2023年3月19日礼拝説教
『世界を救うキリストの愛』
【エペソ人への手紙3:14~21】
はじめに
今週は、「世界の救い」についての大きな話をさせていただきます。
聖書には「世界の救い」のことと「個人の救い」のことの両方が書かれていますが、教会では「個人の救い」のことが語られることが多いと思います。それは当然であって、一人一人の個人が救われてこそ、世界の救いへと向かって行くことができます。ですから、先ずは「個人の救い」が語られます。しかし、聖書が語る究極のゴールは「世界の救い」です。このゴールが見えていないと、たとえば「ウサギとカメ」のウサギのように、途中で居眠りをするようなことになってしまうかもしれません。私たちの信仰の歩みは、カメのように遅いものであって構いませんから、ゴールを見ながらの歩みでありたいと思います。そうでなければ、平和な世界への道は、いつまで経っても見えて来ないでしょう。
きょうの聖句はエペソ人への手紙3章18節と19節です。
①背景:壮大なスケールのエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
②本題:a) 人間の側から神の領域に入ったパウロのきよめ
b) 旧約聖書の土台の上に築かれているパウロの信仰
c) 新約聖書のゴールは旧約聖書と同じ「世界の救い」
③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい
①背景:壮大なスケールのエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
礼拝説教ではこれまで、パウロの生涯を眺めつつ、パウロのどのような経験が彼をきよめて行ったのだろうか、ということを分かち合って来ました。パウロは激しい性格の持ち主でしたが、様々な迫害に遭い、また病気が与えられ、アジアではみことばを語ることを禁じられるなどの苦難を経験することで、きよめられていったのでしょう。そしてヨーロッパではリディア、アキラとプリスカ、フィベのような善い協力者たちに恵まれました。善き協力者の彼ら・彼女らはパウロに不足している優れた面も持っていたことでしょう。この善き協力者たちとの交わりが、パウロをさらにきよめることにもつながったことでしょう。そして、ローマ人への手紙をコリントで書いた時は、パウロのきよめは一つの到達点に達したように思います。パウロはローマの教会員たちに書きました(週報p.2)。
このようなことが書けるのは、パウロ自身がきよめられていたからこそだと思います。本人がきよめられていなければ、こういうことは、なかなか書けるものではないでしょう。
さてしかし、獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書をローマで書いた時のパウロは、さらに、もっとずっときよめられているという印象を受けます。ローマ人への手紙をコリントで書いた時に比べると、別次元のきよめられ方であるという気がします。
俳句の夏井いつきさんや梅沢富美男さんたちが出演して人気番組になった6チャンネルの『プレバト』という番組がありますね。俳句の他にも、水彩画や色鉛筆画など、いろいろなジャンルがあって、出演者たちが才能を競い合う番組です。そうして、特待生になると昇格試験があります。作品の出来が良いと、「1ランク昇格」とか「2ランク昇格」になり、稀には「3ランク昇格」もあります。
パウロのきよめられ方を見るなら、「ローマ人への手紙」をコリントで書いた頃のパウロと比べると、その後で捕らえられてローマに送られ、獄中書簡を書いた頃のパウロのきよめられ方は、「5ランク昇格」と言えるぐらいに、「別次元」のきよめられ方であるように感じます。
では、どのように「別次元」なのかを、これから見て行くことにします。これまで、この礼拝説教では、人は「御霊の実」を結ぶことできよめられて行くと話して来ました。
しかし、獄中書簡のエペソ書・ピリピ書・コロサイ書からは別次元の壮大なスケールを感じます。ピレモン書はスケールの大きな手紙ではありませんが、パウロが壮大なスケールできよめられていたからこそ、ピレモンへの手紙のような一点の曇りもないきよい手紙が書けたのだと思います。ピレモン書は来週の礼拝説教で分かち合うことにして、きょうはエペソ書・ピリピ書・コロサイ書のスケールの大きさを、まずは分かち合いたいと思います。
②本題:a) 人間の側から神の領域に入ったパウロのきよめ
本題に入って、まずコロサイ書の壮大なスケールの箇所をご一緒に見ましょう。コロサイ1章(週報p.2)、
ローマ人への手紙を書いていた頃のパウロは、十分にきよめられていたとは言え、まだ人間の側にいるという印象を受けます。しかし、コロサイ人への手紙を書いているパウロは神様の領域に入っていることを感じます。もうほとんど神様と一体化している、それほどの領域に達していることをコロサイ1章15節から17節までの箇所から感じます。
次にピリピ人への手紙を見ましょう。2章5節から11節です。
ピリピ2章6節でパウロは「キリストは、神の御姿であられる」と書いています。この神の御姿とはコロサイ1章16節の万物を造られた御子のことです。御子はすべての造られたものより先に生まれ、万物を創造して支配されておられます。その御子が、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、人となって十字架の死にまで従われました。
十字架は人間サイズです。人となられたイエス様が磔(はりつけ)にされた人間サイズのものです。しかし、ここに釘付けにされたイエス様は宇宙を創造された宇宙サイズの神様です。十字架は人間サイズですが、実は宇宙サイズの神様がここにギュッと凝縮されています。パウロはこの十字架に、天地万物を創造された宇宙サイズの神様の姿を見ていました。
囚われの身となってローマで不自由な軟禁生活を送っていたパウロは、神の領域の側に入れられるまでにきよめられて、宇宙スケールの壮大な手紙を書くに至りました。それが最も良く表れているのが、きょうの聖書箇所のエペソ人への手紙3章だと思います。この箇所からは、本当に宇宙サイズの壮大なスケールを感じます。まず3章16節、
パウロはまず御父に、私たちの内に御霊が働いて強めてくださるようにと祈っています。そして17節で、私たちの心のうちに御霊の働きによってキリストが住むようにと祈っています。このことで、人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになって、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされるようにと祈っています。パウロ自身はきっとこの人知をはるかに超えたキリストの愛を理解して、神の豊かさに満たされていたのでしょう。それゆえ、これほどの壮大なスケールの手紙を書くことができたのでしょう。
繰り返しますが、十字架は人間サイズですが、ここに磔(はりつけ)にされた御子イエス・キリストは万物を創造された宇宙サイズのお方です。それゆえ、キリストの愛も宇宙サイズです。夜の星空を見上げる時、私は自分とこの地域一帯がキリストの愛ですっぽりと覆われていることを感じます。特に夏の夜には、真上にハクチョウ座の巨大な十字架が見えます。この巨大な十字架を見上げる時、イエス様の十字架の愛に完全に覆われていることを強く感じます。そうして、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされるような感覚を味わいます。この田町の地域は、少し歩けば安倍川の河川敷に出て、夜の星空を見上げるのには好都合です。沼津の教会も海岸に近かったので星空を見上げるには良い場所でした。そして、安倍川に近いこの教会も、星空を見上げるには良い場所でしたから、とても感謝でした。
b) 旧約聖書の土台の上に築かれているパウロの信仰
パウロがこれほどまでに神の豊かさに満たされるようになったのは、パウロの信仰の土台が旧約聖書によって、しっかりと据えられていたからでしょう。福音書やパウロの手紙などの新約聖書の信仰は、旧約聖書の信仰の土台の上に築かれています。新約聖書には「聖書」ということばが50回以上使われていますが、新約聖書が言う「聖書」とは、旧約聖書のことです。新約聖書は、旧約聖書の土台があってこその書物です。この土台があるからパウロの信仰の頂は高い所にあります。富士山にたとえるなら、旧約聖書の土台とは、富士山の五合目から下に広がる、広大な裾であると言えるでしょう。
富士川付近を通過する時の新幹線の車窓から見える富士山の姿に人気があるのは、この広大な裾のほぼ全体が見えるからですね。私の友達には、新幹線の車窓から見える富士山の写真をSNSにアップしている人が何人もいます。富士山は山頂付近が見えているだけでも、うれしくなりますが、やはり五合目から下の裾までがしっかりと見えると、感動の度合いがぜんぜん違います。それはスケール感がぜんぜん違うからです。五合目から下の裾の部分がしっかりと見える富士山は、本当に壮大で美しいと思います。そして、聖書の旧約聖書とは、五合目から下の裾の土台の部分であると言えるでしょう。
パウロが人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解していたのは、パウロの信仰の土台に旧約聖書があるからこそでしょう。
きょうの聖書交読ではイザヤ書65章を交読しました。ここに「新しい天と新しい地」ということばが出て来ました。その部分をお読みします。イザヤ書65章の17節から19節まで(旧約p.1278)、
これが旧約聖書が示している「世界の救い」のゴールです。そして、新約聖書のゴールも、究極的には「世界の救い」です。
c) 新約聖書のゴールは旧約聖書と同じ「世界の救い」
これまでの礼拝説教で何度か引用したように、ヨハネの黙示録21章の1節と2節には、このように書かれています(週報p.2)。
イエス様は十字架で死なれた後に復活して、また天に帰られました。ですから、天におられるイエス様は宇宙サイズのお方です。その天のイエス様が終末の時には再び天から降って来られます。そうして、新しい天と新しい地が地上に創造されます。それが神の王国です。ヨハネは続いて、次のように書いています。黙示録21章の3節と4節です。
イザヤ書65章の預言と同じですね。つまり、新約聖書のゴールもまた、旧約聖書と同じ「世界の救い」です。私たちは、このことのために地上を整える役割を与えられています。私たちは五タラントや二タラント、一タラントなど、それぞれの能力に応じてイエス様からタラントを預けられている、しもべです。イエス様はいずれ天から地上に帰って来られますから、その時までに地上をできるだけ平和にしておくように働くことが期待されています。
コロナ禍や戦争、むごたらしい殺人事件、大地震や地震による津波、温暖化による大雨など、気が滅入ることが多い今の世ですが、人知をはるかに超えたキリストの愛が私たちをすっぽりと覆っていることを感じるなら、その愛によって力づけられて、イエス様のために働くための力が与えられます。
③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい
2月の24日で、ウクライナでの戦争が始まって1年になりました。この2月24日を挟むようにして、その前と後に、パウロのきよめの過程をご一緒に分かち合って来ました。私は何週間か前に、ローマ人への手紙を書いた頃のパウロが、きよめの一つの到達点であり、そこが私たちの目標ではないか、というような話をしたと思います。獄中書簡のパウロは、私たちたちには遠く及ばないほどのきよめられ方だと感じていたからです。或いは、私たち自身には当面は投獄されるような経験はしないだろうと思ったからです。
でも、このシリーズを今週まで続けて来て思うことは、この獄中書簡のパウロに少しでも近づくのでなければ、世界はなかなか平和にならないであろう、ということです。
来週は、同じ獄中書簡の一つのピレモンへの手紙をご一緒に見たいと願っています。このピレモンへの手紙は、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書を書いたパウロだからこそ書けた手紙であると感じます。かつてマルコが第一次伝道旅行の始めの段階で離脱したことを巡ってバルナバと激しい口論をした挙句に喧嘩別れをしたような時期のパウロであったら、決してピレモンへの手紙のようなきよい手紙は書けなかったでしょう。
そうして思うことは、このピレモンへの手紙を書いた時のパウロに少しでも近づくことができるように祈り、御霊にきよめていただくのでなければ、戦争を繰り返す世の中に終わりは来ないで、このひどい世の中が続いて行くのではないか、ということです。せめてもう少し、この地上が平和になるように整えられなければ、なかなか新しいエルサレムは地上に降って来ないのではないか。それがいつのことかは天の父がお決めになることですから私たちには分かりませんが、私たちが預けられているタラントをもっと有効に使って、「よくやった、良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)と言っていただけるようにならなければ、主人であるイエス様は、この世に帰って来て下さらないのではないかという気がしています。
そういうことを思いながら、来週はピレモンへの手紙をご一緒に見てみたいと思います。今週は駆け足でしたが、コロサイ書、ピリピ書、エペソ書の壮大なスケールの箇所を共に読みました。これらの手紙を書いたパウロに少しでも近づくことができれば、と思います。そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
『世界を救うキリストの愛』
【エペソ人への手紙3:14~21】
はじめに
今週は、「世界の救い」についての大きな話をさせていただきます。
聖書には「世界の救い」のことと「個人の救い」のことの両方が書かれていますが、教会では「個人の救い」のことが語られることが多いと思います。それは当然であって、一人一人の個人が救われてこそ、世界の救いへと向かって行くことができます。ですから、先ずは「個人の救い」が語られます。しかし、聖書が語る究極のゴールは「世界の救い」です。このゴールが見えていないと、たとえば「ウサギとカメ」のウサギのように、途中で居眠りをするようなことになってしまうかもしれません。私たちの信仰の歩みは、カメのように遅いものであって構いませんから、ゴールを見ながらの歩みでありたいと思います。そうでなければ、平和な世界への道は、いつまで経っても見えて来ないでしょう。
きょうの聖句はエペソ人への手紙3章18節と19節です。
エペソ3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
そして、次の構成で話を進めて行きます。19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
①背景:壮大なスケールのエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
②本題:a) 人間の側から神の領域に入ったパウロのきよめ
b) 旧約聖書の土台の上に築かれているパウロの信仰
c) 新約聖書のゴールは旧約聖書と同じ「世界の救い」
③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい
①背景:壮大なスケールのエペソ書・ピリピ書・コロサイ書
礼拝説教ではこれまで、パウロの生涯を眺めつつ、パウロのどのような経験が彼をきよめて行ったのだろうか、ということを分かち合って来ました。パウロは激しい性格の持ち主でしたが、様々な迫害に遭い、また病気が与えられ、アジアではみことばを語ることを禁じられるなどの苦難を経験することで、きよめられていったのでしょう。そしてヨーロッパではリディア、アキラとプリスカ、フィベのような善い協力者たちに恵まれました。善き協力者の彼ら・彼女らはパウロに不足している優れた面も持っていたことでしょう。この善き協力者たちとの交わりが、パウロをさらにきよめることにもつながったことでしょう。そして、ローマ人への手紙をコリントで書いた時は、パウロのきよめは一つの到達点に達したように思います。パウロはローマの教会員たちに書きました(週報p.2)。
ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
このようなことが書けるのは、パウロ自身がきよめられていたからこそだと思います。本人がきよめられていなければ、こういうことは、なかなか書けるものではないでしょう。
さてしかし、獄中書簡と呼ばれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書をローマで書いた時のパウロは、さらに、もっとずっときよめられているという印象を受けます。ローマ人への手紙をコリントで書いた時に比べると、別次元のきよめられ方であるという気がします。
俳句の夏井いつきさんや梅沢富美男さんたちが出演して人気番組になった6チャンネルの『プレバト』という番組がありますね。俳句の他にも、水彩画や色鉛筆画など、いろいろなジャンルがあって、出演者たちが才能を競い合う番組です。そうして、特待生になると昇格試験があります。作品の出来が良いと、「1ランク昇格」とか「2ランク昇格」になり、稀には「3ランク昇格」もあります。
パウロのきよめられ方を見るなら、「ローマ人への手紙」をコリントで書いた頃のパウロと比べると、その後で捕らえられてローマに送られ、獄中書簡を書いた頃のパウロのきよめられ方は、「5ランク昇格」と言えるぐらいに、「別次元」のきよめられ方であるように感じます。
では、どのように「別次元」なのかを、これから見て行くことにします。これまで、この礼拝説教では、人は「御霊の実」を結ぶことできよめられて行くと話して来ました。
ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。
23 柔和、自制です。
しかし、獄中書簡のエペソ書・ピリピ書・コロサイ書からは別次元の壮大なスケールを感じます。ピレモン書はスケールの大きな手紙ではありませんが、パウロが壮大なスケールできよめられていたからこそ、ピレモンへの手紙のような一点の曇りもないきよい手紙が書けたのだと思います。ピレモン書は来週の礼拝説教で分かち合うことにして、きょうはエペソ書・ピリピ書・コロサイ書のスケールの大きさを、まずは分かち合いたいと思います。
②本題:a) 人間の側から神の領域に入ったパウロのきよめ
本題に入って、まずコロサイ書の壮大なスケールの箇所をご一緒に見ましょう。コロサイ1章(週報p.2)、
コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
ローマ人への手紙を書いていた頃のパウロは、十分にきよめられていたとは言え、まだ人間の側にいるという印象を受けます。しかし、コロサイ人への手紙を書いているパウロは神様の領域に入っていることを感じます。もうほとんど神様と一体化している、それほどの領域に達していることをコロサイ1章15節から17節までの箇所から感じます。
次にピリピ人への手紙を見ましょう。2章5節から11節です。
ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
ピリピ2章6節でパウロは「キリストは、神の御姿であられる」と書いています。この神の御姿とはコロサイ1章16節の万物を造られた御子のことです。御子はすべての造られたものより先に生まれ、万物を創造して支配されておられます。その御子が、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、人となって十字架の死にまで従われました。
十字架は人間サイズです。人となられたイエス様が磔(はりつけ)にされた人間サイズのものです。しかし、ここに釘付けにされたイエス様は宇宙を創造された宇宙サイズの神様です。十字架は人間サイズですが、実は宇宙サイズの神様がここにギュッと凝縮されています。パウロはこの十字架に、天地万物を創造された宇宙サイズの神様の姿を見ていました。
囚われの身となってローマで不自由な軟禁生活を送っていたパウロは、神の領域の側に入れられるまでにきよめられて、宇宙スケールの壮大な手紙を書くに至りました。それが最も良く表れているのが、きょうの聖書箇所のエペソ人への手紙3章だと思います。この箇所からは、本当に宇宙サイズの壮大なスケールを感じます。まず3章16節、
エペソ3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
パウロはまず御父に、私たちの内に御霊が働いて強めてくださるようにと祈っています。そして17節で、私たちの心のうちに御霊の働きによってキリストが住むようにと祈っています。このことで、人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになって、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされるようにと祈っています。パウロ自身はきっとこの人知をはるかに超えたキリストの愛を理解して、神の豊かさに満たされていたのでしょう。それゆえ、これほどの壮大なスケールの手紙を書くことができたのでしょう。
繰り返しますが、十字架は人間サイズですが、ここに磔(はりつけ)にされた御子イエス・キリストは万物を創造された宇宙サイズのお方です。それゆえ、キリストの愛も宇宙サイズです。夜の星空を見上げる時、私は自分とこの地域一帯がキリストの愛ですっぽりと覆われていることを感じます。特に夏の夜には、真上にハクチョウ座の巨大な十字架が見えます。この巨大な十字架を見上げる時、イエス様の十字架の愛に完全に覆われていることを強く感じます。そうして、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされるような感覚を味わいます。この田町の地域は、少し歩けば安倍川の河川敷に出て、夜の星空を見上げるのには好都合です。沼津の教会も海岸に近かったので星空を見上げるには良い場所でした。そして、安倍川に近いこの教会も、星空を見上げるには良い場所でしたから、とても感謝でした。
b) 旧約聖書の土台の上に築かれているパウロの信仰
パウロがこれほどまでに神の豊かさに満たされるようになったのは、パウロの信仰の土台が旧約聖書によって、しっかりと据えられていたからでしょう。福音書やパウロの手紙などの新約聖書の信仰は、旧約聖書の信仰の土台の上に築かれています。新約聖書には「聖書」ということばが50回以上使われていますが、新約聖書が言う「聖書」とは、旧約聖書のことです。新約聖書は、旧約聖書の土台があってこその書物です。この土台があるからパウロの信仰の頂は高い所にあります。富士山にたとえるなら、旧約聖書の土台とは、富士山の五合目から下に広がる、広大な裾であると言えるでしょう。
富士川付近を通過する時の新幹線の車窓から見える富士山の姿に人気があるのは、この広大な裾のほぼ全体が見えるからですね。私の友達には、新幹線の車窓から見える富士山の写真をSNSにアップしている人が何人もいます。富士山は山頂付近が見えているだけでも、うれしくなりますが、やはり五合目から下の裾までがしっかりと見えると、感動の度合いがぜんぜん違います。それはスケール感がぜんぜん違うからです。五合目から下の裾の部分がしっかりと見える富士山は、本当に壮大で美しいと思います。そして、聖書の旧約聖書とは、五合目から下の裾の土台の部分であると言えるでしょう。
パウロが人知をはるかに超えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解していたのは、パウロの信仰の土台に旧約聖書があるからこそでしょう。
きょうの聖書交読ではイザヤ書65章を交読しました。ここに「新しい天と新しい地」ということばが出て来ました。その部分をお読みします。イザヤ書65章の17節から19節まで(旧約p.1278)、
イザヤ65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
これが旧約聖書が示している「世界の救い」のゴールです。そして、新約聖書のゴールも、究極的には「世界の救い」です。
c) 新約聖書のゴールは旧約聖書と同じ「世界の救い」
これまでの礼拝説教で何度か引用したように、ヨハネの黙示録21章の1節と2節には、このように書かれています(週報p.2)。
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
イエス様は十字架で死なれた後に復活して、また天に帰られました。ですから、天におられるイエス様は宇宙サイズのお方です。その天のイエス様が終末の時には再び天から降って来られます。そうして、新しい天と新しい地が地上に創造されます。それが神の王国です。ヨハネは続いて、次のように書いています。黙示録21章の3節と4節です。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
イザヤ書65章の預言と同じですね。つまり、新約聖書のゴールもまた、旧約聖書と同じ「世界の救い」です。私たちは、このことのために地上を整える役割を与えられています。私たちは五タラントや二タラント、一タラントなど、それぞれの能力に応じてイエス様からタラントを預けられている、しもべです。イエス様はいずれ天から地上に帰って来られますから、その時までに地上をできるだけ平和にしておくように働くことが期待されています。
コロナ禍や戦争、むごたらしい殺人事件、大地震や地震による津波、温暖化による大雨など、気が滅入ることが多い今の世ですが、人知をはるかに超えたキリストの愛が私たちをすっぽりと覆っていることを感じるなら、その愛によって力づけられて、イエス様のために働くための力が与えられます。
③適用:平和のため、獄中のパウロの信仰に少しでも近づきたい
2月の24日で、ウクライナでの戦争が始まって1年になりました。この2月24日を挟むようにして、その前と後に、パウロのきよめの過程をご一緒に分かち合って来ました。私は何週間か前に、ローマ人への手紙を書いた頃のパウロが、きよめの一つの到達点であり、そこが私たちの目標ではないか、というような話をしたと思います。獄中書簡のパウロは、私たちたちには遠く及ばないほどのきよめられ方だと感じていたからです。或いは、私たち自身には当面は投獄されるような経験はしないだろうと思ったからです。
でも、このシリーズを今週まで続けて来て思うことは、この獄中書簡のパウロに少しでも近づくのでなければ、世界はなかなか平和にならないであろう、ということです。
来週は、同じ獄中書簡の一つのピレモンへの手紙をご一緒に見たいと願っています。このピレモンへの手紙は、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書を書いたパウロだからこそ書けた手紙であると感じます。かつてマルコが第一次伝道旅行の始めの段階で離脱したことを巡ってバルナバと激しい口論をした挙句に喧嘩別れをしたような時期のパウロであったら、決してピレモンへの手紙のようなきよい手紙は書けなかったでしょう。
そうして思うことは、このピレモンへの手紙を書いた時のパウロに少しでも近づくことができるように祈り、御霊にきよめていただくのでなければ、戦争を繰り返す世の中に終わりは来ないで、このひどい世の中が続いて行くのではないか、ということです。せめてもう少し、この地上が平和になるように整えられなければ、なかなか新しいエルサレムは地上に降って来ないのではないか。それがいつのことかは天の父がお決めになることですから私たちには分かりませんが、私たちが預けられているタラントをもっと有効に使って、「よくやった、良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)と言っていただけるようにならなければ、主人であるイエス様は、この世に帰って来て下さらないのではないかという気がしています。
そういうことを思いながら、来週はピレモンへの手紙をご一緒に見てみたいと思います。今週は駆け足でしたが、コロサイ書、ピリピ書、エペソ書の壮大なスケールの箇所を共に読みました。これらの手紙を書いたパウロに少しでも近づくことができれば、と思います。そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
エペソ3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。