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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

恐れなく主に仕えるようにしていただく(2022.12.18 アドベント第4礼拝)

2022-12-19 15:01:13 | 礼拝メッセージ
2022年12月18日アドベント第4礼拝メッセージ
『恐れなく主に仕えるようにしていただく』
【ルカ1:67~80】

はじめに
 今年のアドベントはルカの福音書を開いています。先週のアドベント第3礼拝ではマリアの賛歌と呼ばれる箇所を開きました。そして、きょうはザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所をご一緒に見ることにしています。
 きょうの中心聖句はルカ1章74節です

ルカ1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。

 そして次の三つのステップで話を進めて行きます。

 ①全体的な背景:男の子を産んだザカリヤの妻のエリサベツ
 ②今日の聖書箇所:敵はあらゆる手を使って信仰を破壊する
 ③自分への適用:恐れなく目に見えない全能の神を信じる

①全体的な背景:男の子を産んだザカリヤの妻のエリサベツ
 先週はマリアがザカリヤとエリサベツが住む家を訪ねた箇所をご一緒に見ました。その時、エリサベツは妊娠してから6ヶ月目に入っていました(26節)。そして、マリアはエリサベツのもとに3ヶ月ほどとどまってからナザレの自分の家に戻りました。ですから、マリアがナザレに戻った時、エリサベツは妊娠9ヶ月目で、まさに月が満ちようとしていました。そうして、57節にあるように月が満ちてエリサベツは男の子を生みました。

 さて、夫のザカリヤはこの時まで、ずっと口がきけない状態にありましたが、それが解かれました。それは63節にあるように、「その子の名はヨハネ」と書いた時でした。ザカリヤの口がきけなくなったのは彼が御使いのことばを信じなかったからです。それゆえなのでしょう。御使いが言った通りの「ヨハネ」と名付けるべきことを人々に伝えた時、ザカリヤの口は開かれました。そうして、神をほめたたえました。

 ここにも正しい人であるザカリヤの信仰が現れていると思います。私だったら、口がきけるようになった途端、「ああ、ひどい目に遭った」などと、つい言ってしまうかもしれません。しかし、正しい人であったザカリヤは開口一番、神をほめたたえました。きっと口がきけないでいる間、御使いのことばを信じなかったことを悔いていたのでしょう。それとともに、妻のエリサベツのお腹が大きくなっていく様子を、喜びを持って見ていたのでしょう。この3ヶ月は若いマリアも共にいてエリサベツも明るく過ごしていたことと思いますから、ザカリヤもまた明るく過ごしていたのでしょう。そうしてザカリヤは神をほめたたえました。それが今日の聖書箇所のザカリヤの賛歌です。


②今日の聖書箇所:敵はあらゆる手を使って信仰を破壊する
 きょうの聖書箇所を見ましょう。68節から79節までを眺めると、75節までは主の救いについてザカリヤはほめたたえ、76節から79節までは、生まれた幼子が主の救いに備える者であることをザカリヤは賛美しています。まず主の救いの道を備える者についての76節から79節までを、先に見たいと思います。

ルカ1:76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。

 バプテスマのヨハネが具体的に何をしたかは、マルコの福音書が簡潔にまとめていますから、マルコ1章の4節と5節をお読みします(週報p.2)。

マルコ1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 罪を赦す権威があるのは神様だけです。神の御子であるイエス様には、その権威がありましたが、バプテスマのヨハネにはその権威は与えられていません。しかし、罪の赦しに導くための悔い改めのバプテスマを授けることはできました。それがバプテスマのヨハネに与えられた役割でした。神様に背いている罪を認めて悔い改める、この悔い改めがされているなら、イエス様による罪の赦しにすぐに導いて行くことができます。そして、ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民は「みな」、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、バプテスマを受けたとマルコの福音書は記しています。

 ルカの福音書に戻ります。

78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」

 これは神様の深いあわれみによるものです。神様に背くことは、本来は決して赦されない重大な罪です。この罪を、神様は深いあわれみによって赦して下さいます。神の怒りにふれて赦されていない間は、暗闇と死の陰に住んでいます。そんな私たちに神様は光りを与えて下さり、救って下さいます。バプテスマのヨハネはその救いへの道を整えて備えるために遣わされました。

 では、主の救いをほめたたえるザカリヤの賛歌の前半の部分を見たいと思います。68節から71節、

ルカ1:68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
71 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。

 71節に、この救いは私たちの敵からの救いであるとザカリヤは賛美しました。この場合の敵とは何でしょうか?目に見える形での敵としては、それは北王国を滅ぼしたアッシリアであり、南王国を滅ぼしたバビロニアでしょう。さらに言えば、このザカリヤの時代のユダヤを支配していたローマ帝国も敵と言えるでしょう。しかし、北王国と南王国が滅ぼされたのは、彼らの不信仰のゆえでした。預言者たちは再三にわたって王と民に、主に立ち返るように警告しました。しかし、それに聴き従わなかったために、不信仰の罪によって主の怒りにふれて滅ぼされてしまいました。

 それゆえ、敵とはアッシリアやバビロニアなどのような外側の敵というよりは、不信仰という内側の敵でしょう。そして、その不信仰をあおっているのが悪魔です。敵である悪魔はあらゆる手を使って私たちの信仰を破壊しようとします。この敵からの救いは、74節でもう一度語られます。

72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
75 私たちのすべての日々において、 主の御前で、敬虔に、 正しく。

 主は私たちを敵である悪魔の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださいます。

③自分への適用:恐れなく目に見えない全能の神を信じる
 この敵である悪魔の攻撃がいかに強力であるか、最後の3番目のステップに進んで、パウロのエペソ人への手紙を見ることで分かち合いたいと思います。少し長いですが、エペソ6章のその部分を、週報のp.2にも載せておきました。お読みします。

エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

 とにかく悪魔はあらゆる手を使って私たちの信仰を破壊しようとしますから、神のすべての武具を取って神様に守っていただかなければなりません。

 悪魔の代表的な手口は、人の霊性を弱めて神の霊を感じる霊的な能力を奪うことでしょう。先週ご一緒に見たマリアの賛歌でマリアは1章46節と47節のように賛美しました。

ルカ1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 マリアは「私は主をあがめ」ではなく、「私のたましいは主をあがめ」と言って主をあがめました。「私は私の救い主である神をたたえます」ではなく、「私の霊は私の救い主である神をたたえます」と言って、神をたたえました。

 この霊性が悪魔によって弱められると、目に見えない神ではなくて、目に見える形あるものを頼るようになり、偶像を礼拝するようになります。或いは形式を重んじる律法主義に陥ります。イエス様の時代のパリサイ人たちは、まさに形式的な律法主義に陥っていました。安息日に働かずに主に心を向けることは大切なことですが、だからと言って安息日に病人を癒したイエス様を批判したパリサイ人はあまりに形式にこだわっていました。隣人を愛し、病人を癒すことは主の御心に適うことです。それゆえイエス様は安息日でも病人を癒しました。

 目に見えない神様は変幻自在のお方です。形式主義に陥ると、この変幻自在の神様が見えなくなります。クリスマスによく語られる「くつ屋のマルチン」の話は、イエス様がまさに変幻自在のお方であることを示していますね。

 くつ屋のマルチンは、ある晩、聖書を読んでいる時にうたた寝をしてしまいます。その夢の中でイエス様が現れて、「マルチン、明日あなたの所に行きます」とおっしゃいました。翌日、マルチンはイエス様とお会いするのを楽しみにしながら、いつ来て下さるだろうとずっと窓の外を気にしていました。すると、窓の外で雪かきをしていたおじいさんが寒さで凍えている様子が見えたので、家の中に招き入れて、熱いお茶をごちそうしました。

 その次には上着もなく薄着で赤ちゃんを抱えていた若い母親の姿が見えたので、先ほどと同じようにその母親を家の中に招き入れました。彼女はここ何日も満足に食事をしておらず、お乳も出なくなっていたということで、マルチンは彼女に食事を与えました。そうして上着も着させて送り出しました。

 イエス様はなかなか現れませんでしたが、マルチンはイエス様を待ち続けて、くつ屋の仕事をしながら窓の外を見ていました。すると今度は、売り物のりんごを盗んだ少年をつかまえてお仕置きしようとしているおばあさんの姿が目に入ったので、マルチンは外に出て行き、りんごの代金を払って少年を赦してあげるように説得しました。人を赦すことはとても難しいことですが、おばあさんはそうしようと思いました。少年も赦されたことで、優しい気持ちになり、おばあさんの荷物を持ってあげました。

 そうして、日が暮れました。マルチンはイエス様が来なかったことにガッカリしていました。その時、「マルチン、マルチン」とおっしゃるイエス様の声がして、おじいさんが現れました。そのおじいさんはイエス様の声で「わたしですよ」と言いました。次に若い母親が現れて、イエス様の声で「わたしですよ」とおっしゃいました。おばあさんと少年も現れて「わたしですよ」とおっしゃいました。

 このように、イエス様は変幻自在に現れるお方です。11月の子供祝福礼拝では、「しんせつなサマリア人」という絵本を使って、ルカの福音書の「善きサマリア人のたとえ」の話をしました。強盗に襲われて大ケガをした人もまたイエス様でしょう。祭司とレビ人は、神殿での儀式という形式を重んじていたためでしょう、大ケガをした人を見て見ぬふりをして通り過ぎました。でも親切なサマリア人はケガ人を介抱しました。

おわりに
 悪魔の策略によって霊性が弱められると、形式主義に陥って変幻自在の神様の姿が見えなくなります。すると、天地万物をお造りになった全知全能の神様も見えにくくなります。神様が全地全能のお方であると信じるなら、私たちはマリアが告白したように、はしため(女奴隷)もしくは僕(しもべ、奴隷)に過ぎません。それゆえ、マリアのように「あなたのおことばどおり、この身になりますように」としか言えない者であることが分かります。でも悪魔の策略によって目に見えない神様が見えづらくなると、自分の力で何とかしようと悪あがきをするようになります。そうして、主にお仕えすることができなくなってしまいます。

 しかし、ザカリヤがほめたたえたように、「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」お方です。ですから、私たちは恐れなく主にお仕えして、マリアのように、「ご覧ください。私は主のはしためです。あなたのおことばどおり、この身になりますように」と信仰告白できるお互いであらせていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
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戸惑いが喜びになる神様の人生への介入(2022.12.11 アドベント第3礼拝)

2022-12-14 05:37:33 | 礼拝メッセージ
2022年12月11日アドベント第3礼拝メッセージ
『戸惑いが喜びになる神様の人生への介入』
【ルカ1:39~56】

はじめに
 今年のアドベントの礼拝メッセージでは、ルカの福音書を開いています。先々週のアドベント第1礼拝ではバプテスマのヨハネの父親となった祭司ザカリヤに御使いのガブリエルが現れた場面を見ました。この後でザカリヤの妻のエリサベツに子供が与えられて身ごもりました。また、先週のアドベント第2礼拝ではイエス・キリストの母親となったマリアにも御使いのガブリエルが現れた場面を見ました。そして、きょうはマリアがエリサベツの所に行って、二人で喜びを分かち合った場面を開きます。きょうの中心聖句はマリアの賛歌と呼ばれる箇所の中から49節と50節とします。

ルカ1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

 そして、次の三つのステップで話を進めて行きます。

 ①全体的な背景:戸惑いつつエリサベツを訪問したマリア
 ②今日の聖書箇所:エリサベツと喜びを分かち合ったマリア
 ③自分への適用:神様の介入を受け入れれば人生が変わる

①全体的な背景:戸惑いつつエリサベツを訪問したマリア
 まず、きょうの聖書箇所の背景を先週の箇所から見ておきたいと思います。
 子供を身ごもることを御使いのガブリエルから告げられたマリアは戸惑っていました。28節と29節、

ルカ1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 この後、マリアと御使いとの間でいくつかのことばが交わされて、マリアは御使いの言うことを受け入れました。38節です。

38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 こう言って御使いの言ったことを受け入れたマリアでしたが、戸惑いが消えることは無かったはずです。これから自分がどうなって行くのか、分からないことだらけでした。でも、たった一つだけ分かっていたことがあります。それは、自分は主のはしためであって、決して主に逆らえる立場にはないということでした。新改訳聖書で「はしため」と訳されているギリシャ語のドゥーレーは「女奴隷」の意味を持つことを先週は話しました。奴隷は主人の命令に背くことは許されていません。それゆえマリアは御使いの言うことを受け入れて、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言いました。しかし、戸惑いは消えないままだったので、親類のエリサベツのところに行ったのでしょう。

 きょうの聖書交読ではマタイの福音書の1章をご一緒に読みました。御使いはヨセフにも(夢の中で)現れて、マリアが聖霊によって身ごもることを告げました。その箇所をもう一度お読みします。マタイ1章の18節から21節までです。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 ヨセフの戸惑いも大きかったことでしょう。ヨセフの戸惑いとマリアの戸惑いのどちらが大きかったのかは比べようがなく、どちらの戸惑いも非常に大きかったとしか言いようがないのではないかと思います。

②今日の聖書箇所: エリサベツと喜びを分かち合ったマリア
 では、今日の聖書箇所を見て行きましょう。39節と40節、

ルカ1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。

 ここにはヨセフが出て来ませんから、マリアはヨセフに黙ってエリサベツの所に行ったのでしょうか?そこら辺のところは良く分かりませんが、とにかくマリアは急いでエリサベツの所に行きました。ガリラヤのナザレからユダまでは直線距離でも100km以上ありますから、何日間か掛かったと思いますが、このルカの描写には、とてもスピード感がありますね。マリアが困惑していた様子が分かります。

41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」

 エリサベツは妊娠6ヶ月目(26節)に入っていましたから、子が胎内で動くのが分かったのですね。きっと、これが初めて子が動いた瞬間だったのでしょう。エリサベツは大声で叫んで、その喜びを表現しました。そして、その喜びがマリアにも伝わりました。

46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 この46節と47節の2つの節を見ただけで、聖書がいかに霊的な世界を重要視しているかが分かりますね。マリアは「私は主をあがめ」ではなく、「私のたましいは主をあがめ」と言いました。「私は…神をたたえます」ではなく、「私の霊は…神をたたえます」と言いました。このマリアのことばから、ふと詩篇42篇を思い起こしました(週報p.2)。

詩篇42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 この詩篇42篇の詩人も、「神よ、私はあなたを慕いあえぎます」ではなく、「神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」と言っています。目に見えない神様はたましいで感じる存在です。この聖書の霊的な世界をどれくらい感じ取れるかどうかが、世界の情勢にも大きく関係しているような気がします。世界には多くのクリスチャンがいます。それなのに、世界がなかなか平和にならないのは、マリアのように「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます」と信仰の告白ができる者が多くないからではないかと思わされることです。

 そして次の48節からもマリアにいかに豊かな霊性が与えられたかが分かります。

48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。

 マリアは「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」と言いました。「今から後、どの時代の人々も」と言いました。若いマリアが「今から後、どの時代の人々も」と言った所に豊かな霊性が与えられた様子が分かります。霊性が目覚めると、時間を長いスケールで捉えることができるようになります。神様は黙示録22章でおっしゃいました(週報p.2)。

黙示録22:13 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 このように神様は初めであり、終わりであるお方です。このスケールの大きさが、霊性が目覚めると段々と分かるようになり、それによって霊性がさらに豊かにされます。マリアの霊性も豊かにされて、「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」と言えるまでになったのでしょう(50節の「代々にわたって」からも、それが分かります)。そして、きょうの中心聖句の49節と50節、

49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

 この49節と50節を中心聖句にしたのは、きょうのタイトルの『戸惑いが喜びになる神様の人生への介入』で表した通り、「神様の人生への介入」について、分かち合いたいと願っているからです。神様は小さな私たちの小さな人生に突然入り込んで来ます。つまり「介入」します。そして私たちの一人一人を用いようとします。与えられる役割が大きいか小さいかは人によるでしょう。マリアのようにとてつもなく大きな役割が与えられる者もあれば、マリアに比べれば小さな役割を与えられる者もあります。でも、マリアよりも小さな役割であっても、小さな私たちにとっては、神様から与えられる役割は決して小さくはありません。教会の奉仕も、どんな奉仕であっても一人一人にとっては大きなものであり、決して小さくはありませんね。それゆえ私たちは戸惑います。でも、その戸惑いを超えて神様の介入を受け入れるなら、戸惑いが喜びへと替わります。

③自分への適用:神様の介入を受け入れれば人生が変わる
 最後の三つめのステップで、さらに「神様の介入」について考えたいと思います。
 私たちは皆それぞれ、「明日はこのように生きて行こう」という思いを持って日々を生きていると思います。何も考えずに生きている人もいるかもしれませんが、それは今日と変わらない明日を生きようとしているのであって、それはそれで明日を考えながら生きているとも言えるだろうと思います。

 そんな自分に神様は急に介入して来て、「教会に行ってみませんか」と誘います。チラシや知人や家族を通して、そう誘って来ます。それまで教会のことなど何も知らなかった私に対して、介入して来ます。

 或いは、教会に通っている人に対しては、「教会の奉仕を担ってみませんか」と介入して来ます。既に担っている人に対しては、「もっと大きな役割を引き受けてみませんか」と介入して来ます。高津教会にいた時の自分を振り返ってみると、私の場合もそんな風に、少しずつ大きな役割を与えられて引き受け、そのことが牧師として召し出されることにつながったのかなと感じています。

 教会に通うようになってしばらくは、何の役割も担わないで、ただ教会の方々がしていることを眺めているだけでした。それが、教会の行事の奉仕を少しずつお手伝いをするようになりました。最初は本当に小さなことだったと思います。そうして、段々と大きなことを任されるようになり、牧師として召し出される少し前には教会で開く音楽コンサートの準備委員長を務めるようになりました。最初に音楽家と交渉して承諾を得るのは牧師の役目でしたが、それ以降の準備面の多くは教会員に任されて準備が進められました。こういう大きな役割を担うようになったことが、後に牧師として召し出されることにつながったのかなと思います。

 これらのことは、引き受けないという選択肢ももちろんあります。日頃の仕事に加えて教会の奉仕を引き受ければそれだけ忙しくなりますから、引き受けなかったとしても、それはそれで尊重されるでしょう。でも、引き受けないでいる間は、自分で自分の人生をコントロールしようとしているのだと思います。そういう自分に神様は介入して来て、もっと神様に仕える者へ変えようと介入して来ます。自分で自分の人生をコントロールしようとする者から、神様に仕え、神様に従う者へと変えようとなさいます。

 そういう神様の介入を受け入れるなら、自分が変えられて行きます。神様から与えられた役割を引き受けるに当たっては、当然戸惑いがあります。自分にはとてもできないのではないかと恐れ、尻込みします。でも神様は「恐れることはありません」と言って下さり、励まして下さるお方です。その神様のことばに従い、自分で自分の人生をコントロールしようとうする思いを少しずつ手放して行くなら、戸惑いが喜びに替えられます。これは、経験した者でないと分からない喜びだと思います。皆さんの多くは既にそれを経験しておられると思いますが、神様はもっと大きな役割も担ってほしいと介入して来ることもあると思います。そのような時、戸惑いを乗り越えて神様のことばに従うなら、さらに大きな喜びが得られるようになるでしょう。

おわりに
 与えらえる役割の大きさは人それぞれであり、マリアほど大きな役割を与えられることは決してないでしょう。恐らくこの二千年間でマリアほど大きな役割を与えられた者はいないでしょう。私たちに与えられる役割はもっと小さなものです。でも、一人一人にとっては大きな役割です。それゆえ戸惑い、尻込みしたくなることもあると思いますが、若いマリアがこんなにも大きな役割を引き受けたことを覚えて、私たちも「おことばどおり、この身になりますように」とお答えして、神様が与えて下さる役割を担うことができるお互いとならせていただきたいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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おことばどおり、この身になりますように(2022.12.4 礼拝)

2022-12-05 06:47:48 | 礼拝メッセージ
2022年12月4日アドベント第二礼拝メッセージ
『おことばどおり、この身になりますように』
【ルカ1:26~38】

はじめに
 主のご降誕を待ち望むアドベントの第1週の先週は、バプテスマのヨハネの父となる祭司ザカリヤに御使いが現れた記事をご一緒に見ました。そして第2週の今日は、イエス様の母となるマリアのところに御使いのガブリエルが来た時の記事をご一緒に見ることにします。
 きょうの中心聖句はルカ1章38節です。

ルカ1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主の*はしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
 *はしため(ドウーレー、女奴隷)は、男性名詞しもべ(ドウーロス、奴隷)の女性名詞

 そして次の三つのステップで話を進めて行きます。

 ①全体的な背景:エリサベツが整えて平にしたマリアの道
 ②今日の聖書箇所:身も心も全てを完全に明け渡したマリア
 ③自分への適用:主に用いられやすい者に変えていただく

①全体的な背景:エリサベツが整えて平にしたマリアの道
 先週は、バプテスマのヨハネの父親となる祭司ザカリヤのところに御使いが現れた箇所をご一緒に見ました。バプテスマのヨハネは、イエス様が来られるための主の道を整えた預言者です。きょうはルカの福音書を開いていますから、ルカの福音書3章を見ましょう。2節から6節までをお読みします。

ルカ3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 このようにバプテスマのヨハネはイエス様が来られる道をまっすぐで平な道にして整えて、イエス様が来やすいようにしました。ヨハネが人々に何を語ったのかが、この3章に書かれています。たとえばヨハネは16節と17節のことを言いました。

16 そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。
17 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。

 イエス様は聖霊と火でバプテスマを授けられるお方であり、その聖霊と火によって私たちをきよめて下さるお方です。このことを覚えておきたいと思います(3つめのステップでまた話します)。

 そしてもう1つ分かち合いたいことは、ザカリヤの妻のエリサベツもまた、主の道を整えた者であろうということです。エリサベツがいたからこそ、マリアは恐れることなくイエス様の母親となることができたと言えるでしょう。36節によればエリサベツはマリアの親類ですから、エリサベツが子を身ごもるに至った経緯をきっと伝え聞いていたのではないかという気がします。第2のステップに進んでそのことを確かめつつ、きょうの説教題の「おことばどおり、この身になりますように」に思いを巡らしたいと思います。

②今日の聖書箇所:身も心も全てを完全に明け渡したマリア
 では、聖書を見て行きましょう。きょうの聖書箇所の一つ手前の節では、ザカリヤの妻のエリサベツが身ごもったことが書かれています。そして26節と27節、

26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。

 エリサベツが子どもを身ごもってから6か月後、今度はマリアのところに御使いのガブリエルが現れました。

28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 29節にマリアがひどく戸惑ったとありますが、ザカリヤのように取り乱したりはしなかったようです(12 ザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた)。これは、6カ月前にザカリヤに御使いが現れたことをマリアが何らかの形で聞いていたからではないかという気がします。御使いが現れることは滅多にないことだと思いますから、何も聞いていなかったらマリアもザカリヤのように取り乱してもおかしくなかっただろうと思います。ただ、取り乱すほどではなかったにせよ、恐れる様子が顔に出ていたのでしょうか御使いは言いました。

30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 この30節から33節に掛けての御使いのことばは非常に多くの情報を含みますし、まだ若いマリアは考えたこともないような事ばかりだったでしょうから、マリアがどこまで御使いの言ったことを理解できたかは分かりませんが、マリアは御使いに言いました。

34 「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 すると、御使いは答えました。

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは何もありません。」

 マリアは恐らくエリサベツの妊娠のことを知っていたと思いますから、この部分は先ほどの箇所よりは分かりやすかったのではないかと思います。不妊と言われていたエリサベツが高齢で妊娠したことは、通常では有り得ない奇跡です。その奇跡には明らかに神様が関わっていました。その神様の奇跡が自分の身にも及ぼうとしていたことをマリアは察したのでしょう。マリアは38節で御使いに言いました。

38 「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 「はしため」は、ギリシャ語を直訳するなら「女奴隷」でしょう。奴隷は主人の命令通りに働かなければなりません。マリアは身も心もすべてを主人である神様に明け渡して、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言いました。現代はもちろんですが、2000年前のユダヤでも神様を本気で信じない人は少なくなかっただろうと思います。そんな中でマリアは神様を信じ、身も心もすべてを明け渡す信仰を告白しました。そうして、御使いはそこを去って行きました。ザカリヤの時には、信じないザカリヤに対して口をきけなくするという罰が与えられましたが、マリアは全面的に主を信頼していました。そうして御使いはそこを去って行きました。

③自分への適用:主に用いられやすい者に変えていただく
 マリアの信仰から私たちは何を学び、見習うべきかについて考えたいと思います。

 私たちの場合、たとえ神様を信じていたとしても、神様にすべてを明け渡すことは簡単にはできないことです。自分の都合を優先させて、神様の命令は二の次にしてしまうことが多いのではないでしょうか。それも悪いことであるとは一概に言えません。自分の判断を優先させることが大切な場合もあります。たとえば今話題になっているようなマインドコントロールがあった場合、人間の声なのに神様の声と思い込ませて高額の献金を強いるようなことがあります。そういうマインドコントロールを防ぐには自分で判断することが大切です。

 しかし人間の声ではなくて、もし本当に神様の声であったとしたら、自分の判断を優先させると神様に背いてしまう恐れがあります。サタンは虎視眈々とそれを狙っていますから、私たちは御心に反した判断をしがちです。ですから、自分で判断することは悪魔の声に従うことだと言っても良いかもしれません。では、悪魔の声と神様の声をどうしたら聞き分けることができるでしょうか?それができるようになるには、結局は自分を捨ててイエス様に付き従う者になる他はないのではないでしょうか。

 イエス様は9章23節から25節でおっしゃいました(週報p.3)。

ルカ9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 イエス様と同じように自分を捨てて十字架に付き、イエス様に従うなら、霊的な耳と目が開かれて悪魔の声と神様の声を聞き分けることが、きっとできるようになるでしょう。自分を完全に捨てることは難しいことですから、私ももちろん十分にできてはいませんが、そのような者でありたいという思いは常に持ち続けていたいと思います。

 キリスト教では、人のことをよく麦にたとえますね。私たち日本人は稲のほうが見慣れていますから、麦の代わりに稲にたとえましょう。稲に穂が入ってお米が十分に実ると頭を垂れて収穫できる状態になります。そうして稲が刈り取られて収穫されたなら、それは教会につながったということになります。つまり教会の一員になります。でも、米が食べられる状態になる、即ち神様の役に立ち、人の役に立つ状態になるには脱穀されて稲わらと分離され、さらにモミすりがされて殻が取り去られて玄米にならなければ食べられる状態にはなりません。玄米にならなければ神様のお役、人のお役に立てる者にはなれません。

 ここでバプテスマのヨハネが3章16節と17節で言ったことばを、もう一度見ましょう(週報p.2)。

ルカ3:16 そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。
17 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。

 たとえ刈り入れられて教会につながったとしても、私たちには依然として稲わらとモミ殻がしっかりと付いていて、主のお役には立てません。イエス様はそんな私たちから殻を取り去って下さり、殻を消えない火で焼き尽くしてきよめて下さいます。そうして私たちを主に用いられやすい者へと変えて下さいます。

おわりに
 マリアも、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と御使いに言った時点では、まだ殻をまとっていたかもしれません。でも神様はマリアをきよめて下さり、イエス様の母親という重大な任務を負うことができる器へと変えて下さいました。私たちも、たとえ今の状態が茎と殻を付けたままであったとしても、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」ということができるなら、神様はそのようにして下さいます。そうして、神様に用いられやすい者へと変えていただきたいと思います。

 そのことを願いつつ、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。

ルカ1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
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祈りのための祭壇を築く(2022.11.6 礼拝)

2022-11-08 06:50:44 | 礼拝メッセージ
2022年11月6日礼拝メッセージ
『祈りのための祭壇を築く』
【創世記12:4~8】

はじめに
 先週の礼拝説教では「泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す」というタイトルで、アブラハムの時代に掘られた井戸を息子のイサクが掘り返した記事をご一緒に読みました。説教では、きれいな水が湧き出る井戸を「信仰の井戸」と呼んで、イサクが父アブラハムの信仰を受け継ぎ、そしてさらに息子のヤコブへと引き継いで行ったことを話しました。

 簡単に振り返っておくと、かつてアブラハムが掘った井戸をイサクは利用していましたが、イサクが祝福されたことをねたんだ者たちによってふさがれてしまいました。それでイサクは別の場所に移動して、そこにあったアブラハムの井戸を掘り返して水を得ました。しかし、それらもねたんだ者たちに奪われました。それでイサクは新たな井戸を掘り、そこでもなお妨害を受けますが、粘り強く新しい井戸を掘り続けて、主の祝福を得ました。

 これらのことから、信仰とは単に前の世代からの信仰の井戸を受け継ぐだけでは、ふさがれてしまうものであり、私たちはそれを粘り強く何度も掘り返し、さらには新しい井戸を掘って行く営みであることを学びました。信仰生活とは、そのような粘り強い営みです。そして、そのことで主は新たな信仰の水を与えて下さいます。

 イサクは新たな水が与えられたことに感謝して、祭壇を築き、主の御名を呼び求めました。

創世記26:25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 この祭壇を築いて主の御名を呼び求める信仰はアブラハムから引き継いだものでした。アブラハムは行く先々で、主のために祭壇を築いて主の御名を呼び求めました。きょうは、このアブラハムの箇所を開きながら、現代の私たちにとって祭壇を築くとは、どういうことかについて、ご一緒に思いを巡らしたいとと思います。きょうの中心聖句は創世記12章の7節と8節です。

創世記12:7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①行く先々で祭壇を築いて祈ったアブラハム
 ②非日常の中で神様を近くに感じながら祈る
 ③祭壇を自ら新たに築いて一人前の弟子になる

①行く先々で祭壇を築いて祈ったアブラハム
 まずは聖書を見て、アブラハムが行き先々で祭壇を築いた様子を見ておきたいと思います。創世記12章の1節から見ていきます(旧約p.17)。この時、アブラハムはまだアブラムで、これから行くカナンの地と故郷のウルとの中間ぐらいのハランの地にいました。ここでアブラムは主の御声を聞きました。1節から3節、

創世記12:1 はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 そうして、アブラムはハランの地を出発してカナンの地に向かいました。4節から6節、

4 アブラムは、が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。

 このように、アブラムが主の声を聞いて、その声に聞き従ってカナンの地に入ったところから、イスラエルの信仰の歴史が始まりましたから、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。

 そして7節と8節にはアブラムが主のために祭壇を築いたことが繰り返し書かれています。

7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 アブラムは行く先々で主のために祭壇を築きました。そして、8節の終わりに「主の御名を呼び求めた」とあります。ページの下の脚注を見ると、別訳として「主に祈った」とあります。つまりアブラムは主に祈るために、祭壇を築きました。では、現代の私たちにとって「祭壇を築く」とは、どういうことでしょうか?次の2番目のパートに進んで、このことを考えてみたいと思います。

②非日常の中で神様を近くに感じながら祈る
 旧約の時代、アブラハムやイサクは祭壇にささげ物をささげて、お祈りしました。では、新約の時代の現代の私たちは祈る時に何をささげるでしょうか?

 お手本はイエス様でしょう。イエス様はご自身をささげて十字架に付きました。すると、私たちも、私自身を神様にささげて祈る、ということになるのではないでしょうか?

 たとえば家族の健康を祈るとします。「神様、どうか私の家族の健康を守って下さい」と祈る時には、「私自身をささげます」という気持ちで祈る、それが現代における祭壇を築いて祈る、ということではないでしょうか?私自身をささげる、とは言い換えれば「私を用いて下さい」とも言えるでしょう。そうして私たちは会堂の清掃をしたり、お花の御用をしたり、礼拝の司会や奏楽、受付や感謝祈祷の御用をします。

 もっと大きなことを神様にお願いする時には、もっと多くささげる気持ちで祈るということになるのかもしれません。そう考えると、祈るという行為はとても重い行為なのだということを、アブラハムとイサクが祭壇を築いて祈った記事は教えてくれています。

 私自身も今回の説教の準備をするまでは、祈るという行為の重さに気付いていませんでした。でも、ご自身をささげたイエス様の十字架のことを思うなら、私たちもまた私自身をささげなければならないでしょう。そして、それは神様にすべてをお委ねするということでもありますから、委ねることで自分中心の罪から解放されて、心の平安を得ることにつながります。そうして自分中心の罪から解放されるなら神様中心となって、神様を愛し、隣人を愛することが自然にできるようになる、それがイエス様の十字架を信じる私たちの信仰でしょう。

 この、私自身をささげる祈りの場は、神様へ意識をしっかりと向けることができる、静かな場でなければなりません。福音書にはイエス様が寂しい所に出掛けて行って祈ったことが、いくつかの箇所に書かれていますね。例えばマルコ1:35です。

マルコ 1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

 寂しい所とは他に人がいない静かな場所というような意味でしょう。イエス様はこのような場所で天の父に祈られました。

 静かな環境で神様に意識をしっかりと向けて祈るとは、非日常の中で祈ること、という言い方もできるかもしれません。私たちの日常生活は大体の場合は騒音に囲まれていて、いろいろと気が散ることが多いと思います。その日常から離れるなら神様に意識を向けやすくなります。聖宣神学院ではテレビが無い生活をしていましたから、神様に意識を向けやすい環境であったと思います。そうして神様を近くに感じながら生活することができましたから、感謝でした。

 コロナ禍で緊急事態宣言が発令されて対面式の礼拝を自粛した時も、私たちはある意味、非日常を経験したことになると思います。2020年の4/19から5/17までの5回の礼拝を原則としてライブ配信のみの礼拝とした時は、戸惑いの方が大きかったですが、翌年の2021年の8/15から9/26までの7回の礼拝をライブ配信のみにした時は、このような非常事態に慣れていたこともあって、非日常の中で神様を近くに感じていたように思います。この間の礼拝説教の聖書箇所はずっとヨハネの福音書の最後の晩餐の場面からでした。イエス様は最後の晩餐で弟子たちに大切なことを説き明かしました。この最後の晩餐の学びを緊急事態宣言が発令中という非日常の中でできたことで、それまでよりも、神様を近くに感じるようになったという気がしています。

 というのは、この緊急事態宣言が明けた後の去年の10月から私は、その枝教会で毎週金曜日の朝6時半から持たれている静岡朝祷会に参加するようになったからです。朝祷会に参加すべきことを緊急事態宣言中に神様から示されました。そうして、この1年間はほぼ毎回出席して現在に至ります。私にとってはこの教会にいることは日常のことになっていますから、週1回、その枝教会で非日常の時が与えられて神様を近くに感じることができることをとても感謝に思っています。

 そして最近また別の形で、非日常の中で神様を近くに感じる経験をしました。それは、9月24日の12時間の停電中でした。午前2時に停電した瞬間、たまたま私は起きていました。そして、しばらくすれば復帰するだろうと思っていましたが、10分経っても20分経っても電気は付きませんでした。テレビはもちろん見られませんから、乾電池式のラジオを付けて聞いていました。外に出て交差点を見てみると、信号機が点いていませんでした。テレビが見られず信号機も点いていないことは日常生活では有り得ないことですから、この時の私は非日常の中にいました。そうして後から考えると、この時の私は神様をとても近くに感じていたように思います。

③祭壇を自ら新たに築いて一人前の弟子になる
 このような非日常を経験することは、祭壇を新たに築くということでもあるでしょう。創世記12章の7節と8節でアブラムは行った先々で祭壇を築いて主に祈りました。新たな祭壇を築いた時は、新たな気持ちで主に向き合い、祈ったことでしょう。私たちも、日常では経験しない非日常を新たに経験すると、主を近くに感じる経験を新たにできます。それは祭壇を新たに築くことだと言えるでしょう。そうして私自身をささげる気持ちを新たにしながら神様に祈ります。

 この、新しく祭壇を築くことは皆さんのお一人お一人がご自身で行うことですから、一人前の弟子になる良い機会が与えられるということでもあると思います。きょう最初に話したように、創世記26章25節で、アブラハムの息子のイサクは、自分で祭壇を築きました。もう一度お読みします。26章25節(週報p.2)。

創世記26:25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 ここでイサクはアブラハムの信仰を引き継ぎ、独り立ちしました。つまり、イサクは信仰者として一人前になったと言えるでしょう。私たちも非日常を経験することで神様を近くに感じて、それをきっかけに新たな歩みを始めるなら、それが祭壇を新たに築くことであり、イエス様の弟子として一人前になるということでしょう。

 2番目のパートで私は神学生の時のことを話し、とても感謝していると話しました。テレビが見られない神学院という非日常の中で神様を近くに感じる経験を積むことができたからです。但し、当時の神学院は、神学生を一人前の大人とは見なさない雰囲気がまだ残っていましたから、早く卒業したいと私はいつも思っていました。

 子供扱いに違和感を覚えていたのは多分、私が研究者の社会で育ったからだろうと思います。研究の世界では大学院に進学した大学院生に対しては、対等の研究者として育てる雰囲気があります。もちろん大学院に進学したばかりではまだまだですが、早く一人前の研究者になれるようにと私は恩師の先生に育てていただきました。そのことに、とても感謝していましたから、私も自分で研究室を持つようになってからは、所属する大学院生が早く一人前になれるように、できるだけ対等の研究者として向き合うようにしました。

 そういう育ち方をしていますから、イエス様も早く私たちが一人前の弟子になるようにと励まして下さっていることを感じます。一人一人が聖霊を受けて、イエス様との個人的な関係を築いて、そうして祈りのための祭壇を築いて、イエス様のように自分自身をささげることができる一人前の弟子になりたいと思います。

おわりに
 このところ何度か話していますが、この9月から10月に掛けてeラーニングの「包括的福音を求めて」を受講して、これまでの考え方を根本的に改められるような経験をしました。かなり衝撃的でしたが、こういうことがあるから聖書の学びは楽しいのだと思います。
 インマヌエルのeラーニングが始まったのは私が神学生だった2010年頃でした。このeラーニングの学びはインターネットへの接続が都会だけでなく地方でも容易になったことで実現しました。当初は動画ではなくて、テキストを見ながらの学びでしたが、それでも画期的なことだったと思います。そうしてインターネットを利用して、牧師や信徒が新しい学びができるようになりました。特に牧師の場合、神学校で学んだことが更新されずにいる場合が多いためにeラーニングが立ち上げられて、学びを更新できるようにして下さいました。そうして、様々な講座が企画されて、時には、にわかには受け入れがたいような新しいことも語られます。でも、そうやって私たちは、祭壇を新たに築き直して行くのだと思います。

 アブラハムが行く先々で祈りのための祭壇を築いたように、またイサクが一度ふさがれた井戸を掘り返し、そうしてまた新たな井戸を掘り、新たな祭壇を築いたように、私たちも非日常の中でイエス様との新たな出会いを経験しながら、新たな祭壇を築いて、祈ります。そうして、いつも新しい信仰の井戸の水を与えていただくことで、イサクがアブラハムから受け継いだ信仰をヤコブに引き継いで行ったように、私たちも次の世代に引き継いで行きたいと思います。

 来週は子供祝福礼拝を行います。私たちは若い世代に信仰を引き継いで行ってもらいたいと願っています。それは若い世代の人たちが自らの手で祭壇を築くことができるようになる、ということです。そのためには、私たち自身も、新たな祭壇を築く営みを続けていなければならないと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

創世記12:7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。
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泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す(2022.10.30 礼拝)

2022-10-31 05:16:09 | 礼拝メッセージ
2022年10月30日礼拝メッセージ
『泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す』
【創世記26:17~25】

はじめに
 きょうは私たちが今使っている『聖書 新改訳2017』の名前の由来から話を始めたいと思います。

 新改訳聖書の2017年版は2017年に発行されましたから、2017という数字が付けられています。この2017年版は最初の計画ではもう少し早い年に発行される予定だったようです。では、もしこの新しい聖書が2015年に発行されていたら、『聖書 新改訳2015』という名前が付けられたのでしょうか?たぶん、そんなことは無かったでしょう。きっと別の名前が付けられたことと思います。

 きょうはその辺りから、話を始めます。きょうの中心聖句は創世記26章18節です。

創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
 ②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
 ③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ

①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
 本を買うと、おしまいの方のページにその本の発行日などを記した奥付がありますね。私たちが使っている『聖書 新改訳2017』の奥付を見ると、「2017年10月31日 発行」と印刷されています。10月31日と言うと、ハロウィンを思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この10月31日は宗教改革記念日の10月31日でしょう。特に2017年の10月31日はルターが教会の扉に「95箇条の提題」をハンマーで打ち付けてから、ちょうど500年目の宗教改革記念日でした。宗教改革が始まってからちょうど500年目の記念すべき年に、この聖書が発行されたので『聖書 新改訳2017』という名前が付けられたと5年前の発行当時は言われていたように記憶しています。ですから、もし2015年や2016年に発行されていたとしても、新改訳2015とか新改訳2016という名前は付けられなかっただろうと思います。宗教改革から500年という記念すべき年だったからこそ、新改訳2017となったのだと思います。

 でも「あとがき」を見ると、宗教改革のことには一切触れられていません。これは私の個人的な憶測ですが、カトリックへの配慮があったのではないかなという気がします。宗教改革によって西方のキリスト教会はカトリックとプロテスタントとに分裂しました。プロテスタントの「プロテスト(protest)」という英語の動詞は日本語に訳すと「抗議する」ですから、プロテスタントとは「抗議する人」というような意味です。こうして、西方教会は二つに分裂してしまいました(後にはさらに分裂して行きます)。2017年の11月23日には長崎でカトリックとルーテルの合同記念礼拝が行われていますから、両者の歩み寄りの動きに水を差すようなことは控えたのかもしれませんね。

 ルーテルとはルターのことですから、ルーテル教会はルター派の教会です。おとといの金曜日の静岡朝祷会のメッセージの担当者は偶然だと思いますが、静岡ルーテル教会の先生でした。きょうの30日にはルーテル教会では宗教改革記念礼拝を行うということで、おとといの朝祷会ではルーテルの先生がルターの宗教改革について熱く語って下さいました。ルターについては私も神学校でそれなりに聞いて学んでいますが、やはりインマヌエルの先生がルターについて語るのと、ルーテルの先生がルターについて語るのとではぜんぜん違うなと思いました。ルーテルの先生は実に生き生きとルターについて熱く語って下さいました。

 ルターの宗教改革については、クリスチャンでなくても中学や高校の歴史の時間に学びますから、一般の中学生でも知っていますね。私も中高生の時に学んだ覚えがあります。この時、「免罪符」のことを学びましたが、「免罪符」は誤解を招きやすい誤った表現です。免罪符ではなく、贖宥状や免償符ということばがありますから、そちらを使うべきです(週報p.2)。ただ、贖宥状は難しいことばですから、免償符で説明します。

 免罪符という言い方が誤りなのは、お金を払ってこれを買えば罪を免れますよと当時の教会が言っていたわけではないからです。罪はイエス様の十字架によって赦されていますから、罪は既に免れています。でも、償いはしなければならないと教会は教えていました。たとえば善い行いをして償います。その善い行いをする代わりにお金で免償符を買えば、それ以上償いをしなくても良いですよ、というものです。

 もし償いが十分にできないなら煉獄で苦しまなければならないというのが教会の教えでした。でも善い行いの代わりに免償符を買えば煉獄で苦しまなくても良いということで、多くの人が免償符を買い求めました。しかも、これは自分の死後のことだけでなく、既に亡くなった自分の両親や祖父母や先祖が今煉獄で苦しんでいるかもしれない、そのご先祖様のことも煉獄から救い出せると言っていたそうです。そうして、教会は多大な収入を得ていました。この免償符で得た収入で教会は立派な会堂を建てたり、或いは、もしかしたら司教が使途不明の使い方をしていたかもしれません。このようにして、当時の教会では世俗化がどんどん進んでいました。

 それに対してルターは、人は善い行いによって救われるのではない、ましてやお金で救われるのではない、ただ信仰によってのみ救われるのだと抗議しました。この500年前の免償符がおかしいことは、500年後の私たちが外から冷静に眺めていればすぐに気付くことです。でも、その渦中にいるとなかなか気付きにくい性質のものかもしれません。それゆえ21世紀の現代においても未だに旧統一教会の問題や霊感商法などの問題があります。

②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
 免償符をお金で買えば償いを免れて、自分もご先祖様も煉獄で苦しむことはないというような誤った教えは、私たちの信仰を濁らせる泥水のようなものです。神様が与えて下さる信仰の水は透き通っていて透明ですが、泥水が信仰を濁らせます。この泥水は時に恐ろしい勢いで私たちを飲み込もうとします。きょうの聖書交読でご一緒に読んだ詩篇69篇の1~3節でダビデは神様に向かって叫びました。

詩篇69:1 神よ、私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。
3 私は叫んで疲れ果て、喉は渇き、目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。

 このところ毎週のように言っていますが、いま私たちはとても悪い時代の中を生きています。コロナ禍、戦争、温暖化による異常気象、そして最近の旧統一教会の問題も教会にとっては憂慮すべき深刻な問題です。これらの問題は大水のように私たちを襲い、詩篇69篇のダビデのように私たちを押し流そうとしています。この泥水は恐ろしいことに、たとえ溺れ死ぬことを免れたとしても、水が引いた後には大量の泥を残します。

 9月23日から24日に掛けて静岡の南方を通過した台風15号では1974年の七夕豪雨以来の記録的な大雨が降り、送電用の鉄塔2基が倒壊して私たちが住む地域の多くが約12時間もの長い間停電する被害がありました。そして、清水区の巴川の流域や葵区の安倍川の流域では多くのお宅が床上浸水の被害に遭いました。

 私は静岡市の災害ボランティアで、主に油山地区や松野地区などの安倍川流域の山間部に入って活動していますが、ここでは多くのお宅や畑などが1メートル前後の浸水の被害に遭って、水が引いた後に大量の泥が残されました。この安倍川流域の山間部の浸水は、安倍川の水が堤防を越水したことによるものではなくて、山に降った大量の雨水が谷や沢に集中して安倍川に流れ込む小さな川が氾濫して、地域一帯が水没したということのようです。最初にこの地域に入った時に、安倍川が越水したわけではないのに、どうしてこんなに広い地域が浸水の被害に遭ったのかが良く分からないでいました。

 でも何回目かに現地に入った時に、地元の農家の方が山の土砂崩れの跡を指さして、最近は山の木の間伐ができていないから、木が密集していて十分に根を張ることができなくて、土砂崩れが起きやすくなっていると教えてくれました。それで分かったのですが、間伐などの森林管理が十分にできていないと山は雨水をスポンジのように吸い込む機能が失われて、降った雨水の多くが山の表面を流れて谷や沢に集中し、その結果、安倍川に流れ込む小さな川が氾濫した、ということのようです。山からの雨水ですから、山の土もたっぷりと含んでいて、水が引いた後では家も畑も泥まみれになりました。排水溝や側溝も泥でふさがれて排水が悪くなっています。

 その泥を、スコップなどで出す作業をしていますが、ふと祈祷会で開いた創世記26章でアブラハムの息子のイサクが父の時代に掘られた井戸を掘り返した場面と重なりました。きょうのメッセージの後半では、このことを分かち合いたいと思います。

 創世記26章を開いて下さい(旧約p.43)。少し長い場面なので聖書朗読では司会者に17節から読んでいただきましたが、まず1節を見ておきたく思います。

創世記26:1 さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。

 この時、イサクたちが住んでいたカナンの地では飢饉が起きたために、カナンの南の方にあるペリシテ人の地のゲラルに行きました。途中は飛ばして、次のページの12節と13節、

12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。は彼を祝福された。
13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

 主はアブラハムと同じように息子のイサクも祝福されたので、彼は非常に裕福になりました。しかしそのことで、イサクはペリシテ人にねたまれることになりました。14節と15節、

14 彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

 この箇所を読んでいて、井戸から湧き出る水は信仰を象徴しているように感じました。ヨハネの福音書4章で井戸の水を汲みに来たサマリアの女性にイエス様はおっしゃいましたね(週報p.2)。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 神様であるイエス様が与えて下さる水は信仰の水です。アブラハムの時代に掘られた井戸からは、信仰の水が豊かに湧き出ていました。そして、イサクも神様に祝福されて信仰の水の恵みをいただいていました。しかし、そのことでペリシテ人のねたみを招いたために、井戸がふさがれてしまって、信仰の水を汲み出すことができなくなりました。神様に祝福されると、却ってそのことで信仰の危機を招くというようなことは、新約の時代の教会にもあることです。現代でも聞く話ですが、ルターの時代に免償符を買うことを勧めていた教会も、祝福されたゆえに悪魔の攻撃を受けて世俗化してしまいましたから、同じだと言えそうです。そうして信仰が濁り、遂には信仰の井戸がふさがれてしまいました。

 イサクの場合も信仰の危機に瀕したことでしょう。父アブラハムの井戸を失い、やけになって信仰も失うということだって有り得ないことではないでしょう。たとえばアブラハムの甥のロト、つまりイサクのいとこのロトであったら、少し軟弱な印象がありますから、信仰を失っていたかもしれません。でもイサクはそんなことはありませんでした。17節から19節、

17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。
18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。

 イサクは父アブラハムの時代に掘られて、その後ペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返しました。つまり、イサクは自分の信仰の井戸を掘り返しました。18節には、「それら」と複数形が使われていますから、井戸は1つではなかったのですね。父アブラハムの時代の井戸は複数あり、イサクはそれらを掘り返して、父が付けていたのと同じ名前を付けました。そんなイサクに神様は信仰の水を与えて下さいました。しかし、またしてもペリシテ人の妨害に2度も遭いました。それでもイサクは他の場所で粘り強く井戸をしもべたちと掘りました。22節、

22 イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

 イサクは、ここはが与えて下さった地だと言いました。イサクの信仰はペリシテ人の妨害を受けても、少しも失われていなかったのですね。そのような信仰を持つイサクに主が現れて下さいました。23節と24節、

23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
24 はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

 は、イサクを「アブラハムのゆえに」祝福すると仰せられました。でも、この祝福はイサクがアブラハムの息子だからという理由で自動的に与えられたわけではありません。ふさがれた信仰の井戸をイサクが粘り強く掘り返したからこそ、祝福が与えられました。このイサクの信仰の姿勢は25節にも良く現れています。25節、

25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 イサクは祭壇を築いての御名を呼び求めました。別訳では「に祈った」と脚注にあります。イサクは祈りの人でもあったのですね。こうして信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰が、息子のイサクにしっかりと受け継がれて、ヤコブへと引き継がれて行きました。このように信仰がアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれて行った様子は、信仰を次の世代に引き継いで行かなければならない現代の私たちにとって、良い参考になるのではないでしょうか。

③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ
 明日の10月31日は宗教改革記念日です。ルターの宗教改革も、免償符の販売によって泥でふさがれてしまった信仰の井戸を掘り返すようなものだったと言えるのではないでしょうか。1517年という年は宗教改革の始まりに過ぎず、そこに多くの人々が加わって行き、粘り強く改革が続けられました。イサクがしもべたちと粘り強く井戸を掘り続けたことに似ています。そしてイサクがそうであったように、ルターも数々の困難な目に遭いました。そうして、プロテスタント教会が後に引き継がれて行きました。

 そして私たち自身もまた信仰の井戸を掘り返すことを続けて行かなければなりません。私たちの信仰は一度井戸を掘ればそれで良し、というわけではないでしょう。様々に困難な目に遭う中で活力を失い、ふさがれて行きます。その度に私たちは井戸を掘り返さなければなりません。そうして神様から濁っていない、きよい信仰の水が与えられ続けて初めて、次の世代へと引き継いで行くことができる、そのことを今日のイサクとルターは教えてくれていると思います。

おわりに
 聖書に基づく信仰は、掘り返す度に新しい発見があるものです。前の世代から受け継いだ信仰も大切にしつつ、新しい発見をするワクワク感も大切にしたいと思います。そういうワクワク感が無ければ若い人々に聖書の魅力を伝えることは困難だと思います。先月から今月に掛けてeラーニングで新たに学んだ『包括的信仰を求めて』の講座では、これまでのキリスト教信仰がひっくり返されるようなビックリすることを学びました。でも、それは決して奇抜なことではなくて、聖書にちゃんと書いてあることでした。こういう新しいことが学べるから、聖書の学びは本当に楽しいと感じます。そして、そのことのゆえに主の御名を崇めます。今回のeラーニングで学んだことを皆さんにいきなり話すとビックリすると思いますから、今は控えますが、少しずつ紹介して分かち合って行けたらと思っています。そうして、次の世代にイエス様の福音を伝える準備をして行きたいと思います。

 私たちの信仰の井戸は放っておくとすぐに泥でふさがれてしまうことを創世記26章のイサクと宗教改革のルターは教えてくれています。ですから、イサクやルターのように私たちも信仰の井戸を掘り返す営みを続けて行きたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。

創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
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人は隣人を愛するように造られている(2022.10.23 教団創立記念礼拝)

2022-10-24 06:42:29 | 礼拝メッセージ
2022年10月23日教団創立記念礼拝メッセージ
『人は隣人を愛するように造られている』
【ルカ10:25~37(交読)、マタイ25:31~40(朗読)】

はじめに
 一昨日の10月21日は私たちの教団、イムマヌエル綜合伝道団の創立記念日でした。今日の礼拝は、このことを覚えて神様に感謝する教団創立記念礼拝です。

 創立の日の1945年10月21日という日は、教団の初代総理の蔦田二雄先生が同志の長谷川元子・正子の姉妹と三人で祈る中で同じビジョンが与えられた日です。まだ教団としての形は何も整っていませんでしたが、この日を境にして新しい教団の設立に向けて動き始めたことから、創立の日とされたということです。そうして年末に掛けて準備が進められて、翌1946年の1月に「御挨拶の辞」という文書が関係者に送付されました。『イムマヌエル廿年史』にある蔦田先生のことばによれば戦前の知人・友人に向けて発送されたということで、この挨拶状を読んで共に「新田の開拓」に歩みを進めようと同志が参集して、教団が発足しました。

 この1946年1月の時点では、私たちの教会の初代牧師の松村導男先生はまだ中国にいましたが、翌月の2月に帰国して3月には蔦田先生と会い、松村先生もまた新しく発足した教団に合流することを決めたということです。そうして6月には教団の第1次の年会が船橋で開かれました。この時、部局は医務部、伝道部、保育部、農耕部の4つがあり、総合伝道が目指されました。

 この敗戦直後の混乱期に教団が形成された歴史については、正直言って私の中ではこれまでは古い過去の出来事のように感じていました。しかし、今年の2月にロシアがウクライナに軍事侵攻して廃墟となった街並みの映像をほとんど毎日のように見るようになってからは、77年前の日本の敗戦時のことをとても身近に感じるようになりました。

 また、1ヶ月前の9月23日から24日に掛けての台風15号の通過時には大雨によって静岡県内の各地で大きな被害が出ました。大きく報道されたのは清水区の断水でしたが、私たちの多くも12時間の停電を経験しましたし、静岡市内の特に油山地区や松野地区など安倍川流域の山間部では今なお民家や畑や側溝に流入した土砂や泥が撤去されていない場所があります。温暖化による異常気象の問題が、遂に静岡の私たちの生活をも直接揺るがす事態となりました。

 さらに2年半前からの新型コロナウイルスによる感染症の問題もあって私たちの今の世は77年前の敗戦時以来の混乱の中にあります。この悪い時代の中にあって私たちはどうあるべきなのか、77年前の教団創立の時を覚えながら、共に思いを巡らす時としたいと思います。

 きょうの中心聖句はマタイ25章40節です。

マタイ25:40 「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①神・隣人・地域を愛するように造られた私たち
 ②御霊の実を結んで、造られたままの人に戻る
 ③造られたままの自分らしさで行う総合伝道

①神・隣人・地域を愛するように造られた私たち
 私たちは神を愛し、隣人を愛し、地域を愛して地域のために働きます。働く地域がどれくらいの広さかは、預けられたタラントの額によるのでしょう。例えばの話ですが、1タラントの人は町内会、2タラントの人は静岡市、3タラントの人は静岡県、4タラントの人は日本、5タラントの人は世界のために働く、そんなイメージでしょうか。自分や家族が救われるだけでなく、地域全体が救われるように地域のために働くことが期待されているのだと思います。静岡のため、日本のため、世界のためなどと言うと、大袈裟に感じる方もいるかもしれませんが、77年前の敗戦時においてはこのことが考えられていたのですから、決して大袈裟ではないでしょう。

 先月から今月に掛けて私はインマヌエルのeラーニングの「包括的福音を求めて」という講座を受講しました。「包括的」の「包」は「包む」という字ですから、「包括的福音」とは、全体を包むような広い意味での福音という意味でしょう。広い意味での福音である「包括的福音」を伝える働きを考えることは、私たちの教団の名称にもなっている「総合伝道」を行って行く上で、とても大切なことであると思います。広い意味の福音では、イエス・キリストの十字架の贖いは人々の魂の救いのためだけでなく、国土全体、地球全体(すなわち被造物全体)の回復のためであったと考えます。

 77年前の敗戦直後にあっては国土も人々の心も魂も、ほとんどすべてが荒れ果てて荒廃していました。これら国土と人々の心と魂の全体の回復を目指してイムマヌエル綜合伝道団が設立されました。しかし、国土の復興が進んで医務部、保育部、農耕部が役割を終えてこれらの部局がなくなるに連れて、人の魂を救うことに特化した福音へと移って行ったように思います。でも、77年前の敗戦時以来の混乱した今の2022年の世にあっては、広い意味での福音を伝える総合伝道の重要性が再び増していると思います。

 そして、この総合伝道が必要な時代にあっては、聖書も広い視野で読む必要があるでしょう。そのことを、マタイ25章を見ながら分かち合いたいと思います。まず31節から33節をお読みします。

マタイ25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

 イエス様は終わりの時の、最後の審判の時のことを話し始めました。次に34節、

34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

 この者たちは御国に入れる者たちです。彼らは弱い人々を助けていました。35節と36節、

35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

 すると、37節から39節、

37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

 すると40節、

40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

 一方、弱い人々を助けなかった者たちは御国には入れません。45節と46節、

45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 この箇所だけを読むと、御国に入るには弱い人々を助けなければならないと思うかもしれません。しかし、もっと広く聖書を読むなら、弱い人々を助けることが大切というのとは、ちょっと違うことに気付かされます。そもそも神様は人を神様の似姿に造られました。創世記1章26節です(週報p.2)。聖書協会共同訳でお読みします。

創世記1:26 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」(聖書協会共同訳)

 私たちは神様の姿に造られました。簡単に言えば、私たちはイエス様のような心を持った者として造られました。イエス様は天の父を愛し、人を愛し、父が造られたすべての物を愛しておられました。このイエス様のような心を持って私たちは造られました。この心を持っていれば、ごく自然に弱い人々を助けるでしょう。つまり、御国に入るにふさわしい者とは、もともと造られたままの者だということです。弱い人々を助けるよう心掛けるのではなく、私たちはもともとそのように造られていました。

 しかし、罪が入ったために、私たちの多くはそのことができなくなりました。それゆえイエス・キリストを信じて回復されてそのような者に戻るなら、この地上を上手く治めることができるようになり、戦争がない平和な世になり、温暖化も止まり、以前のような穏やかな気候の中で暮らすことができるようになるでしょう。イエス様が再び戻って来るまでの間、タラントを預けられた私たちには、そのような働きが期待されています。イエス様を信じて救われたなら、あとは御国に入る時を待ち望んでいれば良いのではなく、タラントに応じて地上を治める働きを私たちは担っています。今の混乱した世にあって、私たちはこのことを覚えたいと思います。

②御霊の実を結んで、造られたままの人に戻る
 きょうの聖書交読では、ルカ10章の有名な「善きサマリア人のたとえ」の場面を読みました。もう一度ご一緒に見てみましょう(新約p.136)です。まず25節、

ルカ10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」

 「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、きょうのマタイ25章の「御国を受け継ぐ」と同じ意味ですね。26節と27節、

26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

 ルカの福音書ではこのようにイエス様が尋ねて律法の専門家が答える形になっています。一方、マタイとマルコの福音書では律法の専門家が尋ねてイエス様が答えています。例えばマタイの福音書22章の36節から39節には、このように書かれています(週報p.2)。

マタイ22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

 この主を愛し、隣人を愛することは、もともとの造られたままの人には備わっていたことです。ですから、もともとの神のかたちへと回復されるなら、主を愛し、隣人を愛することが自然にできます。隣人を愛する者とはどういう者かと言えば、このルカ10章に出て来る「善きサマリア人」のような者です。このサマリア人は、33節から35節に書かれているように、強盗に襲われて半殺しにされた人を見てかわいそうに思って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱しました。そして次の日、彼はデナリ2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

 このような隣人愛が、神様に造られたままの私たちには備わっていました。しかし、罪が入ったために、このように隣人を愛することができなくなり、争い事ばかりするようになりました。これほどまでに悪に染まってしまった私たち人間が主を愛し、隣人を愛することができるように回復されるためには、イエス様の十字架の死と復活が必要でした。そうして、このイエス様の十字架の死と復活を信じて聖霊を受けるなら御霊の実を結んで、次第にイエス様に似た者へと回復されて行きます。

 御霊の実については、いつも引用しているように、パウロがガラテヤ人への手紙の5章に書いています(週報p.2)。

ガラテヤ5:24 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。

 ですから、御霊の実を結ぶとは、神様が造られたままの本来の人に戻ることだと言えるでしょう。そうして愛や親切や善意の心が回復するなら、ルカ10章のサマリア人やマタイ25章の弱い人々を助けた者たちのように、隣人を愛することができるようなるでしょう。
 
③造られたままの自分らしさで行う総合伝道
 ここで、マタイ25章の全体を簡単に振り返っておきたいと思います。マタイ25章の1節から13節までには、ともしびの油を持っていた賢い娘と、ともしびの油を持っていなかった愚かな娘のことが書かれています。ここで、ともしびの油とは聖霊のことでしょう。きょうの10/23の『岩から出た蜜』の蔦田二雄先生も、「油とは聖霊を象徴したもの」であると書いています(週報p.3)。そして、次のマタイ25章14節から30節には5タラント、2タラント、1タラントを預けられたしもべのたとえが記されています。一番少ない1タラントのしもべでも6千万円もの大金が預けられました(1デナリを1万円とした場合)。この金額の多さから、そして油(聖霊)の次にタラントの話をしていることから、タラントとは「御霊の賜物」であろうと先週は話しました。そして、きょうの聖書箇所にある弱い人々を助けた人とは御霊の実を結んで造られたままの本来の人に回復されて隣人を愛することができるようになった人であることを話しました。

 私たち人間は皆、違う賜物が与えられています。それぞれ得意分野があって、それを用いて互いが助け合ってイエス様のために働いて、総合伝道を行います。77年前の教団設立の時で言えば、医療ができる人は医務部で働き、保育ができる人は保育部で働き、農作業ができる人は農耕部で働きました。

 今の2022年の混乱した世にあっても医療ができる人は病気で苦しむ人々のために働きます。或いはウクライナから避難した人々など戦災で苦しむ人々のために働く人々もいます。温暖化による異常気象で被災した人々のために働く人々もいます。少し前のことになりますが、NHKの『ドキュメント72時間』という番組で、看護師を養成する看護学校での72時間を取材した回がありました。コロナ禍が始まった後のことで、医療従事者の負担の大きさが問題になっていました。でも、こういう時だからこそ看護師になりたいと、この道を志す若い人々がいる様子を見て、とても感動しました。聖霊は、まだイエス様の福音を知る前の人々にも働きかけて、弱い人々のために働くように促していることを感じます。

 と言うのは、私もかつてイエス様の福音を知る前の1995年のことでしたが、阪神淡路大震災があった時にボランティアが続々と神戸に入っているという報道を見て、自分も神戸に行くべきではないかと真剣に悩んだ経験があるからです。当時の私は東京の大学の留学生センターに採用されて東京に行くことが決まっていましたが、まだ着任前で仕事をしていなかったからです。無職の自分はボランティアに行くべきではないかと真剣に悩みました。結局その時は自分に何ができるか自信がなくて行きませんでしたから、行かなかったことに罪悪感を感じて負い目となりました。今から考えると、困っている人々のために働くべきと聖霊の促しを受けていたのかもしれません。聖霊は、まだイエス様を知らない人にも働き掛けるからです。聖霊の働き掛けがあるからこそ、私たちは罪人であるにも関わらず導かれてイエス様と出会うことが可能になります。

 今月に入ってから私は何回か静岡市の災害ボランティアに参加して、門屋地区、足久保地区、油山地区、松野地区で泥や土砂の撤去作業を行いました。だいたい6人前後のグループで活動していて、同じグループになった方たちと現場に向かう車の中や休憩の時に、いろいろ話をします。皆、気持ちの良い方々ばかりで、困っている人のために働きたいという純粋な気持ちを持って無償で働いています。イエス様のことを知らなくても、困っている人のために働きたいという方々と話していると、『人はもともと隣人を愛するように造られている』のだなということを実感します(きょうのタイトル)。

 温暖化による異常気象で大雨の災害が起きやすくなってしまったことは、とても残念なことであり、被災した方々が早く元の生活に戻ることができるように、行政にはお願いしたいと思います。このような深刻な状況がある一方で、こういう状況の中で本来の造られたままの隣人を愛する気持ちが多くの人々の心の表面に現れて来ることは、とても感謝なことだと思います。普段は罪に覆われていて現れにくくなっている造られたままの心が、混乱している今は表面に現れやすくなっています。

おわりに
 77年前の敗戦時がまさにそういう時代でした。混乱の中にあって多くの人々が教会に導かれ、イエス様と出会いました。その中で神様の召しの声を聴いて牧師になった先生方もたくさんおられました。21世紀になってからはその時に与えられた牧師と信徒がどんどん減っていますが、2022年の今はまた、人々の心がイエス様の方を向きやすい時になっていることを感じます。

 でも、そのためには、人の魂だけではなく荒廃した国土をも救うという敗戦直後のような総合伝道が必要とされているのではないかと思います。総合伝道ですから、働きの種類は無限にあるでしょう。それぞれが造られたままの自分らしさに回復していただき、イエス様のために働きたいと思います。私たちはもともと神様を愛し、隣人を愛し、地域を愛する者として造られましたから、御霊の実を結んで造られたままの人に回復していただいて、イエス様のために働きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
 
マタイ25:40 「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」
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御霊の賜物のタラント(2022.10.16 礼拝)

2022-10-17 18:10:53 | 礼拝メッセージ
2022年10月16日礼拝メッセージ
『御霊の賜物のタラント』
【マタイ25:14~23】

はじめに
 今週の金曜日の10月21日は私たちの教団のイマヌエル綜合伝道団の創立記念日です。この教会ではその2日後の23日の日曜日に教団創立記念礼拝を行うことにしています。教団が創立された年は1945年の終戦直後です。戦争が終わったのが8月で、その2ヶ月後にインマヌエル教団の歩みが始まりました。戦争中はキリスト教会が日本基督教団の一つだけに統合されましたから、ホーリネス教会の牧師であった蔦田二雄先生もそして松村導男先生も肩書上は日本基督教団の牧師だったと思います。

 しかし、敗戦後に蔦田二雄先生は神様に示されて日本基督教団を離れて新しくイムマヌエル綜合伝道団を設立しました。そして中国での宣教に携わっていた松村導男先生も引き揚げて来た時に蔦田先生と合流して、戦前からあったこの教会をインマヌエル静岡教会として、この静岡の地での宣教を再開しました。

 この教団が設立されて暫くの間は伝道部の他に医療部、保育部、農耕部があって、この四つの部で総合伝道を行っていたという話を先週はしました。敗戦で国土は荒廃しており、食糧事情が悪く、戦災孤児が多くいて、また生きる希望を失っていた大人も多くいた当時は人の心も荒廃していて、医療や保育、また農作物を作る農耕の働きも行う中で総合伝道を展開することが、とても大切だったのですね。そして、今の2022年もコロナ禍や温暖化による異常気象、戦争の問題などによって、国土も人の心も荒廃して弱っていることを感じます。それゆえ、今のこの時代は再び総合伝道が必要とされているのではないかと感じているところです。このことは来週の教団創立記念礼拝でまたご一緒に分かち合いたいと思います。

 さて、きょうは英和の高校生の奨励日です。まったくの偶然ですが、今月に入って私は教会の2階の応接室の書庫に『静岡英和女学院八十年史』という本があることに気付きました。書庫の一番下の棚にあり、しかも箱の背が日に焼けて文字が読みづらくなっているので、ぜんぜん気付いていませんでした。ただ、箱は焼けて古びていますが、中の本はきれいです。表紙の裏に教会のゴム印が押してあって、最初の方のページには「創立前史」、英和女学院創立前のこととして、エドワード・クラーク先生のことも7ページに亘って書かれています。クラーク先生については私も昨年の12月から勉強していますから、この英和八十年史に書かれていることの多くが知っていることでしたが、クラーク先生の蒔いた種が英和女学院の設立とどのようにつながって行ったかは、あまり知りませんでした。とても興味深いので、きょうは2番目のパートで、このことを分かち合いたいと思います。

 きょうのメッセージのタイトルは『御霊の賜物のタラント』ですが、静岡のクラーク先生ことエドワード・クラーク先生も御霊の賜物がたくさん与えられた人であったと思います。きょうのメッセージの中心聖句はマタイ25章の14節と15節です。

マタイ25:14 「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」
 
 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①御霊の賜物(ギフト)のタラントを預けられた私たち
 ②多くの賜物が与えられていた静岡のクラーク先生
 ③各自に与えられた賜物で主の再臨の道を整える

①御霊の賜物(ギフト)のタラントを預けられた私たち
 賜物とは英語で言えばギフト、つまり贈り物のことです。まず聖書を見ておきましょう。きょうの中心聖句でもあるマタイ25章の14節と15節を、もう一度お読みします。

マタイ25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。

 このタラントとはタレント、すなわち才能と深い関係があるという話を皆さんの多くは聞いたことがあると思います。この才能は、さらに御霊とも深い関係があるようです。なぜなら、きょうの記事の一つ手前には油を十分に用意していた賢い娘たちと油を切らしてしまった愚かな娘たちのたとえ話が載っているからです。このたとえ話もまた「天の御国は」で話が始まります。マタイ25章の1~4節をお読みします。

マタイ25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。

 この夜、花婿の到着が遅くなってしまったために、愚かな娘たちはともしびの油を切らしてしまいました。そうして、天の御国に入ることができませんでした。一方、賢い娘たちは油を持っていましたから、天の御国に入ることができました。この油とは、御霊、すなわち聖霊のことでしょう。旧約の時代においては油が注がれた者には多くの場合、主の霊すなわち御霊が注がれていました。たとえばダビデです。第一サムエル16:13は次のように記しています(週報p.2)。ここで「彼」とはダビデのことです。

Ⅰサムエル16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(ダビデ)に油を注いだ。の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。

 このように油と御霊は非常に近い関係にあります。それゆえ賢い娘たちが持っていた油とは御霊、すなわち聖霊のことでしょう。イエス様を信じて聖霊を受けた者は永遠の命を得て、天の御国に入ることが許されます。賢い娘たちは御国に入ることが許されました。そしてイエス様は13節でおっしゃいました。

マタイ25:13 ですから、目を覚ましていなさい。

 この「目を覚ましていなさい」も、霊的に目覚めていなさいということですね。寝ないでずっと起きていなさい、ということではありません。聖霊を受けて、霊的に目覚めていなさいということです。このように13節で霊的に目覚めていなさいと言った後で、イエス様は14節でおっしゃいました。

14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。

 ですから、この財産とは御霊と深い関係があります。財産は、一番少ない者でも1タラントが預けられました。タラントがどれくらいの金額かと言うと、ページの下にある15節の脚注に、「1タラントは6千デナリに相当」とあります。また「1デナリは当時の1日分の労賃に相当」とあります。分かりやすく今の1日分の労賃を1万円とすると、1タラントは6千万円です。小さな商売であれば、10分の1の600万円でもできると思います。それなのに神様は一番少ない者でも6000万円も預けて下さいます。この金額の多さからも、この預けられたタラントが御霊と関係あることが分かるでしょう。

 ですから、この預けられたタラントとは御霊の賜物のことではないでしょうか。パウロは第一コリント12章で次のように書いています(週報p.2)。

Ⅰコリント12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。
4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

 パウロは私たちに、御霊の賜物について知らずにいてほしくないと言っています。この御霊の賜物こそがタラントであろうと思います。御霊は私たちに教会を建て上げるために必要な力や才能を、贈り物のギフトとして私たちに与えて下さいます。次の2番目のパートに進んで、神様がクラーク先生に贈ったギフトについて分かち合いたいと思います。

②多くの賜物が与えられていた静岡のクラーク先生
 これまで何度か話しているように、静岡のクラーク先生は札幌のクラーク先生よりも5年早い明治4年、1871年に来日して約3年半、日本に滞在しました。約2年を静岡で過ごし、残りの1年半を東京で過ごしました。一方の札幌のクラーク先生は1876年に来日して日本に居たのは休暇を利用した関係で1年足らずでしたから、1877年にはアメリカに帰国しました。ちなみに英和女学院の前身の静岡女学校が設立されたのは明治20年、1887年のことでした。

 静岡のクラーク先生は多芸多才の人で、まさに多くの賜物が与えられていた人でした。静岡学問所では専門の化学だけでなく数学を含む、科学全般を教えていました。そして日曜日には宿舎の蓮永寺で聖書を教えていました。この蓮永寺にいたのは約1年です。千代田に近い沓谷の蓮永寺から城内の静岡学問所まで馬車で通っていましたが、当時はまだ外国人を襲う攘夷派の人々がいて、実際にクラーク先生も襲撃されて危険な目に遭ったことから、駿府城内の北西角の、現在の家庭裁判所がある場所を与えられて、ここに西洋風の石造りの洋館を建てることになって、クラークは設計を開始しました。西草深町の交差点の所で外堀が折れ曲がっていて、その城内側に家庭裁判所が建っていますが、その場所です。


クラーク邸(クラーク撮影・早稲田大学図書館蔵)

 そうして設計から半年後、来日してから1年後にこの洋館が完成しましたから、蓮永寺から引っ越しました。弱冠22歳で化学が専門だったクラーク先生が石造りの洋館の設計もしたのですから、いかに多くの賜物が与えられていた人であったかが、ここからも分かります。そして、この洋館を建てたのは静岡の職人たちでした。クラークは職人に図面と模型を見せて、細かい指示を出して、建て上げることができました。

 この洋館にクラークは多くの人を招いて西洋料理を振る舞い(アメリカ帰りでサム・パッチと呼ばれていた仙太郎という日本人の料理人がいました)、オルガンの演奏会や幻灯機の上映会なども催しました。幻灯機によるスライドの上映はこれが日本初であり、オルガンの演奏も東京でもほとんど無かったであろうぐらい珍しいものでした。そして、この洋館でも、もちろん聖書が教えられました。これぞ、まさに総合伝道の先駆けと言えるのではないでしょうか。

 英和女学院の前身の静岡女学校の設立に尽力した平岩愃保(よしやす)牧師が入信したきっかけもクラークのオルガンによる賛美歌の演奏を聞いたことだったそうです。平岩がクラークのオルガンを聞いたのはクラークが東京に移ってからのようです。平岩は聖書の説教には最初は心を動かされなかったものの、オルガンの演奏がとても心に響いて、聖書の勉強会に通うようになり、後にイエス様を信じるようになりました。そうして平岩は英和の隣にある日本基督教団静岡教会の前身であるメソヂスト教会の牧師となりました。そして『静岡英和女学院八十年史』によれは、平岩が女学校の設立に動き出す前年、妻の平岩銀子が天に召されたとのことです。銀子は生前、女学校を作りたいという志を持っていて、妻を亡くした平岩が妻の遺志を継ぐべく設立に動き出したということです。ですから、もしクラーク先生のオルガン演奏が無かったら平岩は牧師はおろかクリスチャンにもなっておらず、女学校の設立も、ずっと後のことになっていたことでしょうし、もしかしたら設立すらされなかったかもしれません。

 神様がクラーク先生に多くの賜物を与えて下さった故に、静岡の地に初めての教会であるメソヂスト教会ができ、静岡英和女学院ができましたから、御名を崇めたいと思います。きょうの聖書箇所で言えば、静岡のクラーク先生は五タラントの人であったと言えるでしょう。

 良い働きをした五タラントと二タラントの者に主人は同じことを言ってねぎらいました。21節と23節です。

21, 23「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 朗読の箇所には含めませんでしたが、ここで一タラントの者のことも見ておきたいと思います。24節と25節をお読みします。

24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。「ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。」

 この一タラントの者に主人は言いました。

26 「悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。」

 そして、少し飛ばして30節、

30 「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」

 外の暗闇に追い出せとは厳しいですね。この一タラントのしもべは天の御国には入れないということです。このしもべは主人の一タラントを減らしたわけではありません。それなのに、こんなに厳しいことを言われたのは、それはやはり、これが御霊に関わることだからでしょう。イエス様はマタイ12:31でおっしゃいました(週報p.2)。

マタイ 12:31 「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」

 主人から預かった1タラントを地面に穴を掘って隠したことは、御霊を冒瀆することだったんでしょう。御霊は「世の光」として、多くの人が見える場所で輝かせなければなりません。マタイ5章の山上の説教でイエス様はおっしゃっていますね。

マタイ5:14 「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 それゆえ、世の光である御霊を地の中に隠すことは、御霊を冒瀆することになるのでしょう。一方、五タラントと二タラントのしもべは人々の前で世の光を輝かせましたから、そのことで多くの実を結ぶことができました。

③各自に与えられた賜物で主の再臨の道を整える
 このたとえ話の財産を預けた主人はいったん旅に出て、再び戻って来ました。つまり、戻ってきた主人とは再臨したイエス様です。イエス様は私たちに御霊の賜物を預けて、再び戻って来るまでの間、この地上で働くようにとおっしゃっています。つまり、この御霊の賜物を活かす働きとは、主の再臨に備えて道を整える働きでしょう。先週も引用したイザヤ書40章3節と4節を、今週も週報に残しておきました。

イザヤ40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」

 このイザヤの預言は、南王国のエルサレムがバビロン軍の攻撃によって滅亡して、国土も人の心も荒廃した中にイエス様が天から降って来てクリスマスの日にお生まれになる、その時に備えて主の道を用意せよ、荒れ地で私たちの神のために大路をまっすぐにせよ、と励ましたものです。そして、今またコロナ禍や温暖化による異常気象、ロシアとウクライナとの戦争などによって、やはり荒れ地になってしまったこの世と人々の心を整えるようにと、神様はイザヤを通して私たちを励ましています。この荒れ地のような世を整えるには、やはり総合伝道が必要なのでしょう。

 明治4年の静岡学問所にエドワード・クラーク先生が教師として来た時、この学問所で学ぶ若者たちの多くが徳川家の幕臣の子弟たちでした。徳川は薩長連合の新政府軍に敗れて江戸を離れ、静岡で新しい暮らしを始めたところでした。主君の徳川が敗れたことで幕臣の子弟たちは希望を失い、暗闇の中にいました。そんな彼らは学問に新たな希望を見出して、クラーク先生が教えた西洋の近代科学に心を躍らせ、また聖書のみことばの光が彼らの心を明るく照らしました。そうして、クラーク先生によって蒔かれた福音の種が実を結んで静岡で初めての教会のメソヂスト教会が建て上げられて、また平岩愃保(よしやす)牧師の尽力によって英和の前身の静岡女学校が設立されて、今日に至っています。

 これらは皆、イエス様によって預けられたタラントが尊く用いられて為されました。預けられたタラントの額は人それぞれで異なりますが、多くの者たちのタラントが地面の中に埋められてしまうことなく、用いられました。

 伝道とは総合伝道であって、静岡のクラーク先生がそうであったように単に聖書のみことばを伝えるだけでなく、科学を教えることも、家を設計して建てて料理を振る舞うことも伝道の一環です。それが総合伝道です。オルガンを弾くことも、幻灯機でスライドの上映をすることも伝道の一環です。最初はオルガンの演奏に魅せられた平岩牧師のように、明治の世では、これらが人々の心を捉えて、やがて聖書のみことばを学ぶことへとつながって行きました。

おわりに
 今のこの荒れ地のような世においても、総合伝道が必要とされています。一人一人が与えられたタラントを活かして、やがて再び戻って来られるイエス様のために働きたいと思います。そうすれば、イエス様はおっしゃって下さいます。

「よくやりましたね。あなたは良い忠実なしもべです。あなたはわずかな物に忠実でしたから、多くの物を任せましょう。わたしの喜びをともに喜んでください。」


 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

マタイ25:14 「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」
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「ぶどう園で何をして働くか?」(2022.10.9 礼拝)

2022-10-10 15:20:20 | 礼拝メッセージ
2022年10月9日礼拝メッセージ
『ぶどう園で何をして働くか?』
【マタイ20:1~16】

はじめに
 10月は私たちの教団のイムマヌエル綜合伝道団が創立された月です。今年は10月23日に教団創立記念礼拝を行う予定です。その教団創立記念礼拝での説教のための備えを少しずつ始めているところですが、今年は教団名にある「綜合伝道」ということばがとても心に通っています。

 詳しくは23日の礼拝で話す予定ですが、教団が創立されて間もない1946年の1月には医務部、伝道部、教育部、農耕部の四つの部がありました。教育部は後に保育部という名前に変わっています。伝道部は分かるとして、それ以外に医務部、保育部と農作物を作る農耕部があったことは、とても興味深いですね。これらは敗戦により国土が荒廃し、食糧不足によって栄養状態も悪い中にあって必要なものでした。単に聖書のみことばを伝えるだけでなく、医療や農業や幼子の保育等を通じて総合的に伝道を行うことを目指しました。これらは現代においても途上国で宣教する時には行われていることでしょう。

 そうして、日本が戦後の混乱から復興して豊かになると医療と保育と農業は役割を終えて、伝道に特化されるようになりました。このように、現代の豊かになった日本においては「総合伝道」は役割を終えたかのように見えます。しかし、ご承知のように、今の日本、そして世界は地球規模の温暖化による大雨・台風・干ばつの問題、また世界規模のコロナ禍という感染症の問題、さらには半年以上におよぶウクライナでの戦争によるエネルギー危機や食糧危機などの深刻な問題によって混迷の度が深まっています。

 そういう中にあって私たちは「総合伝道」を再び見直すべき時期に来ているのではないかという気がしています。そこで今週と来週は「総合伝道」を頭の片隅に置きつつ、23日の教団創立記念礼拝に向けて、心を整えて行きたいと願っています。

 きょうの中心聖句はマタイ20章1節です。

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①個人の救いと人類の救いが共存する福音書
 ②主の道を用意することが、ぶどう園の仕事
 ③ぶどう園の働きは主の再臨後も、なお続く

①個人の救いと人類の救いが共存する福音書
 この表題の最後の「福音書」は「聖書」に置き換えることもできます。でも「聖書」とすると話が大きくなり過ぎるので、きょうのところは「福音書」とします。

 たとえば皆さんがよくご存知の「放蕩息子の帰郷」(ルカ15章)のたとえ話も、「個人の救い」と「人類の救い」とが共存しています。弟息子は父親の財産を分けてもらって遠い外国へ旅立ち、そこで放蕩して財産を使い果たし、食べる物も無くなってみじめな思いをしている時に我に返って父親のことを思い出します。そうして父の家に帰った弟息子を父親は大喜びで出迎えて祝宴を開きました。この弟息子とは自分のことだと私たちは考えます。神様から離れて好き勝手をし放題だった私たち一人一人でしたが、ある時ふと我に返って、自分が空っぽでみじめな人間であることに気付きます。そうして父の家である教会にたどり着いた時、神様は大喜びで迎えて下さり、豊かに祝福して下さいました。これが「個人の救い」です。

 しかし、この「放蕩息子の帰郷」のたとえ話には「人類の救い」という側面もあります。それは弟息子が異邦人であり、兄息子がユダヤ人であるとして、この物語を読むことです。兄息子のユダヤ人はずっと父の家にいましたが、弟息子の異邦人は遠い昔の創世記の時代に父の家を出て神様から離れた暮らしをしていました。それがペンテコステの日以降に使徒たちの働きが開始されて、特にパウロたちによって異邦人伝道が行われたことで、弟息子である異邦人が父の家に戻って来ることができました。2千年前の紀元1世紀には、まず地中海沿岸の異邦人たちが救われました。そうして1500年代にはフランシスコ・ザビエルたちによって私たち日本人にも福音が届けられました。ただし、徳川の時代にはキリスト教の布教は禁じられていました。その後、明治の世になって布教が再開されましたが、世界では今なお徳川時代の日本のようにキリスト教の布教が禁止されている国や地域があります。しかし、やがていつかはこれらの国や地域にも福音が広く届けられるようになることでしょう。そうして、最後に終わりの日が来ます。これが「人類の救い」です。

 そして、きょうの聖書箇所の「ぶどう園の主人」のたとえ話においても、「放蕩息子の帰郷」と同じように「個人の救い」と「人類の救い」とが共存しています。まず「個人の救い」について、聖書に沿って見て行きましょう。マタイ20章の1節と2節です。

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 この、朝早くに主人に雇われた労働者たちとは、「個人の救い」の観点から見るなら、幼い頃に洗礼を受けた方々でしょう。続いて3節と4節、

3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』

 この9時頃に雇われた人たちとは、小学生や中高生の時に洗礼を受けた人たちと言えるでしょうか。次に5節、

5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。

 12時頃雇われた人は20代か30代ぐらいに洗礼を受けた人でしょうか。また、3時頃に雇われた人は40代か50代ぐらいで洗礼を受けた人と言えるでしょうか。私自身は40代で洗礼を受けましたから、午後3時頃だと思います。そして6節と7節、

6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』

 この夕方の5時頃に雇われた人とは、60代以降に洗礼を受けた人と言えそうですね。これが「個人の救い」です。

 一方、「人類の救い」という観点からこのたとえ話を読むなら、朝早くに雇われた者たちとはユダヤ人たちでしょう。そして午前9時頃に雇われた人々はパウロたちの異邦人伝道によって救われた地中海沿岸の人々、12時頃に雇われた人々はヨーロッパ全体にキリスト教が広まって行った頃に救われた人々、午後3時頃はアメリカ大陸やアジア大陸、そして日本やアフリカ諸国と言えるのでしょう。そして午後5時頃に雇われる人々は、未だ福音が届いていない地域の方々で、これから福音が本格的に宣べ伝えられる国や地域の方々と言えるのではないでしょうか。そうして最後に終わりの時が来ます。

 私たちが福音書を読む時、「個人の救い」という観点から読むことが多いと思いますが、いま地球規模で世界が困窮している中にあっては、より視野の広い「人類の救い」という観点から福音書を読むこともまた大切であろうと思います。イエス様は私たち一人一人が聖められることを願っておられるのと同時に、今のひどい世界の全体がもっと聖くなることを願っておられるからです。

②主の道を用意することが、ぶどう園の仕事
 ぶどう園の主人に雇われたら、私たちはどんな仕事をするのでしょうか?人それぞれ与えられた才能、タラントが異なりますから、イエス様から任される仕事も人それぞれでしょう。しかし、一言で言うなら、ぶどう園の仕事とはズバリ「主の道を用意すること」と言えるのではないでしょうか。

 イザヤ書40章で預言者イザヤは預言しました。

イザヤ40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。

 このイザヤ書40章の3節は、マルコの福音書の冒頭でも引用されていて、その通りにバプテスマのヨハネが現れて、イエス様が来られる道が整えられたとマルコは書いていますね。また、冒頭ではありませんがマタイもルカもヨハネもバプテスマのヨハネが現れた場面で引用しています。でもイエス様が地上に来られるのは2千年前にヨセフとマリアの子としてお生まれになった時だけではありません。やがての時、終わりの日にはイエス様は再びこの地上に来られます。この再臨の時に備えて、私たちはこの地上を整えます。いつも言っているように、最終的には天から御国が降って来て、この地上で新しい天と新しい地が造られるからです。私たちがいつも献げている「主の祈り」の「御国を来たらせたまえ」、すなわち「御国が来ますように」という祈りは、この御国が天から地上に降って来ますように」という祈りです。そうして御心の天になるごとく、地にもなされます。

 ぶどう園の働きとは、この天の御国が地上に降って来る時に備えて、地上を整えることでしょう。やるべきことは様々にありますから、それぞれ与えられた才能、タラントに応じてできる範囲でやれば良いのだと思います。

 いま世界は本当にひどい事になっていますから、地上の管理を任された私たちは、少しでも良い状態になるように働くべきでしょう。神様が天と地を造られた時、それは非常に良かったと創世記1章の最後に書かれています。しかし、アダムとエバが蛇に誘惑されて人の心に罪が入ってからは、私たちはこの地上を適切に管理することができなくなりました。

 地球の温暖化への警告は20世紀の頃からされていました。「京都議定書」ということばを聞いたことがある方も多いことと思います。1997年に京都で地球温暖化防止のための第3回締約国会議が開かれました。いわゆるCOP3と呼ばれる会議です。京都で会議が行われ、しかも「京都議定書」によって、かなり具体的な目標が設定されたために、私たちの地球温暖化への関心も随分と高まりました。でも正直を言いますと、私自身の認識はまだまだで、南極の氷が溶けて海面の水位が上がって太平洋の小さな島国が消えてしまう危機があるという程度でした。その太平洋の島国にとっては深刻な問題であろうから、何とかしなければならないだろうとは思いましたが、身の回りに危険が迫っているという認識はありませんでしたから、どこか他人事のように思っていました。

 それが21世紀に入って、温暖化の問題は南極の氷が溶けることだけではなくて、北極やグリーンランドやシベリアの凍土も溶けて、さらには海水の温度が上がることで海の水の蒸発量が増えて豪雨をもたらし、台風やハリケーンも巨大化して猛威をふるって日本の各地も毎年何度も大きな被害に見舞われるようになりました。そうして、先月の9月23日から24日に掛けては私たちの住む静岡市でも台風15号の通過時に線状降水帯が発生して、大変な被害が出ましたから、私たちは地球温暖化の問題がいかに深刻であるか、身をもって体験することになりました。

 静岡市では48年前の1974年の7月7日にいわゆる七夕豪雨に襲われて大変な被害が出ました。私が安東中学の3年生の時で、大岩の私の家は大丈夫でしたが、同級生のお宅の多くが被害を受けました。浅間山のリフトがあった所に住んでいたお宅で土砂災害に遭ったお宅もありましたし、竜南小学校方面のお宅の多くが床上浸水の被害に遭いました。この七夕豪雨で大きな被害が発生したことで土砂災害対策や治水対策が為されましたが、それにも関わらず今回の台風15号でまた大きな被害が出たということは、今回の豪雨は七夕豪雨を上回るものであったということが分かります。送電用の鉄塔2本の基礎が崩れたのも豪雨の影響です。先週の月曜日と火曜日に私は静岡市の災害ボランティアに参加して、そのうちの1日は松野地区に派遣されました。ここは安倍川流域の油山よりさらにもう少し上流にある地区ですが、安倍川に流れ込んでいる川が氾濫して周辺のお宅は床上1メートル近くまで水位が上がった痕跡が残されていました。

 25年前の京都議定書の時は地球温暖化の問題がこんなに身近な問題であるとは夢にも思いませんでした。新型コロナウイルスの感染症の問題も同様です。3年前の2019年の秋の時点では、その半年後に緊急事態宣言が出されて教会の礼拝に人が集まることができなくなる事態になることなど予測した人は誰もいなかったでしょう。戦争の問題も、1年前の秋の時点でロシアが核兵器を使用することを本気で心配しなければならない事態になろうとは夢にも思いませんでした。核兵器使用の恐れがある国と言えば北朝鮮であり、まさかロシアのことを本気で心配しなければならないとは思いませんでした。

 このように、今の世界は本当にひどいことになっています。このような時代にあっては、終戦直後のような「総合伝道」を考える必要があるのではないかと考えます。イザヤが40章3節で「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」と預言したのも、エルサレムがバビロン軍の攻撃によって滅亡して荒廃してしまったからの復興についてです。私たちの教団が創立されて「総合伝道」が開始されたのも、敗戦によって荒廃した日本の国土と国民の魂を復興させるためです。今の2022年の現代も、それに近いひどい状態であると思います。

③ぶどう園の働きは主の再臨後も、なお続く
 聖書に戻って、マタイ20章の8節以降を読みます。8節から12節までを読みます。

マタイ20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』

 この、ぶどう園の主人のたとえ話を「人類の救い」という観点から読む時、朝早くから働いていた者たちとはユダヤ人だと話しました。放蕩息子の帰郷のたとえ話で言えば、兄息子です。12節で不平不満を言ったユダヤ人たちは、放蕩息子が家に戻った時に大喜びして宴会を開いた父親に不変不満を言った兄息子のとてもよく似ていますね。兄息子は父親に言いました(週報p.2)。

ルカ15:29 「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」

 神様は、ぶどう園で長く働いた者もそうでない者も、父の家に戻ったなら同じように扱って下さいます。そのように神様とは、とても気前の良いお方です。でも、考えてみれば、ぶどう園の仕事とはイエス様が再臨したら終わりというわけではないでしょう。新天新地では誰もが遊んで暮らせるというわけではないでしょう。

 たとえばエゼキエルは、47章12節で、このように書いています(週報p.2)。

エゼキエル47:12 「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 この植物から食物と薬を獲るためには、そのために働く人々が必要でしょう。この川では魚が獲れますから漁師も必要です。新天新地では人々が遊んで暮らすわけではなく、皆が喜びをもって王であるイエス様に仕えながら働きます。このように、ぶどう園での働きはイエス様の再臨後も続けられるのですから、その前に朝早くから働いたとか夕方から働いたとかは、あまり関係ないことだ、ということになるでしょう。

おわりに
 こうして私たちは、早くから救われた者も後から救われた者も、イエス様が再び来られる時に備えて主の道を整える働きをして、イエス様が再び来られた後も、なお働きます。王であるイエス様にお仕えすることは幸せなことですから、これは素晴らしい恵みです。

 今の時代、若い人々がなかなか教会とつながらなくなっていますが、今のこのひどい時代にイエス様が再び来られる時に備えて主の道を整える働きは、とてもやりがいのあることだと思います。この恵みをもっと上手く伝えられるようになりたいと思います。23日の教団創立記念礼拝に向けて、イエス様に整えていただき、良い導きが与えられるように、ご一緒に願い祈っていたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りする時を持ちましょう。
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契約の重さを思っていただくパンと杯(2022.10.2 礼拝)

2022-10-03 07:46:25 | 礼拝メッセージ
2022年10月2日聖餐式礼拝メッセージ
『契約の重さを思っていただくパンと杯』
【創世記17:1~14、ガラテヤ3:26~29】

はじめに
 きょうは聖餐式礼拝です。週報p.2の一番上にも載せたようにイエス様は最後の晩餐でおっしゃいました。ルカ22章19節と20節です。

ルカ 22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後(あと)これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」

 私たちは、この新しい契約によってキリストにあって一つとされ、神の子とされて永遠のいのちが与えられます。きょうは、この契約がとても重いものであることを分かち合って、その後に聖餐式に臨みたいと思います。きょうの中心聖句はガラテヤ人への手紙3章28節と29節です。

ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①旧約も新約も、契約を結んで守ることを重んじる
 ②忠実なアブラハム、守られたイシュマエルとイサク
 ③神が造られた地球環境を守る管理人の雇用契約

①旧約も新約も、契約を結んで守ることを重んじる
 最初に話したように、イエス様は最後の晩餐で、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」とおっしゃいました。イエス様が「新しい契約」とおっしゃったのは、その前に旧約の時代の古い契約があったからですね。旧約の時代の契約にはノアの時代の契約、アブラハムの時代の契約、モーセの時代の契約などがありました。一般に旧約の時代の契約と言えばモーセの時代の契約を指すことが多いと思います。しかし、アブラハムの時代の契約も非常に重要であったということを、きょうはご一緒に分かち合いたいと思います。

 契約を結ぶことは現代の私たちの生活にとっても欠かせないことですね。アパートを借りる時には賃貸契約を結びます。土地や家などを購入する時には売買契約を結びます。働く時には労働契約を結びます。契約書に細かい取り決めごとを書いておくことで、もめごとになることを防ぎます。例えばアパートの賃貸契約では、多くの場合、家賃は前の月の何日までに翌月分の家賃を支払うというようなことが書いてあると思います。この支払い期日を書いておかないと、面倒なことになります。

 このように現代の私たちの生活の基盤は、契約の上に成り立っています。しかし、その割には聖書に記されている神様と人との間の「契約」については、そんなに重く捉えていないのではないか、そんな気がします。軽視しているわけではありませんが、すごく重視しているというほどではない気がします。神様を信じること、信じる信仰についてはとても重要視しますが、神様との契約については、信じることと比べると少し軽いような気がします。でも、それではいけないのだ、ということを分かち合いたいと思います。

 きょうの聖書交読ではアブラハムとイシュマエル、そしてアブラハムの家の男子が割礼を受けて契約を結んだ場面を読みました。交読した箇所の創世記17章1節から14節の間には、アブラハムへの主のことばが記されています。ここで主は「契約」ということばを何度も使っています。その数は数えると実に10回です。まず2節、

創世記17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

9 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。

10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後(のち)の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。

11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。

13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」


 この1節から14節の間の短い箇所に10回も「契約」ということばが使われています。このことだけでも、「契約」がいかに重要であるかが分かると思います。そして、この時の「契約」のしるしは「割礼」でした。それゆえ、アブラハムと息子のイシュマエル、そしてアブラハムの家の者たちは割礼を受けました。23節です。

23 そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。

 さてしかし、創世記はこの後のページでは神様と人との間の契約のことは書いていません。人と人との契約については出て来ますが、神様と人との間の契約が次に出てくるのは出エジプト記のモーセの時代になってからです。それゆえ、見落としがちだと思いますが、実はこの「契約」が、アブラハムとイシュマエルとイサクのその後に、深く関わっているようです。それを、次のパートで見てみましょう。

②忠実なアブラハム、守られたイシュマエルとイサク
 いま祈祷会では藤本満先生の著書の『祈る人びと』をベースにして、旧約の時代の人物の信仰について分かち合っています。これまでアブラハムと女奴隷のハガルについて見て来ました。その中で、これまで分からないでいたことが「契約」ということばを手掛かりにすることで、分かるようになったと感じています。

 その一つが、アブラハムが息子のイサクを屠って全焼のささげ物として献げる一歩手前まで行った創世記22章の記事です(週報p.2)。

創世記22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、…一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

 アブラハムはイサクを献げなさいと神様から命じられた後、3節にあるように次の朝早くには出発しました。ここにはアブラハムが悩んだ様子が書かれていません。アブラハムも悩む時は悩みます。22章の手前の21章11節には、アブラハムが妻のサラから女奴隷のハガルと息子のイシュマエルを追い出すように言われて、非常に苦しんだことが書かれています。21章11節です(週報p.2)。

創世記21:11アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

 このように、21章のアブラハムは非常に悩み苦しんでいます。しかし22章はアブラハムが苦しんだとは書いていません。新約聖書のヘブル人への手紙は、この時のアブラハムのことを、こう書いています(週報p.3)。

ヘブル11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

 たとえアブラハムがそのように考えたとしても、悩む時は悩むでしょう。しかし、聖書は22章のアブラハムが悩んだとは書いていません。これは一体どういうことでしょうか。

 それはやはりアブラハムが神様と契約を結んでいたからではないでしょうか。21章のアブラハムが悩んだのは、妻のサラから言われたからでした。人間のサラの言うことであれば、断ることもできましたから悩んだということではないでしょうか。しかし、神様からの命令、しかも契約を結んだ神様からの命令は決して断ることはできず、悩む余地は無かったということではないでしょうか。命令を守らないとすれば、それは契約を破棄することを意味します。契約とは、それほど重いものであるということでしょう。

 契約のしるしは割礼でした。割礼で包皮を切り落とす時には血が流れ、痛みを伴います。この血と痛みを伴う契約は簡単に破棄することはできないでしょう。

 そして、創世記22章では息子のイサクは屠られることなく、守られました。それはイサクも割礼を受けていたからでしょう。或いはまた、イシュマエルも守られました。アブラハムはサラの言う通りに女奴隷のハガルと息子のイシュマエルに出て行ってもらいました。それはサラのことばに悩み苦しんでいたアブラハムに、主がサラの言う通りにするように言われたからです。アブラハムは妻に言われたからではなく、主に言われてそうしました。アブラハムにとっては、主の命令が第一でした。それは契約があったからでしょう。そうしてハガルとイシュマエルはアブラハムの家を出て行き、荒野をさまよいます。そして飲む水がなくなった時にイシュマエルは死にそうになりました。そんなイシュマエルを主は守って下さり、ハガルを通して水を与えて下さり、イシュマエルは元気を取り戻しました。このようにイシュマエルが守られたのも、やはり契約のしるしである割礼をイシュマエルが受けていたからでしょう。

③神が造られた地球環境を守る管理人の雇用契約
 3番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所を見ましょう。ガラテヤ人への手紙3章26節から29節です。

ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 私たちはイエス様を信じるとバプテスマ、すなわち洗礼を受けて契約を結びます。そうして契約のしるしであるイエス様の血であるぶどう液を共に飲み、キリスト・イエスにあって一つにされます。この手紙の28節でパウロは「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」と書きました。

 旧約の時代には契約のしるしである割礼を受けたのは男性だけでした。しかし、イエス様が十字架で血を流した新約の時代においては、男性も女性も分け隔てなく契約の恵みに与ることができます。ユダヤ人も異邦人もありません。身分の違いも関係なく、皆が等しく神様と契約を結ぶことができます。

 しかも、旧約の時代の割礼においては人間の側に血を流す痛みがありましたが、新約の時代には神様であるイエス様が十字架で血を流し、大変な痛みと苦しみを受けました。イエス様が引き受けた苦痛は肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛もすべて引き受けました。一方、人間の側の私たちは契約を結ぶ洗礼式と契約のしるしをいただく聖餐式においては苦痛の代わりに豊かな恵みをいただきます。

 このように私たちの側では苦痛を受けないから、というわけではないかもしれませんが、新約の時代の私たちは少々契約を軽く見ているかもしれません。信じる信仰は重要視しますが、契約に関してはそんなに重要視していない気がします。労働契約や賃貸契約、売買契約は大切にするのに、神様との契約をそんなに重要視していないような気がします。少なくとも私自身は、これまで「契約」ということばを、それほど意識していなかったように思います。ですから、そのことを悔い改めて神様に赦していただきたいと思います。

 労働契約においては、どんな仕事をするのか、雇う側と雇われる側とで合意した上で契約を結ぶでしょう。仕事の内容は人それぞれでしょう。

 神様との契約も、神様のためにどんな働きをするかは人それぞれでしょう。いま私の心に通っているのは、マタイの福音書20章に出て来る、ぶどう園で働く人を雇うために朝早く出掛けた主人の話です。ぶどう園の主人は朝早くと午前9時頃、昼頃、午後3時頃、そして午後5時頃に働き人を雇いました。私が主人であるイエス様に雇っていただいて洗礼を受けたのは42歳の時ですから、もう昼を過ぎた頃だと思います。そうしてイエス様はぶどう園で働くようにとおっしゃいました。

 これまで私は平和のために働くことが、このぶどう園での働きであると思っていましたが、このところ急速に温暖化の問題を中心にした環境問題に関する働きのことを示されています。それは言うまでもなく、1週間前の台風15号の通過で私たちが住むこの静岡市が停電・断水の被害に遭ったことです。特に清水区では断水が長く続くという大きな被害がありました。人的被害が少なかったことは幸いでしたが、もし停電がもう少し長引いていたら、冷房や扇風機が使えない中で熱中症で命を落とす人が出てもおかしくない状況だったと思います。私たちが住む地上をもっと良くすることが、ぶどう園で働く私の務めであることを強く思います。そうして思ったのが、3年前にアフガニスタンで命を落としたお医者さんの中村哲さんです。中村さんはクリスチャンです。

 中村さんはアフガニスタンで最初はお医者さんとして病人の診察と治療に当っていました。でも医者としての仕事をしている間に、病人を診るよりも病気の原因となっている食糧事情の悪さを改善する必要を感じるようになったということです。アフガニスタンでは砂漠化が進んで作物が獲れなくなり、栄養失調による病人がたくさんいました。そこで中村さんは井戸をたくさん掘り、その次には用水路を作って水を引き、砂漠化していた土地に潤いを取り戻し、作物が育つようにしました。そうして現地の人々の食糧事情が良くなり、病人も以前に比べれば少なくなりました。

 こういう働き方もあるのですね。大雨の被害で被災した方々を直接支援する働きが重要であることは言うまでもありませんが、大雨の原因となる二酸化炭素などの温室効果ガスの排出を少なくする働きも、とても大切だと思います。その方法は様々です。エコな生活をすることもそうですし、理工系であれば技術によって克服しようとするアプローチもあるでしょう。或いは山に植林したり植物をたくさん育てるなどして、植物に二酸化炭素を吸収してもらう方法もあり、やり方はいろいろです。

 或いは温暖化の問題だけでなく、貧困の問題、コロナなどの感染症の問題、紛争・戦争の問題もあります。これらの問題に取り組むことは皆、地上を良くする働きであり、地上が良くなれば苦しむ人々も少なくなりますから、それはイエス様が喜ばれることです。

 何年か前から若い人たちを中心にSDGsへの関心が高まっています。週報p.2の下にSDGsの説明を載せました。これは国連のユニセフのホームページからのコピーですが、それによれば、「貧困、紛争、気候変動、感染症。人類は、これまでになかったような数多くの課題に直面しています。このままでは、人類が安定してこの世界で暮らし続けることができなくなると心配されています。そんな危機感から、世界中のさまざまな立場の人々が話し合い、課題を整理し、解決方法を考え、2030年までに達成すべき具体的な目標を立てました。それが「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」です。

 イエス様はマタイ25章で、ご自身が空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた人たちを祝福して言いました。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」この祝福された人々には、中村哲さんのように、用水路を作って作物を作る手助けをした人も当然含まれます。直接病人を診るのではなく病人が出ないようにする働きもイエス様は喜んで下さいます。

 ですから私たちも、直接的な働きが出来なかったとしても、たとえばSDGsに高い関心を持つ若者たちに、天地を造ったのは神様であること、また造られた当初は非常に良かったことを伝えて、この地上を良くする働きを励ますことも、御心に適うことでしょう。神様は天地と空の星、植物と動物を造り、人を造った後で人を祝福して仰せられました。創世記1章28節です。

創世記1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ(治めよ=聖書協会共同訳)。」

 この「支配せよ」は聖書協会共同訳では「治めよ」となっていることを先週話しました。神様はこの地上を正しく管理することを望まれています。創世記3章で人の心に罪が入ったために、今の地球環境はひどいことになっていますが、これを少しでも良くする働きは御心に適ったことです。

 最近、私自身が示されていることはSDGsに関心が高い若い人たちに、この地球は神様が造られたこと、そして造られた当初は非常に良かったことを伝えて、彼ら・彼女らが環境問題、貧困の問題、平和の問題、感染症の問題に取り組む働きを励ますことが私の重要な働きの一つではないかということです。若い人たちが元気なら私たち高齢の者も励まされます。若い人たちが元気でなければ私たちも元気になれません。

おわりに
 神様が人と結ぶ契約の細かいことは、一人一人でそれぞれだと思います。皆さんは、どんな契約を神様と結んだでしょうか?或いはこれから結ぶでしょうか?いずれにしても、この契約は決して軽いものではなく、重いものであることを覚えたいと思います。この契約の重さを思いながら、聖餐式のパンと杯をいただきましょう。一言、お祈りいたします。

ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
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終わりの日の幻と重なった英女王の国葬(2022.9.25 礼拝)

2022-09-26 14:55:15 | 礼拝メッセージ
2022年9月25日礼拝メッセージ
『終わりの日の幻と重なった英女王の国葬』
【イザヤ66:28~34】

はじめに
 先週の敬老感謝礼拝では、ルカの福音書2章のシメオンの箇所を開きました。年老いたシメオンは幼子のイエス様を腕の中に抱いて言いました。

ルカ2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

 シメオンは神様の救いが、やがてはイスラエルの民だけでなく異邦人にももたらされと言いました。そして、先週はそのことが預言されている例として、イザヤ書52章の預言を引用しました。

イザヤ52:10 はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。

 そうして今、異邦人である日本人の私たちにも福音が届けられて、神様の救いの恵みに与っています。このイザヤ書52章10節には、「地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る」とありますから、今の日本では救いの恵みに与っている方々は少ないですが、希望を持って福音をお伝えして行きたいと思います。

 このシメオンの箇所とイザヤ書52章のみことばに触れていたからでしょうか、翌日の月曜日の晩、すなわち9月19日の晩にテレビでイギリスのエリザベス女王の国葬を見た時に、私の目には国々の代表たちがロンドンに続々と集って来ている様子が、すべての国々から人々がエルサレムに集って来る旧約聖書が記す終わりの日の光景と重なって見えました。この光景が見えたのは、主がロンドンから幻を見せて下さったからかもしれません。

 きょうは、この幻のことを分かち合いつつ、終わりの日に向けて私たちがどのような心構えを持つべきかについても、ご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。きょうの聖句はイザヤ書66章22節の、

イザヤ66:22 わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。

です。そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①終わりの日の幻を主が見せて下さった英女王の国葬
 ②「御国が来ますように」の「国」とは王国(Kingdom)
 ③王のイエス様に仕え、地上を整える管理人として働く  高齢者 よみがえりの肉体

①終わりの日の幻を主が見せて下さった英女王の国葬
 エリザベス女王の国葬の中継を見ていて感じたことは、葬儀の場のウェストミンスター寺院が神様のご臨在に満ちていたということです。このことを実はリアルタイムで中継を見ていた時には何となく感じていただけでしたが、後で録画ビデオを見た時にはハッキリと感じました。大きな会堂全体が主の霊で満たされていて、その中に世界の国々を代表する人々が集っていました。

 そして創造主である神様が賛美歌によってほめたたえられ、また皆の心が整えられた後に聖書の神様のことばが語られ、そして神様の御手に女王を委ねる祈りがささげられていました。この神様の霊で満たされたウェストミンスター寺院の様子は、そこに集められた人々だけでなくテレビやネット配信で中継を見ていた人々も見ていました。つまり世界中の人々の目が神様のご臨在に満ちたロンドンのウェストミンスター寺院に注がれていました。それゆえ、この光景は聖書の詩篇やイザヤ書に記されている終わりの日の光景の、世界の人々がエルサレムに集って来る様子と重なりました。たとえば詩篇22篇の後半にそれがあります。

詩篇22:27 地の果てのすべての者が思い起こしに帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。

 或いはまた、イザヤ書2章の2節と3節は次のように預言しています。

2 終わりの日に、の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。」

 このように、終わりの日にはすべての国々がエルサレムに流れて来ます。そして、19日のエリザベス女王の国葬にはすべての国々がロンドンに集いました。このロンドンの光景は一日限りのことで、終わりの日のエルサレムの光景は永遠に続くという違いはあるでしょう。でも、たった一日とは言え、ロンドンでの出来事は現実にこの世で起きたことです。一方、エルサレムの光景はこれから起きることですから、まだ起きていない幻の光景です。この幻と現実との重なりを神様が見せて下さったことは、とても意味があることだったと思います。なぜなら、ロンドンの実際の光景を神様が見せて下さったことで、終わりの日のエルサレムの光景が単なる幻ではなくて確かに起きることであるという確信が与えられたからです。

 今回の中継は、日本でも多くの方々がテレビやネットで見ていました。このことで多くの方々の心に信仰の種が蒔かれました。中継を見た方々はイエス様のことを知らない方々も多かったことでしょう。しかし、分からなくても、いつか蒔かれた種が発芽することを期待したいと思います。蒔かれた信仰の種はからし種のような小さな種かもしれません。でも神様がその種を最善の時に発芽させて下さることを願い、祈っていたいと思います。

②「御国が来ますように」の「国」とは王国(Kingdom)
 今回のエリザベス女王の国葬を見ていて、もう一つ思ったことは、終わりの時に実現するのは「神の王国」であって、「神の国」ではないということでした。新改訳などの日本語訳で「国」や「御国」と訳されているギリシャ語の「バシレイア」は英語訳では「Kingdom」と訳されています。Kingdomは「王国」です。英国はイングランドだけでなくスコットランドとウェールズ、そして北アイルランドも含めた連合王国ですから、英語ではUnited Kingdom、略してUKと言われます(なお正式名称はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandだそうです)。このユナイテッド・キングダムであるイギリスでエリザベス国王の国葬が行われましたから、この日の終わりの日の幻は正に「神の国」ではなくて「神の王国」でした。

 聖書の日本語訳に新改訳や共同訳、口語訳や文語訳などいろいろあるように、英語訳にはいろいろあります。英語訳の数は日本語訳の数とは比べものにならないくらいたくさんあります。インターネット上にはBible Gatewayという便利なサイトがあって、これらのたくさんの英語訳を見ることができます。このBible Gatewayを調べてみたところ、わずかな例外を除いてはほぼすべてが日本訳では「国」或いは「御国」と訳している「バシレイア」を「Kingdom」と訳しています。

 マルコ1章でイエス様が「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃっている「神の国」も英語訳では「Kingdom of God」になっています。マタイ6章でイエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えた時の「御国が来ますように」の「御国」も「Kingdom」です。

 日本語訳がなぜ「国」を「王国」と訳さないのか、その辺りの事情を私は知りませんが、エリザベス国王の国葬で終わりの日の幻を見て、改めて「神の国」とは「神の王国」であるのだなと思いました。

 ヨハネの黙示録21章にあるように、終わりの時には天から新しいエルサレムが降って来て、地上と一つになり、新しい天と新しい地が造られて神の王国が完成します。黙示録21章の1節と2節をお読みします。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 この新しい天と新しい地の神の王国でイエス様は王様として君臨します。この黙示録21章の「新しい天と新しい地」ということばは、イザヤ書の65章ときょうの聖書箇所の66章にも出て来ます。イザヤ書65章の17節と18節、

イザヤ65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。

 この神の王国の王様であるイエス様が私たちに、「わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」と言って下さっていますから感謝です。イエス様は、この新しい天と新しい地に私たちを集めて下さいます。きょうの聖書箇所のイザヤ書66章18節です(旧約p.1281)。

イザヤ66:18 「わたしはすべての国々と種族を集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。」

 そうして、きょうの聖句の22節、

22 わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。

 イエス様が造る新しい天と新しい地である神の王国には私たちはもちろん、私たちの子供たちや孫たちも住みます。そして私たちは王様であるイエス様に仕えます。今はその準備が整えられている時であると言えるでしょう。

③王のイエス様に仕え、地上を整える管理人として働く
 もう一度、きょうの聖句の22節をお読みします。

22 わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。

 神の王国の王様であるイエス様にお仕えして行く信仰を私たちは子や孫の世代にも伝えて行きます。そして、共にこの神の王国に入れていただきます。そのために、私たちは若い世代にも伝えようとしています。しかし現実的にはほとんどの教会では高齢化が進む一方です。それが現実です。牧師になるための神学校に入学する若い人も減る一方です。

 その理由を私はこれまでずっと考えて来ているのですが、今回、地上でのエリザベス女王の国葬の様子を見て、またきょうの説教の準備をしていて示されていることは、今の時代においては、天の御国に入る希望だけでなく、地上で生きることの希望をもっと語るべきではないかということです。

 昔は人生50年と言われていました。人生50年だと20代半ばの若さでもう人生の後半に入ります。でも今は人生80年です。若い人々の人生はまだまだ続きます。また、人生50年の時代の庶民の暮らしは本当に苦しかったんだなということが、たとえばNHKの朝ドラの「おしん」などを見ると分かります。そういう苦しい時代には本当に天の御国が素晴らしい希望として心に入って行ったことだろうと思います。

 一方で、今の世もそれなりに苦しいことが多いとは思いますが、スマホなど一時的に気を紛らせてくれるものがあります。そのスマホによる言葉の暴力で傷ついて自ら命を絶つ若い人も少なくないと思いますが、基本的にスマホは苦しい時に気を紛らせてくれる便利なツールという面が多分にあるだろうと思います。そういう中で天の御国へ行く希望を語っても、なかなか届かないような気がします。中高生になって、これからの長い人生をどのように生きていくべきかという問題に直面した時、現実として地上のことを考えなければなりません。

 そういう若い彼ら・彼女らには地上をどのように生きることが御心にかなった生き方であるかを説くことが、より希望を与えるメッセージであるように思います。いまインマヌエルのeラーニングでは地上で生きることの大切さを学んでいるところですから、今回のエリザベス女王の国葬が地上で行われて、そこに世界の人々が集められたことと、とてもタイムリーな学びであったと感じています。

 皆さんもよく知っている通り、創世記1章には神様が天地万物を創造したことが記されています。神様は天と地を造り、植物を造りました。また太陽と月と空の星を造り、動物を造り、最後に人を造りました。そうして、28節にはこのように書かれています。

創世記1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ(治めよ=聖書協会共同訳)。」

 ここに「支配せよ」とありますが、聖書協会共同訳では「治めよ」になっています。同じ共同訳でも少し古い新共同訳では新改訳と同じ「支配せよ」となっていましたが、新しく訳された聖書協会共同訳では「治めよ」になっています。これが最近の考え方で、人は被造物の支配者になるのではなくて、管理者になるのだということです。

 そして神様がすべてを造り終えた時のことを31節は書いています。

31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神様が造られたものはすべてが非常に良いものでした。そして、人はそれを正しく治め、管理していました。しかし、ご存知のように創世記3章で人の心に罪が入ったために、人は神様が造られたものを正しく管理することもまたできなくなりました。そうして、今のような、ひどいことになっています。

 おとといから昨日に掛けて、静岡で大雨が降って今回の大きな被害が出ました。それは台風15号の通過に伴って静岡に線状降水帯が発生したからだとされています。今までは他の地域で起きていた大雨の被害がついに私たちの地域でも起きました。葵区と駿河区の停電は復旧しましたから感謝でしたが、清水区では断水で大変なことになっていると報じられています。清水教会でも水が出なくなったそうです。

 ここ何年かの大雨被害の多発は、温暖化で気候が変動してしまったためであることは明らかです。この温暖化の主な原因は二酸化炭素などの温室効果ガスの排出が増えてしまっているためとされていて、それはつまり私たち人間がこの地上をうまく管理できていないということです。

 私たちの希望は天の御国にあって、どうせ天に行くのだから、地上は少々悪くなっても仕方がないという考え方もあるかもしれません。悪くなった地上を去って、素晴らしい天の御国に早く行きたいと考える方もいるかもしれません。でも実は、黙示録21章にあるように天は地上に降って来て、新しい天と新しい地が創造されます。私たち地上の人間はその時に備えて、この地上を治めるようにと神様から地上の管理を託されています。私たちが「主の祈り」で毎週献げている「御国を来たらせたまえ」、つまり「御国が来ますように」の祈りは、まさにこの黙示録21章の成就を願う祈りです。

 ですから私たちは、その時までこの地上がもっと良くなるように整えることが期待されています。地上を整えることが神の王国の王様であるイエス様に仕える私たちが期待されている働きです。

 私たちはもちろんのこと、これから学校に行って学び、社会に出て働く若い方々には、この働きが期待されています。社会のためになることであれば何をして働いてもイエス様のために働くことであり、イエス様は喜んで下さいますから、若い方々には良い励みになるのではないでしょうか。

おわりに
 今の子供たち、そしてこれから生まれる子供たちが、今よりもっとひどい異常気象の中を暮らさなくても良いように、私たちは自分たちにできることをしなければならないと思います。お祈りもその一つです。穏やかな気候が回復するように祈り、小さなことでもできることをすべきだと思います。それが、地上の管理をイエス様から託された私たちの任務でしょう。平和のための働きも同じです。私たちはもっとこの地上を整える必要があるでしょう。

 私たちはイエス様に任された地上での働きをしっかりと果たして行きたいと思います。いま開講されているeラーニングを学ぶこともまた良いことだと思いますから、お勧めしたいと思います。イエス様に任されている地上での大切な働きのことを若い人々に伝えて励まし、私たちもまた祈ることと、それぞれにできる小さなことで、この働きに加わることができたらと思います。しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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神の救いを目で見たシメオン(2022.9.18 礼拝)

2022-09-19 06:41:29 | 礼拝メッセージ
2022年9月18日敬老感謝礼拝メッセージ
『神の救いを目で見たシメオン』
【ルカ2:25~32】

はじめに
 敬老感謝礼拝のきょうはルカの福音書のシメオンに目を留めます。シメオンは高齢でしたが、「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」とルカは記しています。きょうは、このシメオンが受けた恵みを共に分かち合いたいと思います。きょうの中心聖句はルカ2章の28節です。

ルカ2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

 そして次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①幼子のイエス様を腕の中に抱けた幸い
 ②肉の目と霊的な目の両方で救いを見る
 ③小さな聖書は腕の中の幼子のイエス様

①幼子のイエス様を腕の中に抱けた幸い
 シメオンの記事はアドベントの時期に開かれることが多いかもしれません。イエス様がまだ生まれたばかりの幼かった頃の記事だからです。でも今回、きょうの敬老感謝礼拝のための説教箇所について思いを巡らしていて、シメオンの箇所は敬老感謝礼拝にもまた、ふさわしいのではないかと感じています。それは、シメオンが神様から素晴らしい恵みをいただいた高齢者だったからです。その恵みとはこのパートの表題でも示したように、イエス様を自分の腕の中に抱くことができた、というとても幸いな恵みです。

 まず、1世紀の初めの30年間ぐらいにイエス様と実際にお会いできたというだけでも素晴らしい恵みです。その頃に生きていた人でも、ガリラヤ地方やユダや地方に住んでいた人でなければ、その恵みに与(あずか)ることはできませんでした。ここから、ちょっと離れただけでも、もうイエス様にお会いするチャンスはありませんでした。

 パウロなどはかなり近い所にいましたが、恐らくは地上のイエス様とは会っていないでしょう。もしかしたら、十字架のイエス様を遠くから見ていた可能性はありますが、パウロの手紙にはそのような記述はありませんから、パウロはイエス様を遠くから見たこともないのだろうと思います。復活したイエス様にはダマスコへの途上で会いましたが、地上で生きていた頃のイエス様には会っていないだろうと思います。ルカも会っていません。

 ですから、イエス様に実際に会えた人々は本当に限られていて、ものすごく幸運なことでした。イエス様と同じ時代に同じユダヤ・ガリラヤ地方に生きていて、イエス様とお会いしたことがあるというだけで、ものすごい恵みです。ですから、ペテロやヨハネたちのようにイエス様から直接の教えを受けることができた弟子たちは、さらに素晴らしい恵みに与りました。でも、そんなペテロやヨハネでも、幼子のイエス様を腕の中に抱くという恵みには与っていません。そういうわけで、シメオンが神様からいただいた恵みは、本当にごくわずかな者しかいただくことができなかった素晴らしい恵みでした。

 では聖書を見て行きたいと思います。ルカ2章の前半にはイエス様がお生まれになった時のことが記されています。クリスマスの時期によく読まれるみことばが11節と12節にあります。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 イエス様が生まれたのはベツレヘムの町でした。そして、きよめの期間が満ちたときにイエス様の両親のヨセフとマリアは幼子のイエス様をエルサレムの神殿に連れて行きました。ちょうど、その時、シメオンがそこにいました。25節です。

ルカ2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。

 聖霊がシメオンの上におられて「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と告げていたということですから、シメオンがこの場にいたことは偶然ではなくて、聖霊に導かれてのことでした。そうでなければ、決して幼子のイエス様と会うことはできなかったでしょう。そして、聖霊に導かれていたからこそ、幼子のイエス様を見た時に、それが救い主だと分かりました。27節です。

27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。

 エルサレムの神殿には他にも人がたくさんいたことでしょう。でも彼らは幼子のイエス様には気付きませんでした。ヨセフとマリアに抱かれて来た幼子が救い主キリストであることが分かったのは聖霊に導かれていたシメオンともう一人、シメオンの記事の後に出て来る女預言者のアンナだけでした。ヨセフとマリアは貧しかったですから、ぜんぜん目立たなかったことと思います。24節にはヨセフとマリアが鳩を献げたことが記されています。もしヨセフとマリアにお金があったら羊一頭を献げたことでしょう。羊一頭を献げていれば、それなりに目立ったかもしれません。でも彼らは鳩をひっそりと献げていましたから、ぜんぜん目立ちませんでした。それでもシメオンは聖霊に導かれていましたから、ヨセフとマリアが救い主の両親と分かりました。そうして、シメオンは幼子のイエス様を腕に抱きました。28節と29節、

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。

 シメオンは幼子のイエス様を腕の中に抱くという、素晴らしく幸いな恵みに与ることができました。それほど素晴らしい恵みに与れば、確かに安らかにこの世を去ることができるでしょう。そして30節、

30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 この30節については、次の2番目のパートに進んで、ご一緒に考えたいと思います。

②肉の目と霊的な目の両方で救いを見る
 30節でシメオンの目が見た神様の御救いとは何でしょうか?31節と32節に、それが書かれています。

31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

 31節には「備えられた救い」とありますから、備えられてはいますが、いまだ成就はされていない救いです。具体的には32節にあるような「異邦人を照らす掲示の光」、つまり異邦人の救いです。これはパウロたちによる異邦人伝道によって成就したことですから、イエス様がお生まれになってから40年から50年後のことです。私たち日本人にこの光が届くには、さらに1400年ほどが必要でした。その未来の御救いをシメオンは見たと言いました。ですから、これは霊的な目で見たということですが、どうしてシメオンがそんなにハッキリと見えたかと言えば、それはイザヤが預言していたことだからです。シメオンの中にはイザヤ書のみことばが入っていましたから、まだ起こっていないことでしたが、異邦人の救いの成就を見ることができました。イザヤ書で異邦人の救いのことが書かれている箇所のいくつかは、ページの下の脚注に記されています。32節の脚注を見ると、そこにはイザヤ42:6、49:6、52:10、60:1,3などと記されていますね。たとえばイザヤ52:10を見てみましょう。

イザヤ52:10 はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。

 「地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る」とありますから、ユダヤから見たら地の果てにある日本の私たちにも救いの光が届けられました。

 この未来の救いの成就がシメオンの目には見えたのですね。これは、未来のことですから、霊的な目で見たことです。これは幼子のイエス様を実際に肉の目で見て、しかも腕の中に抱くことができるという素晴らしい恵みをいただいたからこそ、霊的な目がそれまでよりも大きく開かれたということなのでしょう。

 肉の目で見て肉の耳で聴くことで、霊的な目と耳が開かれるということは、確かにあることだと思います。とても不思議なことですが、そういうことは確かにあります。

 たとえば私が高津教会を初めて訪れてから2回目か3回目ぐらいの時、この場所こそがそれまで自分が長く探し求めていた場所ではないかと、何となく思いました。実際に救われて洗礼を受けたのは、それより何ヶ月か後のことでしたが、未来の救いのことが何となく見えた気がしました。それは高津教会の会堂に入って正面にある十字架や建物の中の様子を見て、また耳で祈りや賛美やメッセージを聴いて、そうして見えて来た霊的な領域の救いです。シメオンと違って、その時の私は救いのことはもちろん、聖書のこともほとんど何も分かっていませんでしたが、高津教会の会堂の中に足を踏み入れたことで、自分の未来の救いのことが確かに見えたような気がします。

 それは、もしかしたら、この小さな聖書を自分で買って身近に置くようになったからかもしれません。前にも証ししたことがありますが、この新改訳第2版の聖書を私は2001年の8月15日に静岡の吉見書店で買いました。当時は七間町に吉見書店があって上の階に聖書のコーナーがありましたから、そこで買いました。高津教会を初めて訪れたのが8月12日で、その後すぐにお盆で静岡に帰省して、帰省中に吉見書店でこの聖書を買いました。そうして次の聖日の8月19日は高津に戻っていて、この聖書を持って2回目の礼拝に出席しました。2回目か3回目ぐらいの時に、高津教会の会堂の中で、この場所こそが自分が長く探し求めていた場所ではないかと思ったのは、この聖書を買って身近に置くようになっていたからかもしれません。そのことを次のパートで考えてみます。

③小さな聖書は腕の中の幼子のイエス様
 今回、この礼拝の説教準備でシメオンの腕に抱かれる幼子のイエス様についてずっと思いを巡らしていて、聖書は幼子のイエス様であることを示されています。

 聖書は神様が預言者たちや弟子たちに伝えたことばの中のほんの一部分だけを収めた書物です。天の父は、モーセやイザヤやエレミヤなどの預言者たちに、もっと多くのことばを伝えたことでしょう。でもあまりにも多いと全部を読むことができなくなります。イエス様もマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書に収められていることばだけでなく、もっと多くのことを弟子たちに伝えたことでしょう。でもあまりにも膨大になると私たち読者は全部読むことができなくなりますから、これくらいの分量に収めて下さったのでしょう。

 天の父と共におられる天のイエス様も、とても大きなお方です。でもあまりに大きいと私たちはイエス様の姿を捉えきれなくなります。それゆえシメオンの腕の中に収まる小さなサイズになって、地上に降りて来て下さいました。

 イエス様は、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、何と赤ちゃんの姿になって私たちの前に現れて下さいました。このイエス様のへりくだった様子を見る時、もっと聖書をきちんと読むようにと励まされます。

 神様は、本当はもっと多くのことばを人々に語られましたが、「これぐらいでいいよ」とおっしゃって、だいぶ分量を減らして私たちに与えて下さいました。私たちは聖書というと分厚くていろいろなことがたくさん書いてあると思いがちかもしれません。でも、本当はもっと多いのに随分と減らして下さっています。ですから、せめてこれぐらいは読みなさいと励まされているように思います。私自身も聖書通読は何度もしているものの、書に好き嫌いがあって、そんなに好きではない書は、あまりじっくりと味わって読んでいないことを示されています。好き嫌いなく、もっと聖書全体をしっかりと読み込むべきなのでしょう。

 2週間前に、牧之原市のこども園の送迎バスの中に3歳の園児が取り残されて、熱中症で亡くなるという痛ましい事故がありました。その後でSNSを見ていたら、こういう確認を怠るような施設はほんの一部で、大部分の施設ではしっかりと確認をしているという書き込みがありました。そして、その書き込みに多くの人々が「いいね」をしていました。確かにそうなのかもしれません。大部分の施設ではしっかりと確認をしているのでしょう。でも私は、この書き込みには何となく居心地の悪さを感じました。自分自身が何ごともしっかりできていないということがあること、また私が聖書のみことばのことを考えずに何時間も過ごしてしまうことがしばしばあるからだろうと思いました。

 牧師になってからは24時間以上、みことばに思いを巡らさないことは、さすがにありませんが、何時間かの間は思わないことは、よくあります。それは幼子のイエス様を数時間放置していたということになるのだと思いました。牧師は次の礼拝や祈祷会の説教で何を話すか、常に考えていますから、1日の間にぜんぜん聖書のことを考えないということはさすがにありません。でも、何時間かの間、みことばのことを思わないことは普通にあります。それは、幼子のイエス様を何時間かことになるのかなと、今回示されています。

 私が高津教会に通うようになって2回目か3回目の時に、この場所こそが自分が長く探し求めていた場所ではないかと思ったのも、この小さな聖書を買って身近に置くようになっていたからなのかもしれません。この小さな聖書は幼子のイエス様です。聖書を身近におき、聖書のことばのことを気に掛けているなら、聖書は様々なことを私たちに語り掛けて下さいます。

おわりに
 きょうの敬老感謝礼拝で説教をするに当たってシメオンの記事から、これらのことに気付きを与えられましたから、とても感謝に思います。

 幼子のイエス様は、シメオンの腕の中だけにおられたのではなく、私たち一人一人の腕の中にも、聖書のことばとして、共にいて下さいます。この聖書には、神様の救いについて書かれています。文字という形で書かれていますから、私たちはこの救いのことを肉の目で見て読むことができます。でも、同時に神様の救いに関することは、とても霊的なことです。私たちはこの霊的な面を神様にもっと育てていただきたいと思います。

 幼子になって天から降って来たイエス様のように、私たちも一度まっさらになって、神様に私たちの霊性を育てていただきたいと思います。そうしてシメオンのような素晴らしい恵みに与る者たちとならせていただきたいと思います。

 このことを思いながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
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父の家に入ろうとしない者(2022.9.11 礼拝)

2022-09-13 05:39:23 | 礼拝メッセージ
2022年9月11日礼拝メッセージ
『父の家に入ろうとしない者』
【ルカ15:25~32】

はじめに
 先週はルカ15章の「放蕩息子の帰郷」のたとえ話の記事をご一緒に見ました。このたとえ話の前にイエス様は、百匹の羊のうちの一匹が迷い出て、その一匹を捜し歩いた人の話をしています。また、十枚の銀貨のうちの一枚がなくなり、それを一生懸命捜す女の人の話もイエス様はしています。そして、この一匹の羊と一枚の銀貨を捜し出した人とはイエス様でしょうという話をしました。

 このことから父の家に帰った放蕩息子の場合も、イエス様が目に見えない聖霊という形で放蕩息子と共にいて、彼が我に返って父親の家に帰る手助けをしたのでしょうという話をしました。父親は家で待っていましたが、イエス様は放蕩息子を捜しに出ていました。そして、イエス様は放蕩息子と一緒に父の家に戻って来ました。ですから、父の家で開かれた放蕩息子の帰郷を祝う祝宴の参加者の中にはイエス様もいたことになります。



 そして放蕩息子のお兄さんは、この祝宴が開かれていた父の家に入ろうとしませんでした。きょうは、この兄息子のほうに注目します。きょうの中心聖句は、ルカ15章31節と32節、

ルカ15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 そして次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①罪人と同席しないパリサイ人・律法学者たち
 ②私たちも異質者を歓迎しない兄の一面を持つ
 ③御霊の実を結んでイエス様に似た者にされる

①罪人と同席しないパリサイ人・律法学者たち
 きょうの兄息子の記事を先ずは見て行きましょう。25節から見て行きますが、この直前に弟の放蕩息子が家に戻って来ました。そして、それを喜んだ父親が祝宴を開いていました。それでは、25節から見て行きます。
 
ルカ15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』

 弟が家に戻った時、兄は畑で働いていました。そうして、戻って来て初めてそのことを知りました。すると28節、

28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。

 兄が家に入らなかったので父が家の外に出て彼をなだめました。でも、兄の怒りは収まりません。

29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

 このように言う兄息子に父は言いました。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 イエス様のたとえ話はこの32節で終わりますから、兄息子がこの後どうなったかは書かれていません。でも兄息子とは誰かが分かれば、彼がどうなったかは分かります。この兄息子とは誰のことでしょうか?

 この兄息子とは、パリサイ人や律法学者たちですね。そもそもイエス様がこのたとえ話をしたのは、パリサイ人と律法学者たちがイエス様に文句を言ったからでした。15章の1節と2節です。

1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

 ユダヤ人たち、特に律法を厳格に守るパリサイ人や律法学者たちは罪人と同じ場に身を置くと自分まで汚れてしまうと考えていました。まして同じ食卓に着いて一緒に食事をすることなど、とんでもないことでした。パリサイ人たちの目から見るとイエス様という人物は、働いてはならない安息日に病人を癒したり、同席してはならない罪人と一緒に食事をしたり、それまで自分たちが大切に守って来た秩序を破壊する危険な人物でした。そのイエス様の話を聞きに大勢の人々が集まって来ることを彼らは決して許すことができませんでした。そうして、最後にはイエス様を十字架に付けて殺してしまいました。

 ですから28節で怒って家に入ろうとしなかった兄息子は、そのまま父の家から出たままでいたことになります。父の家の中には罪人の弟息子を捜して連れて来たイエス様が食卓に着いていて食事をしていたでしょうから、パリサイ人の兄息子は決して父の家には入らず、その後、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。

②私たちも異質者を歓迎しない兄の一面を持つ
 ヘンリ・ナウエンが書いた本の『放蕩息子の帰郷』には、ナウエンのこの記事への思い巡らしの移り変わりが書かれています。最初ナウエンは自分を弟息子に当てはめていました。でも、ある時に人から「あなたはむしろ兄息子のほうではないですか?」と言われて、確かにその通りだと思うようになりました。

 私たちも同じではないでしょうか?弟息子の比率が高いか兄息子の比率が高いか、それは人それぞれだと思いますが、誰でも両方の性質を持っているのだと思います。100%弟息子で兄息子が0%という人はいないのではないかと思います。誰でも多少は兄息子の性質を持っているだろうと思います。

 私も小学生の頃、転校生をよそ者扱いしていた頃がありました。皆がそうしていて、それをおかしいこととは思っていませんでした。私自身が差別を受けた経験があったにも関わらずです。小学校2年と3年の時、父の仕事の都合で私はアメリカのニューヨークにいて、現地の小学校に通っていました。その時、日本人の私は白人のアメリカ人から人種差別を受けていました。皆が皆、私を差別していたわけではありませんでしたが、何人かでも自分を差別する人がいると、とてもつらいものです。そういうつらい経験があったにも関わらず、そんなことは忘れて、帰国してからの私は皆と一緒に転校生をよそ者扱いしていました。

 或いはまた、特定の民族を見下す考え方も特におかしいとは思わずに受け入れていました。周囲の人々の多くが、そのような差別意識を持っていましたから、それを特におかしいこととは思いませんでした。大人になってそのことのおかしさに気付きましたが、心の深い場所に刻み込まれた差別感情はしつこく残っていました。大学の留学生センターで働くようになってから、このしつこく染みついている差別意識を何とかしなければならないと思いました。結局それは、その国に行って、その国の人々と交流して、人情にふれることで解決することができました。

 イエス様の時代のパリサイ人や律法学者たちは、罪人たちと決して交わることがなく、ひたすら蔑んでいました。ですから、兄息子は、決して父の家に入ることなく、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。ということは、兄息子の性質を少しでも持っていたなら、私たちもイエス様を十字架に付けて殺した者たちであったということになります。そして、もし今でも兄息子の性質をたくさん持ち続けているなら、今も父の家に入らずにイエス様を十字架に付けていることになります。

 ただし、ペンテコステの日にペテロの説教を聞いて、このことに心を刺されて悔い改めた者には聖霊が注がれて、再び父の家に戻る恵みが与えられました。使徒の働き2章では、このペンテコステの日の出来事を、次のように記しています。この2章36節のことばはペテロのことばです。

使徒2:36 「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 私たちも、兄息子のような一面を持っています。しかし、悔い改めてイエス様を信じるなら、父の家に戻って聖霊を受ける恵みに与ることができますから、このことに心から感謝したいと思います。

③御霊の実を結んでイエス様に似た者にされる
 転校生をよそ者扱いするような、自分たちとは異質な者を歓迎せずに排除しようとする感情は、どこの地域に育った者でも持っています。試しにネットで調べてみましたが、転校生へのいじめは、やはりどこにでもあるようです。

 そして、このことを悔い改めてイエス様を信じて、聖霊を受けたとしても、心の奥深くに浸み込んだ兄息子の一面は、そう簡単には聖められません。聖められるためには、御霊の実を結ぶ必要があるでしょう。もう何度も引用していますが、ガラテヤ人への手紙5章の22節と23節をお読みします。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 この御霊の実を結んでイエス様に似た者にされて行くことで、私たちは聖められて行きます。この兄息子的な感情がいかにしつこいものであるかは、ペテロが一旦は異邦人と食事をするようになったのに、また元に戻ってしまったことからも分かります。パウロは、ガラテヤ書の中でこのことを、厳しく批判していますね。ガラテヤ人への手紙2章11節と12節です。ここでケファとはペテロのことです。

ガラテヤ2:11 ケファ(ペテロ)がアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

 ペテロがまた異邦人から離れて行ったということは、ペテロの心の奥底にはまだ異邦人への差別意識が薄っすらと残っていたからではないかなと思います。まったく聖められていたなら、割礼派の人々を恐れるようなことはなかったでしょう。幼い頃から親や周囲の人たちによって刷り込まれた差別意識は、そう簡単には聖められません。聖霊を受けて大部分は聖められたとしても、まだまだしつこく残る部分があるのだと思います。ペテロの場合も、そうだったのではないかと思います。

 だからこそ、私たちは御霊の実をしっかりと結ぶ必要があるのではないでしょうか。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 この御霊の実を心に留めながら、改めて兄息子のことばを振り返ってみたいと思います。兄息子は父に言いました。

29 『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

 御霊の実を念頭に置いて兄息子のことばを読むと、彼の心の狭さがよく見えて来ます。兄息子には父親への愛、弟息子への愛、父の家で働く人たちへの愛がありませんでした。父に仕えて働くことへの喜びもありませんでした。平安もなく怒っていました。放蕩した弟への寛容な心もありませんでした。それゆえ親切な心、善意や誠実な心も育っていませんでした。柔和さもまったくなく父に怒りをぶつけていました。この怒りを抑える自制の心もありませんでした。

 そして、この兄息子が持つ悪い面は、私自身の心の中にもまだまだ残っています。だからこそ、イエス様に心をすべて明け渡して、イエス様に聖めていただき、イエス様に似た者へと変えていただきたいと願っています。

おわりに
 そうして、御霊の実が少しずつ結ばれて来るなら、父がいかに気前がよくて寛大なお方であり、愛にあふれたお方であるかが、よく見えて来ることでしょう。31節と32節です。父は兄息子に言いました。

31 『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 この気前の良い父が「私のものは全部おまえのものだ」とおっしゃっているのに、兄息子はそれを拒否して父の家に入ろうとしませんでした。兄息子の心はそれほど狭くなっていました。そうして、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。

 しかし、そんな者でも、ペンテコステの日のペテロの説教を聞いて心が刺されて悔い改め、イエス様を信じた者には聖霊が与えられました。

 この素晴らしい恵みを与えて下さる神様に心一杯感謝したいと思います。
 この恵みに感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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いつも共にいて関係の回復を促すキリスト(2022.9.4 礼拝)

2022-09-06 06:25:36 | 礼拝メッセージ
2022年9月4日礼拝メッセージ
『いつも共にいて関係の回復を促すキリスト』
【創世記16:1~10、ルカ15:1~24】

はじめに
 きょうは、イエス様がいつも共にいて下さり、私たちが我に返ることを手助けして、天の父との関係の回復を促して下さるお方であることを分かち合いたいと思います。

 きょうの中心聖句は、ルカ15章17節です。

ルカ15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

 そして次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①ハガルに主人のもとへ帰るよう促した主の使い
 ②一匹の羊を捜し歩いた人、銀貨一枚を捜した女
 ③いつも共にいて我に返る手助けをするイエス様

①ハガルに主人のもとへ帰るよう促した主の使い
 いま祈祷会では、藤本満先生が書いた本の『祈る人びと』を読んで示されたことを分かち合っています。先月はアブラハムに目を留めて、先週はハガルに目を留めました。きょうの聖書交読で読んだ箇所です。きょうの礼拝説教のメインはルカ15章の「放蕩息子の帰郷」ですが、その前にハガルの箇所を見ておきたいと思います(旧約p.22)。

 ハガルの女主人のサライはアブラムの子を産むことができないでいたので、自分の代わりにハガルに子を産ませることをアブラムに提案して、アブラムもそのようにしました。ハガルは奴隷でしたから、彼女の気持ちはまったく考慮されずに決められました。このことからして、彼女はとても気の毒な境遇にありました。こんな風にずっと抑圧されていた反動でしょうか、ハガルはアブラムの子を身ごもった時にサライを軽く見るようになってしまいました。このことに怒ったサライはアブラムに言いました。5節です。

創世記16:5 「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

 サライは非常に怒っていました。しかし、アブラムはこの女性同士のもめごとに巻き込まれたくありませんでしたから、サライの好きなようにしなさいと言いました。これもまた、ハガルには気の毒なことでした。アブラハムは「信仰の父」と言われて、立派な信仰を持っていた人でしたが、完全無欠ではありませんでした。もっとハガルの身になって間に入ってやることはできなかったのかな、と思いますね。

 こういう良くない点まで描く聖書はすごいなと思います。ノアがぶどう酒に酔って裸で寝ていたことや、モーセが我を忘れて思わずカッとなってしまったこと、或いはまたダビデが犯した罪のことなど聖書は立派な信仰を持っている人物たちも決して完全無欠ではなかったことを描いています。だからこそ、私たちは余計に親しみを持って聖書を読むことができるのですね。

 さて、アブラムが間に入らなかったことで、サライの激しい怒りがそのままハガルにぶつけられました。6節です。

6 アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

 こうしてサライのもとから逃げたハガルを、主の使いが捜しに行きます。まるで迷い出た一匹の羊を捜しに行く人のように、主の使いはハガルを捜しに行きました。7節と8節、

7 の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。
8 そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」

 こう答えたサライに主の使いは言いました。9節です。

9 の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

 この主の使いのことばを聞いて、ハガルは結局サライのもとに戻りました。でも、疑問が残ります。ハガルはサライに苦しめられて、それに耐え切れなくなったから逃げ出しました。耐えられないほどの苦しみだったのに、サライのもとに戻ればまた同じ苦しみか、それ以上の苦しみが待っています。主の使いは10節で、

10 「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。」

と言いましたが、それがどんなに素晴らしい祝福であったにせよ、子が生まれるのは、まだ先のことです。ハガルはよくサライのもとに帰ることを受け入れたなと思います。

 今回、この箇所について思いを巡らしていて、神様は関係の回復を促すお方なのだなということに改めて気付かされました。そして、関係の回復と言えば、思い至るのが、私たちと神様との関係の回復です。かつて私たちは神様に背を向けて逆らっていた者たちでした。イスラエルの民が神様に逆らっていたのと同じように、私たちもまた神様に逆らっていました。そんな罪人の私たちが神様との関係を回復できたのは、イエス様が私たち一人一人と神様との間に入って下さり、十字架に掛かって下さったからですね。私たちはイエス様が間に入って下さったことで、天の父なる神様との関係を回復することができました。

 すると、サライとハガルの間に入って関係の回復を促した、この主の使いもまた、イエス様ではないか、ということが見えて来ます。9節をもう一度読みます。

9 の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

 サライのもとに帰ることは、とてもつらいことでしたが、ハガルがそうできたのは、この主の使いがイエス様であったからではないでしょうか。9節の主の使いのことばがどんな風に語られたのか、文字だけからでは分かりませんが、きっと慈しみ深いイエス様の声だったのではないでしょうか。

 イエス様はご自身が弟子たちの模範となって、すすんで身を低くされたお方です。イエス様は最後の晩餐の時に身を低くして、弟子たちの足を洗いました。そうして、十字架へと向かって行きました。パウロはこのことをピリピ人への手紙で、このように書きました。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 この自ら身を低くしたイエス様が「身を低くしなさい」とおっしゃったのですから、ハガルも励まされたのではないでしょうか。イエス様はこのようにして、人と人、或いは人と神様との間に入って回復を促すお方であることを覚えて感謝したいと思います。

 このようにイエス様は関係の回復のために間に入って下さるお方です。そうして思い巡らしの中で、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」のたとえ話へと導かれました。

②一匹の羊を捜し歩いた人、銀貨一枚を捜した女
 ルカ15章では、まずいなくなった羊一匹を捜し歩く人のことが語られ、次いでなくした銀貨一枚を捜す女の人が語られます。まずルカ15章4節、

ルカ15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 そうして、この人は迷い出た羊を捜し出して、99匹の所に戻します。つまり、関係が回復して元の通りの100匹の羊になります。この説教の準備をしていた土曜日の朝、テレビのライフラインで、正にこのルカ15章4節が語られていました。説教者の原田憲夫牧師は、この迷い出た羊とは私たち一人一人のことで、迷い出た私をイエス様は捜し出し、元の群れに戻して下さるお方であると語っていました。まさに、その通りですね。この羊一匹を捜し歩いた人とはイエス様です。

 そして、銀貨の場合も同様です。女の人が失くした銀貨を捜します。8節です。

8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。

 このように、銀貨の場合も一生懸命に捜して、元の10枚の銀貨への回復のために労してくれる女の人がいました。この女の人もまた、イエス様と言って良いのでしょう。

 では、放蕩息子の場合はどうでしょうか?ご一緒に見て行きましょう。まず11節から13節、

11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

 創世記のハガルの場合は女主人のサライから逃げ出しましたが、弟息子は父の家から逃げ出しました。ハガルのような絶望的な苦しみはなかったと思いますが、お兄さんが真面目すぎるとか、彼なりに苦しくて耐えられないことがあったのでしょうか?そうして、遠い国で財産を使い果たしてしまいました。そして14節から16節、

14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

 豚の餌さえも食べたいほどに弟息子は飢えていました。つまり、彼はまったく無力な者になっていました。こういう無力の時こそが、父の存在に気付くチャンスなのですね。

17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

 弟息子は父の家に帰って、身を低くしようと決心しました。サライのもとから逃げ出したハガルに主の使いが、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」と言ったのと、似ていますね。こうして20節、

20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 父親は家を出て行った弟息子を捜し歩くことはなく、ずっと家で待っていました。いつも気に掛けてはいました。だから、まだ遠かったのに彼を見つけることができました。しかし、父は遠い国まで捜しに行くことはなく、ずっと家で待っていました。でも、誰も放蕩息子を捜しに行かなかったのでしょうか?次の3番目のパートに進んで、このことを考えてみましょう。

③いつも共にいて我に返る手助けをするイエス様
 週報に、次の四つの場合を書きました。



 一番左ではサライとハガルの間に主の使いが入って、二人の関係の回復を促しました。この主の使いとは、イエス様なのでしょう。そして、迷い出た1匹の羊は捜しに出た人が99匹の所に戻したので、元の100匹の状態が回復しました。この捜し歩いた人もイエス様なのでしょう。なくした銀貨も、女の人が一生懸命捜したので、また元の10枚の銀貨の状態に回復しました。この銀貨を捜した女の人もイエス様なのでしょう。

 では、放蕩息子の場合は誰も捜しに行かなかったのでしょうか?ルカ15章を読む限りは、そのように見えます。ですから、いちおう空欄にして、点線の長い丸を記入しておきました。でも本当に、誰も捜しに行かなかったのでしょうか?

 誰も捜しに行っていない割には、イエス様は随分と詳しく遠い国に旅だった弟息子の様子を語っています。例えば16節です。

16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

 詳しく様子を語っているということは、イエス様は最初からずっと弟息子のことを見ていたということではないでしょうか?これはたとえ話ですから、いくらでも話は作れるでしょう。でもイエス様はここで、「わたしは最初からすべてを見ているのですよ」とおっしゃっているのではないでしょうか?この場合はイエス様というよりは聖霊と言い換えるべきですが、聖霊は罪人の弟息子のことを、生まれた時からずっと見ていました。

 それは私自身の経験に照らしても、聖霊は私のことをずっと見ていて、教会へと導いて下さったと感じていますから、弟息子の場合もきっとそうなんでしょう。自分の場合、特に教会に導かれる少し前は、いつも漠然とした不安に包まれていて、自分には何か心の芯となるものが必要だとずっと思っていました。何度か証ししたと思いますが、いろいろな本を読み、いろいろな趣味にも手を出し、この漠然とした不安から自分を救ってくれるものを探し求めていました。そうして教会に導かれてから何ヶ月かした後、この漠然とした不安がいつの間にかすっかり無くなっていたことに気付きました。きっと聖霊がいつも共にいて下さり、私が我に返って天の父との関係を回復するようにと促していたのでしょう。教会へ導かれる前はイエス様を信じていませんでしたから、聖霊は私の内には入ってはいませんでしたが、すぐそばにいて、教会へと導いて下さいました。当時はもちろん、そのことに気付いてはいませんでしたが、聖霊は、すなわちイエス様は、いつも私と共にいて下さいました。

 皆さんの場合もそうではないでしょうか。教会のチラシやギデオンの聖書を通して聖霊が語って下さったから、教会に導かれたのではないでしょうか?或いはお知り合いや家族を通して聖霊が語って下さったから、教会に導かれたのではないでしょうか?

おわりに
 そういうわけで、一番右の放蕩息子と父の間の空欄には点線の長い丸ではなくて、「聖霊」と入れるのが良いのかもしれません。でも「聖霊」と書き入れてしまうと、聖霊が遠い国での弟息子の様子も見ていた様子が想像しづらくなるようにも思います。父・子・聖霊の神様は遠い国まで見渡せるほどスケールの大きなお方だからです。文字にしてしまうと、そのスケールが小さくなってしまうことを感じます。だから、イエス様は敢えて聖霊が放蕩息子を見ていたとおっしゃらなかったとも考えられます。神様のことは語られると小さくなってしまいます。みことばとして語られてはいないけれども想像できるのが一番かもしれません。

 みことばは、目に見えない神の姿・耳に聴こえない神のことばを文字や音にしたものです。みことばは、本来は人知を超えた壮大なスケールを持つ神様を人間サイズに縮小しています。みことばは、神様を知り、異端にそれることを防ぎ、信仰を守る上で非常に重要です。しかし、過大に重要視し過ぎて、神様の壮大なスケールを見失うのでは本末転倒と言えるでしょう。神様はスケールが大きすぎて分からないので、まず私たちは人間サイズのみことばで神様を知ります。そうしてみことばをスケールの大きな神様を知る手掛かりとします。でも、そのことを忘れて神様を小さくしたままでいたのでは神様からいただく恵みも小さくなってしまいます。人知を超えたキリストの大きな愛に包まれてこそ、私たちは心の深い平安が得られます。このことを覚えたいと思います。
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人知を超えたキリストの愛の泉の平和(2022.8.28 礼拝)

2022-08-29 13:43:54 | 礼拝メッセージ
2022年8月28日礼拝メッセージ
『人知を超えたキリストの愛の泉の平和』
【ヨハネ4:7~15】

はじめに
 8月24日はロシアがウクライナに侵攻してから半年であることをテレビや新聞が報じていました。そして、この戦争がすぐには終わりにくい状況にあるという解説などもされていました。この24日の前日の23日の晩に私は、ふと「そうだ 広島、行こう」という思いが与えられたので24日と25日の両日、広島の平和記念公園と、その中にある原爆資料館に3年ぶりで行って来ました。

 この原爆資料館の玄関ロビーには「平和のキャラバン」(平山郁夫・作)の絵を大きく引き延ばしたタイル画が掛かっています。縦4.8メートル×横6メートルの非常に大きな絵で、ここには約8万個のタイルがはめ込まれています。一つ一つのタイルは2cm弱の小さな正方形のタイルで、それぞれに名前が刻まれています。私の「S.KOJIMA」という名前のタイルもこの中にあります。このタイル画が造られた1985年に確か1300円ぐらい?で購入して名前を刻んでもらって、はめ込まれました。



 ですから、原爆資料館には1980年代の半ば以降から自分の名前を刻んだタイルがずっとあって、自分の分身がここにあるような気がしています。それで広島の平和公園に行ったら必ず原爆資料館へも行って自分のタイルを見ます。左右の真ん中の大人の目の高さの所にありますから、とても見つけやすいです(左の写真の点線の交点)。そうして「私を平和のために用いて下さい」と祈りながら、展示資料を見て回り、見た後は平和公園のベンチに座って、また「私を平和のために用いて下さい」と祈ります。

 しかし、今回は違いました。展示してある原爆被害の悲惨な状況が今のウクライナの状況と重なり、自分が平和のためにぜんぜん働けていないことを申し訳なく、また情けなく思い、神様と被爆者に「申し訳ありません」と謝りながら、展示資料を見て回りました。多くの人の心に深い平安が与えられるなら、世界は必ず平和へと向かって行くはずです。神様はそのために私にヨハネの福音書の奥義を教えて下さり、この奥義を平和のために用いるようにと励まして下さっています。しかし私の力不足のために、その奥義をぜんぜん伝えることができていません。そればかりか、むしろ逆効果になっています。このことを皆さんに申し訳なく思うと共に、神様に申し訳なく思っています。また、被爆者の方々と今もウクライナなどで戦災に苦しんでいる方々に申し訳なく思います。

 そして広島から戻り、改めて神様から私に託されているヨハネの福音書の奥義を皆さんにお伝えするように促されました。皆さんのお一人お一人の心に深い平安が与えられることを願い、そしてやがては多くの方々の心に平安が与えられることを願い、きょうのメッセージを取り次がせていただきます。きょうの聖書の中心聖句はヨハネ4章14節です。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエス様は「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます」とおっしゃいました。きょうはこれからいろいろな話をしますが、細かいことは分からなくても大丈夫です。分かち合いたいことは「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とかの無限の時間を生きるということではない、ということです。「永遠」とは人間が慣れ親しんでいる時間の流れとは関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。そうして多くの方々がこの深い平安を得るなら、この世は少しずつ平和な方向へと向かって行くでしょう。

 きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
 ②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
 ③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉

①重なりが生む『幸福の黄色いハンカチ』の幸福
 まず、古い映画ですが、山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977)について考察します。その後で本題のヨハネの福音書の奥義に入って行きたいと思います。『幸福の黄色いハンカチ』を例として取り上げるのは、多くの人がこの映画のことをご存知だと思うからです。まずは多くの皆さんが知っている映画の話から入って、ヨハネの福音書の奥義へとつなげて行きたいと思います。



 この映画のことは、たぶん昭和生まれであれば、ほとんどの方が知っているのではないかと思いますが、平成生まれだと知らない方もいると思いますから、簡単に説明します。映画の中の役名より俳優さんの名前のほうが分りやすいと思いますから、俳優名で説明します。

 この映画の主な登場人物は高倉健とその妻の倍賞千恵子、そして当時は若者だった武田鉄矢、桃井かおりです。あらすじを思い切り簡単に言えば、この映画は殺人の罪を犯して網走の刑務所に入った高倉健の服役前と服役後の物語です。

 つまり、時間順で書けば(1)の

   服役前 → 服役後 (1)

という順番になっています。でも、この映画は、このような単純な時間の流れにはなっていません。刑務所を出た服役後の高倉健が、偶然出会った武田鉄矢と桃井かおりと同じ車に乗って旅をする中で、少しずつ自分の過去を二人に語るという構成になっています。つまり、この映画は(2)のような重なりになっています。

   服役後
   服役前  (2)

 この映画は高倉健に関して言えば彼の「服役後」から始まって「服役前」と「服役後」の間を行ったり来たりしますから、(2)のような重なりになっています。

 さてここで、(1)ではあまりに単純過ぎるので、もう少し膨らませて(3)のようにします。

   妻との幸せな日々 → 殺人の罪・服役 → 若者の励まし → 不安 (3)

 この(3)は高倉健の人生を時間順に並べたものです。服役前の彼は妻となる女性の賠償千恵子と夕張のスーパーで出会い、結婚して幸せな日々を送っていました。しかし、妊娠した妻が流産してしまいました。そのことでヤケ酒を飲んだ挙句に殺人の罪を犯してしまいました。そうして、服役中に離婚しましたが、刑期を終えて出所した彼は夕張の彼女あてに葉書を出します。もしまだ一人でいて、自分を待っていてくれるなら、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチを目印としてぶら下げておいてほしい、というものでした。でも葉書を出したものの、彼の心の中には不安しかありませんでした。武田鉄矢と桃井かおりの二人の若者に励まされて夕張に向かいはしますが、彼はずっと不安に支配されていました。

 一方、映画を観ている観客は違います。そもそも映画のタイトルが『幸福の黄色いハンカチ』ですから、最後には高倉健が幸福になると分かった上で観ています。神様の目で映画を観ていると言っても良いかもしれません。人間は服役後と服役前を行ったり来たりはできませんが、神様はできます。そして、映画も神様のように自由に時間の中を行ったり来たりできます。そうして、(4)のような重なりの上に幸福が生まれる様子が分かります。現実の中を生きている高倉健は分かりませんが、映画の観客は高い位置から見ているので、それが分かります。



 この(4)では「妻との幸せな日々」が土台として、しっかりとあります。「殺人」という大きな罪は犯しましたが、「幸せな日々」が土台にあり、夕張への旅では武田鉄矢と桃井かおりの「若者の励まし」があって、これらの上に幸福が生まれます。

 一方、高倉健は(3)の時間の流れの中にいます。この流れの中では「殺人の罪」があまりにも大きくて「妻との幸せな日々」が遠い過去のことになってしまっています。これでは夕張への旅で武田鉄矢と桃井かおりがどんなに熱心に励ましても幸福は見えて来ません。不安だけが高倉健を支配していました。でも映画を観ている観客は違います。ハッピーエンドの映画と分かっていますから、スクリーンの中の高倉健がどんなに不安な表情をしていても、観客は不安に陥ることはなく、むしろ彼に「大丈夫だよ」と声を掛けて励ましたくなります。イエス様が弱い人々を励ますように、高倉健を励ましたくなります。

 そして、聖書にも『幸福の黄色いハンカチ』のような重なりがあることを教えているのがヨハネの福音書です。これがヨハネの福音書の奥義です。この重なりを見ながら聖書を読むなら読者は神様の領域に入れていただくことができますから、深い平安を得ることができます。こうして聖書から深い平安を得る読者が増えて行くなら、世界は平和な方向に向かうでしょう。

②父・子・聖霊の神の重なりが生む深い平安と平和
 世界には聖書の読者がたくさんいます。特にひと昔前までの欧米諸国では国民の大半がクリスチャンであり、教会と家庭で聖書が読まれていました。それなのに世界に平和はなく、戦争が絶えることなく繰り返されて来ました。それは聖書の読者の多くが真の心の平安を得ていないからでしょう。心に平安がないから争い事を起こします。そうして悪くすると戦争へと発展します。相手から攻撃を受けるのではないかと不安になり、その不安から先制攻撃を仕掛けて戦争が始まります。

 ですから、もし多くの人がヨハネの福音書の奥義を知って心の深い平安を得るなら、世界は少しずつ平和な方向へ向かい始めるはずです。そういうわけで、ヨハネの福音書とは、ものすごく大きな可能性を秘めた書です。この2番目のパートでは、このヨハネの福音書の奥義である重なりを、1番目の『幸福の黄色いハンカチ』を参照しながら、説明したいと思います。

 まず、(5)を見て下さい。

 天の父のことば → 子の降誕・十字架・復活 → 聖霊の励まし → 不安・争い (5)

 この(5)は聖書の時代に起きたことを左から順に書いたものです。そして現代の私たちも、この時間の流れの中を生きています。まず《旧約の時代》に天の父のことばが預言者を通して語られました。そして次に御子のイエス様が天から降誕して十字架で死んで復活しました。その後、ペンテコステの日以降に弟子たちと私たちに聖霊が注がれるようになり、私たちは聖霊に励まされながら、日々を生きています。私たちは正にこのような時間の流れの中を生きています。しかし、この時間の流れの中にいる限り私たちには常に明日への不安がつきまとい、その不安が争いなどを引き起こします。

 どうして、このような時間の流れの中にいると不安から抜け出せないのでしょうか?それは(3)の『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健が抱えていた不安がとても参考になります。服役を終えて出所した彼は、できることなら元妻の賠償千恵子と暮らしたいと思っていました。しかし、彼の犯した殺人の罪があまりに大きく、それが昔の妻との幸せな日々を遠い過去のことにしてしまっていて、不安に支配されていました。そうして、若者の励ましによっても、励まされることはほとんどありませんでした。殺人の罪があまりに大きくて過去の幸せな日々が見えなくなっていましたから、その幸せを回復できる希望が全く見出せませんでした。

 そして(5)の場合には、御子イエス様の降誕・十字架・復活の恵みがあまりに大きいために、《旧約の時代》が遠い過去のことになってしまっていて、天の父のことばが聴こえづらくなってしまっています。イエス様の恵みがあまりに大きいので、旧約聖書の父は怒ってばかりいるようにも感じられます。だから旧約聖書はあまり恵まれないと考えるクリスチャンも少なくないのではないでしょうか。神学生になる前の私はそんな感じでした。旧約聖書は恵まれないとまでは考えなくても、イエス様の恵みが大きすぎて、その分、天の父の深い愛が見えづらくなっていることは否めないのではないでしょうか。

 でも(4)の『幸福の黄色いハンカチ』では「妻との幸せな日々」が土台にあり、この土台があったからこそ幸せを回復できたのと同じで、聖書においても「天の父のことば」が土台にあることが非常に重要です。「天の父のことば」が土台としてあるからこそ、私たちは天の父との関係をイエス様の十字架によって回復して、深い平安を得ることができます。それを表しているのが(6)です。
 


 (6)では「天の父と子のことば」としてありますが、それはイエス様が「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃっているからです。そして、「天の父と子のことば」が土台にあることで、「聖霊の励まし」も(5)の場合よりもよく聴こえます。こうして、父・子・聖霊の神の重なりによって私たちは神の領域に入れていただくことができて、深い平安をいただくことができます。

 私たちは『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健のように、毎日を不安の中で生きてしまっています。でも映画を観る観客のように、時間の流れから自由になるなら神様の領域に入れていただくことができて、心の深い平安を得ることができます。それを教えてくれているのがヨハネの福音書です。たとえばヨハネ2章の前半は、表面上はアンダーラインで示したように「カナの婚礼」のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の「出エジプト」と《新約の時代》の「ガリラヤ人への聖霊の注ぎ」の場面が透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。



 また、ヨハネ3章の前半には、表面上はアンダーラインで示したようにイエス様とニコデモとの会話ですが、ここからは《旧約の時代》の「モーセの律法の授与」と《新約の時代》の「ユダヤ人への聖霊の注ぎ」が透けて見えています。

 そしてヨハネ4章には、表面上はサマリアでのイエス様のことが書かれていますが、ここからは《旧約の時代》の預言者エリヤと《新約の時代》のサマリア人への聖霊の注ぎが透けて見えていて、重なり合っていることが分かります。

③人知を超えた「永遠」にあるキリストの愛の泉
 きょうの中心聖句のヨハネ4:14をお読みします。イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 きょうの説教の最初にも言いましたが、「永遠のいのち」とは一億年とか百億年とか無限の時間を生きることではありません。「永遠」は人間が慣れ親しんでいる時間の流れとはぜんぜん関係なく、人知を超えた神様の領域の中にあります。ですから、「永遠のいのちを得る」とは、その人知を超えた神様の領域の中に入れていただくことです。神様の領域の中に入れていただくのですから、そのほんの一端でも分かれば、私たちは深い平安を得ることができます。

 その、人知を超えた「永遠」とはこういうことではないか?という一端を示しているのが、『幸福の黄色いハンカチ』とヨハネの福音書で見た重なりです。「永遠」とは、この重なりの方向であるとも言えるでしょう。この重なりの方向は、左から右へ流れる時間の方向に縛られずに、自由になっています。映画の中の高倉健はこの流れに縛られていますが、観客の私たちは自由です。イエス様も自由に《旧約の時代》と《新約の時代》を行き巡ります。時には《旧約の時代》と《新約の時代》に同時にいます。これは正に人知を超えたことであり、これがイエス様がおられる「永遠」です。そうして私たちも、イエス様が与えて下さる水を飲むなら、その「永遠」の一端が分かるようになります。「永遠」は人知を超えた神様の領域の中にあり、その領域のほんの一端でも分かるなら、私たちは深い平安を得ることができます。それは人知を超えたキリストの愛を知ることでもあります。

 キリストの愛というと私たちは「十字架の愛」を思い浮かべますが、キリストの愛は「十字架の愛」だけでなく、聖霊の励ましもキリストの愛であり、天の父の愛もキリストの愛でしょう。パウロは、このキリストの愛を私たちが知ることができますようにと天の父に祈っています。エペソ人への手紙3章の16節から19節までをお読みします。

エペソ16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 パウロは19節で私たちが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。……神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますように」と祈りました。このことは、イエス様が与えて下さる水を飲むことで実現します。イエス様が与える水は、飲む人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。そうして、神の満ちあふれる豊かさに満たされるなら、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになります。

 そのような者へと変えていただくことができますように、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
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「天のイエス」が主役のヨハネの福音書

2022-08-22 17:36:55 | 礼拝メッセージ
 前回の『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』の補足をします。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 ここにはペンテコステの日以降のパリサイ人と弟子たち、そして天のイエス様のことが描かれています。イエス様が地上にいた時代にバプテスマ(洗礼)を授けていたのはバプテスマのヨハネだけでした。マタイ・マルコ・ルカはイエス様と弟子たちがバプテスマを授けていたことを書いていませんから、2節の「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」とは、ペンテコステの日以降のことです。ペンテコステの日以降、天のイエス様は聖霊を受けた弟子たちの中にいましたから、弟子たちがバプテスマを授けたことは、イエス様がバプテスマを授けたのと同じことでした。

 以上のことを『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』で書きました。しかし、これだけでは分かりにくかったかもしれませんから、補足します。

 そもそもヨハネの福音書は【イエス=ことば】とした、次の有名なことばで始まります。ここには天のイエス様のことが書かれています。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 冒頭に天のイエス様のことを書くということは、ここでヨハネは「この福音書の主役は天のイエス様である」と宣言しているということです。マタイ・マルコ・ルカの福音書の主役が地上のイエス様であるために、次のヨハネの福音書の主役も地上のイエス様と思いがちですが、ヨハネはちゃんと最初に「主役は天のイエス様である」と宣言しています。

 そして、【イエス=ことば】の意味についても、ヨハネは福音書の中でイエス様のことばによって説明しています。それらを列挙します。下記はすべてイエス様のことばです。

8:26 「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」

8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

10:30 「わたしと父とは一つです。」

12:50 「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

14:10 「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 このように、父と一つであるイエス様のことばは、父が話したことばをそのまま話したものであることが繰り返し語られています。

 つまり、【聖書の神のことば=イエスのことば】です。それゆえ、【イエス=ことば】であると、ヨハネは冒頭の1章1節で書いたのでしょう。

 旧約の預言者たちが人々に語った神のことばはイエス様のことばであると、ヨハネの福音書は書いています。天のイエス様は父と共に預言者たちに聖霊を遣わし、聖霊を通して父のことばを伝えました。そして新約の時代の弟子たち、21世紀の私たちも聖霊を通して天のイエス様の助言のことばを聴きます。

14:16 「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。……この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

14:26 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

15:26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」

 天のイエス様は、聖霊を通して私たちにすべてのことを教え、助言して下さいます。ですから、困難があってもイエス様が最善の方向に導いて下さいます。ヨハネの福音書は、その天のイエス様が主役です。天のイエス様の声に耳を傾けて日々歩んで行きたく思います。
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