2019年1月1日元旦礼拝メッセージ
『兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい』
【ローマ12:9~12】
はじめに
新年あけましておめでとうございます。
新年の最初の礼拝では毎年、その年の教会の聖句を発表することにしています。今年の私たちの教会の聖句はローマ人への手紙12章10節の、
「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」
今年の教会の聖句をこのローマ12:10にしたのは何ゆえか、皆さんはもう気づいておられると思います。言うまでもなく、それは今年の春に私たちの教会が他教会と一緒になる運びになっているからです。私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いたいと思います。
教会が異なれば、文化の違いのようなものが生じることは避けられないことです。同じ教団の教会でも、かなりの違いがあります。私は神学生の頃に実習で様々な教会に遣わされましたが、本当にいろいろでした。同じ教団の教会とは思えないというギャップを感じたこともありました。まして教団が違えば、さらに違いは大きくなるでしょう。しかし、違うとは言っても同じイエス・キリストを主と仰ぐキリスト教会であることに変わりはありませんし、私たちの教会は様々な点で非常に近い関係にあります。ですから私たちは今年の春に一緒になる教会の皆さんと兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いながら信仰の道を共に歩んで行きたいと思います。
きょうは、パウロがこのような手紙を書いたことの背景を共に学び、それからその他の書などからも関連することを学んで行くことにしたいと思います。
食事の問題を抱えていたローマの教会
以前、礼拝メッセージの中でも取り上げたことがありましたが、ローマの教会では信徒同士が対立する問題を抱えていました。パウロがこのローマ人への手紙を書いた時、パウロはまだローマを訪れたことがありませんでした。それなのにパウロがローマの教会が抱えていた問題を伝え聞いて知っていたということから、この問題がかなり深刻であったことが伺えます。対立点として具体的に書かれているのは、食事の問題です。以前も取り上げたことがありますが、ローマ14章を、ご一緒に見て行くことにしましょう。
14章の1節から4節までを交代で読みましょう。
14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
14:4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
野菜しか食べない弱い人とは、どういう人なのか、ここだけだと分かりにくいですが、14節と15節を読むと、もう少しはっきりします。14節と15節、
14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
ここを読むと、野菜しか食べない人は、肉が汚れていることを気にしている人のようです。例えば市場に出回っている肉は、一度偶像に捧げられた肉かもしれませんし、捧げられていない肉かもしれません。それは買う側にはなかなか分からないことです。そのことを気にして肉を食べない人がいたと言われています。コリント人への手紙を読むと、この辺りの事情がもう少し分かりますが、きょう、ご一緒に分かち合いたいことは、偶像に捧げた肉を食べるか食べないかの問題についてではなく、異なる考え方を持つ多様な人々が集う教会の教会員が、いかにして一つにまとまって行くかということですから、そちらのほうに集中することにします。
兄弟愛をもって互いに愛し合うために
ローマ人への手紙を12章から見て行きます。兄弟愛をもって互いに愛し合うためには、自分中心であってはなりません。パウロはまず、自分のからだを神にささげることを勧めます。1節、
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
教会に集う者たちは、自分中心ではなくて神中心になる必要があります。そのように神中心になった者は、この世と調子を合わせて、世の人々のように争い事に明け暮れることはありません。2節、
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
自分で自分を変えるのでなく、神に自分を変えていただきなさいとパウロは勧めます。自分で自分を変えようとしている間は、神のみこころは何かが分かりません。しかし自分を神に捧げてすべてを神に委ねるなら、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるようになります。
牧師の私自身は一緒になる教会に皆さんと行くわけではありませんが、いま私は私自身も一緒に行くつもりになって、パウロの勧めを読んでいます。そのように、具体的なことを思い浮かべながら、このローマ12章を読むと、心への響き方が全然違いますね。一昨日の賛美歌で、「人生の海の嵐に」を歌った時も、昨年の一年間にあったことを思い浮かべながら歌ったら、この賛美歌がとても心に響いてきました。やはり聖書や賛美歌はただ漠然と読んだり歌ったりするのでなく、具体的な事柄を思い浮かべながら読んだり歌ったりすべきだということを改めて教えられた気がします。
思い上がってはいけない
続いて3節、
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
霊的に整えられて神との交わりが深まると、ついつい気が大きくなってしまうかもしれません。私などはそういう傾向がありますが、そんな風に思うべき限度を超えて思い上がってはいけないのですね。神様が私に与えて下さった信仰の量りも、思い上がっていると大きな量りが与えられていると勘違いしてしまうかもしれませんが、慎み深く考えなければいけないのでしょう。この点は私自身は大いに反省させられます。
続いて4節と5節、
12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
同じような表現は第一コリントにもありますね。教会の中にあって私たち一人一人はひとつの器官です。心臓には心臓の働きがあり、胃には胃の働きがあり、腸には腸の働きがあります。6節から8節、
12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
このように、それぞれに与えられた賜物に応じて私たちは教会で奉仕します。ただし、今年の私たちの場合は、最初は様子を見たほうが良いだろうと思います。様子をみながら少しずつなじんで行くべきだろうと思います。
へりくだることの手本を示したイエスさま
そうして、きょうの聖書箇所に入って行きます。9節と10節、
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
兄弟愛をもって互いに愛し合うためには思い上がらずに自分を低くする必要があります。そうして相手をすぐれた者として尊敬しなければなりません。
この、自分を低くすることのお手本を示しているのが、イエスさまですね。一昨日の年末感謝礼拝のメッセージの時にも開きましたが、ヨハネの福音書13章を、きょうもご一緒に読むことにしたいと思います。ヨハネ13章の4節と5節を、交代で読みましょう。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
このようにイエスさまは最後の晩餐の場で弟子たちの足を洗い、自分を低くすべきであることを率先して示されました。そうして14節でおっしゃいました。14節、
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
それからイエスさまは弟子たちに新しい戒めを与えました。34節ですね。
13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
人々の間で争い事が生じる時には、だいたいの場合、自分が相手よりも上だと思っていることが多いのではないでしょうか。イエスさまは自分を低い立場に置くことを勧め、互いに愛し合いなさいという戒めを弟子たちに与えました。
神であるにもかかわらずへりくだったお方
イエスさまは神であるにも関わらず、弟子たちの足を洗うという自分を低い場所に置くことができるお方でした。イエスさまがへりくだった方だというと、ピリピ人への手紙2章を思い起こす方も多いでしょう。今度はピリピ2章の1節から8節までを交代で読みましょう。
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
このピリピ人への手紙も、ただ漠然と読むのでなく、これから一緒になる教会の皆さんと一緒になって信仰の道を歩んで行くことを具体的に考えながら、読みたいと思います。
おわりに
このピリピ2章に書かれているイエスさまのことを思い、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったイエスさまのことを思い、そうして今年の私たちの教会の聖句のローマ12章10節を読むなら、これから一緒になる教会の皆さん方と共に信仰生活を送る上で、このことが大切であることが、一層よく分かるでしょう。教会はキリストの体ですから、へりくだったイエスさまの御姿をお慕いしながら、今年私たちは新しい場所へと踏み出して行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。
「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」
『兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい』
【ローマ12:9~12】
はじめに
新年あけましておめでとうございます。
新年の最初の礼拝では毎年、その年の教会の聖句を発表することにしています。今年の私たちの教会の聖句はローマ人への手紙12章10節の、
「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」
今年の教会の聖句をこのローマ12:10にしたのは何ゆえか、皆さんはもう気づいておられると思います。言うまでもなく、それは今年の春に私たちの教会が他教会と一緒になる運びになっているからです。私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いたいと思います。
教会が異なれば、文化の違いのようなものが生じることは避けられないことです。同じ教団の教会でも、かなりの違いがあります。私は神学生の頃に実習で様々な教会に遣わされましたが、本当にいろいろでした。同じ教団の教会とは思えないというギャップを感じたこともありました。まして教団が違えば、さらに違いは大きくなるでしょう。しかし、違うとは言っても同じイエス・キリストを主と仰ぐキリスト教会であることに変わりはありませんし、私たちの教会は様々な点で非常に近い関係にあります。ですから私たちは今年の春に一緒になる教会の皆さんと兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いながら信仰の道を共に歩んで行きたいと思います。
きょうは、パウロがこのような手紙を書いたことの背景を共に学び、それからその他の書などからも関連することを学んで行くことにしたいと思います。
食事の問題を抱えていたローマの教会
以前、礼拝メッセージの中でも取り上げたことがありましたが、ローマの教会では信徒同士が対立する問題を抱えていました。パウロがこのローマ人への手紙を書いた時、パウロはまだローマを訪れたことがありませんでした。それなのにパウロがローマの教会が抱えていた問題を伝え聞いて知っていたということから、この問題がかなり深刻であったことが伺えます。対立点として具体的に書かれているのは、食事の問題です。以前も取り上げたことがありますが、ローマ14章を、ご一緒に見て行くことにしましょう。
14章の1節から4節までを交代で読みましょう。
14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
14:4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
野菜しか食べない弱い人とは、どういう人なのか、ここだけだと分かりにくいですが、14節と15節を読むと、もう少しはっきりします。14節と15節、
14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
ここを読むと、野菜しか食べない人は、肉が汚れていることを気にしている人のようです。例えば市場に出回っている肉は、一度偶像に捧げられた肉かもしれませんし、捧げられていない肉かもしれません。それは買う側にはなかなか分からないことです。そのことを気にして肉を食べない人がいたと言われています。コリント人への手紙を読むと、この辺りの事情がもう少し分かりますが、きょう、ご一緒に分かち合いたいことは、偶像に捧げた肉を食べるか食べないかの問題についてではなく、異なる考え方を持つ多様な人々が集う教会の教会員が、いかにして一つにまとまって行くかということですから、そちらのほうに集中することにします。
兄弟愛をもって互いに愛し合うために
ローマ人への手紙を12章から見て行きます。兄弟愛をもって互いに愛し合うためには、自分中心であってはなりません。パウロはまず、自分のからだを神にささげることを勧めます。1節、
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
教会に集う者たちは、自分中心ではなくて神中心になる必要があります。そのように神中心になった者は、この世と調子を合わせて、世の人々のように争い事に明け暮れることはありません。2節、
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
自分で自分を変えるのでなく、神に自分を変えていただきなさいとパウロは勧めます。自分で自分を変えようとしている間は、神のみこころは何かが分かりません。しかし自分を神に捧げてすべてを神に委ねるなら、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるようになります。
牧師の私自身は一緒になる教会に皆さんと行くわけではありませんが、いま私は私自身も一緒に行くつもりになって、パウロの勧めを読んでいます。そのように、具体的なことを思い浮かべながら、このローマ12章を読むと、心への響き方が全然違いますね。一昨日の賛美歌で、「人生の海の嵐に」を歌った時も、昨年の一年間にあったことを思い浮かべながら歌ったら、この賛美歌がとても心に響いてきました。やはり聖書や賛美歌はただ漠然と読んだり歌ったりするのでなく、具体的な事柄を思い浮かべながら読んだり歌ったりすべきだということを改めて教えられた気がします。
思い上がってはいけない
続いて3節、
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
霊的に整えられて神との交わりが深まると、ついつい気が大きくなってしまうかもしれません。私などはそういう傾向がありますが、そんな風に思うべき限度を超えて思い上がってはいけないのですね。神様が私に与えて下さった信仰の量りも、思い上がっていると大きな量りが与えられていると勘違いしてしまうかもしれませんが、慎み深く考えなければいけないのでしょう。この点は私自身は大いに反省させられます。
続いて4節と5節、
12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
同じような表現は第一コリントにもありますね。教会の中にあって私たち一人一人はひとつの器官です。心臓には心臓の働きがあり、胃には胃の働きがあり、腸には腸の働きがあります。6節から8節、
12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
このように、それぞれに与えられた賜物に応じて私たちは教会で奉仕します。ただし、今年の私たちの場合は、最初は様子を見たほうが良いだろうと思います。様子をみながら少しずつなじんで行くべきだろうと思います。
へりくだることの手本を示したイエスさま
そうして、きょうの聖書箇所に入って行きます。9節と10節、
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
兄弟愛をもって互いに愛し合うためには思い上がらずに自分を低くする必要があります。そうして相手をすぐれた者として尊敬しなければなりません。
この、自分を低くすることのお手本を示しているのが、イエスさまですね。一昨日の年末感謝礼拝のメッセージの時にも開きましたが、ヨハネの福音書13章を、きょうもご一緒に読むことにしたいと思います。ヨハネ13章の4節と5節を、交代で読みましょう。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
このようにイエスさまは最後の晩餐の場で弟子たちの足を洗い、自分を低くすべきであることを率先して示されました。そうして14節でおっしゃいました。14節、
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
それからイエスさまは弟子たちに新しい戒めを与えました。34節ですね。
13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
人々の間で争い事が生じる時には、だいたいの場合、自分が相手よりも上だと思っていることが多いのではないでしょうか。イエスさまは自分を低い立場に置くことを勧め、互いに愛し合いなさいという戒めを弟子たちに与えました。
神であるにもかかわらずへりくだったお方
イエスさまは神であるにも関わらず、弟子たちの足を洗うという自分を低い場所に置くことができるお方でした。イエスさまがへりくだった方だというと、ピリピ人への手紙2章を思い起こす方も多いでしょう。今度はピリピ2章の1節から8節までを交代で読みましょう。
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
このピリピ人への手紙も、ただ漠然と読むのでなく、これから一緒になる教会の皆さんと一緒になって信仰の道を歩んで行くことを具体的に考えながら、読みたいと思います。
おわりに
このピリピ2章に書かれているイエスさまのことを思い、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったイエスさまのことを思い、そうして今年の私たちの教会の聖句のローマ12章10節を読むなら、これから一緒になる教会の皆さん方と共に信仰生活を送る上で、このことが大切であることが、一層よく分かるでしょう。教会はキリストの体ですから、へりくだったイエスさまの御姿をお慕いしながら、今年私たちは新しい場所へと踏み出して行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。
「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」