今頃の合流へと向かっていた時期の私たちの大きな悩みの一つが、沼津教会の墓地をどうするかということでした。しかし不思議な導きによって他の教会に引き継いでいただくことができました。

 先週の礼拝に、その教会の兄弟が参加して下さいましたね。話を聞いたら、つい最近、納骨式があって兄弟も参加したそうです。そのことを聞いて、とても感謝に思いました。信仰の先輩たちの遺骨を納めた墓地が引き継がれていくことにも主の御守りがあることを覚えて、心から感謝に思いました。

 藤枝にある静岡教会の墓地が主によって守られていることもまた、感謝したいと思います。私は初めて訪れますが、きょうはそのことを感じて来たいと願っています。車で行きますから交通の安全のことも祈っていていただきたいと思います。

おわりに
 きょうのメッセージのタイトルは『五旬節に向けての聖霊の学び(2)』でした。ヘブル書12章1節にあるように、信仰の先輩たちが私たちを雲のように取り巻いています。時間から自由になっているイエスさまはその先輩たちと今も共にいて、聖霊を受けた私たちともイエスさまは共にいて下さいますから、私たちは先輩たちと共にヨハネの手紙第一にあるように御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられています。このことを感じながら、イエスさまに心いっぱい感謝したいと思います。

 これらのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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五旬節に向けた聖霊の学び1(2019.5.12 礼拝)

2019-05-13 11:51:52 | 礼拝メッセージ
2019年5月12日礼拝メッセージ
『五旬節に向けた聖霊の学び(1)』
【ヨハネ4:1~8、39~42】

はじめに
 きょうの聖書交読ではエレミヤ書20章を開かせていただきました。今の私の気持ちがエレミヤに近いと感じたからです。

 エレミヤは主からことばを与えられて、それをエルサレムの人々に伝える使命が与えられていました。主は人々が悔い改めることなく主に立ち返らないならエルサレムを滅ぼすと警告していました。しかしエルサレムの人々は警告を聞かず、祭司のパシュフルはエレミヤを捕らえて打ち、足かせにつなぎました。それゆえエレミヤは心が折れそうになり、もう主のことばを宣べ伝えまいと思います。しかし、エレミヤは自分に与えられた主のことばを内にしまっておくことができませんでした。エレミヤ20章9節をお読みします。

エレミヤ20:9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。

 私にも主からことばが与えられていて、人々に伝える使命が与えられています。それを伝えるべく努力しましたが、伝え方が悪かったようで上手く伝わりませんでしたから、一時は心が折れました。そして、それからはその使命は私の内にしまっておきました。しかし、その結果、内にしまっておくのに耐えられなくなりました。

 そこできょうは、私に与えられている使命を皆さんにお伝えしようと思います。ただし、前と同じ失敗は繰り返したくありませんから、以前とは伝え方を根本的に変えます。これから話す伝え方で皆さんに伝わることを願ってやみません。

イエスを時間に縛り付けている聖書の読者
 私に与えられている使命とは、次のようなものです。

 いま聖書の読者はイエスさまを時間に縛り付けています。時間に縛り付けられた状態のイエスさまは人々に十分な平安を与えることができないでいます。ですから、私に与えられた使命はイエスさまを時間から解放するように聖書の読者を説得し、それによって人々が平安を得て世界が少しでも平和に向かうようにすることです。

 もちろんイエスさまは時間に縛られるようなお方ではありません。しかし、為されるがままになっています。十字架と同じですね。イエスさまは十字架に付けられるようなお方ではありませんでしたし、抵抗すれば逃れることもできたでしょう。しかしイエスさまは抵抗せずに為されるがままに十字架に付けられました。

 私たちはイエスさまを紀元30年頃という時間の中に縛り付けています。このことを悔い改めてイエスさまを紀元30年頃から解き放てば、私たちは人知を遥かに超えたキリストの大きな愛を理解できるようになり、世界は大きく変わって平和へと向かうと私は確信しています。

 ただし一足飛びに世界が変わるはずがありません。世界が変わるには、まず日本が変わる必要があります。日本が変わるには静岡が変わる必要があります。静岡が変わるには田町が変わる必要があります。田町が変わるためには、まずは私たちがイエスさまを時間に縛り付けていることを自覚して悔い改め、変わる必要があります。悔い改めるなら、これまでに無いくらいにどっぷりと聖霊に満たされるようになり、大きな平安を得ることができることでしょう。

(聖書の読者がイエスを時間に縛リ付けることになってしまった理由を考えると、仕方のない面もあります。1世紀の後半から2世紀に掛けては仮現論のように「イエスの肉の体は単なる見せかけで、イエスは実際には肉の体を有していなかった」という異端が跋扈していました。それゆえ教会はそれらの異端を排除するのに躍起になっていました。そうしてイエスが肉の体を実際に持っていたことを強調するあまり、イエスを紀元30年頃に縛り付ける結果になったと考えます。)

心は重力から解放されつつある私たち
 これまでの礼拝メッセージで話して来たように、私たち大人は日々の糧を得なければなりませんから日々の生活に縛られ、また財産にも縛られています。或いはまたプライドというやっかいなものにも縛られています。プライドはいったん脱ぎ捨てたと思っても、すぐにまたまとわり付いて来るやっかいなものです。これらは私たちが神様と深く交わることを阻みます。ですから、これらの縛りから解き放たれるなら、私たちは神様との深い交わりに入れられるはずです。ところが、私たちは神様との深い交わりの中になかなか入ることができません。なぜでしょうか。

 それはプライド以上にやっかいな問題として、私たちが体に縛られているからです。体に縛られていると私たちは重力と時間に縛られます。

 重力に縛られていると物が落ちる方向が「下」になり、その逆が「上」になります。しかし無重力の国際宇宙ステーションの中では「上」も「下」もないそうです。私たちが認識している空間の捉え方とは随分と違いますね。21世紀に入ってからは国際宇宙ステーションに絶えず人が入れ替わりながら常駐しています。そして、インターネットを通して国際宇宙ステーションで生活する宇宙飛行士の様子も簡単に知ることができるようになりました。地上にいる私たちの体は重力に縛られていますが、心のほうは宇宙飛行士を通じて重力から解放されつつあると言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

時間からも解放されるべき私たち
 すると残された課題は、私たちは時間からも解放されるべきであるということでしょう。体はどうしても時間に縛られます。しかし心は別です。心は時間に縛られません。それは重力と同じです。

 私たちの体は重力に縛られていますが、心は別です。「上」と「下」の区別が存在しない空間のことを地上にいながらにして私たちは不完全ながらも、ある程度は心の中に思い描くことができるようになりました。それと同様に時間に関しても「過去」と「未来」の区別が存在しない、時間に縛られない世界を不完全ながらも思い描くことができます。そうして私たちの心が時間の縛りから解き放たれるなら、イエスさまを時間の縛りから解き放つことができます。

 私たちの体は年とともに老いて行きますから、私たちの体が時間に縛られるのは仕方のないことです。私たちの体は決して若返ることはありません。この一方通行の時間の流れがあるために、私たちの心の中には「過去」と「未来」という概念が形成されてしまっています。

 この「過去」と「未来」の概念が私たちを縛ります。重力があると「上」と「下」という概念が形成されるのと同じと言って良いでしょう。しかし今や私たちの心は重力から解放されて上と下という概念から解放されつつあります。ですから私たちは時間においても「過去」と「未来」という時間の概念から解放されて自由にならなければなりません。なぜなら私たちが時間に縛られているとイエスさまを時間の十字架に付けてしまうからです。

 イエスさまは本来は「過去」も「未来」もない永遠の中におられる自由なお方です。そのイエスさまを私たちは時間の十字架に縛り付けてしまっています。

紀元30年頃のイエスを描いた書として読まれているヨハネの福音書
 私たちがいかにイエスさまを時間に縛り付けてしまっているか、それはヨハネの福音書の読まれ方を考えれば分かります。私たちはヨハネの福音書のイエスさまを、マタイ・マルコ・ルカの福音書のイエスさまと同じように、紀元30年頃のイエスさまとして見てしまっているでしょう。つまりイエスさまを紀元30年頃という時間の十字架に縛り付けてしまっています。

 しかし実はヨハネの福音書のイエスさまは本来は全く時間に縛られていません。そのことを、きょうはヨハネ4章から見て行きますから、ぜひ皆さんは従来の固定観念に縛られないで、きょうのメッセージを聞いていただきたいと思います。

 まずヨハネ4章1節から3節までをお読みします。

4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

 ここでヨハネが描いているイエスさまは、地上生涯のイエスさまではなく、使徒の働きの時代のイエスさまです。使徒の働きの時代、イエスさまは弟子たちの内にいました。弟子たちは聖霊を受けていましたから、イエスさまは弟子たちの内にいました。そうして使徒の働きの時代の弟子たちの内にいたイエスさまが人々にバプテスマを授けていました。

ピリポの内にいたイエス
 そして弟子たちの内にいたイエスさまはヨハネ4章でサマリアに行きましたから、この時のイエスさまはサマリア伝道を行ったピリポの中にいました。週報のp.3にその箇所を貼り付けておきました。

使徒8:5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 ここにいるイエスさまが地上生涯のイエスさまではないことは、ヨハネ4章の34節からも分かります。34節、

4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

 私たちが時間に縛られていなければ、この記述はイエスさまが紀元30年頃にはいないことを表していると分かるでしょう。そうして私たちが時間の縛りから解放されるなら、時間に縛られていないイエスさまを描いたヨハネの福音書の面白さを存分に味わえるようになります。きょうは是非、その面白さを味わっていただきたいと思います。

旧約の時代の預言者エリヤの内にもいたイエス
 次に7節と8節、

4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 ヨハネはここからしばらくの間、旧約聖書のエリヤの時代にいるイエスさまを描いています。8節で弟子たちが町へ出掛けて舞台から退場したのは、弟子たちは使徒の働きの時代に縛られているからです。後でまた弟子たちが戻って来ますから、その時にはまた使徒の働きの時代に戻っています。一方、イエスさまは時間に縛られていませんから、旧約聖書のエリヤの時代にも新約聖書の使徒の働きの時代にもいます。

 さて、イエスさまは7節で「わたしに水を飲ませてください」とサマリアの女に言いました。この時、イエスさまはツァレファテでやもめに出会ったエリヤの中にいました。旧約聖書の預言者にも聖霊が注がれていましたから、イエスさまはエリヤの中にいました。エリヤがやもめに出会って「水を飲ませてください」と頼んだ場面を週報p.3に貼り付けておきました。列王記第一の17章10節です。

列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪(たきぎ)を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 このエリヤの中にはイエスさまがいました。ですから、サマリアの女はツァレファテのやもめです。

不信仰だった北王国の王たち
 エリヤの時代の北王国の王様はアハブ王でした。アハブ王は不信仰な王として有名で、妻のイゼベルもまた不信仰で有名です。北王国の王たちは初代のヤロブアム以来、皆が不信仰な王たちでした。そのような不信仰な王の支配下で暮らさなければならなかった民はとても不幸でした。サマリアの女はそのような不幸な北王国の民たちの代表でもあります。サマリアの女もまた時間に縛られていませんからヤロブアム王からアハブ王までの北王国の民にもなることができます。そのことを表しているのが「五人の夫」という表現です。

 アハブ王の前、北王国には五人の王たちがいました(民が王と認めなかった在位7日間のジムリを除くヤロブアム、ナダブ、バアシャ、エラ、オムリの五人)。ですからイエスさまがヨハネ4章18節で、

ヨハネ4:18 「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

と言った時の五人の夫とは、この五人の王たちのことです。女はやもめでアハブ王はこの女の夫ではありませんから、今一緒にいるのは夫ではないというのは本当のことです。
 私たちが時間に縛られていてイエスさまを時間の十字架に縛り付けてしまうと、サマリアの女のことも紀元30年頃に縛り付けてしまって、紀元30年頃の五人の夫を想像することでしょう。

 しかし私たちが時間から解放されるならサマリアの女のこともまた、時間から解き放つことができます。ただし弟子たちは使徒の働きの時代に縛られていますから、一旦退場していました。その弟子たちが27節に戻って来ましたから、イエスさまとサマリアの女は使徒の働きの時代に戻っていました。

ピリポが種を蒔き、ペテロとヨハネが刈り入れた
 イエスさまは弟子たちに言いました。ヨハネ4章の35節から38節までを交代で読みましょう。

4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
4:38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 37節でイエスさまは「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです」とおっしゃいました。これが何を意味するか、少し丁寧に使徒の働き8章を見ることにします。使徒8章を開いて下さい(新約聖書p.248)。先ほども言いましたが、5節でピリポがサマリアに下って行きました。そして6節でサマリアの人々がピリポの話に関心を持ったとあります。その結果、12節に、

8:12 人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。

とあります。しかし、サマリアの人々はまだ聖霊を受けていませんでした。聖霊を受けたのはペテロとヨハネがサマリアまで行って、彼らの上に手を置いてからでした。14節から17節までを交代で読みましょう。

8:14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
8:15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
8:17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 つまりピリポが種を蒔いて、ペテロとヨハネが刈り入れました。労苦したのはピリポで、ペテロとヨハネはその労苦の実に与りました。このようにヨハネ4章の後半が使徒の働き8章の状況を描いているのは明らかです。この時のイエスさまはピリポの中、そしてさらにペテロとヨハネの中にもいました。

イエスと霊的に出会ったサマリア人たち
 そしてサマリア人たちも聖霊を受けましたから、サマリア人たちの中にもイエスさまは入りました。その状況がヨハネ4章の39節から42節までに書かれています。交代で読みましょう。

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 この42節は非常に重要です。私たちは自分が聖霊を受ける前までは、人の話を聞いてイエスさまを信じるしかありません。聖霊を受けなければイエスさまは内に入って下さらないからです。ですから牧師やクリスチャンの先輩の話を聞いて、イエスさまを信じます。そうしてイエスさまを信じて聖霊を受けるとイエスさまが内に入って下さいますから自分でイエスさまの声を霊的に聞くことができるようになり、42節にあるように、この方が本当に世の救い主だと分かるようになります。

時間から解き放たれたイエスを証言すべき21世紀の私たち
 きょうのメッセージのタイトルは、『五旬節に向けた聖霊の学び(1)』です。6月9日のペンテコステの日に向けて、聖霊について学んで行きたいと願っています。きょう学んだことは、私たちは聖霊を受けるとヨハネ4章42節にあるようにイエスさまと霊的に出会うことができるようになるということです。そして、イエスさまと霊的に出会うなら、イエスさまが時間に縛られていないお方であることが、本当なら分かるはずです。

 しかし、私たちが時間に縛られているためにイエスさまのことも時間に縛り付けてしまっていて、イエスさまが本来は時間に縛られていない方だと気が付くことができないでいます。

 体に縛られている私たちは重力に縛られていますが、21世紀の現代では重力から解放されている国際宇宙ステーションの中に人が常駐しています。その国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士がインターネットを通じて毎日のように情報を発信していますから、私たちの心は重力から解放されつつあります。

 重力の次に私たちが解放されなければならないのは、時間の縛りからです。そうして私たちがイエスさまをも時間に縛り付けてしまっていることに気付き、イエスさまを時間の十字架から解き放つなら、時間に縛られないイエスさまから、これまでにない大きな恵みを受けることができるでしょう。

 週報のp.3に載せましたが、イエスさまはヨハネ20章で3回も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。しかし、クリスチャンに真の平安はなく、キリスト教国と呼ばれる国は戦争ばかりしています。これはクリスチャンが未だに時間に縛られていて、イエスさまを時間の十字架に付けているからです。聖霊を受けたクリスチャンが時間から解放されてイエスさまを時間の縛りから解き放つなら、クリスチャンは人知を遥かに超えたキリストの愛を受けることができるようになり、世界は必ずや平和に向かうと私は確信しています。

 聖霊の力を受けた私たちは、イエスさまとの出会いを証言するイエスさまの証人にならなければなりません。その証人の私たちがイエスさまを時間に縛り付けているとしたら、イエスさまのほんの一部しか証言できません。肉体を持って時間に縛られていた1世紀の初めのイエスさまはイエスさま全体から見ればごく一部でしかないからです。それではいくら一生懸命にイエスさまのことを宣べ伝えても、収穫の実を十分に刈り入れることはできないのではないでしょうか。

 国際宇宙ステーションによって重力から解放されつつある21世紀、今こそ私たちは時間から自由になっているイエスさまを証言すべきでしょう。国際宇宙ステーションに宇宙飛行士が常駐していなかった20世紀までは、従来のイエスさましか証言できなかったのも仕方のないことでした。しかし21世紀の私たちは、少なくとも心のほうは、体の縛りから解き放たれることができます。

おわりに
 きょうのヨハネの福音書4章の学びを通して、私たちの心がいかに時間に縛られているか、気付いていただけましたでしょうか。もしそのことに気付いていただけたなら、私たちがイエスさまのこともまた時間に縛り付けてしまっていることに、気付いていただけたことと思います。

 私たちは若い世代の人たちに、次世代の教会を担って行ってもらいたいと願っています。その若い人たちに向けては、21世紀の伝え方があるのではないでしょうか。これまでの伝道で上手く行っているのなら敢えて変える必要はないでしょう。しかし伝道が行き詰っている今の時代には、21世紀の伝え方を、私たちは真剣に考えるべきでしょう。そのためには、まずは私たち自身が変わらなければならないのではないでしょうか。人に悔い改めを勧める前に、まずは私たちが悔い改めなければならないのではないでしょうか。

 私自身も、主から大切な使命を与えられていながら、十分な働きができていないことを悔い改めなければなりません。そうして皆さんと共に、この田町でイエスさまの証人としての働きに励んで行きたいと願っています。皆さんのお一人お一人も、ぜひ21世紀の伝道について、お考えいただきたいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしたいと思います。
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慰め、励まし、癒して下さるイエス・キリスト(2019.5.5 礼拝)

2019-05-06 09:26:07 | 礼拝メッセージ
2019年5月5日礼拝メッセージ
『慰め、励まし、癒して下さるイエス・キリスト』
【イザヤ40:1~11、マタイ11:28~30】

はじめに
 きょうは子供の日ですが、私たちの教会では先聖日に多くの子供たちがこの教会に集い、一足早く子供の日の恵みをいただき、祝福に満ちた礼拝となりましたから、感謝でした。

 その先聖日の礼拝メッセージでは『子どものように神を受け入れる者』とうタイトルで、なぜ子供のほうが大人よりも神を受け入れやすいのかについて、共に思いを巡らしました。

 子供は自分で食糧を調達することをせず、空の鳥たちが天の父に養われているのと同じように、親に養われています。つまり自分の力で生きておらずに、生かされています。また子供は財産を持っていませんから財産に縛られていません。財産を持っている大人は財産の管理に心を用いなければなりませんから、その分だけ神様に心を向けることができなくなります。

簡単には脱げないプライドの厚い鎧
 それから、やっかいな問題としてプライドの問題があります。多くの大人はプライドの厚い鎧を身に着けています。プライドの鎧を身に着けることで、自分の心を守っています。つまり自分で自分を守っています。神様を受け入れる人は、神様がその人を内から守っていて下さいます。しかしプライドの鎧を着けている人は神様が内に入ることを阻んでいますから、自分で自分を守るしかありません。そのような人物の例として、先週は列王記第二のナアマンの記事をご一緒に読みました。

 ナアマンは軍人としての高いプライドを持つ人物で、病人なのに預言者エリシャの家に戦車で乗りつけるほどでした。そんなナアマンはエリシャの使者に、ヨルダン川に身を浸せば病気が治ると言われました。ヨルダン川に身を浸すには心身ともに裸になる必要がありました。プライドの高いナアマンがそんなことをできるわけがありませんから、ナアマンは激怒して帰ろうとしました。

 しかし部下の進言を聞いてヨルダン川に身を浸すことにしました。この部下による進言の言葉があってからナアマンが実際にヨルダン川に身を浸すまでの間に、ナアマンの心にどれだけの葛藤があったか、聖書は記していません。しかし、相当な葛藤があって、ナアマンがヨルダン川に入るまでにはかなりの時間が掛かったであろうことは容易に想像できます。なぜなら、人はそれほど簡単にはプライドの厚い鎧を脱ぐことができないからです。

 ナアマンが葛藤の末にプライドを脱ぎ捨てて心身共に裸になってヨルダン川に身を浸したからこそ、神様は病気を治して下さいました。ヨルダン川の水が薬のように効いてナアマンの重い皮膚病を治したのではありません。ナアマンがプライドを脱ぎ捨てて神の人エリシャのことばを受け入れたからこそ、全知全能の神様がツァラアトという人間の力では治すことのできない病気を治して下さいました。

私が鎧を脱いだ時の証し
 そして先週のメッセージでは、私自身の経験もごく短く、お証しさせていただきました。私自身はこれまでに二度、プライドの鎧を脱ぐことができた経験をしたと感じています。一度目は神学校の寮で生活するようになってからと、二度目は前任の教会が他教会に吸収合併されることになった時です。きょうは、その二度目にプライドの鎧を脱ぐ経験をした後で味わった素晴らしい恵みについて、お証しをして分かち合いたいと思います。

 吸収合併されることを受け入れるということは、自分たちの教会の財産をすべて合併先の教会に委ねるということです。自分たちの教会の財産と言っても、それらはすべて神様が与えて下さったものですから、本当は「自分たちの教会の財産」と考えるのはおかしなことです。

 しかし、苦労して土地を取得しましたから、ついつい「自分たちの」と思ってしまいます。そして、神様が土地を与えて下さったのは「自分たちの祈りの結果」だとか、「自分たちの信仰の熱心さが神様に認められたのだ」などという勘違いをして、「自分たちの信仰は立派なんじゃない?」などと、余計なプライドをいつの間にか身に着けてしまっていたように思います。

 私は神学校の寮に入った時に一度はプライドの鎧を脱いだはずでした。しかし、牧師になってから再びプライドの鎧を着けるようになってしまっていたようです。吸収合併の出来事は、そういう私のプライドを粉々に打ち砕きました。

エルサレムの民を慰める主
 しかし、プライドが打ち砕かれて初めて、イザヤ書40章の「慰めよ、慰めよ」のメッセージが心に深く届くようになりました。聖書交読でも交代でお読みした箇所ですが、私のほうでもう一度、その一部をお読みします。まずイザヤ書40章1節と2節です(旧約聖書p.1230)。

40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをの手から受けている、と。」

 神様は預言者イザヤに「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と仰せられました。神様が「慰めよ」とおっしゃっている対象の民とは、バビロン捕囚によって深く傷ついたエルサレムの民のことです。紀元前600年頃に南王国のユダはバビロン軍の攻撃を受けて、首都エルサレムの人々は捕らえられて捕囚としてバビロンに引かれて行きました。そうしてエルサレムの神殿や王宮にあった財宝は奪われ、最後には火を付けられて炎上し、城壁も破壊されてエルサレムは滅亡しました。

 エルサレムが滅亡して人々がバビロンに引かれて行く前までは、イスラエルの民族は神に選ばれた民という高いプライドを持っていました。しかし、そのプライドは粉々に打ち砕かれました。イスラエルの民は驕り高ぶっていて、預言者エレミヤの警告も無視して神様がエルサレムを滅ぼすはずが無いと高をくくっていました。そんなイスラエルの民に怒った神様がエルサレムを滅ぼしたため、彼らのプライドは粉々に砕け散りました。

 永遠の中におられる神様には、預言者イザヤの時代から既に彼らの末路が見えていました。そんな彼らを憐れみ、愛しておられる神様はイザヤを通して優しく語り掛けて慰めます。

「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをの手から受けている、と。」

 こうして約70年後にバビロン捕囚の苦役は終わり、エルサレムの民は帰還が許されて、神殿と城壁とを再建することになりました。失意のどん底にいた彼らは神様によって慰められ、廃墟となったエルサレムの再建へ向けての励ましを受けることになりました。

 実を言うと私は吸収合併の受け入れを経験するまでは、このイザヤ書40章の1節と2節とを自分に向けられたメッセージとして読んだことはありませんでした。私以外の失意を経験した他の人々へのメッセージという目線でしか読んだことがありませんでした。しかし吸収合併を受け入れてプライドの鎧を脱いだ時に、この神様の慰めの言葉が深く心に届きました。そうして聖書の神様のことばの恵みをたくさんいただくことができました。

 静岡教会の皆さんはいかがでしょうか。この教会もまた常駐牧師の不在という大変な困難の中を通りました。しかし、憐れみ深く、私たちを愛していて下さる神様は優しく語り掛けて、慰め、そして励まして下さいます。

イエス・キリストが来られるための道の準備
 続いて3節と4節をお読みします。

40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路(おおじ)をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。

 この3節と4節で預言されているのは、イエス・キリストがこの世に来て人々に教えるための道を用意せよということですね。新約聖書の四つの福音書、すなわちマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書はいずれもバプテスマのヨハネが登場する場面で、このイザヤ書40章3節を引用しています。下の脚注の3節①の引照を見るなら、マタイ3:3、マルコ1:3、ルカ3:4、ヨハネ1:23とありますから、お時間のある時に是非ご覧になると良いと思います。

 こうして谷が引き上げられ、山や丘は低くなり、曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになってイエス・キリストが私たちのためにこの世に来て神の国について教えて下さるための道が整えられました。

私たちを慰め、励まし、癒すイエス・キリスト
 イエスさまは時空を超えた宇宙スケールの神様ですが、私たちと同じ人間サイズの方になって下さり、人々に寄り添って下さいました。そうしてイエスさまは人々を慰め、励まし、癒して下さいました。その慰めと励ましと癒しのことばで一番有名なのが、きょうの聖書箇所の中にあるマタイ11:28ではないでしょうか。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 吸収合併を受け入れた時の私に、このイエスさまの言葉もまた、心の中に深く沁み入って来ました。これまで私は、このイエスさまの言葉を自分に向けられた言葉と受けとめたことはありませんでした。しかし、前任の教会を何とか存続させたいと粘り、それが適わないと分かっても、せめて教会の財産は自分たちで処分できるようにと粘り努力しましたが、それも適わずに吸収合併という形で合併先の教会にすべてを委ねることにしました。

 その時の私はすっかり疲れ切っていました。そんな時に、このイエスさまの言葉が優しく響いて来ました。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 そうして私は人間サイズになって私たちに寄り添って下さったイエスさまの恵みの素晴らしさを深く味わうことができ、とても感謝しました。

 ちなみにこのマタイ11:28のイエスさまの言葉には、去年の秋の静岡聖会の講師だった小平牧生先生もまた癒された経験があると、聖会で話しておられました。小平先生は基督兄弟団の西宮の教会でご奉仕をしておられます。兵庫県の西宮ですから24年前の阪神淡路大震災の時には地域一帯が甚大な被害を受けました。

 先生の教会だけでも大変な状況でしたが、先生は地域の教会のネットワークの事務局長も務めておられた関係で、地域の多くの教会の支援や被害状況の調査なども行っていたということです。そういう忙しさの中で、ある時に先生はついに燃え尽きたようになってしまって疲れ果て、被害調査に出掛けた先の教会の前で動けなくなり、座り込んでしまったということです。その時、その教会が掲げていた、このマタイ11:28のみことばが目に入り、これは自分に向けられたイエスさまの言葉であると感じたのだそうです。

 先生はそれまで、この言葉を自分に向けられた言葉として受けとめたことは一度も無かったそうです。しかし、その疲れ果てた状態の中でイエスさまが先生に優しく語り掛けて下さったそうです。その小平先生の証を私が聞いたのは、私が合併問題で同じ経験をした直後でした(吸収合併を受け入れることにしたのは秋の聖会の少し前の夏のことであり、そこから今年1月の教会総会での合併承認の全会一致による決議に向けて準備を始めました)。ですから聖会での小平先生のメッセージには心の底から共感しました。

受け取り損なっている壮大なスケールのイエスの恵み
 私自身がそういう経験をしていますから、マタイ・マルコ・ルカの福音書の中に出てくる、人々に寄り添う人間サイズのイエスさまの素晴らしい恵みを私はよく知っているつもりです。本当に素晴らしい恵みです。しかし(ここで敢えて「しかし」という接続詞を使わせていただきますが)、この人間サイズのイエスさまの恵みがあまりにも素晴らしいが故に、それを遥かに上回る恵み、すなわち壮大なスケールのイエスさまの恵みを、残念なことに多くの方々が受け取り損なってしまっていると私は感じています。

 エペソ人への手紙3章でパウロは書きました(週報p.3)。お読みします。

3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 18節の「広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉から、イエスさまの愛の大きさが宇宙レベルの壮大なスケールであることが読み取れます。人の知恵、人知で分かるのはせいぜい地球レベルの大きさまでです。宇宙レベルの大きさは計り知れません。人知を超えているからです。しかし計り知れませんが、私たちは知ることを諦めずに、できる限り分かるようになりたいと思います。そうして私が知り得たイエスさまのスケールの壮大さを、これから静岡の皆さんと分かち合って行きたいと願っています。

 そのためには、皆さんにも思いを巡らしていただくことが必要だと考えます。これまでも私は、多くの方々に壮大なスケールのイエスさまのことを何とか分かっていただき、その恵みを共有したいと願い、説明の仕方の試行錯誤を繰り返して来ました。そうして分かったことは、どんなに説明しても、聞いて下さっている方が共に思い巡らすことをして下さらないのなら、決して分かっていただけないということです。

 何しろイエスさまの愛の大きさのスケールは人知を遥かに超えていますから、説明して理解できるものではありません。思いを巡らす中で壮大なスケールのイエスさまに出会い、感じなければ到底理解できないものです。

研究者は寝ても覚めても考えている
 話を少しでも分かりやすくするために、まず研究の話をしたいと思います。何でも良いのですが、最近話題になった研究で、ブラックホールの輪郭の撮影に成功したというものがありましたね。或いはまた医学の領域の研究では、昨日NHKが、脊髄を損傷した患者の神経を再生する有力な治療方法を札幌医大のチームが開発したということを報じていました。

 この再生医療の新しい方法については夜の番組でも放送していましたから観ましたが、患者から採取した幹細胞を培養して増やし、再び患者の体に点滴によって戻してあげると、幹細胞が痛んだ神経の再生を促すということでした。

 こうした研究では、研究者はその研究テーマについては寝ても覚めてもと言うのが決して大げさではないほど、そのテーマについて考えています。研究者は寝ている間も考えます。私もかつては研究者の端くれでしたから、それが分かります。

 研究に没頭していると本当に寝ている間でも考えます。ですから、どんな研究テーマであっても、そのテーマについてはその研究者が世界で一番良く分かっていると言って良いでしょう。ただし、そのテーマが重箱の隅にあるものなのか、重箱の真ん中に位置するものなのか、という違いはあります。その重箱もまた小さな重箱から大きな重箱までいろいろとあると思います。そして大半の研究者が、できれば大きな重箱の真ん中に位置するようなテーマの研究をしたいと願っているでしょう。

 ただ、そのテーマが重箱の隅に位置するのか、真ん中に位置するのかは研究を始める時点では分からないことも少なくありません。そこに難しさがあります。また、重箱の真ん中の研究なのに、他の人にそのことをなかなか理解してもらえないということもあります。

 何しろ、そのテーマについては、それを研究している人が世界で一番よく考えていて、他の人はそれほど考えたことがありませんから、分かってもらえないのは仕方がないとも言えます。ですから分かってもらうためには、他の人にもそのテーマについて、よく考えてもらう必要があります。

思い巡らさなければ決して分からない壮大なイエス
 壮大なスケールのイエスさまのことも、似た面があります。スケールの大きなイエスさまのことを私は2011年に姫路教会にインターン実習で派遣されて以来、考え続けています。特に最初の何年間かは本当に寝ても覚めても、寝ている間も考えていました。ですから、壮大なスケールのイエスさまについて理解していただけないのは当たり前のことだと最近は思うようになりました。

 そういうわけで、壮大なスケールのイエスさまについて、皆さんにも是非、ご一緒に思いを巡らしてみていただきたいと思います。なぜなら壮大なスケールのイエスさまは大きな重箱の真ん中に位置しているからです。そうして人間サイズのイエスさまの素晴らしい恵みを遥かに上回る、もっと素晴らしい恵みに共に与りたいと思います。

イエスとエリシャを重ねたヨハネ
 それで、きょうは先ずその思い巡らしの第一歩として、イエスさまと預言者エリシャについて思いを巡らしたいと思います。週報p.3にも載せましたが、ヨハネの福音書の記者のヨハネは6章の「五千人の給食」の記事で、パンを「大麦のパン」と書いています。

ヨハネ6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

 パン五つと魚二匹で五千人を満腹にした「五千人の給食」の記事はヨハネだけでなくマタイ・マルコ・ルカも書いています。つまり「五千人の給食」は四つの福音書のすべてに書かれています。しかし、パンを「大麦のパン」と書いたのはヨハネだけです。

 実はヨハネはこの「五千人の給食」の記事を列王記第二4章のエリシャの記事と重ねています。この重なりは有名で、ヨハネ6章9節の脚注(新約聖書p.188)にも列王記第二4章の引照が記されています。ここには列王記第二4章42節と43節とありますね。週報p.3にはスペースの関係で42節だけしか載せていませんが、42節から44節までを、交代で読みましょう(旧約聖書p.656)。

4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。のことばのとおりであった。

 42節の「神の人」というのは預言者のエリシャのことです。このように、このエリシャが大麦のパン二十個と新穀一袋で百人を満腹にした記事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の「五千人の給食」の記事ととても良く似ています。そしてヨハネはパンを「大麦のパン」とすることで、イエスさまとエリシャとを重ねています。

ヨハネはなぜイエスとエリシャとを重ねたのか
 そこで、皆さんに思いを巡らしていただきたいことは、なぜヨハネはイエスさまとエリシャとを重ねたのか、ということです。ここから何が見えて来るでしょうか。是非、ご自分で思いを巡らしてみて、答えを探ってみていただきたいと思います。

 かつて私は、このテーマについて寝ても覚めても考えていました。そうして辿り着いた結論については、きょうは話さないことにします。話したとしても、ご自分で思いを巡らしていただかないことには、決して理解していただけないことが、これまでの経験でよく分かっているからです。

 なぜヨハネがイエスさまと預言者とを重ねたのかというテーマは、大きな重箱の真ん中に位置するテーマです。なぜなら、このことに思いを巡らすなら父・子・聖霊の三位一体の神について、より深く理解できるようになり、究極の平安を得ることへと結びついて行くからです。多くの人がこの究極の平安を得るに至るなら、世界は必ずや平和になることでしょう。それゆえ、これは大きな重箱の真ん中に位置するテーマです。

 イエスさまは新約の時代を開いて下さったお方です。一方のエリシャは旧約の時代の預言者です。ヨハネはどうして、この異なる時代の二人を重ねたのでしょうか。

おわりに
 エリシャはアラムの将軍のナアマンにヨルダン川に身を浸すように言った預言者でもあります。そうしてナアマンの病気が癒されました。エリシャはまた他にも多くの奇跡を行いました。イエスさまもまた病人の病気を癒し、多くの奇跡を行いました。ヨハネはどうして、この二人を重ねたのでしょうか。是非、思いを巡らしてみていただきたいと思います。
 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。
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子どものように神を受け入れる者(2019.4.28 礼拝)

2019-04-29 11:30:29 | 礼拝メッセージ
2019年4月28日礼拝メッセージ
『子どものように神を受け入れる者』
【マルコ10:13~27、Ⅱ列王記5:9~14】

はじめに
 本日は献児式を執り行ったことに合わせて、メッセージのタイトルを『子どものように神を受け入れる者』としました。
 礼拝の始めのほうの聖書交読で開いたマルコ10章15節でイエスさまはおっしゃいました。

マルコ10:15 「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

 ここでイエスさまは「子どものように『神の国』を受け入れる者」とおっしゃいましたが、タイトルでは「『神』を受け入れる者」としました。タイトルを「神の国を受け入れる者」としなかったのは、「神の国」に関する少しややこしい話があるからです。きょうは、そのややこしい話はしないで、単純に『子どものように「神」を受け入れる者』について話をしたいと思います。

神と財産の両方に仕えることはできない
 子どものように神を受け入れる者とは、どのような者でしょうか。そのことを考える上で、聖書交読で読んだ17節以降の、いわゆる「金持ちの青年」の話はとても参考になると思います。今回私自身も初めて気付いたのですが、マルコだけでなくてマタイもルカも、子どもについての記事と金持ちの青年の記事とが連続しています。ということは、子どものように神を受け入れる者と財産とは切り離すことができない関係にあると言えそうです。

 そこで、まず第一に思い浮かぶのは、マタイの福音書の「山上の説教」の中にある、「空の鳥を見なさい」とイエスさまがおっしゃったことです。週報のp.3にも載せましたから、お読みします。

マタイ6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。

 子どもも同じですね。子どもは自分で働いて食べ物を調達しませんが、親が食べ物を与えて養ってくれます。

 イエスさまがマタイ6:26をどういう文脈の中で話したのか、同じく週報p.3に載せた24節、31節、33節を読めばだいたいのことが分かります。お読みします。

マタイ6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。…一方を重んじて他方を軽んじることになります。神と富とに仕えることはできません。

マタイ6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 要するに、食べ物のためにあくせく働いていると神様から心が離れてしまうから、それらは空の鳥や子どもように神様にすべて委ねなさいということです。

 もちろん現実的には、私たちの皆が仕事をしなくなると、たちまち私たちは食べる物に困ることになるでしょう。しかし、心のありようは子どものようでありたいと思います。

 イエスさまは金持ちの青年に対しても、そういうことを分かって欲しかったのだと思います。金持ちの青年はマルコ10章17節でイエスさまに質問しました。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」

するとイエスさまは答えました。少し飛ばして21節、

マルコ10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

 現実問題としては、現代の私たちが自分の持っている物をすべて売り払うことはなかなかできないことだと思います。しかし、自分の持ち物の多くを手離すなら、その分だけ神様の方に目を向けることができるのは事実です。

鍵を持たない生活で気付かされたこと
 例えば私自身の経験で言えば、私は神学校の寮で生活をしていた時には、ドアの鍵を一つも持たない生活をしていました。鍵を持つということは、そのドアの中にある部屋の財産を管理する責任を持つということです。そのことを私は鍵を持たない生活をすることで、初めて気付かされました。

 神学校の寮に入る前、大学に勤めていた時には、私は常時たくさんの鍵を持ち歩いていました。自宅のマンションの鍵、大学の留学生センターの教員室と留学生用のコンピュータ室の鍵、工学部の学生室がある建物の鍵と工学部の私が担当する学部生と大学院生の学生室と実験室の鍵です。実験室には私の研究室専用の電子顕微鏡がありました。そうして、これらの部屋とその中にある機器の管理には常に気を配っていなければなりませんでした。

 留学生用コンピュータ(パソコン約10台)では絶えずトラブルがありました(あまりに管理が大変なのでパソコンが古くなった時点でサービスを止めました)。電子顕微鏡も冷却系でよくトラブルがあってメンテナンスが大変でした。こういうことに絶えず神経をすり減らしていると、神様に目を向けることなど、なかなかできません。

 しかし、神学校の寮では一つの鍵も持ち歩きませんでした。寮の玄関に鍵を掛けるのは日曜日だけだからです。月曜から土曜までは絶えず誰かが寮の中にいました。授業は学年によって時間割が違いますし、若手の先生も住んでいたからです。

 日曜日は皆が寮を離れますから、その時だけは玄関に鍵を掛けましたが、鍵は一つだけで、その鍵を秘密の場所に置いておくことになっていました(今はどうかわかりません)。ですから私は3年間、本当に鍵を持たない生活をしていました。その分だけ神様に目を向ける生活をすることができたと思います。

 今は外出する時には、この教会の玄関の鍵を持って出ます。この教会の財産を管理して運営する責任は私にあります。教会の財産を管理して運営することは祈りとみことばの働きとはまた違いますから、教会の財産と運営に心を向ければ、その分だけ神様に心を向ける時間が少なくなります。イエスさまが金持ちの青年に分かって欲しかったのは、そういうことだと思います。

プライドの厚い鎧を着けていたナアマン
 さて、ここまでは物質的な財産を多く持つ金持ちの青年の話をしました。ここから先は霊的なことに関する話に移ります。きょうの聖書箇所に登場するアラム王の軍の長のナアマンは心に高いプライドを持つ人物でした。財産は処分しようと思えば処分できるかもしれません。しかし、プライドという心の問題は、そう簡単には処分できないやっかいな問題です。プライドが高すぎると神様を心に受け入れることはできません。

 では、きょうの聖書箇所の列王記第二5章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.657)。5章の1節をお読みします。

Ⅱ列王記5:1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、【主】が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。

 ナアマンはツァラアトに冒されていました。ツァラアトという病気がどんな病気か、ハッキリしていませんが重い皮膚病と言われています(ハッキリしないからヘブル語のままの表記の「ツァラアト」です」。途中経過を省きますが、ナアマンは預言者エリシャにツァラアトを治してもらうことになりました。それで9節、

9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。

 この9節からは、ナアマンが軍人としてのプライドが目茶苦茶に高い人だったということが伝わって来ます。エリシャは預言者ですから武力で闘う人ではありません。ですからエリシャの家に戦車でやって来る必要はまったくありません。ここからはナアマンの弱さも垣間見えます。ナアマンは軍人という肩書きなしには生きていけない人だったのでしょう。戦車に乗ってやって来たナアマンは鎧の防具も身に着けていたかもしれません。仮に体に鎧を着けていなくても、心は確実に厚い鎧で武装していました。
 そんなプライドの高いナアマンでしたから、10節にあるようにエリシャが自ら現れずに使いの者を出して「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい」と言って来たことに激怒しました。11節、

11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」

 そうしてナアマンはアラムに帰ろうとしました。

プライドの鎧を脱ぎ捨てて神に喜ばれたナアマン
 しかし、彼の部下たちが言いました。13節、

13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 そうして14節には、こう書いてあります。

14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 この13節のしもべのことばと、14節の冒頭の「そこで」との間に、ナアマンの葛藤がどれぐらいあったことでしょうか。すさまじい葛藤があったと読み取るべきでしょう。エリシャの家の前に戦車で乗り付けたナアマンは、恐らくは彼自身も鎧を着て武装していたことでしょう。その誇り高いナアマンが裸になって、あまりきれいには見えない濁ったヨルダン川に入るまでには、どれほどの心の葛藤があったことか、容易ではなかった筈です。

 しかしナアマンは心に着けていた厚いプライドの鎧を脱ぎ捨てて、心身ともに身も心も裸になってヨルダン川に身を浸しました。

 この裸のナアマンの姿を見て、神様はこうおっしゃったのではないでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21、23)。この週報p.3にも載せた「よくやった。良い忠実なしもべだ」はマタイの福音書25章で五タラントのしもべと二タラントのしもべに主人が言ったことばですが、ナアマンに対しても神様はこのようにおっしゃったのではないかと思います。それゆえナアマンの重い皮膚病は癒されて、幼子のからだのようにきよくなりました。

教会を守るため?プライドを守るため?どちらか分からなくなる
 プライドは脱ぎ捨てたと思っても、すぐにまたまとわり付く、やっかいなものです。再び神学生の時代の私自身の証をしますが、私は一旦はプライドの大半を脱ぎ捨てることができたと思います。神学生になったばかりの頃の私は大学の教員であったというプライドを捨て去ることができずに苦労しました。しかし、やがてはプライドを持たないことに心地良さを覚えるようになりました。プライドを捨てて上の人の言うことに「はい」と答えて、その通りに動きました。

 しかし、牧師になると責任を伴いますから、人の言うことに黙って従うだけでは教会を運営していけません。自分の意見を言うことも時に必要になります。その場合に、その自分の意見が本当に教会を守るための意見なのか、自分のプライドを守るための意見なのか、分からなくなる時があります。だからプライドの問題は、とてもやっかいだと思います。

 詳しい話はしませんが、前任地での教会の合併問題でも、そういうプライドに関わる部分がありました。単純に分類すると、前任地の教会には四つの道がありました。①何としてでも教会を存続させる、②自主的に解散する、③他教会と対等合併する、④他教会に吸収合併される、の4つです。

 紆余曲折があって結局は教会総会で、四番目の他教会に吸収合併される道を全会一致で決議しました。一番目と二番目なら、財産について、自分たちで決めることができました。三番目の対等合併でも、相手方の教会との話し合いはあるものの、自分たちの財産をどうするかを自分たちで決める余地はあります。しかし吸収合併の場合には財産を相手方の教会に全面的に委ねなければなりません。

 最初のうちは自分たちの財産は自分たちで何とかする方法を何とか見出せないか教会の皆さんと随分と議論しました。しかし、財産の処分にはいろいろと難しい問題があることが分かりました。それでも私はあきらめきれずに何とかしたいと思いました。すると教会の幹事会で幹事の皆さんが、「吸収合併で良いですよ」と言って下さいました。そのことばに私は助けられて、それ以上頑張る必要が無くなりました。

プライドから自由になると聞こえて来る神の声
 振り返って見ると、私は自分自身のプライドのために教会を守ろうとしていたのかもしれません。そのプライドのゆえに自分たちの教会の財産は自分たちで処分したいと思っていたのかもしれません。しかし教会の皆さんは、そういうプライドにはこだわらずに「吸収合併で良いですよ」と言って下さいました。そうして私は教会の皆さんに助けられました。教会の皆さんが「吸収合併で良いですよ」と言って下さらなければ、私はいつまでもプライドを捨てられずにいただろうと思います。

 そうして、プライドから自由になった時に聖書のみことばが響いて来ました。それらのみことばは、近いうちにまた、この礼拝で取り上げたいと思います。これらの経験を通して、プライドが神様の声を聞くことの邪魔をすることを私は学びました。神学校では良い学びをさせていただきましたし、合併問題においてもまた、教会の皆さんに助けられたことで神様の声を聞くことができました。

 子どもであってもプライドからは自由になってはいないでしょう。彼らにもまた小さなプライドがあることでしょう。しかし大人に比べればそれらは遥かに小さなものです。ですから子どもは素直に神様を受け入れます。私たちも、子どものように神様を受け入れる者たちでありたいと思います。そうして神様の声を霊的に聞くことができる者たちでありたいと思います。

霊的な聖書読解の七つのレベル別目標(案)
 神様は霊的な存在ですから、神様と交わり、神様の声を聞くには霊的に整えられなければなりません。それゆえ聖書の読み方もまた、霊的なものでなければなりません。これから先、静岡教会で伝道を行っていくに当たって、私は霊的な聖書の読み方をお勧めして行きたいと願っています。それに当たって七つのレベルを案として考えてみました。週報のp.3に、それら七つのレベルの案を載せてみましたから、最後にこの案の説明をして、きょうのメッセージを閉じたいと思います。

 これらは私の経験に基づくものですから、どれぐらいの一般性があるかまだ分かりませんが、キリスト教の初心者に対して霊的に聖書を読むこととはどういうことかを示して興味を持っていただくために、それなりに意味があるのではないかと思います。

 信仰にレベル付けを行うことに疑問を持つ方もおられるかもしれませんが、英語や中国語などの語学では現に初級・中級・上級のレベル別の教育が為されていて、上のレベルに進むことを励みとして学ぶ意欲も高まります。それゆえ聖書の読解においても、このようなレベル別の指針を示すことで聖書を読む励みにしていただければと思います。

《霊的な聖書読解の、レベル別目標(案)》
①入門レベル:自分の守護神は聖書の神であったと気付き、真理の探求を始める。
②初級レベル:全知全能の神である天の御父の愛が何となく分かるようになる。
③初中級レベル:人として生まれたイエスが神の子キリスト(救い主)だと分かる。
④中級レベル:人間(及び自分)の罪と十字架との関係、聖霊の働きが分かる。
⑤中上級レベル:自分は「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26他)だと時空を超えて自覚する。
⑥上級レベル: 御父また御子との交わりに大きな喜びを感じる(Ⅰヨハネ1:3~4)。
⑦超上級レベル:永遠の中にいる父・子・聖霊と一体になり、真の平安・平和に至る。


 ①の入門レベルでは「守護神」という言葉を使ってみました。キリスト教では「守護神」という言葉は使いませんが、伝道対象の入門レベルの方には「守護神」という言葉の方が身近に感じていただけるのではないかと思いました。霊的な読解では、自分を守っていたのは聖書の神であったと気付くことがとても重要ではないかと思います。この気付きが無いと、どんなに聖書知識があったとしても「霊的な読解」という意味では、いつまで経っても入門レベルに達しないということになるのではないかと思います。

 ②の初級レベルにはイエスさまではなくて天の御父を挙げてみました。日本人にとってはイエスさまよりも天の御父のほうが、より近い存在として感じるのではないかという気がします。ただし、これは年齢にもよると思います。子どもにとってはイエスさまのほうが御父よりも身近に感じるかもしれません。しかし大人にとっては天の御父のほうがイエスさまよりも身近に感じるのではないかと思います。この初級レベルでは、御父の愛が「何となく」分かる程度で良いのではないかと思います。

 そうして③と④の初中級と中級レベルで初めてキリスト教の核心に迫ることになります。初中級でイエスさまは神の子キリストと分かって、それを信じるなら人は聖霊を受けます。聖霊を受けて初めて人間の罪、そして自分の罪の深さが分かるのではないでしょうか。聖霊を受けない間は十字架のことは難しくてなかなか分かりません。そして、聖霊を受けると聖霊の働きのことも段々と分かるようになります。これが中級レベルではないかなと私は考えます。

 インマヌエルが大切にしている、きよめの信仰も、中級レベルではないかという気がしています。ですから私たちは、さらにもっと上のレベルを目指すべきだというのが私の考えです。それが中上級のレベルであり、上級のレベルであり、超上級のレベルです。

 誤解を与えないように予め言っておきますが、私自身はせいぜい中級レベルで、それより上のレベルに達しているわけではありません。しかし、その上のレベルがどういうものかは想像できます。

平和実現のために必要な中級より上のレベル
 ⑤の中上級のレベルは、自分は「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26他)だと時空を超えて自覚できることとしました。「イエスの愛弟子」とはヨハネの福音書に登場する「イエスが愛された弟子」のことです。この弟子が最初に登場するのは最後の晩餐の場面で、次に登場するのは十字架の場面です。その十字架の場面のヨハネ19章26節を週報p.3に載せました。お読みします。

ヨハネ19:26 (十字架に掛かっている)イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。

 この愛する弟子、すなわち「イエスの愛弟子」はイエスさまの十字架のすぐそばにいました。霊的な読解の中上級では、この「イエスの愛弟子」とは自分のことだと自覚できるようになれたら良いなと思います。

 そうして、「イエスの愛弟子」とは1世紀の人物のことだけではなく、読者である私たち自身のことでもあると感じたいと思います。そのためには時空を超えて1世紀の世界に入る必要があります。私たちの肉体は時間に縛られていますから、肉の体は1世紀に戻ることはできません。しかし、霊的には可能です。

 そしてヨハネ21章24節の弟子もまた自分のことであると感じるようになるでしょう。これも週報p.3に載せましたから、お読みします。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 霊的なレベルが上がるなら、ヨハネの福音書は1世紀のことを書いただけでなく、21世紀の私たちのこともまた描かれていると感じることができるようになるでしょう。そのように霊的な読解レベルが上がって行くのなら⑥の上級にあるように御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられて、大きな喜びを感じるでしょう。

 そして⑦の超上級に至るなら、永遠の中にいる父・子・聖霊と一体になり、真の平安・平和に至るでしょう。繰り返しますが私はせいぜい中級レベルで、それより上のレベルに達しているわけではありません。しかし、目指すべき高いレベルがあることは分かります。

 なぜ分かるようになったのか、私自身にも分かりませんが、たぶん私が平和の働きのために召し出されたからだろうと思います。ですから私は未だ中級レベルですが、多くの方々と共に上のレベルを目指したいと思います。そうして超上級レベルの人が増えるなら、世界は平和になることでしょう。

おわりに
 きょうは子どもの話から始めて、最後は少し難しい話になってしまったかもしれませんが、私たちが目指すべきは霊的なレベルを上げることだということが分かっていただければ幸いです。そのためには、まずは子どものように神を受け入れる者でなければなりません。自力で頑張らず、財産にも執着せず、そしてプライドを脱ぎ捨てるなら霊的に神様と共に歩むことができ、霊的に成長して行くことができるでしょう。

 これらのことに思いを巡らしながら、しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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復活は信仰の扇の要(2019.4.21 イースター礼拝)

2019-04-22 06:57:27 | 礼拝メッセージ
2019年4月21日イースター礼拝メッセージ
『復活は信仰の扇の要』
【Ⅰコリント15:1~20】

はじめに
 きょうはイースター聖日です。イースターは十字架で死んだイエスさまがよみがえったことをお祝いする日です。私が50年前の小学生の時に2年間住んでいたニューヨークでは盛大なイースター・パレードが行われていました。小学生の時、私は安東三丁目にある安東小学校に通っていましたが、小学1年生の途中から3年生の途中までの2年間は父の仕事の関係でアメリカのニューヨークに住んでいました。



 週報のp.2に載せた写真は、その時に家族でパレードを観に行った時のものです。当時のアメリカでは、このように盛大にイースターが祝われていました。ただしイースターはキリスト教のお祭りですから、現代では他の宗教に配慮して、ここまで大掛かりなパレードは行っていないようです。

 イースターはこのように盛大なパレードを行うほどに喜ばしく重要な行事です。何故それほどまでにイースターが重要なのかを、きょうはご一緒に考えたいと思います。

復活は、信仰の扇の要
 なぜイースターが重要なのか、一言で言えば今日のタイトルにあるように「復活は信仰の扇の要」だからですね。「扇の要」というのは扇子の骨を束ねている大元の止め金具のことで、この金具がなければ扇子の骨はバラバラになってしまいます。

 キリスト教の信仰も「復活」という止め金具によってすべてが一つに束ねられています。復活を信じれば聖書の記述のすべてを受け入れることができますし、復活を信じないなら、聖書の記述のあちこちが怪しげなものとしてしか目に写らないでしょう。聖書は旧約聖書に39巻と新約聖書に27巻、併せて66巻が収録されていますが、一つの書とされています。聖書が一つの書であるのは扇の要であるイエス・キリストの復活があるからで、復活がなければ66巻はバラバラの書となってしまいます。

 クリスチャンがどうしてイエス・キリストの復活を信じることができるのか、それは新約聖書がイエスさまの復活をいろいろな箇所で証言しているからですね。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書が証言していますし、使徒の働きやパウロの手紙もイエスさまの復活を証言していますね。きょうの後半は、それらの中からパウロが書いたコリント人への手紙15章を開くことにします。

なぜ復活が信仰の「扇の要」なのか
 その前に今日の前半は、イエス・キリストの復活を信じることがなぜ信仰の「扇の要」なのかを、改めて考えてみたいと思います。

 初めて聖書を読む方々の目線で見るなら、聖書の内容は「そんなこと信じられないよ」と感じる記述に溢れていると言えるでしょう。特に神様が行った奇跡の数々は、そうですね。旧約聖書の有名な奇跡を挙げるなら、モーセの時代にエジプトを脱出したイスラエル人たちが、海水が割れて通れるようになった海の底を歩いて行く場面などは、その一つと言えるでしょう。

 旧約聖書の出エジプト記には、この他にも神様がナイル川の水を血に変えたり、荒野を行くイスラエル人のために食べ物を天から降らせたりなど、現代人の目から見たら、そんなのただの作り話じゃないの?と思えるような奇跡の記事がたくさんあります。旧約の時代はイエスさまの時代よりもずっと昔の時代ですから、それが本当にあったことなのか、一般の人々の目から見れば作り話にしか見えないでしょう。

 しかし、クリスチャンは旧約聖書の奇跡の記事も信じます。クリスチャンにもいろいろいますが、少なくとも私たちの群れのように「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰を持つ福音派のクリスチャンは信じます。なぜ旧約聖書の記述までも信じることができるかと言えば、それは私たちがイエスさまの復活を信じているからですね。

 死人がよみがえることなど普通では有り得ないことです。しかし、全知全能の神様なら死人をよみがえらせることが可能です。この、全知全能の神様は死人をもよみがえらせることができるという一点を信じるなら、後はすべての奇跡を信じることができるはずです。全知全能の神様に不可能なことはないからです。

 イエス・キリストの復活は多くの人々が証言しています。それらの証言を信じるか信じないかは、個人の自由ですが、新約聖書を丹念に読むならこれらの証言を疑うべきではないという結論に導かれるはずです。もちろん疑う自由はあります。しかし復活の証言を信じないなら聖書の記述のほとんどが怪しげなものになるでしょう。聖書は怪しげな書であると考えることは、とても悲しいことだと思います。

イエスを復活させた神は、人間の命を造った神
 この新約聖書の証言は、後でご一緒に見ることにして、もう少し旧約聖書の話をします。旧約聖書の創世記によれば、神様は天地を創造して、その後に地上に植物や動物、そして人間を造りました。つまり神様は生命を造りました。生命は偶然によって誕生したものではなく、神様がお造りになったことを信じることは、信仰においては何よりも重要です。神様は人間の命を造ったお方であると同時に、時には命を取り去るお方でもあります。旧約聖書には、戒めに従わなかった者たちの命を神様が取り去った記事が随所にあります。もし人の命が神様によって与えられたものでないのなら、人の命を取り去る神様はひどい方だということになるかもしれません。しかし人の命は神様が与えたものですから、神様の戒めに従わなかった者の命を神様が取り去ったとしても、それは仕方のないことだと言えるでしょう。

 さてしかし、神様が実際に人の命を造ったところを見た人は誰もいません。誰も見ていないのに人の命は神様が与えたものだと信じることができるのは、イエス・キリストの復活があったからです。死んだイエスさまをよみがえらせることができる神様なら、人の命を造ることもまたできます。そのイエスさまの復活を多くの人々が証言しています。

多くの人々が証言しているイエス・キリストの復活
 では、まず聖書交読で読んだ第一コリント15章の始めの方から見ていきましょう。3節から見て行きます。3節でパウロはコリント人への手紙で「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、・・・次のことです」と書いて、復活したイエスさまが多くの人々の前に現れたことを記しています。そして復活したイエスさまはパウロ自身にも現れたことを書いています。

 ここでパウロが「最も大切なこと」と書いたことに注目する必要があります。その最も大切なこととは「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」です。特に復活したイエスさまが多くの人々の前に現れたことを多く書いていますから、このイエスさまの復活は「最も大切なこと」の中でも格別に大切なことであると言えるでしょう。まさに復活は、信仰の「扇の要」です。

 そして5節でパウロは復活したイエスさまがケファ、すなわちペテロに現れ、それから十二弟子に現れたと書いています。これらは福音書でも証言されていますね。

 次に6節でパウロは、「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」と書いています。このことは福音書には書いてありません。このコリント人への手紙だけに書いてあります。五百人以上に同時に現れたとうのはすごいですね。どういう状況だったのでしょうか。しかも、大多数はまだ生きているということです。

 この手紙はイエスさまの復活から約20年後ぐらいに書かれたものです。20年ぐらい前のことなら、私たちもよく覚えていますね。しかも、今なお生き残っているというのですから、パウロが嘘を書いていると疑うことはできません。十二弟子の前に現れたというなら、集団で幻想を見たとすることも可能かもしれませんが、五百人が集団で幻想を見ることなどできるでしょうか。できないでしょう。

 続いて7節でイエスさまがヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れたと書いたのちに、8節から10節に掛けては、パウロ自身の前にイエスさまが現れたことを書いています。

パウロの人生を180度変えたイエスとの出会い
 私は、このパウロ自身が復活したイエスさまに出会ったという証言をことのほか重要であると考えています。パウロがイエスさまに出会った状況はルカも使徒の働きの中で詳しく書いていますね。そして、この第一コリントでパウロ自身も書いているように、復活したイエスさまに出会う前のパウロはクリスチャンを迫害している側の人間でした。しかし、復活したイエスさまに出会ったパウロは変えられて、今度はイエス・キリストを宣べ伝える側の人間になりました。

 人の人生が180度の方向転換をして劇的に変わるなどということは、「よほどの事」がない限り、有り得ないことです。パウロに、その「よほどの事」が起きたのでした。それが何だったかと言えば、彼が復活したイエスさまと出会ったということ以外には考えられないでしょう。パウロの人生が180度変わったのは事実ですから、パウロが復活したイエスさまと出会ったこともまた事実であると考えなければなりません。

 変えられたのはパウロだけではありません。ペテロもまた大きく変えられました。ペテロはイエスさまが逮捕された時に、イエスさまのことを三度「知らない」と言いました。こんな情けないペテロでしたが、復活したイエスさまと出会い、そして聖霊を受けたことで大きく変えられて、ペンテコステの日には人々の前で堂々と説教をするほどの劇的な変化を見せました。これもまた、よほどのことがなければ有り得ないことです。そのよほどのことが、ペテロの場合もまた復活したイエスさまと出会ったことですね。

 これらのことは聖書に書いてあることだけでなく、私たちの時代にもあることですね。前任の戸塚先生も最初は聖書を批判する側の人であったそうですね。わざわざ教会まで批判をしに出掛けて行ったというお証を聞いたことがあります。それが逆にイエスさまに捕らえられてイエスさまを宣べ伝える側の者とされたのですから、戸塚先生もパウロと同じですね。

 私の場合は少し違いますが、やはり最初の頃はキリスト教を怪しげな宗教と見ていた時期がありました。それが今は牧師をしています。まさか自分が牧師になろうとは、当時の私からすれば信じられないことです。ですから、私もまたイエス・キリストと出会ったことで人生が大きく変えられた者の一人です。そのような者たちは、この二千年間に無数にいます。

 このように復活したイエス・キリストが人々の前に現れたことが新約聖書の中で証言されていること、また復活したイエスさまとの出会いによってパウロやペテロが大きく変えられたこと、さらに現代に至るまで多くの者たちが変えられたことを見れば、イエスさまが復活したことは疑いようのないことです。

私たちは一番哀れな者か?
 しかし私たちは弱いですから、時には信仰が揺らぐこともあるかもしれません。そこで、皆さんの参考になるかどうかは分かりませんが、第一コリント15章の続きにある、私にとってとても大切なみことばについてのお証をしたいと思います。その聖句とは、第一コリント15章19節です。

15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

 どういう状況で、この19節が書かれたのかが分かるように、聖書箇所はその前の12節からにしてあります。12節を見ると、コリント人たちの中に「死者の復活はない」と言う人たちがいたということです。それに対してパウロは書きます。13節と14節、

15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

 イエスさまの復活がなかったなら私たちの宣教も信仰も空しいとパウロは書いています。そして19節によれば、私たちはすべての人の中で一番哀れな者だということになります。このみことばに私は神学生の1年生の時に励まされました。10年前の2009年の1月か2月の頃のことでした。当時、私は神学校の神学生の1年生の終わりの頃でした。この半年後の2009年の7月の夏季実習の時に私は皆さんと沼津教会を訪れたのですが、それより半年ほど前の2009年の1月か2月、この第一コリント15章19節に私はとても励まされました。

苦労した時の証し
 この神学生1年生の冬が私にとっては一番つらい時期でした。まだ1年生で神学生生活にも十分には慣れておらず、また神学校の寮は寒かったので体にこたえました。しかし、何よりもつらかったのは当時の神学校の規則がまだとても厳しかったことです。2年生の時に少しゆるくなりましたが、1年生の時は昔とあまり変わらない厳しさでした(ちなみに現在はこれらの規則はなく、神学生は自律した生活をしています)。

 1年生の時の厳しい規則の中での生活でさらに大変だったのは、私の日曜日の実習先の教会が神学校と同じキャンパス内にある教会だったことです。つまり月曜から土曜までだけでなく日曜日もずっと神学校のキャンパスの中にいなければなりませんでした。キャンパスの外を散歩することぐらいは許されていましたが、電車に乗ってどこかに行くには外出許可を取らなければなりませんでした。これは本当につらかったです。それまで自由に暮らしていた49歳のおじさんが、電車に乗るのにいちいち寮監の先生の許可が要るのです。しかも許可されるとは限りません。

 せめてキャンパスの外の教会が実習先であれば週に1回は電車に乗ることができますが、それもできませんでしたから、しんどかったです。後から考えれば、この外出できない生活によって私の霊性が磨かれていったと思いますから、これはプラスになる経験でした。しかし、当時の私にはやはりつらくて、悶々としていました。

 そんな風に過ごしていた2009年の1月か2月、インターネットを見ていたら、映画ファンの仲間の新年会の写真がありました。この新年会はとても楽しい会で、私も前の年までは参加していたのでした。そして、その写真を見ながら思いました。神学校の外では、映画ファンの仲間たちがこんなにも楽しい新年会をしているのに、私は神学校の中で外出も自由に出来ずに悶々としている。もし、これでキリストの復活がなかったとしたら、まさに「私はすべての人の中で一番哀れな者」だ。しかし、復活はあったのだから私は哀れではない。つらいけれど哀れではない。復活がなかったのなら哀れだけれど、復活はあったのだ。こうして私は、このみことばに励まされました。

パウロが遭った難の数々
 パウロは私などより、もっとずっとつらい目に遭っていました。第二コリント11章23節の途中から27節までを週報のp.3に貼り付けておきましたから、お読みします。

11:23 労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

 もし、キリストの復活がなかったとしたら、パウロは何のためにこんな大変な目に遭ったか分からなくなりますね。キリストの復活が無かったのに、こんなに大変な目に遭っていたとしたら、パウロはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、パウロはダマスコに行く途上で復活したイエスさまに出会い、人生を180度変えられました。ですから、どんな大変な目に遭ってもイエス・キリストを宣べ伝えました。

 私の経験などパウロに比べれば恥ずかしいほど小さなことですが、それでも私にとってはつらい経験でした。しかし私もパウロのようにイエス・キリストを宣べ伝える者に作り変えられたいと願うことで、神学生1年生の時のつらい生活を乗り切ることができました。このパウロの第一コリント15章19節のことばがありましたから、イエスさまの復活があったと強い確信が与えられ、どんな大変な目に遭ったとしても自分は少しも哀れな者ではないと思って神学校での学びを続けることができましたから感謝でした。
 
おわりに
 きょうは「復活は信仰の扇の要」というタイトルで話をしました。イエス・キリストが復活したことは、私たちも同じ様に復活する希望があるという点で、とても重要です。しかし、復活が持つ意味はそれだけではありません。イエス・キリストの復活を信じなければ信仰はバラバラになります。イエス・キリストの復活があったことは、多くの人々が証言していることですから、信じるべきものです。

 もしイエスさまの復活を信じないなら、神様が私たち人間の命を造ったことも信じることができません。神様が私たちの命を造ったのではなく、生命の誕生がまったくの偶然によるものなら、私たちが神様のことばを聞くべき理由はありません。神様が私たちに命じることは、神様が私たちに命を与えて下さったお方であるがゆえに、必ず守らなければなりません。

 このように、復活を信じるなら、復活が「扇の要」になって信仰のすべてが一つにまとまります。しかし、復活を信じないならバラバラの信仰しか持てません。聖書の66巻もバラバラになってまとまりがなくなり、聖書のどこを信じたら良いのかも分からなくなります。

 イエス・キリストの復活を信じることが、いかに大切なことであるかを、お分かりいただけましたでしょうか。しばらく一人一人で思いを巡らす時を持ちたいと思います。
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後で分かるようになります(2019.4.14 棕櫚の聖日礼拝)

2019-04-15 09:02:28 | 礼拝メッセージ
2019年4月14日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『後で分かるようになります』
【ヨハネ13:1~7】

はじめに
 きょうはパーム・サンデー、棕櫚の聖日です。北のガリラヤ地方から南に向かって旅を続けて来たイエスさまは、この日、ユダヤの都のエルサレムに入京しました。この週の金曜日にはイエスさまは十字架に掛かって死にます。イエスさまはこのことをご存知でしたから、壮絶な覚悟を持ってエルサレムの都に入りました。
 イエスさまのご覚悟の壮絶さには比べるべくもありませんが、私もまた静岡県の東部の沼津から、静岡県の県庁所在地、すなわち県の都である静岡市に、それなりの覚悟を持ってやって参りました。きょうは私が着任してから初めて礼拝メッセージを取り次ぎます。その初めての礼拝メッセージの日が棕櫚の聖日であることを不思議に感じるとともに、とても感謝に思っています。

強いつながりがある静岡教会と沼津教会
 きょうのヨハネ13章1~7節とメッセージの『後で分かるようになります』は、実は2週間前の3/31の沼津教会の最終礼拝での聖書箇所とタイトルと、まったく同じものです。ただしメッセージの内容はかなり違うものにしています。聖書箇所とタイトルとを2週間前と同じにしたのは、私の中では沼津教会と静岡教会とが強いつながりで結ばれていると感じているからです。それが、どのようなつながりなのか、実は私の中でも漠然としていましたから、メッセージの準備をする中で思いを巡らし、それがハッキリして来ると良いなという期待感がありました。そして、それを明らかにすることが、これから静岡の皆さんと共に伝道の働きをして行く上で、とても役に立つのではないか、そのように思って沼津教会の最終礼拝と静岡教会の私の最初の礼拝メッセージとを同じものにさせていただきました。
 私が経験した静岡教会と沼津教会との強いつながりの最初は、10年前の2009年の7月にあった沼津教会での午後の特別集会でした。当時私は聖宣神学院の神学生の2年生で、7月の第2週から9月の第1週までの2ヶ月の夏期実習の期間を、この静岡教会で過ごさせていただきました。大岩にあった静岡の実家からの通いでしたから泊り込みではありませんでしたが、当時の牧師の高桑先生ご夫妻の下で早天、祈り会、礼拝に参加し、メッセージも何度か担当させていただき、また会堂のリフォームのお手伝い等もしました。この2009年の夏期実習の最初の頃の日曜日の午後に沼津教会で特別集会があり、高桑先生が講師として招かれていましたから、静岡教会の皆さんと何台かの車に相乗りして大挙して出掛けて行きましたね。沼津の小さな会堂に人が入り切れないぐらい集まり、エアコンも効かなくて暑い中で熱気に満ちた集会となったことを、よく覚えています。
 後から考えると、この10年前の沼津教会での特別集会に私が参加したことは、4年後に私が沼津教会の牧師として赴任することの備えになっていたことが分かりました。そして、今考えてみると、10年後のこの4月に私が沼津から静岡に来たことの備えにもなっていたようにも思います。多分もう少し時間が経てば、それがよりハッキリと分かって来るだろうと思います。それが、きょうのタイトルでもある「後で分かるようになります」ということにもつながって来ます。

イエスは駿河湾よりも深い愛を持つお方
 ここで、きょうの聖書箇所をもう一度、今度は皆さんと交代で読むことにしたいと思います。ヨハネの福音書13章の1節から7節までです。

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。

 このイエスさまが弟子たちの足を洗った出来事はエルサレムに入京してから4日後の木曜日の最後の晩餐での出来事です。1節の終わりに、「イエスは、彼らを最後まで愛された」とあります。彼らというのは弟子たちのことです。そして、「最後まで」という所に星印がありますから、ページの下にある脚注を見ると、「最後まで」は「極みまで」とも訳せることが書いてあります。この部分を新改訳聖書の第3版では「イエスは、その愛を残るところなく示された」と訳していましたね。或いはまたリビングバイブルでは、「イエスは弟子たちを最後まで徹底的に愛しとおされました」としています。
 いずれにしましても、ここにはイエスさまの莫大で圧倒的な愛が弟子たちに注がれていたことが分かります。神様としてのイエスさまは富士山よりも大きなお方で、イエスさまの愛は駿河湾よりも深い愛です。ご承知のように富士山は日本一高い山で、駿河湾は日本一深い湾です。静岡に住む私たちは、そのことを良く知っています。そしてイエスさまは人間であると同時に神様でもありますから、富士山よりも大きなお方であり、駿河湾よりも深い愛を持つお方です。

人間サイズのイエスさまと宇宙スケールのイエスさま
 ここで、これからの私の説教にある程度慣れていただくために、私の説教の傾向を話しておきたいと思います。皆さんに違和感を与えないために、なるべく分かりやすい話を心掛けたいと思いますが、なかなか変えられない私の説教の傾向がありますから、そのことをお伝えしておきたいと思います(この私の傾向は静岡の皆さんの反応を見ながら、増減を調整したいと思います)。
 それは、私の場合はどうしても神様としてのイエスさまを語りたがるという傾向です。イエスさまは人間であると同時に神様でもあり、大半の牧師先生は人間としてのイエスさまを語ることが多いと思います。しかし私は神様としてのイエスさまを語ることが多いです。人間としてのイエスさまは人間サイズですが、神様としてのイエスさまは時空を超えた宇宙スケールのお方です。
 教会では私ももっと人間サイズのイエスさまのことを語るべきであろうと私自身もよく感じます。人間のイエスさまは人間サイズであるからこそ、小さな私たちの悲しみや苦しみをよくご存知です。そうして私たちに寄り添って下さり、慰め、励まし、生きる力を与えて下さいます。このように人間サイズのイエスさまは素晴らしいお方です。また人類の、つまり私たちの罪のためにイエスさまが十字架に掛かったことを理解することは、とても重要なことです。このイエスさまの十字架の苦しみはイエスさまが人間であればこそのことです。
 では、そのような人間サイズのイエスさまの重要性を分かっていながら、どうして私は神様としての宇宙スケールのイエスさまを語りたがるのか。それは私が平和の働きをするために牧師に召し出されたからです。キリスト教が誕生してからのこの二千年間の人類の歴史を見渡すなら、絶えず戦争がありました。ですから、人間サイズのイエスさまは残念ながら世界の平和のためにそれほど大きな貢献をして来なかったのではないかと感じます。戦争で苦しむ人々に寄り添う人間のイエスさまがいらっしゃることは大きな慰めですが、戦争が絶えない世界から平和な世界へと変える力が人間サイズのイエスさまには十分にはないと言わざるを得ないと感じます。しかし、神様としての宇宙スケールのイエスさまは全知全能の天の父と一つですから、世界を変える大きな力を持っています。

地球を外から眺めることの平和への大きな貢献
 世界では今でも紛争が絶えませんが、幸いにして1945年に第二次世界大戦が終了してからは世界規模の大戦は起きていません。相変わらず争いが絶えないとは言え、世界は少しは平和になっているようです。それは何故でしょうか。一つの見方としては、核兵器が開発されたことで抑止力として働いているというものもあるかもしれません。しかし私が考える平和の理由は、宇宙ロケットの開発によって人類が宇宙空間に飛び出すことができるようになり、地球を外から眺めることができるようになったからではないか、ということです。1961年に人類はガガーリンを乗せたソ連のボストーク1号によって初めて有人宇宙飛行を成功させました。また、1968年にはアメリカのアポロ8号が人類で初めて地球の重力圏を離脱して月の重力圏に到達して月の周りを周回して地球に戻って来ました。その翌年の1969年にアポロ11号が月に着陸したことは、皆さんご存知の通りです。少し前まで、全国の映画館でアポロ11号の船長のニール・アームストロングを主人公にした映画『ファースト・マン』が上映されていましたから、私も沼津の映画館で観て来て、大変に感銘を受けました。「ファースト・マン」というのは、「人類で最初に月面に降りた男」という意味です。
 このアポロ11号が成し遂げた仕事が大きいことはもちろんですが、その前年の1968年にアポロ8号がした仕事もアポロ11号がした仕事に負けず劣らず大きなものでした。アポロ8号が月の周りを回って月の裏側から表側に出る時、月の地平線から地球が昇るのが見えましたから、乗組員はその写真を撮りました。その写真は「アースライズ Earthrise」と名付けられて、とても有名な写真になりました。太陽が昇るSunriseではなくて、地球が昇るのでEarthriseというわけですね。


Earthrise(NASAホームページ www.nasa.gov より)

 このアポロ8号の乗組員によるEarthriseの写真は、地球が小さな星であることを人類に教え、「宇宙船地球号」という新しい概念を目に見える形で示しました。人類は皆、宇宙船地球号という一つの船に乗船している者たちです。このことが世界を平和へと導いている役割は甚だ大きいと私は考えています。宇宙船地球号の考え方は環境問題に大きな役割を果たしたと言われていますが、私はそれに負けず劣らず平和の働きにも大きく貢献したと考えます。一方、人間サイズのイエスさまを多く語って来たキリスト教が平和に貢献している度合いは残念ながら宇宙船地球号よりも小さいと言わざるを得ないと思います。
 しかしながら、たとえばヨハネの福音書を読めば、実は2千年も前からヨハネは宇宙スケールの神様としてのイエスさまを語っていたことが分かります。この宇宙スケールのイエスさまへの理解を多くの人々が深めることができるなら、アポロ8号のEarthriseの写真が世界を変えた以上の平和のための働きができると私は信じています。きょうは、このことにはこれ以上触れませんが、皆さんに少しずつ神様としての大きなスケールのイエスさまに慣れていっていただいて、いずれは話したいと願っています。

昨日も今日も、とこしえに変わらないイエス・キリスト
 いま話したような理由で、宇宙スケールのイエスさまにもっと多くの人々が目を向けるようになることで世界はもっと平和へと向かって行くと私は信じています。ガガーリンが宇宙飛行を成し遂げた1961年以前まではキリスト教が人間サイズのイエスさまを重視したのは仕方がなかったと思います。1世紀から2世紀に掛けては人間としてのイエス・キリストは実在しなかったという異端の教え(例えば仮現論)も横行しましたから、それらの異端を排斥するためにも人間としてのイエスさまを強調せざるを得なかったという事情もあったかもしれません。しかし、人類がロケットで宇宙に飛び出して行けるようになった現代においては、神様としての宇宙スケールのイエスさまにも私たちはもっと目を向けるべきだと思います。
 きょうの聖書箇所とメッセージのタイトルを3/31の沼津教会の最終礼拝のものと同じにしたのも、時間と空間を越えた神様としてのイエスさまのことを共に分かち合いたいと願ったからです。週報のp.3にヘブル人への手紙13章8節を載せておきましたから、これをご一緒に読みましょう。

ヘブル 13:8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

 イエス・キリストは4/14の今日も、2週間前の3/31も変わることがありません。わずか2週間で変わるはずもありませんが、10年前に私たちが沼津教会の特別集会に行った時ともイエス・キリストは変わっていません。私たちは10年分の歳を取りましたが、イエス・キリストは変わりません。そしてイエスさまは2千年前からも変わっていませんし、それだけでなく神様としてのイエスさまは宇宙を創造する前の初めの時から変わっていません。同じく週報のp.3にヨハネの福音書の1章1節を載せておきましたから、こちらもご一緒に読みましょう。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 「ことば」というのは、神様としてのイエスさまのことですね。そして、「初めに」というのは、神様がまだ宇宙を創造する前の初めの時のことです。神様としてのイエスさまは、この頃から変わっていません。この永遠の中にいるイエスさまに心を寄せることで私たちは心の平安を得ることができます。人間の私たちは時が経てば、それだけ年を取って老いて行きます。今年が還暦の年の私は今59歳ですが、10年前に皆さんと一緒に沼津教会に行った時の神学生の私は49歳で、まだ50代になる前でした。本当に時の流れの速さを感じます。この時の流れに流されていると、人は大きな不安を感じます。しかし、永遠の中にいるイエスさまと出会うことで、心の大きな平安を得ることができます。イエスさまに出会う前には分からないことですが、イエスさまに出会った後に、そのことが分かるようになります。きょうの中心聖句の「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」には、そういうことも含まれています。
 この聖書箇所は、狭い意味ではイエスさまが弟子たちの足を洗ったことの意味が、今は分からなくても、後で分かるようになるということです。しかし、もっと解釈を広げるなら、イエスさまが私たちにして下さったことのすべてに当てはまります。

たどりつくべき場所に導かれて平安を得た私
 きょうは最後に、私が高津教会に通うようになってから分かるようになったことのお証しをして、メッセージを締めくくりたいと思います。
 私が初めて川崎市の高津区にある高津教会を訪れたのは約18年前の2001年の8月12日でした。どういう経緯で高津教会を訪れることになったかについては、きょうは省きます。
 さて、高津教会に通うようになった2001年よりも前の私は、いつも漠然とした不安を抱えていました。自分には精神的な支柱が無いような気がしていて、それが不安の原因のように感じていましたから、精神的な支柱を求めていました。それで色々と本を読み漁ったりもしましたが、「これだ」と思うものに出会うことができないでいましたから、いつも不安の中を生きていました。
 ただし、そういう不安を抱えているにも関わらず、自分はいつも守られているという感覚もまたありました。自分が誰によって守られているのかは分からないけれど、自分が危険な方向に向かおうとすると修正する力が働いて、道をはずれないように誰かが守っていると感じていました。大学1年生の時には交通事故に遭って救急車で運ばれたこともありましたし、やはり同じ大学1年生の時にはアパートの向かいの部屋でガス爆発の事故がありましたが、守られました。また、大学の学部生の時も大学院に進んだ時にも大学をやめようと思ったこともありましたが、危ういところで復帰して大学を卒業することができ、大学院で学位を取ることもできました。或いはまた、名古屋の大学の助手を辞めて日本語教師を目指した時も、日本語教師で食べて行くことは難しいことを知らずに目指していたのですが、幸運にも東京の大学の留学生センターの教員になることができました。これらの幸運が多くありましたから、自分は誰かに守られているという感覚がありました。しかし、守ってくれているのが誰なのかは分かりませんでした。神道の神様なのか、仏教の仏様なのか、或いはご先祖様の霊なのか、いろいろと思い巡らしていましたが、どの存在も自分を守っていてくれているようでもありし、そうでもないようでもあって確信が持てないでいました。当時の私にとっては聖書に書いてある全知全能の神様のことは全くの想定外のことでしたから、自分を守ってくれている存在として思い浮かべることはありませんでした。
 それが2001年の8月12日に初めて、住んでいたアパートの近くにあった高津教会に不思議な導きで訪れ、引き続き何週間か通ううちに、こここそが自分がたどり着くべき場所だったのだと気づき、それを確信しました。そして、自分の精神的な支柱になるべきものは聖書であることも確信し、そしてそれまでの自分は聖書に記されている神様に守られていたのだと確信するに至りました。初めて高津教会を訪れてからほんの数週間の間に私はそれらを確信して、それまで長い間に亘ってモヤモヤとしていたものが、全部すっきりと無くなって心の平安を得ることができました。精神的な支柱と自分を守ってくれている存在とは別々のものとして考えていましたが、それらが一つであることが分かって心の大きな平安を得たのでした。
 後になって考えるとイエスさまはずっと私をこのたどり着くべき場所に導いていて下さったのだと分かるようになりました。そのことが以前は分からないでいましたが、後で分かるようになりました。そういうわけで、私は高津教会が自分の人生のゴールだとその時は確信しましたから、高津教会の近くの新築のマンションを購入することにして、そこを終の住処と思い定めました。そうして私の生涯は高津で全うすることになるのだろうと思っていたところ、牧師として召し出されてマンションを売却して、こうして還暦の年に故郷の静岡に戻って来ることになりましたから、自分のこれからのことは本当に分からないものだなと思います。しかし、永遠の中にいるイエスさまが「後で分かるようになります」とおっしゃって下さっていますから、不安はありません。私に不安がないのはヘブル人への手紙の記者が書いているように、永遠の中にいるイエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがないからです。

おわりに
 イエス・キリストが変わることがないのは、イエスさまが永遠の中にいる神様だからです。そのイエスさまが現代の私たちに寄り添っていて下さり、声を掛けていて下さいますから、私たちは心の平安を得ることができます。
 これから私はこの静岡教会で、このイエスさまが与えて下さる心の大きな平安を皆さんと分かち合っていきたいと願っています。いま教会にいる皆さんとだけでなく、まだイエスさまを知らない地域の方々とも分かち合っていきたいと願っています。まだたどり着くべき場所にたどり着いていない方々がたくさんいらっしゃいます。それらの方々に教会に来ていただいて、かつての私のように、こここそが自分がたどり着くべき場所だったのだと実感していただきたいと思います。そうしてイエスさまが与えて下さる平安を共に分かち合いたいと思います。
 人間としてのイエスさまももちろん大きな平安を与えて下さいますが、父・子・聖霊の三位一体の神様としてのスケールの大きなイエスさまは、さらに深い平安を与えて下さいますから、この深い平安を多くの方々と共に分かち合いたいと願っています。
 そのことを願いつつ、きょうのメッセージを閉じます。
 お祈りいたしましょう。
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後で分かるようになります(2019.3.31 最終礼拝)

2019-04-02 08:06:44 | 礼拝メッセージ
2019年3月31日最終礼拝メッセージ
『後で分かるようになります』
【ヨハネ13:1~7】

はじめに
 インマヌエル沼津キリスト教会は、きょうの礼拝を最後に52年間の教会活動を終えます。
 その最終礼拝のメッセージの箇所として選んだのは、ヨハネの福音書13章7節のイエスさまのことばの、

ヨハネ13:7 わたしがしていることは、今はわからなくても、後で分かるようになります。

です。
 まずは、この聖句に関する私の個人的な思い出から話を始めます。

どうして、こんなことが起きるのだろう
 この「後で分かるようになります」が語られた日のことを、私は今でも鮮明に覚えています。それは2011年の5月の第一聖日にインマヌエル京都西教会で行われた、額田牧師(当時)の着任礼拝の日でした。額田先生は、この箇所を開いて、京都西教会でのご奉仕を始められました。
 2011年はご承知の通り、東日本大震災が起きた年です。2011年の3月、私は神学生の3年生で間もなく4年生になるという時期でした。4月になったらインターン実習でどこかの教会に派遣されることになっていました。姫路教会に遣わされることが3月の初めには決まっていたようですが、私には知らされていませんでした。さて3月11日の数日後に私は当時の国内教会局長の藤本先生から、当面2,3ヶ月の間、京都西教会に行くようにと言われました。京都西教会へは、仙台教会の副牧の額田先生が主牧として赴任することになっていましたが、仙台も地震の被害が甚大で混乱しているから、当分の間は引越しができそうもない、その間、つなぎで礼拝の奉仕等をしてほしいとのことでした。
 それで私は急きょ京都西教会に赴くことになって、奉仕を始めました。聖日の礼拝と午後の集会の奉仕、水曜の祈祷会、そして会計の事務作業も含めてすべてを一人で行わなければならず、神学生の私にとっては初めてのことが多かったですから、本当に大変でした。また、つなぎでの奉仕ということで、前任の先生が牧師館のカーテンをはずして持って行ってしまった中、私はカーテンの無い生活をしなければならないなど、奉仕面以外の苦労もありました。このカーテン無しの生活が2,3ヶ月続くのかなと思っていたところ、額田先生が思ったよりも早くに仙台からの引越しができることになって、5月の第一聖日には額田先生の着任礼拝ができることになりました。そうして私は、この着任礼拝の後で姫路に引っ越しました。
 この着任礼拝のメッセージで額田先生は3月11日の大震災が起きた直後の様子、ご自身が味わった恐怖、また被害に遭った教会員のことや周囲の人々について語られました。そして、このような大変なことがどうして起きたのか、今の自分には分からないけれど、イエスさまは「後で分かるようになります」とおっしゃっていると話されました。この説教を聞いた時、私はすぐには理解できませんでした。当時まだ私はヨハネの福音書のことをよく分かっていなかった時でしたし、何よりもこの聖書箇所は、イエスさまが弟子たちの足を洗った場面であり、イエスさまは、この足を洗った行為について、「今は分からなくても、後で分かるようになります」とおっしゃっています。それを額田先生が大震災に当てはめたことに、若干の戸惑いを感じました。
 しかし今は当時の額田先生の気持ちが分かるようになりました。沼津教会の私たちもまた、「どうして、こんなことが起きるのだろう」という経験をしました。神様が会堂献金を祝して下さり、私たちは隣の土地を購入しました。そうして、新会堂の設計図もできて、金融機関からの融資の内諾も得て、着工まであと一歩というところまで漕ぎ着けました。それなのに、それは適わず、きょうのこの最終礼拝の日を迎えて、私たちは次のステップに進むことになりました。この、次のステップを私たちは受け入れて教会総会で承認の議決をしました。しかし、それでもやはり「どうして、こんなことになったのか」という思いが少し残ります。そういう中で、私は8年ぶりで2011年の5月第一聖日の額田先生の着任礼拝でのメッセージを思い出すこととなりました。

過去と未来とを結ぶ素晴らしいみことば
 今回、2011年の当時のことを思い出しながら、この聖句について思いを巡らす中で、このイエスさまの「わたしがしていることは、今はわからなくても、後で分かるようになります」というみことばは、過去と未来とを結ぶ、素晴らしいみことばだと気付くに至り、とても恵まれる思いがしました。それは、こういうことです。
 今は分からなくても、後で分かるということは、今と未来とがしっかりとつながっているということです。そして、過去に分からなかったことでも、今になって分かったことがたくさんあります。例えば、この聖句の奥深さを8年前の2011年の私は分かっていませんでしたが、2019年の今はよく分かるようになりました。未来においては、きっともっとよく分かるようになることでしょう。
 そうして、今私は、静岡教会の着任礼拝においても、この『後で分かるようになります』のタイトルでメッセージを取り次がせていただこうかと思っています。イエスさまが過去にも未来にもいて、永遠の中で私たちとつながっていて下さっていることの恵みを、共に分かち合いたいと思うのです。
 思い返すと、私が初めてこの沼津教会を訪れたのは2009年の7月で、当時私は神学生の2年生でした。ちょうど静岡教会での夏季実習に入ったばかりの頃で、静岡教会の皆さんと車に相乗りして、沼津まで来ました。会堂内に人が入りきらなくて沼津の皆さんの何人かは廊下にいましたね。2009年ですから10年前のことですが、10年前の私はその4年後の2013年に牧師として再び沼津に来ることになろうとは、まったく分かっていませんでした。そして2013年の私は6年後の2019年に静岡教会の牧師になることになるとは、まったく分かっていませんでした。しかし、永遠の中にいるイエスさまは分かっておられます。そして今の2019年の私は、自分がこの先、どのような道を歩むことになるか、分かっていません。私たちには未来のことは分からないからです。しかし、イエスさまはおっしゃいます。「後で分かるようになります」と。
 私たちが会堂問題と合併問題の嵐の中で翻弄されたことも、どうしてそういうことになったのか、今は分かりません。でも後でわかるようになります。それが分かるのが一体いつのことなのか、もしかしたら私たちが地上生涯を終えた後かもしれませんが、それでも良いと思います。イエスさまは私たちを愛して下さり、私たちもイエスさまを愛しています。そのイエスさまが「後で分かるようになります」とおっしゃって下さっていますから、それがいつであろうと構いません。このようにしてイエスさまを信頼して共に歩むことができる私たちは素晴らしい恵みをいただいている、と言えるのではないでしょうか。
 沼津教会とシオン教会とのつながりも、私が沼津に着任する前からあったそうですね。シオン教会で、会堂についての勉強会が静岡教会も含めた三教会で持たれたと聞いています。その時には、その後の展開を誰も分かっていなかったと思いますが、後で分かるようになりました。私が聖餐式の執行を荻野先生に最初にお願いした時にも、未来において二つの教会が一つになることは分かっていませんでした。過去も未来も一つの中にいるイエスさまにとっては、沼津教会もシオン教会も静岡教会も一つです。そのことを感じますから、私は静岡教会の着任礼拝ではきょうのタイトルと同じ「後で分かるようになります」でメッセージを取り次がせていただきたく思いますし、いま沼津教会が使っているgooのブログをそのまま、タイトルだけ変えて静岡教会で使わせていただこうと思っています。

イエスさまの教えは理解するのに時間が掛かる
 ぶどうの木の枝としてイエスさまにつながっている私たちは、沼津教会員であってもシオン教会員であっても静岡教会員であっても韮山教会員であっても湘南中央教会員であっても一つです。ヨハネの福音書15章の5節を、ご一緒に読みましょう(週報p.3)。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 このようにイエスさまのみもとでは、皆が一つとされています。そして、これは現代のクリスチャンだけでなく、時間を越えて過去と未来のクリスチャンとも一つにされています。ですから私たちは1世紀の使徒たちとも一つにされています。
 今回、私は「後で分かるようになります」についての思い巡らしをする中で、福音書の記者たちがなぜ何十年も経ってから福音書を書いたのかも、何となく分かったような気がしました。やはり、イエスさまの恵みについて分かるのには時間が掛かり、だいぶ後で分かるようになったということではないのかなと思いました。イエスさまが十字架に掛かったのが紀元30年頃で、マタイ・マルコ・ルカの福音書が書かれたのが紀元60年代から70年代に掛けて、ヨハネの福音書が書かれたのが紀元90年代であると考えられています。イエスさまの十字架の直後に福音書が書かれたのでなくて何十年も掛かったのは、やはりイエスさまの教えが本当に分かるには、それぐらいの時間が掛かるのかもしれません。別の言い方をすれば、イエスさまの教えはそれぐらい奥深いものであると言えるのではないでしょうか。
 ペンテコステの日に聖霊を受けたペテロはエルサレムの人々の前で立派な演説をしましたが、それは聖霊に満たされて導かれていたからであり、ペテロ本人もイエスさまの教えをまだまだ深くは分かっていなかったのではないかなと思います。
 パウロが本格的な宣教活動をアンティオキアの教会で始めたのも、パウロがダマスコ途上でイエスさまに出会ってから十数年後(13~14年後)のことです。

おわりに
 神様はその時、その時に必要なことを教えて下さいます。何が、神様からの語り掛けなのかを判断することは難しいですが、私の判断基準は、それまで自分が一度も考えたこともないことがフッと思い浮かんだ時には、それは神様からの語り掛けだろうと判断しています。
 たとえば、今の教会のブログを静岡教会で引き続き使おうと思ったのは10日ほど前にブログの訪問者数が17万人を越えた時でした。それまでは静岡に行ったら新しいブログを立ち上げようと、そのことしか考えていませんでした。それが急に静岡教会でも引き続き使いたいと思いましたから、それは神様からの語り掛けによって示されたのだと考えています。
 静岡教会での着任礼拝のタイトルを、きょうの最終礼拝と同じ『後で分かるようになります』にしたいと思ったのも、この説教の準備中の一昨日のことで、それまで私は静岡の着任礼拝ではイザヤ40章1節の「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」にしようと考えていました。しかし、すべてのクリスチャンは時間と空間を越えて一つとされているということを思い巡らしている時に、沼津と静岡のメッセージのタイトルを同じにすべきという考えがフッと浮かびましたから、それは神様が示して下さったものだと思います。きょうの聖餐式をどのようなものにすべきかも、先週の祝祷をしている時でした。
 シオン教会では月に一回聖餐式を行っていますから、シオンに行かれる皆さんは、また早々に聖餐の恵みに与ることと思います。私たちはシオン教会の皆さんとも時間と空間を越えて一つにされています。その他の教会の皆さんとも、私たちはもちろん時間と空間を越えて一つにされています。これから先、聖餐の恵みに与る時には、このことを思い出していただけたらと思います。
 最後に二箇所、聖書をご一緒に読んで、聖餐式に移りたいと思います。週報のp.3に記した、ローマ人への手紙12章10節とヨハネの福音書17章20節から23節です。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 それぞれが、これから行く教会の方々と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いながら、信仰生活を歩んで行きたいと思います。
 続いてヨハネの福音書17章20節から23節までを交代で読みましょう。

ヨハネ17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 お祈りいたしましょう。
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