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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

パウロの役割・願い・悲しみ(2023.3.5 礼拝)

2023-03-07 04:24:13 | 礼拝メッセージ
2023年3月5日礼拝説教
『パウロの役割・願い・悲しみ』
【ローマ9:1~5、10:1】

はじめに
 今年の礼拝説教では、パウロの生涯に注目しています。パウロは激しい一面を持ち、その激しさは恩人であるバルナバと口論して別れてしまうほどでした。そんなパウロでしたが、アジア・ヨーロッパへの伝道旅行を続ける中で、きよめられて行ったように見えます。伝道旅行中の何がパウロをきよめて行ったのか?そのことを見て来ています。

 先週と先々週は、パウロに与えられた良き協力者の存在が、パウロのきよめにもつながって行ったのではないか、そんな話をしました。主はパウロの協力者として紫布の商人のリディア、パウロの手紙をコリントからローマに運んでくれた奉仕者のフィベ、そして同じ天幕職人のアキラとプリスカなどを与えて下さいました。そして、パウロは彼ら・彼女らの中に自分に足りない優れた面を見て互いに尊敬し合うようになり、御霊の実を結んで行ったのではないか、そんな話をしました。

 きょうはローマ人への手紙の9~11章に注目します。ローマ9~11章は、同胞のユダヤ人の救いを願うパウロの強い気持ちが、高く上がる噴水の水のように噴出しています。公園などにある噴水は、水の高さが数メートル程度の噴水もあれば、数十メートル上がるような、すごい噴水もありますね。日本一の噴水は何と百メートルを超えるそうです。世界一の噴水は二百メートルを超えるそうです。


広島・平和記念公園の噴水(2022年8月24日 筆者撮影)

 パウロがユダヤ人の救いを願う強い気持ちは、百メートル超えの噴水のように、噴出している、そんな風に感じます。この強烈な気持ち、でもそれが適わない悲しみ、それがパウロのきよめに関係しているように思いますから、きょうはそのことを分かち合いたいと思います。本日の聖句は、ローマ人への手紙11章13節です。

ローマ11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。

 そして、次の構成で話を進めて行きます。

  ①背景:伝道旅行を続ける中できよめられたパウロ
  ②本題:a) 同胞のユダヤ人の救いを願い祈るパウロ
      b) 呪われてもよいと思うほどの強烈な願い
      c) 同胞の救いが自分の役割ではない無力感
  ③適用:自分の強く願うことが役割になるとは限らない。
      私の役割は何だろうか?

①背景:伝道旅行を続ける中できよめられたパウロ
 ここでは、年表を見ながら、パウロの手紙がどの順番で書かれたかを見ておきたいと思います。後(のち)の手紙になるほど、パウロがきよめられているという印象を受けます。パウロの手紙は、概ね次の順番で書かれたと考えられています。

 ガラテヤ書、Ⅰテサロニケ、Ⅱテサロニケ、Ⅰコリント、Ⅱコリント、ローマ書、獄中書簡(ピリピ書・エペソ書・コロサイ書・ピレモン書)、Ⅰテモテ・テトス書、Ⅱテモテ


②本題:a) 同胞のユダヤ人の救いを願い祈るパウロ
 では、きょうの本題に入って行きます。まずローマ人への手紙10章1節、

ローマ10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

 パウロは彼らの救いを願い、祈っていました。この「彼ら」とは、同胞のユダヤ人、すなわちイスラエル人です。パウロは9章に書いています。9章4節と5節、

ローマ9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。
5 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

 パウロは、栄光も契約も律法の授与も礼拝も約束、彼らのものであると書きました。ここからは、ルカ15章の放蕩息子のお兄さんの「兄息子」への父のことばを思い出しますね。ルカ15章31節です(週報p.2)。

ルカ15:31 「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。』」

 このルカ15章の兄息子のように、ユダヤ人たちは父に背を向けていました。すべてが天の父から与えられているにも関わらず、背を向けて父の家に入ることを拒んでいました。

b) 呪われてもよいと思うほどの強烈な願い
 そんな風に天の父に背を向ける同胞のユダヤ人たちのことをパウロは、とても悲しく思い、救われることを願っていました。ローマ9章の1節から3節、

ローマ9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、
2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

 ここでパウロはまず、自分はキリストにあって真実を語り、偽りを言わないと述べた後で、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがある」と書いています。つまり、この悲しみと心の痛みは真実であって、偽りではないということです。パウロは同胞のユダヤ人たちが天の父に背を向けていることを悲しんでいました。そして、3節はもっと強烈です。

3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

 この悲しみの気持ちの噴出は、百メートル級の噴水のようだと思います。同胞たちが救われるためなら、パウロは自分がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っていると書いています。これは強烈ですね。私自身は、のろわれた者となって良いなどと、決して思いません。そんな恐ろしいことは考えたくもありません。でもパウロは違いました。イスラエル人が救われるなら、自分がのろわれることさえ厭いませんでした。何と強い気持ちでしょうか。私には想像すらできない強烈な気持ちだと思います。
 
c) 同胞の救いが自分の役割ではない無力感
 しかし、同胞が救われてほしいという願いがこれほどまでに強烈なのに、パウロに与えられている役割は同胞を救うことではなくて、異邦人を救うことでした。きょうの聖句のローマ11:13です。

ローマ11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。

 パウロは、自分が異邦人の救いのために遣わされていることを、よく自覚していました。使徒の働き22章でパウロは次のように証言しています(週報p.2)。

使徒22:21 「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」

 このように、パウロは自分に与えられた役割が異邦人を救うことであると、よく自覚していました。でも、そのことは、自分は同胞のユダヤ人を救うためには召されていないと自覚することでもあります。パウロの同胞の救いへの思いが強ければ強いほど、自分はそのためには召されていないと自覚することはパウロにとっては悲しいことであったと思います。主が力を与えて下さるのでなければ、私たちは何もできません。主が力を与えて下さるからこそ、私たちは何かをすることができます。主は私たちに役割を与え、その役割を果たすための力を与えて下さいます。

 パウロには同胞を救いたいという強烈な願いがありました。でも、そのための力を主は与えて下さらない。主が力を与えて下さらなければ自分は何もできないことをパウロはよく分かっていましたから、パウロは無力感に打ちひしがれたのではないかと思います。でも、この無力を自覚する時が、主を最も近くに感じる時でもあります。そうして、主を近くに感じることで御霊の実が結ばれて、パウロはますますきよめられて行ったのではないか、そのように感じます。

③適用:自分の強く願うことが役割になるとは限らない。私の役割は何だろうか?
 このパウロの事例は、自分が強く願っていることが、そのまま自分の役割になるとは限らないことを意味します。

 自分のことを考えると、私自身は平和への思いがかなり強くあります。でも、今回、このローマ9章から11章に掛けてのパウロの強い思いにも関わらず、主はパウロの願いのためには召し出しておられないのだということを示されて、改めて自分に与えられた役割とは何だろうか、主の御心を的確にとらえるように促されていると感じています。

 主の御心を的確に把握することは本当に難しいと思います。パウロでさえ、アジアの異邦人たちへの伝道が自分の役割だと思っていましたが、主はそれを禁じてヨーロッパへの道をパウロに示しました。それはパウロが次第にきよめられて行ったからこそ、主の細い声でも聞こえるようになったから、ということのように思います。主は、パウロをダマスコ途上で召し出した時には強烈な方法で、ご自身を現わしました。でも主は、いつもその様に強烈な方法で現れるわけではありません。大半は細い声でしか語り掛けて下さいません。それは、もっときよくなって、神の細い声が聞こえるようになりなさい、という励ましでもあると思います。

 イエス様は山上の説教でおっしゃいました。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 「神を見る」は、「見る」だけでなく御声を「聞く」ことをも含むでしょう。何が神様の御心に適うことなのか、神様の細い御声を聞くことができる者は、心がきよめられた者です。

 主が自分に本当に与えて下さっている役割は何なのだろうか、その御声をさやかに聞くために、私たちは御霊の実を結んできよめられたいと思います。

 パウロが同胞のユダヤ人たちが救われていないことを悲しみ、その救いを願い、祈っていました。その思いの強さは、もし同胞が救われるなら自分が呪われる者になってもかまわないとさえ思うほどでした。これほど強烈な願いを持ちながらも、それは自分の役割ではないことも同時にパウロは自覚していました。それがしっかりと自覚できていたのは、パウロがきよめられて神様の御声がよく聞こえていたからでしょう。きよめられていない間は自分の強い思いで行動をしがちです。でも、パウロはきよめられていて、自分の役割をよく自覚していました。パウロには神様の姿がよく見え、御声がよく聞こえていたのでしょう。

おわりに
 私たちも、神様の姿を見て、御声を聞きたいと願っています。

 今年の私たちの標語聖句は、ここに掲げているように、エペソ1:17です。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように」

 私たちも、このエペソ人への手紙を書いたパウロのように神様を知り、そして自分に与えられている役割をよく知ることができるよう、お祈りしたいと思います。

ローマ11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。
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