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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

これはヤコブの歴史である(2023.2.9 祈り会)

2023-02-13 10:25:20 | 祈り会メッセージ
2023年2月9日祈り会説教
『これはヤコブの歴史である』
【創世記37:1~2、他】

 今年に入ってから祈り会では3回に亘ってヨセフに注目して来ました。しかし、この間にずっと気になっていたことがありました。きょうは、そのことを分かち合いたいと思います。

 まず、創世記37章1節と2節を、交代で読みましょう。

創世記37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。

 2節に、「これはヤコブの歴史である」と書いてあります。創世記はこの37章以降、38章はユダについてですが、39章からはずっとヨセフのことが書かれています。それなのに、どうして「これはヤコブの歴史である」なんでしょうか?今まで私はこの記述のことをあまり気にしたことがありませんでしたが、今年ここを読んだ時から、すごく気になり始めました。ただ、他にもいろいろ考えるべきことがあったので、とりあえずこのことは保留しておきました。しかし先週、ヨセフの獄中での空白の2年間という重要な箇所を越えましたから、いよいよこの問題に取り組まなければなりません。

 そうして示されていることは、確かに「これはヤコブの歴史である」であって、他の何ものでもないな、ということです。そのことを、分かち合いたいと思います。

 先週の続きから見て行きます。先週は、41章の1節までを見ましたね。

創世記41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。

 そうして、夢の解き明かしのことで献酌官長がヨセフのことを思い出したので、ファラオはヨセフを呼び出しました。ファラオは自分が見た夢のことをヨセフに話し、ヨセフがその解き明かしをしたことで、彼はファラオに次ぐNo.2の地位に就くことになりました。

 その夢の解き明かしとは、これから7年間は豊作の年が続くけれども、次の7年間は激しい飢饉が起きるというものでした。この飢饉によってカナンの地にいたヤコブの一家も食べる物に困るようになって、ヨセフの兄たちがエジプトまで食料の買い出しに来て、涙の再会を果たすことになりました。そして、ヨセフがまだ生きていてエジプトにいることを聞いたヤコブはヨセフに会いに行くことにします。その箇所をお読みします。45章の25節から28節です。「彼ら」というのは、ヨセフの兄たちのことです。

創世記45:25 彼らはエジプトから上って、カナンの地、彼らの父ヤコブのもとへ戻って来た。
26 彼らは父に告げた。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。
27 彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。
28 イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」

 そうしてヤコブとヨセフは再会しました。46章の28節から30節、

創世記46:28 さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わして、ゴシェンへの道を教えてもらった。そうして彼らは、ゴシェンの地にやって来た。
29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
30 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」

 ここでヤコブは「もう今、私は死んでもよい」と言いましたが、それからさらに17年生きました。47章28節、

創世記47:28 ヤコブはエジプトの地で十七年生きた。ヤコブが生きた年月は百四十七年であった。

 そしてヤコブは49章の最後の33節で死にました。

創世記49:33 ヤコブは息子たちに命じ終えると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。

 そしてヤコブが死んだ後もなお、ヤコブのことが書かれています。50章の1節から3節、

創世記50:1 ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて、父のそばで泣き、父に別れの口づけをした。
2 ヨセフは自分のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。
3 そのために四十日を要した。ミイラにするのには、これだけの日数が必要であった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。

 創世記は50章までですから、ここまで読むと、創世記37章2節の、

創世記37:2 これはヤコブの歴史である。

という記述は、確かに「これはヤコブの歴史である」以外の何ものでもないな、ということに気付かされます。

 創世記というのは、アダムとエバの時代に入った罪がノアの洪水によっても一掃されなかったために、神様がアブラハムを召し出してもう一度、人が主の方をしっかりと向く信仰に立ち返らせて、そのアブラハムの信仰がイサクとヤコブに受け継がれて行く物語なのだなということに、改めて気付かされます。

 そして、次の出エジプト記1章を見ると、次のように書かれています。1節から5節をお読みします。

出エジプト記1:1 さて、ヤコブとともに、それぞれ自分の家族を連れてエジプトに来た、イスラエルの息子たちの名は次のとおりである。
2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。
3 イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン。
4 ダンとナフタリ。ガドとアシェル。
5 ヤコブの腰から生まれ出た者の総数は七十名であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。

 こうして見ると、出エジプト記以降の旧約聖書はすべてヤコブの子孫たちの物語であることに改めて気付かされます。ヤコブの12人の息子たちの子孫がイスラエルの12部族となり、ソロモン王の後に北の部族と南の部族とに分裂して、やがて滅びますが、神様はバビロンで捕囚になっていた南の部族をエルサレムに帰還させました。しかし、なお人々は罪の中に捕らわれていたために、イエス・キリストが遣わされて十字架によって罪から救い出して下さいました。

 今回示されていることは、ヨセフの物語でヨセフにばかり注目することは、小さい子供のサッカーのようなものだなということです。小さな子供にサッカーをやらせると、皆がボールの所に集まってしまうのだそうですね。そうではない上手な選手は全体を見ていて、スペースの空いている場所のことを攻撃側も守備側も常に気に掛けているのだと思います。

 テレビがまだブラウン管だった時代には、サッカー中継のテレビカメラもボールを持っている選手ばかりを追い掛けがちだったように思います。テレビの画面が小さいのでフィールド全体を写すと選手が小さくなり過ぎるから仕方がなかったのですね。でも大型で横長の薄型テレビが普及したことで、フィールド全体を写すようになって、選手たちがどのような陣形を組んでいるのかが分かるようになって、格段に面白くなったと思います。

 サッカーに限らず、球技では常に全体を見ている必要があるでしょう。或いはまた囲碁や将棋も同じですね。囲碁や将棋のプロ棋士は常に盤面の全体を見ています。私は囲碁や将棋は全体を見るのが苦手でぜんぜん強くなれなかったので、今ではもっぱら観戦しているだけです。ですから、せめて聖書だけは全体を見られるようになりたいと願っています。

 ヨセフのことが書かれている箇所ではもちろんヨセフに近づき、ヨセフの身になって読むことも大切なことです。イエス様の記事であれば、なおさらそうでしょう。イエス様にグッと近づいて聖書を読むことで、多くの恵みが与えられます。でも、それと同時に聖書全体の救いの物語のことも常に頭に入れながら読むことができる者でありたいと思います。創世記37章2節は、そのように聖書全体のことも頭に入れながら読むことの大切さを教えていてくれますから、とても感謝に思います。お祈りいたしましょう。

創世記37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。
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