平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

現代でも閉ざされている霊的な目(2022.12.1 祈り会)

2022-12-05 06:07:26 | 祈り会メッセージ
2022年12月1日祈り会メッセージ
『現代でも閉ざされている霊的な目』
【イザヤ6:8~13、マルコ4:10~13、8:31~35】

【前半】
イザヤ6:8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
9 すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。
13 そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(すえ)。」

 アドベントに入って礼拝説教では福音書を開いています。木曜の祈祷会ではイザヤ書を開きます。イザヤ書7章や9章ではイエス様の降誕のことが預言されていますから、それらの箇所を開きたいと思います。その前に今日は重要な6章を見ておきたいと思います。

 このイザヤ書6章で主は人々の心を鈍らせ、耳を遠くし、目を閉ざすと仰せられました。それはイエス様がこの世に遣わされるまでの筈でしたが、21世紀の現代においても今なお多くの人々の霊的な目が閉ざされていて、悲惨な戦争が繰り返されています。なぜ、人々の目が未だ閉ざされているのか、その理由を探りたいと思います。

 では、イザヤ書6章を見て行きましょう。イザヤ書6章はイザヤが神様に召し出された召命の章です。神様はイザヤを召し出すに当たって、まずイザヤをきよめました。セラフィムは神様の御使いです。御使いは言いました。7節、

7 「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

 そしてイザヤをきよめた後で、主は言われました。「だれを、わたしは遣わそう。だれがわれわれのために行くだろうか」。その主の声を聞いてイザヤは言いました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

 こうしてイザヤは召し出されましたが、主の命令は過酷なものでした。9節と10節、

9 「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

 預言者の役割とはほとんどの場合、主に背を向けて主の御声に耳を閉ざす人々に対して主の方を向いて御声を聞くように諫め、励ますことでしょう。しかし、ここで主はイザヤに民の耳を遠くし、その目を閉ざすように命じました。何と過酷な命令でしょうか。これを聞いたイザヤは思わず聞き返しました。「主よ、いつまでですか」。すると主は言われました。11節と12節、

11 「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。」

 つまり、南王国がバビロンによって完全に滅ぼされ、人々が捕囚として引かれて行ってしまうまでということです。これは、もはや、この南王国が滅亡することは避けられないことを意味します。そして、わずかな者だけが残されると主は言われました。13節、

13 「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(すえ)。」

 そうして、そこに神の御子のイエス様が天から遣わされて、人々の耳と目を開いて下さいます。しかし、イエス様が遣わされて確かにペテロたちの耳と目は開かれましたが、依然として多くの人の耳と目は開かれないままで、それが現代に至るまで続いています。これは一体どういうことでしょうか。前半はここまでとして、後半にそのことを考えたいと思います。

【後半】
マルコ4:10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。

 前半のイザヤ書6章の主のことばからは、人々の耳と目が閉ざされるのは、イエス様が遣わされる時まであることが暗示されています。しかし、先ほども言ったように、ペテロたちなど弟子たちの耳と目は開かれましたが、多くの者の耳と目は閉ざされたままであり、それが現代に至っています。それがどうしてなのかは、福音書がヒントになるでしょう。

 イザヤ書6章の主のことばは、マタイ・マルコ・ルカの福音書の「種蒔きのたとえ」で引用されていますね。きょうはマルコを見ることにしたいと思います。マルコ4章でイエス様は「種蒔きのたとえ」を話されました。たとえ話は、普通は話を分かりやすくするために話す場合が多いと思います。しかし、イエス様の「種蒔きのたとえ」はとても分かりにくいものでした。そこで10節にあるように、イエス様の周りにいた人たちが、このたとえのことを尋ねました。するとイエス様は答えました。11節、

11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。

 そうしてイザヤ書6章を引用しました。

12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」

 つまり、イザヤの時代からの主が人々の耳と目を閉ざしたことが依然として続いていました。

 一方で、弟子たちには神の国の奥義が与えられます。この後の14節以降でイエス様は「種蒔きのたとえ」について説明しています。14節、

14 「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」

 こうして、弟子たちには奥義が伝えられました。しかし、その他の人々には奥義が伝えられませんでした。マルコ4章の1節には、非常に多くの群衆がイエス様のみもとに集まっていたと書かれています。これらの人々と弟子たちの違いは何だったのでしょうか?
 それは、弟子たちがそれまでの自分を捨てて、イエス様に付き従った者たちであったということなのでしょう。ここでマルコ8章を開きましょう。まず8章の31節から33節までを読みます。

マルコ8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 33節でイエス様はペテロに「下がれ、サタン」と言いましたが、この少し前の29節でペテロはイエス様に「あなたはキリストです」と言っています。つまり、ペテロはイエス様がどのようなお方か分かっていました。そんなペテロでも、サタンに妨害されると簡単に正しい方向から逸れてしまいます。4章の「種蒔きのたとえ」でも、道端に蒔いた種を鳥が食べてしまうたとえは、サタンが取り去ってしまうことだとイエス様は話されました。このように、サタンは常に人が神様の方向を正しく向くことを妨害します。このサタンの妨害から守られるためには、すべてを捨てて自分の十字架を負って、イエス様に従うほかないのでしょう。8章34節と35節、

34 「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

 きょうの関心の中心は、イエス様が遣わされたのに、どうして現代に至るまで多くの人の耳と目が閉ざされたままなのか、ということです。そして、福音書によれば、結局すべてを捨ててイエス様に従わなければ、耳と目は閉ざされたままであるということになります。何とも厳しいと言わざるを得ません。

 でも考えてみると、私たちには聖書の福音書が与えられていますから、いつでも聖書を通してイエス様とお会いできて、イエス様に従うことができます。ペテロたちは漁師などの職業を捨ててイエス様に付き従わなければなりませんでしたが、私たちはいつでも聖書を通してイエス様のすぐそばに行くことができます。そうして神の国の奥義を教えていただけますから、この恵みに心一杯感謝したいと思います。
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