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平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

主への忠誠を示す契約のしるし(2022.9.15 祈り会)

2022-09-16 15:52:34 | 祈り会メッセージ
2022年9月15日祈り会メッセージ
『主への忠誠を示す契約のしるし』
【創世記22:1~14】

創世記22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「の山には備えがある」と言われている。

 アブラハムが自分の息子のイサクを全焼のいけにえを献げるために屠ろうとした今日の記事は、非常に戸惑いを覚える箇所です。アブラハムがいかに神の命令に忠実に従う者だったかがよく分かる場面ではありますが、そこまで忠実であらねばならないのかと、とても戸惑いを覚えます。

 アブラハムが聖書に初めて登場するのは創世記11章の後半です。アブラハムは父のテラと故郷のウルを出て、ハランの地にいました。そのハランで父のテラが死んだ時、主はアブラハムに仰せられました。12章1節と2節です。

創世記12:1 「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」

 この主の御声を聴いたアブラハムは故郷のウルとは反対方向に向かって出発しました。このアブラハムの信仰については、私たちは素直に見習いたいと思います。アブラハムのように主の御声に導かれて信仰の道を歩んで行く者でありたいと思わされます。しかし、22章のアブラハムを見習いたいと思うことは難しいことです。創世記22章のアブラハムについて新約聖書のヘブル人への手紙11章は次のように書いています。

ヘブル11:17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

 このように、ヘブル書はアブラハムが「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と考えたのでイサクを献げようとしたと書いています。ヘブル書が書いている通りなのかもしれませんが、ここにはイエス様の復活を経た後の新約の考え方が入っていますから、アブラハムが本当によみがえりのことまで考えていただろうか?という思いがしないでもありません。また、創世記22章にはアブラハムがこのことで悩み苦しんだことが何も書かれていないことにも、やはり戸惑いを覚えます。先週ご一緒に見た21章では、妻のサラがアブラハムにハガルとイシュマエルを「追い出してください」と言ったことに彼が非常に苦しんだことが書かれています。21章9節から11節です。

創世記21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。
10 それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」
11 このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

 このように、21章のアブラハムは非常に苦しんでいます。でも22章のアブラハムについて、聖書は彼が苦しんだとは書いていません。これは、一体どういうことでしょうか?いろいろと戸惑いを覚えることが多いので、実は私はこれまで説教で創世記22章を取り上げたことはありませんでした。

 では、なぜ今夜は22章を開くことにしたのかと言えば、先週21章を開いたことで、22章を理解するためのキーワードが与えられた気がするからです。それは「契約」というキーワードです。アブラハムは、主と結んだ「契約」のゆえに、主の命令に従順に従ったのではないでしょうか?手持ちの注解書を何冊か調べましたが、22章のアブラハムの従順さと「契約」を結び付けている注解はありませんでした。しかし、「契約」のゆえにアブラハムが主の命令に従ったと考えれば、アブラハムの行動はよく理解できるように思います。

 ここで先週分かち合ったことをもう一度振り返りたいと思います。創世記21章14節から20節までをお読みします。

創世記21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよった。
15 皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、
16 自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。
17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
18 立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」
19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。
20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。

 16節に、ハガルが声をあげて泣いたことが書かれています。しかし、17節には「神は少年の声を聞かれ」とあります。声をあげて泣いたのはハガルなのに神が聞いたのは少年の声であると聖書は書いています。また20節には、「神が少年とともにおられた」と書いてあります。神はハガルとも、もちろん共におられたはずです。でも聖書は「神が少年とともにおられた」と書いています。どうして聖書はこういう書き方をしているのか?それはハガルが主と契約を結んでいなかったからではないか、という話を先週しました。アブラハムとイシュマエル、そしてアブラハムの家のすべての男子は主との「契約」のしるしとして割礼を受けました。一方、女性であるハガルは割礼を受けていません。それは主と「契約」を結んでいないということであり、それゆえ聖書はハガルが声をあげて泣いた時に「神は少年の声を聞かれ」と書いたのではないか、先週はそのように話しました。

 そして、今週の22章では、聖書が重視している「契約」の重みがアブラハムの主の命令への従順さの源になっているのではないかと示されています。割礼は体の一部を切り裂きますから、血が流れ、痛みを伴います。現代の契約書はハンコやサインで契約しますが、アブラハムたちは割礼を受けました。江戸時代の日本では大石内蔵助が率いる赤穂浪士が主君の浅野内匠頭の仇討ちをすると誓約した時に、血判を押したとされていますね。血判は刀の刃で指を切った血で母印を押します。割礼も血判も、重大な誓約においては血を流し痛みを感じることで一層強い決意が込められるという意味合いがあったと思います。そして新しい契約のしるしであるイエス様の血もまたそうであったことを覚えます。しかもイエス様の血の場合は単なる痛みではなくて、十字架での死の苦しみを伴うものでした。

 赤穂浪士の血判は主君への忠誠を示す血でもありました。イエス様も天の父の御心に従順に従って十字架に付きましたから、イエス様の血は天の父への忠誠のしるしの血でもあったと言えるのではないでしょうか?それゆえアブラハムの場合も、契約のしるしの割礼の血は、主への忠誠のしるしの血であり、この忠誠心のゆえにアブラハムは主の命令に素直に従って息子のイサクを献げようとしたのではないでしょうか?

 今回、このことを示されて、契約の重み、聖餐式の重みについて改めて考えさせられています。きょうは時間になりましたから、これで話を終えますが、この契約の重み、聖餐式の重みについては、引き続き考えて行きたいと思います。

 きょうのメッセージは以上です。一言、お祈りいたします。

創世記22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。
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契約の重みと恵み(2022.9.8 祈り会)

2022-09-10 04:39:26 | 祈り会メッセージ
2022年9月8日祈り会メッセージ
『契約の重みと恵み』
【創世記17:1~26、21:1~20】

【前半】
 先週はエジプト人の女奴隷のハガルが主人のサライのもとを逃げ出したものの、サライの所に戻った記事をご一緒に見ました。

 でも結局ハガルは、サライのもとを離れることになります。きょうの前半は、その記事を見て、後半はこの箇所の思い巡らしから導かれたことを分かち合いたいと思います。では創世記21章を開いて下さい。21章ではアブラムはすでにアブラハムに、サライはサラになっています。

 創世記21章の1~4節を交代で読みましょう。

創世記21:1 は約束したとおりに、サラを顧みられた。は告げたとおりに、サラのために行われた。
2 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
4 そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。

 この4節は重要なポイントの一つなので、頭の片隅に入れておいていただきたいと思います。次に時間の関係で少し飛ばして9節から13節をお読みします。

9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。
10 それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」
11 このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。
12 神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。
13 しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」

 このように、結局ハガルは息子のイシュマエルを連れてサラのもとを離れることになりました。14節から16節、

14 翌朝早く、アブラハムは、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよった。
15 皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、
16 自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。

 水が無くなった時、息子のイシュマエルのほうが母のハガルよりも先に弱ってしまったようです。当時イシュマエルは14歳ぐらいの少年でした。若くて体格の良いイシュマエルは母よりも多くの水分を必要としていたのでしょうね。ハガルは声をあげて泣きました。すると17節、

17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

 今回の思い巡らしでは、この17節に目が留まりました。声をあげて泣いたのはハガルです。でも神様が聞いたのは弱っていたイシュマエルの声でした。神の使いは「ハガルよ、どうしたのか」と仰せられましたから、神様はもちろんハガルの声も聞いていたでしょう。でも、聖書は「神は少年の声を聞かれ」と書いています。これはどういうことでしょうか?

 続いて18節と19節、

18 立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」
19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。

 こうしてハガルがイシュマエルに水を飲ませたことで彼の命は助かりました。そして20節、

20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。

 神様はもちろんハガルとも共にいて下さいました。だからこそ17節ではハガルに「恐れてはいけない」と仰せられました。でも聖書は「神はハガルとともにいた」とは書いていません。20節のように「神は少年とともにおられた」と書いています。神様は、少年の声を聞き、少年とともにおられました。ハガルが少し軽く見られているような気がしないでもありません。聖書はここから私たちに何を語り掛けているでしょうか?このことを後半に分かち合いたいと思います。

【後半】
 前半では、創世記21章の17節に目が留まったことを話しました。17節をもう一度お読みします。

17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

 声をあげて泣いたのはハガルのほうでした。しかし聖書は、神が聞いたのは少年の声のほうであると書いています。そして20節では、神様が少年とともにおられたと書いています。神様の使いはハガルに語り掛け、「恐れてはいけない」と彼女に言っていますから、決してハガルを軽んじているわけではないと思います。でもやはり聖書はイシュマエルを重視しているように見えます。

 このことを思い巡らす中で今回示されたことは、聖書が契約を重視していることと関係がありそうだということです(旧約と新約の「約」とは「契約」のことです)。イエス様も、最後の晩餐の時には「新しい契約」ということばを使いましたね。このイエス様の「新しい契約」はエレミヤが預言した主のことばの成就でした。主はエレミヤを通して、このように仰せられました。

エレ 31:31 見よ、その時代が来る──のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

 このように聖書は神様が人との間に結ぶ契約をとても重んじています。ハガルが声をあげて泣いた時に聖書が「神は少年の声を聞かれた」と書いているのは、その反映であるように思われます。なぜなら旧約の時代の女性は、契約に関わっていなかったからです。

 後半は神様がアブラハムとイシュマエルたちと契約を結んだ場面を見ましょう。まず創世記16章16節を見て下さい(旧約p.23)。

創世記16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

 そしてその13年後、イシュマエルが13歳の時に主はアブラムに現れました。17章の1節と2節です。

創世記17:1 さて、アブラムが九十九歳のとき、はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

 そうして契約が結ばれます。時間の関係で少し飛ばします。5節、

5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。

 この契約の時からアブラムはアブラハムになりました。続いて9節から13節、

9 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

 そして23節から26節、

23 そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。
24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。
25 その子イシュマエルは、包皮の肉に割礼を受けたとき、十三歳であった。
26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。

 この23節から26節に掛けては、くどいほどアブラハムとイシュマエルが割礼を受けたことが何度も繰り返し記されています。割礼は、神様と人との契約のしるしとして、それほど重要なものだったのですね。ですから、前半で読んだようにイサクが生まれた時も8日目の割礼のことが書かれていましたし(創世記21:4)、ルカの福音書2章にはマリアから生まれたイエス様の8日目の割礼のことも書かれています(ルカ2:21)。でも、このしるしを受けられるのは男性だけでしたから、契約に関わっていたのは男性だけでした。

 きょうの前半で目を留めた、創世記21章17節をもう一度お読みします。

創世記21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

 声をあげて泣いたのはハガルなのに、神様が聞かれたのはイシュマエルの声だったと聖書が記しているのは、この契約のしるしの故だったということを今回示されています。もちろん神様はハガルのことも憐れんでおられました。しかし、聖書の記述は契約のしるしである割礼を受けたイシュマエルを優先しています。

 一方、イエス様の新しい契約のしるしは、イエス様が十字架で流された血でした。イエス様は最後の晩餐でおっしゃいました。

ルカ22:20 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」

 パウロも第一コリントで次のように書いています。

Ⅰコリント11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 このイエス様の血による新しい契約のしるしの杯は、男性であっても女性であっても、ユダヤ人であっても異邦人であっても、イエス・キリストを信じる者であれば、誰でも受けることができます。イエス様の恵みは誰にでも注がれている、素晴らしい恵みです。

 今回、創世記のハガルとイシュマエルについて思いを巡らす中で、聖書が契約のしるしをとても重要視しているということを改めて教えられて、聖餐式の大切さへの理解も一層深まったと感じています。10月の第一聖日の聖餐式礼拝では、この旧約の時代の契約のしるしである割礼を土台にして、新約の素晴らしい恵みを分かち合うことにしたいと思います。

 このように聖書の読者は旧約聖書を土台にして、その上に新約聖書を重ねて読むことで、新約聖書を単独で読むよりも遥かに豊かな恵みを受けることができます。そして、この豊かな恵みによって、より深い平安が得られます。

 この深く豊かな恵みを共に分かち合うことができるお互いでありたいと思います。お祈りいたします。
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聖書は人生の応援団、イエス様が団長(2022.8.18 祈り会)

2022-08-21 19:36:51 | 祈り会メッセージ
2022年8月18日祈り会メッセージ
『聖書は人生の応援団、イエス様が団長』
【創世記15:1~6】

 きょうは、創世記15章の1節から6節までを、ご一緒に見ます。まず交代で読みましょう。

創世記15:1 これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
2 アブラムは言った。「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
3 さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
4 すると見よ、のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
6 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 1節に、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ」とあります。「これらの出来事」とは何だったのか、簡単に見ておきます。カタカナの名前がたくさん出て来て分かりにくいので、カタカナは無視して漢字とひらがなの箇所を中心に見ます。14章9節の後半に「対峙した。この四人の王と、先の五人の王とであった」とあります。この14章では、四人の王と五人の王との間で戦いがありました。この戦いに、アブラムの甥のロトが巻き込まれてしまいました。12節です。

12 また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。

 これを聞いたアブラムは甥のロトを助けに行きました。14節から16節、

14 アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。
15 夜、アブラムとそのしもべたちは分かれて彼らを攻め、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで追跡した。
16 そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。

 アブラムは大きな戦いに勝利しました。主が共におられたからでしょう。でも、ここで思い出すのはエリヤのことです。少し前の礼拝で開いた列王記第一で見たように、エリヤはバアルの預言者450人と戦って勝利した後で、燃え尽きてしまいました(列王記第一18~19章)。エリヤの燃え尽き症候群を念頭に置いて、このアブラムの記事を読む時、アブラムもまた、燃え尽きの危機にあったと感じます。信頼できる部下はいましたが、アブラムには子供がいなかったので、後継ぎに関する不安が常につきまとっていました。妻のサライも子供がいないことで精神的に不安定でしたから、支え合うという感じではなく、アブラムは孤独ではなかったかという気がします。

 ユーフラテス川流域のウルの町から父のテラと共に出て来たアブラムでしたが、途中、父のテラはハランで死んでしまいました。それ以来、アブラムがリーダーとなって故郷のウルとは反対方向のカナンの地に主に導かれて来ましたが、主が約束して下さった子孫はなかなか与えられませんでした。様々な苦労もありました。そういう中で大きな戦いに勝利した後、孤独だったアブラムが燃え尽きてしまったとしても、おかしくはないでしょう。そんなアブラムを主は励ましました。

1 「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

 こう励ます主にアブラムは言いました。2節と3節、

2 「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
3 「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」

 2節のダマスコのエリエゼルとは、アブラムの部下の一人のようです。この2節と3節のアブラムのことばからも、彼がほとんど燃え尽きかけている様子が分かります。すると主は仰せられました。4節と5節、

4 「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」

 そうして、6節、

6 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 こうして燃え尽きかけていたアブラムは再び立ち上がり、アブラムの信仰は義と認められました。このアブラムが主に励まされた箇所を読むと、私たちもまた励まされます。

 今回、この創世記15章のアブラムが励まされた箇所を読んで、「聖書は人生の応援団であり、団長はイエス様である」と感じました。聖書は私たちの人生を応援してくれる応援団であり、団長はイエス様、アブラムは応援団員です。私たちはモーセやエリヤの箇所からも励まされますから、彼らも応援団員です。ペテロやヨハネ、パウロも応援団員であり、現代の私たちクリスチャンもまた、応援団員の末席に加えていただいています。先に教会に導かれた私たちは、まだ教会に導かれていない方々を聖書のことばを通して応援します。

 どうして「応援」ということばを突然使ったのか、残りの時間で説明させていただきます。先週私は、日本アルプス縦断レースの応援を楽しみました。この日本アルプス縦断レースは2年に1回、今の時期に開催されていて、今年は8月7日(日)の午前0時にスタートして14日(日)の夜12時までの8日間行われていました。スタートは日本海側の富山湾で、ゴールは太平洋側の静岡の大浜海岸です。全長415kmの距離を選手はすべて自分の足で走破して北アルプス・中央アルプス・南アルプスを越えて、静岡市街地に入り、県庁・市役所前、静岡駅の横を通って最後は大浜街道を走って海岸のゴールに至ります。

 この日本アルプス縦断レースのことを初めて知ったのは2012年のNHKの番組ででした。当時の私は姫路にいましたが、故郷の静岡の大浜の海岸が何度もテレビに映って興奮しました。大浜へは小学生の時にはプールへ泳ぎに行っていましたし、実家があった大岩の家の前はバスの大浜麻機線が走っていて、いつも「大浜」という行先表示を見て育ち、高校を卒業して静岡を離れた後も、帰省した時に駅から乗るバスは大浜麻機線でしたから、「大浜」との心の距離はいつもとても近かったです。

 それで2012年以来、いつか大浜のゴールで選手を応援したいと思っていたところ、今年10年目でようやく念願がかないました。ちなみに2020年のレースはコロナで2021年に延期して開催されましたが、台風が来て2日目に中止になりました。

 今回のレースで私は1位と4位、19位と20位の選手を大浜街道とゴールの海岸で応援しました。30人出場して完走したのは20人でしたから、19位と20位は最後から2番目と最後の選手でした。1位の選手と4位だった静岡の望月将悟選手は是非応援したいと思っていましたが、最後の選手も応援したかったので、それができて良かったです。

 応援を堪能して大満足でしたから、ネットで知人たちにこの喜びを伝えましたが、何で応援にそんなに熱くなるのか分からないという反応が少なからずありました。それで思ったのですが、私は応援することが好きなのだなと思いました。頑張っている人たちを応援することで、自分も励まされます。映画を作っている人たちを応援して来たのも、その人たちが、とても苦労して頑張って作品を作り上げているからです。それらの人々を応援することで、自分自身もまた励まされました。

 そんなことを考えていて、聖書もまた人生の応援団であり、団長はイエス様、応援団員はアブラムやモーセ、ダビデやペテロやパウロ、そして私たちもその応援団員の末席に加えられていると示されました。私の場合は応援が好きなのですから、福音の伝道においても応援団員として伝道の働きに携われば良いのだと気付かされました。

 最近の報道で、コロナ禍で自殺者が増えたこと、特に20代と30代の女性の自殺者が増えたと報じられていました。コロナ禍で仕事ができなくなり、また孤独感が増していることが主な原因ではないかと分析されていました。

 このように孤独を感じている方々に、聖書という応援団があることをお伝えしたいと思います。団長はイエス様です。イエス様が団長となって励まして下さるとは何という幸いでしょうか。イエス様は天の父と一つのお方です。天地を創造し、私たちの命も造った天の父と一つのお方が私たちを応援して下さるのですから、これほど心強いことはありません。私たちもイエス様の応援によって、ここまで歩んで来ることができました。

 アブラムも天の父とイエス様の応援によって、まだ子孫が与えられていない状況の中でも、主のことばを信じました。そして、義と認められました。私たちも天の父と一つであるイエス様が応援団長であり、いつも私たちを励まし、応援していて下さることを分かち合うことができたら幸いであると思います。お祈りいたします。

創世記15:1 これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
5 「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」
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目に見えない世界は無限

2022-08-13 08:24:39 | 祈り会メッセージ
2022年8月11日祈り会メッセージ
『目に見えない世界は無限』
【創世記13:17】

 先聖日の7日の特別集会の説教では講師の先生を通してマタイの福音書の「山上の説教」の箇所から、様々な示唆をいただくことができましたから感謝でした。

 この7日の説教は、きょうの創世記の記事にも関連していることを準備する中で感じました。きょうの聖書箇所は藤本先生の『祈る人びと』の2章の冒頭で引用されている創世記13章17節です。

創世記13:17 「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

 この創世記13章は、これまでアブラムがずっと行動を共にして来た甥のロトと別々の方向に行くことにした時のことが記されています。3節と4節にあるように、アブラムは最初に天幕を張って祭壇を築いた場所に来ました。そして、そこで主の御名を呼び求めました。この「主の御名を呼び求めた」には*印があって、ページの下の脚注に別訳として「主に祈った」とあります。これは前回の12章8節の「主の御名を呼び求めた」と同じで、やはり下の脚注には別訳で「主に祈った」とありました。

 このことから、前回は祈りとは先ず、主の御名を呼び求めて主を意識することから始まるという話をしました。アブラムはどこに行っても祭壇を築いて主の御名を呼び求めて祈りましたから、心がいつも主の方を向いていました。神様は目に見えない存在ですが、天地万物を創造した、とてもスケールの大きなお方です。アブラムの心はいつも、そのスケールの大きなお方がいる目に見えない世界の方を向いていました。

 先日の礼拝説教では講師の先生がイエス様の「山上の説教」のマタイ6: 33「まず神の国と神の義を求めなさい」から、目に見えない世界を大切にすることの重要性を説いて下さいました。アブラムは、この見えない世界の方を向いていました。一方、甥のロトはそうでは無かったようです。

 この時、アブラムとロトの家畜の数が増えて一つの場所では飼うことができなくなったため、二人は別々の方向に行くことにしました。アブラムは9節でロトに言いました。

創世記13:9 「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」

 このアブラムの提案を受けて、ロトは見た目が良い方の土地を選びました。10節と11節、

10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。

 この箇所を読んで思うことは、アブラムはどちらの方向へ行ったとしても、主に祝福されたであろう、ということです。アブラムはどこへ行っても、まず祭壇を築いて主の御名を呼び求め、そうして祈りました。アブラムは目に見える世界ではなく、目に見えない世界に重きを置いていました。そういう者を主は祝福して下さいます。

 さて、ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われました。14節から17節までをお読みします。

14「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

 この17節が、藤本先生の本の『祈る人びと』の第2章の中心聖句です。ここから示されたことを今夜は分かち合いたいと思います。藤本先生は、全然違う話をこの本の中でしていますが、この祈り会では同じ聖句から、今の私が導かれていることを話したいと思っています。この『祈る人びと』は20年近く前の説教が基になっていますから、藤本先生ご本人も、きっと20年後の今は同じ聖句からでも違うことを語られることと思います。

 さて、今夜私がイエス様から宣べ伝えるようにと示されていることは、「目に見えない世界は無限である」ということです。私たちはどうしても目に見える世界の物事に囚われがちです。ロトもそうでした。でも目に見える世界の物事は有限です。それに対して目に見えない世界は無限の世界です。聖書の神様もとてもスケールの大きなことをおっしゃっています。それなのに私たちは、目に見える世界に支配されてしまっているために、神様のスケールの大きなことばを小さくしてしまっていることが多いのではないでしょうか。難しい言葉を使うなら私たちは神様のことばを「矮小化する」傾向があります。矮小化するとは、本当は大きいのに、小さくまとめてしまうことを言います。

 今回の思い巡らしで私は創世記13章の14節から17節までを新約の光を当てて読むことで、もっと大きなスケールで読むことを示されました。このことで、このアブラムへの主のことばが、イエス様の大宣教命令のことばとして聴こえて来ました。たとえば14節と15節の、

14「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。」

 ここからは、使徒の働き1章8節のイエス様のことばが聴こえて来ました。使徒1章8節、

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 そして16節と17節の、

16 「わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

からは、マタイ28章のイエス様のことばが聴こえて来ました。マタイ28章18節から20節、

マタイ28:18 「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 新約の光を当てて創世記13章を読むなら、アブラハムの子孫は肉的な子孫ではなくて霊的な信仰の子孫として見えて来ます。アブラハムの肉的な子孫はイスラエルの民ですが、信仰の子孫であれば私たち日本人のクリスチャンをも含む、全世界のクリスチャンがアブラハムの子孫です。

 マタイの福音書の1章にある系図はアブラハムから始まってダビデ王を経てイエス様の父親のヨセフの代までが記されています。そうしてイエス様はヨセフの子としてこの世に生まれて最後のマタイ28章でイエス様は今お読みしたように弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃいました。

 こういう大きなスケールで読むことができるのが聖書の醍醐味だと思います。1世紀の使徒たちもそうやって、新約の光を旧約聖書に当てて読んでいました。たとえばマリアが聖霊によって身ごもった時、それはイザヤ書7章14節の「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」が成就するためであったとマタイは1章で書きました。それは新約の光を当ててイザヤ書を読んでいるということです。その他にも福音書には「主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現がたくさん出て来ますね。

 新約の光を旧約聖書に当てて読む時、目に見えない世界のスケールは無限に広がって行きます。これが聖書の醍醐味だと思います。でも私たちは目に見える世界に縛られていて、聖書の神様のことばを小さな私たちと同じ程度に小さくしてしまう傾向があるようです。

 77年前の終戦後、キリスト教の教会には多くの人々が集まりました。戦争によってほとんど全てを失った日本人にとって聖書の神様のスケールの大きなみことばが無限の可能性を示してくれて、人々に大きな希望を与えました。でも段々と物質的に豊かになり、目に見える宝物が増えて行ったことで、次第に目に見えない世界のスケールの大きさが見えづらくなって来たのではないか、そんな気がしています。そうして、聖書の神様のことばを小さくして、いただける恵みも小さくして、聖書を魅力に乏しい書物にしてしまっているのかもしれません。

 教会から人が減り、牧師が減って教会自体が減っている中、私たちは今一度、神様のみことばのスケールの大きさに思いを巡らす必要があるのではないか、イエス様はそのようにおっしゃっていることを感じます。ですから祈り会と礼拝では、大きなお方に目を向けることをして行きたいと思います。お祈りいたします。

14「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
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主に意識を向けることから始める祈り(2022.8.4 祈り会)

2022-08-06 04:32:40 | 祈り会メッセージ
2022年8月4日祈り会メッセージ
『主に意識を向けることから始める祈り』
【創世記4:26、12:8】

<前半>
創世記4:26 セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々はの名を呼ぶことを始めた。
 
 きょうの祈り会から、藤本満先生の『祈る人びと』(いのちのことば社 2005)を基にした説教をします。この『祈る人びと』は「アブラハムの祈り」から始まりますが、その前にきょうの前半は、アブラハムの前のセツの箇所を見ておきたいと思います。

 セツは25節に書いてあるように、アダムとエバの息子です。そして、セツにエノシュが生まれた頃から、人々はの名を呼ぶことを始めたと26節にあります。この「の名を呼ぶことを」には*印がありますからページの下の脚注を見ると、別訳として「に祈ることを」とあります。

 実は新改訳第3版では、本文に「に祈ることを始めた」とありました。そして別訳として「の御名を呼ぶことを」が脚注にありました。ここからは「祈りとは何か」、或いは「祈るとは、どういうことか」について大切なことが学べるように思います。

 それは、「祈る」とは自分の願い事を並べ立てる以前に、まず主の名を呼ぶことが大切であるということです。イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えた時も、まず「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)から始めることを教えましたね。ですから私たちは「主の祈り」では「天にまします我らの父よ」と、父を呼ぶことから祈りを始めます。

 父の名を呼ぶ、或いは主の名を呼ぶとは、意識を天の神様に向けるという意味合いが大きいのだと思います。私たちは、ともすると決まり文句的に「天の父なる神様」と言ってしまって、自分の意識を天の父にしっかりとは向けていないことがあるかもしれません。私自身を振り返ると、そのようなことが多いと思います。特に、祈祷会や礼拝で人前で祈る時などは、そういう傾向があります。自分一人で祈る時には天の父に意識を向けていても、人前で祈る時には、つい人を意識してしまいます。

 また、現代の私たちは人工物に囲まれていますから、意識を神様に向けにくい状況にあります。セツの時代には人工物がほぼ無かったでしょうから、意識を神様にしっかりと向けやすかったでしょう。セツたちは大自然の中で暮らしていましたから、神様が造られた物の中で暮らしていました。すると、意識も神様のほうに向けやすいでしょう。私たちの場合は、周囲に人工物があることで神様に意識を向けることに苦労しますが、セツの時代にはそのようなことがありませんでした。

 さらに言うなら、人工物に囲まれて暮らしている現代の私たちは、神様を小さな存在にしてしまうことにも注意しなければならないでしょう。「天の父なる神様」と呼び掛けておきながら、大きな神様を意識することなく、自己の狭い範囲の願望だけを祈るとしたら、神社で祈るのとあまり変わらない気がします。教会に導かれる前に神社で祈っていた時の私は、その神社の神がどんな神なのかも知らずに、ただ自分の願望だけを並べていました。ですから、今はそうならないように大きな存在である天の父とイエス様を意識して祈ります。但し、人前で祈る時には、つい人を意識してしまう傾向がありますから、気を付けるようにしたいと思います。いつでもスケールの大きな天の父とイエス様を意識しながら、祈れるようになりたいと願っています(前半は、ここまでにします)。

<祈りの時>

<後半>
創世記12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 今夜からしばらくの間、祈り会では藤本満先生の著書『祈る人びと』を基にして、この本から示されたことなどを分かち合いたいと願っています。この本の最初の章の聖句が創世記12章8節です。

 この『祈る人びと』は高津教会の2003年の元旦礼拝からの1年あまりの礼拝説教をまとめたものです(「あとがき」には2002年の元旦とありますが、正しくは2003年の元旦です)。私が高津教会に通い始めたのは2001年の8月で、その頃はガラテヤ書の講解説教が2002年まで続いていました。そうして、2003年から旧約聖書の「アブラハムの祈り」から始まる『祈る人びと』の一連の説教シリーズが始まりました。2002年まではガラテヤ書が中心で、クリスマスやイースターの時期には福音書が開かれましたから、私が高津教会に通い始めてからの礼拝説教は1年以上、新約聖書からがほとんどだったと思います。当時の私はまだ自宅で聖書を読む習慣がなかったので、2003年からの『祈る人びと』のシリーズによって、初めて旧約聖書の世界に本格的に足を踏み入れました。それゆえ私個人にとっても思い入れの深い説教シリーズです。

 さて、いま読んだ12章8節の最後には「彼」、すなわちアブラムが「のための祭壇を築き、の御名を呼び求めた」とありますが、ここにもページの下に脚注があり、別訳として「に祈った」とあります。

 藤本先生はここで、アブラムが行く先々で「祭壇を築いた」ことに注目しています。8節の手前の7節にも、「祭壇を築いた」とありますね。7節、

7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

 祭壇には、いけにえを献げます。祈る側の人間は罪で汚れていますが、神様は完全できよいお方です。神様は汚れた人間が近づくことができないほどに、きよいお方ですから、神様と人間との間には大きな隔たりがあります。その隔たりを埋めるのが祭壇であり、祭壇を築いていけにえを献げることで、罪深い者であっても主の御名を呼び求めて祈ることが許されます。

 この祭壇とは、現代の私たちにとっては十字架です。私たちも罪で汚れた者たちですが、イエス様の十字架によって天の父に大胆に近づくことが許されるようになりました。この祭壇の意識、すなわち十字架の意識を常に持ちつつ、祈る私たちでありたいと思います。

 以上の祭壇意識、十字架意識は『祈る人びと』に書かれていることですが、今回、このこと以外で示されたことがありますから、それを分かち合いたいと思います。それは、祭壇と十字架の背後におられる神様は天地万物を創造したスケールの大きなお方である、ということです。アブラハムがいけにえを献げるために築いた祭壇は、そんなに大きなものではないでしょう。動物を一頭置けるぐらいの小さなものではないかと思います。しかし祭壇は小さくても、祭壇の周りは大自然です。祭壇は周囲に人工物がほとんどない大自然の中に築かれていて、スケールの大きな神様と一つになっています。

 一方で、現代の私たちが祈りを献げる場の十字架は人工物に囲まれていますから、アブラハムの時代のようにはスケールの大きな神様を想像できていない気がします。しかし、昔も今も天の父なる神様は大きなスケールのお方です。そして、十字架に掛かったイエス様はその大きな神様と一つのお方です。イエス様は、エルサレムの宮でユダヤ人たちに言いました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(ヨハネ8:58)。十字架の背後におられる「わたしはある」であるとおっしゃる神様はスケールの大きなお方です。スケールが大きいとは空間的に大きいだけでなく、時間的にも初めから終わりまでの大きさのスケールです。私たちは自分の小さなスケールの中に神様を当てはめてしまうことがないよう、気を付けたいと思います。

 イエス様は、すべてを手放し、すべてを天の父にゆだねました。イエス様は十字架で息を引き取る時、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」とおっしゃいました。私たちも、十字架の前で祈る時には、できる限りの思いを手放して、祈ることができたらと思います。イエス様はすべてを手放しましたが、私たちは私たちの小さな生活を守るためにすべてを手放すことはできません。でも、できる限り手放すことができたらと思います。

 イエス様は、十字架を目前にした最後の晩餐の後で、このように祈りました。

マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様は、「この杯をわたしから取り去ってください」という、たった一つの願いさえも手放して、天の父にすべてをゆだねました。私たちは、イエス様のようにはすべてを手放すことはできませんが、せめて神様を自分の小さなスケールの中に当てはめてしまうことは手放したいと思います。スケールの小さな神様ではなく、大きな神様に意識を向けることができる時、いただく恵みもまた大きなものになります。きょうの前半では、祈ることとは、まずは神様の御名を呼び求めて意識を神様に向けることだと話しました。そこから祈りが始まります。その神様に意識を向ける時、神様を小さくしてしまわないように、気を付けたいと思います。

 アブラハムが祭壇を築いた場所は大自然の中にあり、祭壇は天地万物を創造したスケールの大きな神様と一つになっていました。そうしてアブラハムたちはの御名を呼び求めて、大きなお方である神様に意識を向けながら祈りました。このことを覚えて、私たちも十字架に向かう時は主の御名を呼び求めて、大きなお方に意識を向けたいと思います。お祈りいたします。

創世記12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。
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天地万物の創造者に立ち返る(2022.7.21 祈り会)

2022-07-25 04:18:37 | 祈り会メッセージ
2022年7月21日祈り会メッセージ
『天地万物の創造者に立ち返る』
【ヨブ記38:1~7】

 きょうの聖書箇所はヨブ記38章1~7節です。

ヨブ38:1 は嵐の中からヨブに答えられた。
2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
5 あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。

 前回はエレミヤ書の「腰に帯を締めて」(エレミヤ1:17)に注目しました。そして、きょうのヨブ記38章では3節に、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」とあります。エレミヤとヨブが置かれていた状況は全く異なりますが、エレミヤもヨブも弱気になっていました。その弱気の二人に対して主が「腰に帯を締めよ」と叱咤激励した点は共通していると思います。

 エレミヤの場合は預言者として召し出されましたが、「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません」と弱気になっていました。ヨブの場合はサタンに打たれて子供たちと財産を失い、さらにヨブ自身もひどい病気になって病床でうめき苦しみ、すっかり弱気になって神様に泣き言を言っていました。例えば、ヨブ記30章19節から23節(旧約p.913)、

ヨブ記30:19 神は泥の中に私を投げ込まれ、私はちりや灰のようになった。
20 私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。
21 あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。
22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。
23 私は知っています。あなたが私を死に帰らせることを。すべての生き物が集まる家に。

 このように神様に対して泣き言を言うヨブに対して、主はきょうの箇所で仰せられました。ヨブ記38章2節から4節をお読みします。

ヨブ記38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。

 ヨブはぜんぜん悪くないのに1章と2章でのサタンと主とのやり取りによって、ヨブはひどい目に遭います。ヨブは本当に気の毒です。弱気になって泣き言を言って当然です。でも、そんなヨブに対して主は、「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と叱りつけます。一見すると可哀相なヨブに対しては厳し過ぎる言葉のようにも感じますが、この箇所を深く味わうなら、主のヨブへの深い愛もまた感じられます。愛しているからこそ、懇々と諭すように、主はヨブに多くのことばで語り続けます。

 ヨブ記1章と2章で主はヨブの信仰をほめていました。ヨブは正しい人でした。そんなヨブでも弱り切ってしまうと、泣き言を言ってしまいます。ましてヨブほどの信仰を持たない私たちはヨブほどの苦しみを受けていなくても、弱音を吐いてしまうことでしょう。
 本当に私たちは狭い知識の中で泣き言や不平不満を言いがちな者たちです。そんな私たちを、このヨブ記の主のことばは、万物の造り主、創造主である主に立ち返らせてくれますから、感謝です。38章で主はご自身が天地を創造された方であることを語り、39節以降と39章に掛けては動物たちの名前を挙げて主は天地だけでなく命をも造られた方であることを示します。

 そうして主は40章2節で仰せられました。

ヨブ記40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。

 何の力もなく、何もできない私たちが全知全能の神様を非難するなど勘違いも甚だしいということです。ヨブも、そのことを思い知らされました。4節、

4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

 そんなヨブに主はもう一度、言います。7節です。

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

 この主とヨブの会話からは、創造主という大きな存在である主に立ち返り、狭い場所から解き放たれることの大切さを教えられます。私たちは苦難の中で悩み、苦しむと、どうしても狭い袋小路に入って行ってしまい、そこに縛られて抜け出せなくなってしまいます。すると、大きな存在である神様を自分と同じくらいの小さな者にしてしまいます。そうして、ますます心の平安を失います。主は私たちとは比較にならないぐらい大きなお方だからこそ、私たちに心の平安を与えて下さいます。ですから、私たちは狭い所から解き放たれて、大きな主に目を向けなければなりません。

 イエス様が弟子たちに教えた「主の祈り」も、まず大きな天の父に目を向ける所から始めますね。

「天にまします我らの父よ ねがわくは御名を崇めさせたまえ」

 まず、大きな天の父に呼び掛けます。そうして次もまた大きな天の御国に目を向けます。

「御国をきたらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」

 地に目を転じて、小さな私たちのことについて祈るのは、その次のことです。

「我らの日用の糧を きょうも与えたまえ 我らに負債(おいめ)あるものを 我らがゆるすごとく 我らの 負債(おいめ)をもゆるしたまえ 我らをこころみに会わせず 悪より救いだしたまえ」

 このように、後半は小さな私たちのことについて祈りますが、最後はまた大きなお方に目を転じて、祈りを終わります。

「国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり アーメン」

 「国」とは神の国のことであり、「なんじ」は天の父のことですから、大きなお方に目を戻して祈りを終えます。このように、私たちはいつも大きな主を仰いでいたいと思います。苦難の中で小さな自分のことで精一杯になってしまうと、神様まで小さくしてしまいます。ヨブもそのことを思い知らされました。ヨブ記42章の1節と2節、

ヨブ記42:1 ヨブはに答えた。
2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

 主は、5つのパンと2匹の魚で五千人のお腹を満腹にすることができるお方です。ヨブが主に答えたように、主はすべてのことができるお方であり、どのような計画も不可能ではないお方です。でも、私たちはそのことを忘れて現実的なことばかりを考えがちです。

 神学生として、森に囲まれた神学院の広大なキャンパスの中で生活していた三年間は、こんな立派な神学校が作られるなんて、本当にすごいことだなといつも思っていました。それは教団の創設者の蔦田二雄先生たちが皆、大きなことを為さる主を信頼してお委ねしたからこそ、できたことです。そうして、多くの神学生が続々と入学して行きました。神学生が多く与えられていた時代は世の中全体が上向きの時で、人々の多くは希望を持って日々を生きていたことと思います。今は世の中全体が下り坂で、弱気になりがちです。でも今の弱気な私たちは、病床で苦しむヨブが心まで病んでしまったのと同じような状況だと思います。そんな私たちに主は、

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

とおっしゃって下さっているように感じます。

 蔦田二雄先生たちが教団を立ち上げて、神学校をも設立するという大きな働きをしたのと同じように、松村導男先生もまた、この静岡教会を拠点にして浜松、磐田、金谷、島田、藤枝、清水、沼津、下田の教会の開拓に携わるという大きな働きをされました。さらには県外の甲府教会や岐阜教会、名古屋教会などの開拓伝道にも関わりました。このような大きな働きをされたのも、やはり主が大きなことをして下さるお方だと信頼し切っていたからこそ、できたことでしょう。私たちの一人一人は小さな者ですが、主は五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にできるお方です。

 現代は本当に様々な悪いことが起きている難しい時代です。しかし苦難の中にあっても、病床でうめくヨブのように心まで病んでしまってはならないと思います。そのようにして神様が大きなお方であることを忘れるなら、心の平安まで失ってしまいます。もちろん、現実を見て、現実的な歩みをすることの大切さも忘れてはなりません。それもまた大切にしつつも、まず第一には、主が大きなお方であることを決して忘れずに大きな主を仰いで心の平安をいただきながら、日々を歩ませていただきたいと思います。お祈りいたします。

ヨブ記38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
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腰に帯を締めて立ち上がる(2022.7.7 祈り会)

2022-07-13 10:00:49 | 祈り会メッセージ
2022年7月7日祈り会メッセージ
『腰に帯を締めて立ち上がる』
【エレミヤ1:17~19】

エレミヤ1:17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──のことば──あなたを救い出すからだ。」

 先月の6月の祈祷会では、ペテロのイエス様へのことばの「あなたは生ける神の子キリストです」を中心に据えて味わい、6月の最後の祈り会では、教会はこの「イエス様は生ける神の子キリストである」という固い信仰の岩盤の上に建て上げられて来た、ということを分かち合いました。

 今月は「腰に帯を締める」という表現について、深めて行くことができたらと願っています。「腰に帯を締める」は、神様が人を励ましたり、奮起を促したりする時に使う表現です。「腰に帯を締める」は分かりやすい表現ですね。オリンピックのウェイトリフティングを見ていると、腰のベルトをギュッと締めている選手が多くいます。これは腰を守るという実用的な意味もあると思いますが、腰のベルトをギュッと締めると一段と気合いが入ると思います。日本ではハチマキをギュッと締めたり、着物を着ている時にはタスキを掛けたりします。着物にタスキを掛けるのは、袖やたもとが邪魔にならないようにという実用的な意味もありますが、心のスイッチを切り替えるという意味合いも多分にあるでしょう。テレビドラマでタスキを掛けるシーンがあると、見ている視聴者の側にも、これから戦いが始まるのだとことが分かりやすく伝わり、視聴者もそれまでダラダラと見ていたのが切り替わって、前のめりになって見たりもします。

 今の2022年は、私たちが弱気になってしまいそうなことが、たくさん起きています。ウクライナの平和のために祈って来ましたが、なかなか戦争が終わりそうにありません。ロシアもウクライナもクリスチャンがたくさんいる国なのに、どうしてこんなことになっているのだろうと、つい信仰のことで弱気になってしまいそうになります。コロナ禍も、6月の半ばまでは順調に感染者数が下がっていましたが、ここへ来て再び増加に転じました。いつになったら、この波の繰り返しが終わるのだろうかと、つい弱気になってしまいそうになります。教会のことにおいてもそうですし、また個人的なことにおいても皆、それぞれに心配事を抱えていて、弱気になることもあるでしょう。そんな私たちに、神様は「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がれ」とおっしゃって励まして下さっているように感じます。

 このエレミヤ書の1章には、エレミヤが預言者として召し出される場面が描かれていますが、最初、エレミヤはとても弱気でした。

 1章の4節から見て行きましょう。4節と5節、

エレミヤ1:4 次のようなのことばが私にあった。
5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」

 5節で主はエレミヤを預言者に任命しました。しかし、エレミヤは弱気でした。6節、

6 私は言った。「ああ、、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」

 そんな弱気のエレミヤに主は言われました。7節、

7 は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。

 「まだ若い、と言うな」と主はエレミヤを叱りました。そして人々に主のことばを語るように言いました。それは人々にとっては厳しいことばですから、エレミヤは恨まれてひどい目に遭うかもしれません。しかし、主はおっしゃいました。

8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──のことば。」

 そうして主は御手を伸ばしてエレミヤの口に触れました。9節、

9 そのときは御手を伸ばし、私の口に触れられた。は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。

 これからエレミヤを通して語られる主のことばは、南王国を一旦滅ぼして、建て直すためのことばでした。10節、

10 見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

 これからエレミヤが南王国の人々に語る主のことばは彼らにとって厳しいことばであり、聞きたくないことばでした。少し飛ばして16節、

16 わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。

 しかし、主の厳しいことばを人々に伝えれば、エレミヤは当然恨まれることになり、ひどい目に遭うことにもなるでしょう。できれば引き受けたくない過酷な役割です。弱気にもなるでしょう。それゆえ主はエレミヤを励まします。17節、

17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。

 今月は、この「腰に帯を締める」に注目します。エレミヤが与えられた役割はとても過酷なものでした。人々に恨まれて、ひどい目に遭わされる可能性があります。おびえるのは当然です。でも主は、「腰に帯を締めて立ち上がれ」とおっしゃって、エレミヤを奮い立たせようとしています。18節と19節、

18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──のことば──あなたを救い出すからだ。」

 主はエレミヤを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とするとおっしゃいました。ここを読んでいて、私は仮面ライダーのような変身モノをちょっと思い出しました。主は、エレミヤを無敵のヒーローのように造り変えて下さるとおっしゃっています。腰の帯をギュッと締めて立ち上がるなら、エレミヤは無敵の者にされます。

 21世紀の今の悪い時代にも、こういう励ましが必要とされていることを感じます。主は苦しむ私たちを慰め、癒して下さるお方であると同時に、励まして強めて下さるお方でもあります。

 今の悪い時代を良い方向に変えることは主にしかできないことですが、主はそれを、人を用い行うお方です。主は旧約の時代にはモーセやエリヤやエレミヤらの預言者たちを用いて世を変えて来ました。新約の時代にはペテロやパウロらの使徒たちを用い、ルターやウェスレーたちも用いて世を変えて来ました。そうして、ひとり子のイエス様でさえも人として世に遣わして十字架に付けました。十字架に向かう前のイエス様はもだえ苦しみますが、主は御使いを送ってイエス様を力づけました。

 今の悪い時代、主は私たちのこともまた励まし、力づけて下さり、用いようとして下さっていることを感じます。これまで主に慰めをいただき、癒しをいただいて来たなら、その次には腰に帯を締めて立ち上がり、主から励ましと力をいただいて主に用いられる者として、日々を歩んで行きたいと思います。お祈りいたします。
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固い信仰の岩の上に建つ教会(2022.6.23 祈り会)

2022-06-27 14:21:08 | 祈り会メッセージ
2022年6月23日祈り会メッセージ
『固い信仰の岩の上に建つ教会』
【マタイ16:15~18】

マタイ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

 今月は祈り会が4回ありますから(毎月、最終木曜日は祈り会はありません)、4回のシリーズで「イエス様は神の子キリストである」ということに心を留めています。1回目の6月2日にはヨハネ20章31節を開きました。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ここにはヨハネの福音書の執筆目的が書かれています。ヨハネの福音書が書かれたのは読者が「イエスが神の子キリストである」ことを信じるためであり、信じていのちを得るためであると、ヨハネが書いていることを見ました。「いのちを得る」とは「永遠のいのちを得る」ということですが、しかし、信じていない人は「永遠のいのち」以前にそもそも魂が死んでいて、いのちさえ失われているのだ、という話をしました。

 次の6月9日の祈り会では、きょうも開いているマタイ16章16節に注目しました。

16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

 ヨハネは、イエス様は神の子キリストであると書きましたが、マタイはイエス様は生ける神の子キリストであると書きました。神の前に「生ける」を付けて「生ける神」としているのはマタイだけです。マルコの福音書とルカの福音書にも、同じピリポ・カイサリアでのペテロの信仰告白の場面がありますが、どちらのペテロも「生ける神の子」とは言っていません。マルコの福音書のペテロは「あなたはキリストです」(マルコ8:29)と言い、ルカの福音書のペテロは「神の子キリストです」(ルカ9:20)と言いました。

 このように、マタイだけが「生ける神」と書いたことについて、6月9日の祈り会ではマタイだけが「インマヌエル」に言及していることと関連付けてみました。聖霊によってマリアが身ごもったことを、マタイは次のように書きました。

マタイ1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 マタイは「神が私たちとともにおられる」ということをマルコやルカよりも強調しています。それがペテロの信仰告白の「あなたは生ける神の子キリストです」にも表れているのではないかという話をしました。神様は生きておられて、その生ける神がいつも私たちとともにいて下さることが良く分かるように、神様は御子イエス様を地上に遣わして下さいました。マタイはそのことを私たちに分かりやすく伝えようとしていることを感じます。

 そして先週の16日の祈り会では、17節に注目しました。

17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

 ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」は優等生の答でした。ペテロはこの信仰告白の前の場面ではイエス様に「信仰の薄い人たち」(8節)と言われ、この後では「下がれ、サタン」(23節)と言われました。このように、この頃のペテロの霊性は全般に低調でした。ペンテコステの日以降は格段に霊性が高まりましたが、それ以前の、イエス様がまだ地上にいた時のペテロの霊性はそれほどではありませんでした。それなのに、16節では「あなたは生ける神の子キリストです」と優等生の答を言うことができました。イエス様はこのことを17節で、「このことを明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」とおっしゃいました。天の父はいつも私たちと共にいて下さり、その父がペテロに明らかにして下さったのですね。ここでペテロは神体験をしたと言えるでしょう。

 私たちの霊性はいつも良い状態にあるわけではありませんが、時に天の父はこういう素晴らしい神体験を与えて下さいます。このことで私たちは信仰生活を保つことができているという話を先週はしました。前置きが長くなりましたが、きょうは18節に注目します。

18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

 きょう、前置きを長々と話したのは、この18節には解釈を巡る問題があるからです。イエス様は「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」とおっしゃいました。この「岩」が何を示すのか、大きく二つの解釈があって、岩はペテロであって、ペテロの上に教会を建てるとイエス様はおっしゃっているのだという解釈と、そうではなくて「イエスは生ける神の子キリストである」という固い信仰の岩の上に教会を建てるとおっしゃったのだ、という解釈とがあります。

 この18節だけを見るなら、ペテロの上に教会を建てると読み取ることもできます。でも、ここまでの前置きで話したように16節と17節を踏まえるなら、イエス様はペテロの信仰告白の「あなたは生ける神の子キリストです」という固い岩盤の上に教会を建てるとおっしゃったのは明らかではないかと思います。

 私たちの、このインマヌエル静岡キリスト教会は、「イエス様は生ける神の子キリストである」という固い岩の上にイエス様によって建てられました。この固い岩盤は天の父によって与えられたものですから、決して揺らぐことはありません。たとえ私たちの信仰がふらつき揺らぐことがあったとしても、この固い岩盤は決して揺らぎませんから、私たちは心を騒がすことなく、この岩の上にあって信仰生活を固く守って行きたいと思います。もう一度、18節をお読みします。

18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

 イエス様は、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」とおっしゃった後で、「よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とおっしゃいました。この「よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とは、イエス様は生ける神の子キリストであると信じる者が永遠のいのちを持ち、決して滅びないと言っているのと同時に、教会もまた決して滅びることはないと言っているのだと感じます。

 事実、キリスト教会は滅びることなく2千年間引き継がれて存続して来ました。今の時代は、牧師が足りず、教会を支える信徒も高齢化して教会の将来が心配されていますが、キリスト教会は決して滅びません。仮に、もし滅びることがあるとしたら、それは「イエス様は生ける神の子キリストである」という信仰が失われる時でしょう。しかし、生ける神の子であるイエス様は私たちと共にいて下さることを私たちは知っていますから、この固い岩盤の上の盤石の信仰がある限り、キリスト教会は決して滅びることはありません。

 キリスト教会の土台がこのように強固であるのは、この土台にはイエス様の十字架が深い所までしっかりと打ち込まれているからですね。旧約の時代の人々の信仰の土台はいつも揺らいでいました。それはイエス様の十字架が土台に無かったからです。しかし、イエス様が十字架に掛かって死に、三日目に復活したことで死は滅ぼされました。それと同時に、イエス様は生ける神の子キリストであるという、キリスト教会の固い土台ができ上がりました。

 私たちは、この固い岩の土台の上にある教会に、多くの方々をお招きしたいと思います。そのために、まだコロナ禍が完全には明けていない今は、この土台の上で私たちの信仰をしっかりと整えたいと思います。私たち一人一人が決して揺らぐことがない固い信仰を、この岩の土台の上でイエス様に築いていただきたいと思います。

 お祈りいたします。
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日々の信仰を支える神体験(2022.6.16 祈り会)

2022-06-20 07:02:33 | 祈り会メッセージ
2022年6月16日祈り会メッセージ
『日々の信仰を支える神体験』
【マタイ16:15~17】

マタイ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」

 前回は16節の「あなたは生ける神の子キリストです」に注目しました。「生ける神」という表現から、神様が共にいて下さる恵みについて思いを巡らしました。きょうは17節に注目します。そして、来週は18節に注目しようと思っています。
 きょう注目する17節を、もう一度お読みします。

17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

 このイエス様と弟子たちとの一連の会話は13節にあるようにピリポ・カイサリアの地方に行った時になされたものです。このピリポ・カイサリアの箇所は説教では16節や18節は取り上げられると思いますが、17節はそれほどでもないように思います。それで私もあまり注目したことが無かったのですが、少し前に教会学校でこの箇所が開かれた時に、17節にも光が当てられていましたから、私も良い学びができて感謝でした。

 イエス様は、ペテロにご自身が「生ける神の子キリストである」ことを明らかにしたのは、天の父であるとおっしゃいました。つまり、この時、ペテロはいわば、新たな神体験をしていたと言えそうです。というのは、この時のペテロは優等生の解答をしましたが、その前後では決して優等生ではなかったからです。

 弟子たちが地上生涯のイエス様と共に過ごしていた時、彼らの霊的な状態は全般に低調でした。弟子たちの霊性はペンテコステの日に聖霊を受けてからは格段に高まりましたが、それまでは全般に低調でしたから、イエス様から「信仰の薄い人たち」と言われていました。このページの上の段の8節でも、イエス様はおっしゃっていますね。8節、

8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」

 或いは、次のページの23節では、イエス様はペテロに「下がれ、サタン」とおっしゃいました。23節、

23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 このように、ペテロの霊性は全般に低調でした。それなのに、16節では優等生の答の「あなたは生ける神の子キリストです」と言うことができました。どうして、この時は優等生の解答ができたのか、今まで私はよく分からずにいたのですが、17節にあるように、天の父が明らかにして下さったからだったんですね。このことを先日の教会学校で学ぶことができましたから、感謝でした。

 きょうは、このような神体験について、もう少し思いを巡らして、理解を深めて行きたいと思います。この17節は、人は普段は霊性が低調であっても、神様は時には素晴らしい神体験を与えて下さるということを教えてくれているように思います。

 私たちもそうだと思います。私たちも、いつもそんなに霊的な状態が良いわけではありません。でも、時にとても霊性が高まる時があります。最初にそれを経験するのは、洗礼を受けるようにと、心の内で促しを受けていると感じる時かもしれません。人それぞれかもしれませんが、私自身のことを振り返ると、洗礼を受けることを考えた時に、霊性の高まりの一つの大きな波があったように思います。そうして洗礼を受けた後は、その波はいったん引いて、そんなに霊性が良い状態ではなかったかもしれません。でも、時に、年に1回ぐらいは霊性が高まる時があったように思います。そういう霊性の高まりは17節によれば、天の父が与えて下さるものなのですね。ただし、この波にも大小があって、とても大きな波の高まりは何年かに1回か10年に1回程度かもしれません。私の場合は、洗礼を受けた頃の大きな波の後の大きな波は、牧師への召しを受けていると感じて、神学院に入学することを藤本先生に相談しに行った頃だと思います。その頃のことは今でも鮮明に覚えています。普段のあまり霊性が高まっていない時のことはすぐに忘れてしまいますが、やはり霊性が高まっていた頃のことは良く覚えています。

 そういう特別の時というのは、17節によれば、天の父が与えて下さるのですね。私たちは、何年かに1回程度ですが、天の父がこのように霊性が高まる時を与えて下さるがゆえに、普段は低調であっても信仰生活を何とか続けて行くことができるのかもしれません。逆に言えば、こういう霊性の高まりの経験が乏しいと、信仰から離れて行ってしまうのかもしれません。私たちは普段の生活ではいろいろなことがありますから、いつもいつも霊性を高く保っていることはできませんが、時に天の父が、霊性が高まる時を与えて下さるから、信仰生活を続けて行くことができるのでしょう。

 パウロもそうではなかったかなと思います。パウロと言えども霊性の波はあり、高い時と低い時があったはずです。ただ、パウロの場合は特別に高い波があったので、普段の低い時でも、私たち以上に高い霊性を保つことができていたのだろうと思います。パウロの霊性が特別に高まった時のことが、第二コリントに書いてありますから、ご一緒に見たいと思います。第二コリント12章1~4節です(新約p.370)。

 ここでパウロは自分の神体験を誇っていると思われないようにという配慮でしょうか、自分の体験を第三者的に語り、「ある一人の人を知っています」と書いています。でも、これはパウロのこととされています。

Ⅱコリント12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

 パウロはこのようにパラダイスに引き上げられるという素晴らしい神体験が与えられていたから、普段においても、かなり高い霊性が保たれていたのだと思います。これほどの素晴らしい体験はパウロの人生の中でも、二度と無かったかもしれませんが、こういう体験があったからパウロはいつも聖霊に満たされ、苦しいことがあっても乗り越えて行くことができたのだろうなと思います。

 ペテロはピリポ・カイサリアで、イエス様は生ける神の子キリストであると天の父が明らかにして下さるという素晴らしい経験をして、或いはまた次のページの17章では変貌山の素晴らしい神体験もしています。17章1節から3節、

マタイ17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

 ペテロもこういう素晴らしい神体験が与えられていたから、ペンテコステの日以降に聖霊が降って宣教を始めてからは多くの場合に聖霊に満たされていて、様々な苦難があっても乗り越えて行くことができたのでしょう。霊性には波がありますから、聖霊が与えられていても低調なことはあります。でも、こういう素晴らしい体験があるなら、私たちは神様から離れずに信仰生活を続けて行くことができます。

 CSの子供向けにキャンプをしたり、大人向けには聖会を行ったりするのも、普段とは違う雰囲気の中で、霊性を高める機会とするためです。

 今年の1月、私たちは藤本先生に来ていただいて、聖会の恵みをいただくことができました。そして今、私たちはまた別の先生をお迎えしての特別集会の相談を始めています。この特別の機会に、私たちの霊性を高めていただきたいと思います。

 そうして、日々の信仰生活の中において、できるだけ高い霊性を保つことができるように、お祈りしつつ歩んで行きたいと思います。

 お祈りしましょう。

17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
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あなたは生ける神の子キリストです(2022.6.9 祈り会)

2022-06-11 15:08:56 | 祈り会メッセージ
2022年6月9日祈り会メッセージ
『あなたは生ける神の子キリストです』
【マタイ16:15~16】

マタイ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

 先週はヨハネ20:31に目を留めました。ヨハネ20:31には、このように書かれています。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ヨハネは「イエスが神の子キリストである」と書きました。そして、ペテロはイエス様に「あなたは生ける神の子キリストです」と言いました。ペテロは「神」の前に「生ける」を付けて、「生ける神」と言いました。きょうは、この「生ける神」に目を留めたいと思います。
 きょうの場面は、13節から始まります。

マタイ16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。

 この13節の下の脚注を見ると、この場面はマルコ8章とルカ9章にもあることが分かります。そうして、マルコとルカでもペテロはやはり同様の信仰告白をしていますが、マルコの福音書のペテロは「あなたはキリストです」(マルコ8:29)と答え、ルカの福音書のペテロは「神のキリストです」(ルカ9:20)と答えました。もう一度繰り返すと、マルコの福音書のペテロは「あなたはキリストです」と答えて、ルカの福音書のペテロは「神のキリストです」と答えました。そして、マタイの福音書のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。ここから、マタイの福音書が何を重視している福音書かということが見えて来るように思いますから、きょうはこのことを皆さんと分かち合いたいと思います。

 マタイの福音書のペテロが「生ける神」という言い方をしていることに目が留まった時に最初に思い起こしたのは、いま礼拝で開いている列王記のエリヤとエリシャの箇所で「主は生きておられる」ということばが多く使われているということです。列王記第一17章でエリヤはアハブ王に言いました。

Ⅰ列王17:1 「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」

 また、同じ17章でツァレファテのやもめはエリヤに言いました。

Ⅰ列王17:12 「あなたの神、主は生きておられます。」

 また、列王記第二2章でエリヤが天に上げられた時、エリシャはエリヤに三度同じことを言いました。

Ⅱ列王2:2 「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。わたしは決してあなたから離れません。」(4節と6節にも)

 このことばをエリシャは三度繰り返しました。或いはまた、列王記第二の4章でシュネムの女はエリシャに言いました。

Ⅱ列王4:30 「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」

 このように、エリヤとエリシャの箇所では「主は生きておられる」ということばが何度も出て来ます。その他、調べてみると、サムエル記でも「主は生きておられる」ということばがたくさん使われています。ダビデはもちろん、サウル王も「主は生きておられる」と何度も口にしています。

 また、エゼキエル書では、主ご自身が「わたしは生きている」と何度も仰せられています。三か所ほど例を挙げます。

エゼキエル5:11 それゆえ──である主のことば──わたしは生きている。あなたが、あらゆる忌まわしいものと、あらゆる忌み嫌うべきことによって、わたしの聖所を汚したので、わたしもまた身を引き、あわれみをかけない。わたしもまた、惜しまない。

エゼキエル17:16 わたしは生きている──である主のことば──。彼は、自分を王位に就けた王との誓いを自ら蔑み、また、自ら契約を破ったので、その王の住む場所、バビロンで必ず死ぬ。

エゼキエル18:3 わたしは生きている──である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。

 エゼキエル書では、主ご自身が「わたしは生きている」と仰せられている箇所が、まだまだ他にもたくさんあります。
 今週、このように、「主は生きておられる」や、「わたしは生きている」と語られているみことばを思い巡らしている時、主がともにいて下さることを強く感じました。そうして、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白したと書いているマタイの福音書は、「主がともにいて下さる」恵みを伝えることを重視しているのだと感じました。

 ご存じのように、マタイは1章で、マリアの夫のヨセフの夢に御使いが現れたことを書いています。

マタイ1:20 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 このようにマタイは、イエス様が私たちとともにおられるインマヌエルの神であることを書いています。マタイの福音書は系図から始まっていますが、それはつまり、主はどの時代にも、ずっと生きておられて、人々とずっと共にいて下さったということですね。

 マタイが、イエス様のことを私たちと共にいて下さるインマヌエルの神であることを強調していることが、ペテロの信仰告白の「あなたは生ける神の子キリストです」に現れているのではないでしょうか。イエス様は生ける神の子キリストですから、いつも私たちと共にいて下さいます。

 先聖日はペンテコステの日でした。この日、弟子たちに聖霊が注がれました。そして、イエス様は生ける神の子キリストであると信じる私たちも、聖霊を受けました。そうして聖霊が内に入ることで、イエス様がいつも共にいて下さることを、しっかりと感じることができるようになりました。

 77年前の戦後、私たちの教団が創設された時、教団名に「イムマヌエル」が使われました。創設者の一人の蔦田二雄先生は、戦時中は二年間の獄中生活を送りました。獄中での先生は聖書が手元になくても、みことばが頭の中に入っていましたから、御霊とみことばを通して、いつも、主が共におられることを感じていました。それは、主が生きておられるからであり、イエス様が生ける神の子キリストであるからですね。そうして、御霊を通してイエス様の励ましを受けておられました。

 今週から週報での連載を始めた『岩から出る蜜』の中で蔦田二雄先生は、御霊のことをとても多く語っています。それは、蔦田先生ご自身が御霊を通して、生きている主がいつも共にいて下さることを強く感じているから、この恵みを神学生にしっかりと叩き込もうとしていたということでしょう。そうして神学生が卒業して牧師になったなら、この「主が共にいて下さる」恵みを教会でしっかり伝えることができるようにと願っていたということでしょう。

 私たちの教団名に「イムマヌエル」が使われていることで、主が共にいて下さる恵みをいつも心に留めておくことができますから、このことを心一杯感謝したいと思います。

 お祈りいたします。

マタイ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
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イエスは神の子キリストである(2022.6.2 祈り会)

2022-06-06 03:24:48 | 祈り会メッセージ
2022年6月2日祈り会メッセージ
『イエスは神の子キリストである』
【ヨハネ20:31】

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 次の聖日はペンテコステの日です。この日、イエス様の弟子たちに聖霊が注がれました。そして、聖霊に満たされた弟子たちは、御霊に導かれていろいろなことばで話し始めました。この様子を見に集まって来たエルサレムの人々に向かって、ペテロはヨエル書を引用した説教を行いました。そして、その説教を聞いてイエス様を信じた人々約3千人が新たに弟子に加えられて、教会の歴史が新たに始まりました。

 今、ペンテコステの日にイエス様を信じた人々が約3千人いたと話しましたが、先日も開かれたヨハネ3:16には、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

とあります。ここでも「御子を信じる」ということばが出て来ますが、では「御子を信じる」とは、どういうことでしょうか?

 それは、きょうの聖書箇所のヨハネ20:31にある通り、「イエスは神の子キリストである」と信じる、ということですね。今月の祈り会では、この「イエスは神の子キリストである」ということを深めて行きたいと思います。その中では、先日の教会学校で開かれたペテロの信仰告白の、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)も取り上げたいと願っています。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(マタイ16:15)と聞いた時、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。このことも、今月の祈り会のどこかの週でご一緒に思いを巡らしたいと思っていますが、きょうは、ヨハネ20:31です。もう一度、お読みします。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ここにはヨハネの福音書の執筆目的が書かれています。ヨハネの福音書が書かれた目的は、イエスが神の子キリストであることを読者が信じるためであり、また信じて、イエス様の名によっていのちを得るためです。「いのちを得る」とは、「永遠のいのち」を得るということですね。ヨハネ3:16と同じです。御子を信じる者は一人として滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。それは、聖霊が注がれるということです。聖霊が注がれることで私たちには永遠のいのちが与えられます。聖霊は父・子・聖霊の三位一体の神であり、三位一体の神は永遠の中におられます。その永遠の中におられる聖霊が私たちに与えられることで、私たちも永遠の中に入れられて永遠のいのちを得ます。

 その永遠のいのちを得るためには、私たちは「イエスは神の子キリストである」と信じる必要があります。「イエスは神の子キリストである」と信じることで私たちは罪が赦されて、神の子とされて永遠のいのちを得ます。

 ですから、イエス様を神の子キリストであると信じないことは、大きな罪です。十字架の日にユダヤ人たちはイエス様が神の子キリストであることが分からないままに「十字架に付けろ」と叫び、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。イエス様が十字架で死んだ時、ローマ兵の百人隊長は「この方は本当に神の子であった」(マルコ15:39)と言いましたが、ユダヤ人たちは信じませんでした。

 ここから先は、日本での宣教の観点から「イエスは神の子キリストである」ということを考えたいと思います。私たちクリスチャンは、イエス様が神の御子であり、私たちを罪から救い出して下さった救い主のキリストであることを信じていますが、日本ではなかなか伝わりません。これは、ユダヤ人たちが信じなかった事情とは、かなり違います。

 ユダヤ人たちにとっては、神とはヘブル語聖書に書かれている「主」が神です。ヘブル語聖書とは旧約聖書のことですが、ユダヤ人にとっては旧約も新約もありませんから、ヘブル語で書かれた創世記からマラキ書までの書が聖書であり、そこに書かれている「主」が神です。新改訳聖書は、このヘブル語聖書の主を太字ので表記しています。その神であるにひとり子の御子がいて、その御子が彼らが十字架で殺したイエスであるとは、ユダヤ人たちにとっては、とうてい信じられないことでした。

 一方、日本では旧約聖書はほとんど読まれていませんから、ユダヤ人にとっての神がどのような神かは、ほとんど知られていません。アダムとエバのことやノアの箱舟やバベルの塔のことなど部分的には知られていますが、神が天地万物を創造した全知全能の神であることは、あまり意識されていないような気がします。日本で神と言えば八百万の神ですから、聖書の神様とはスケールの大きさがあまりに違いすぎます。日本人が聖書の神様のスケールの大きさを想像するのは難しいように思います。

 すると、「神の子」と言っても、その凄さもなかなか伝わりにくいのだろうなと思います。日本でイエス様のことを知らない人はほとんどいないだろうと思います。名前や風貌はよく知られています。クリスマスの日がイエス様が生まれた日であることも、ほとんどの人が知っているだろうと思います。でも、そのイエス様の父が天地万物を創造した全知全能の神様であることまでを知っている人は、あまりいないでしょう。日本での伝道は、そういう面での難しさがあります。

 では、どうしたら良いのでしょうか?ヨハネの福音書は、そのために書かれたとも言えるのだろうと思います。ヨハネの福音書のイエス様は1章で二人の弟子たちに、「あなたがたは何を求めているのですか?」と聞き、「来なさい。そうすれば分かります。」と言いました。ここに大きなヒントがあるように思います。

 以前も話したことがあると思いますが、私たちは自分が心の奥底で本当は何を求めているのか?をイエス様に出会うまでは分かっていませんでした。表面的な願望はたくさん持っていますから、自分が何を求めているのかについて、表面的なことなら答えられますが、奥深い自分が何を求めているのかは、分かっていません。でも、イエス様と出会って、イエス様に付き従って、イエス様と共に旅を続けることで、段々と分かって来ます。

 そうして、最後までイエス様と旅をして分かることが、きょうの聖句のヨハネ20章31節のことばです。ヨハネの福音書は、この書の執筆目的がここで述べられることで一旦閉じられます。ですから、ここに書いてあることが「あなたがたは何を求めているのですか?」の最終的な答だろうと思います。ここには「いのちを得る」と書いてあります。

 今回、この説教の準備をしながら思いを巡らしていて、「いのちを得る」ということと、「永遠のいのちを得る」は少し違うと示されました。今まで私はこのヨハネ20:31の「いのちを得る」は「永遠のいのちを得る」に自動的に変換していたことに気付き、それは少し違っていたと示されています。

 自動的に変換していたのは、やはりヨハネ3:16のみことばが浸み込んでいるからだと思います。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

とヨハネ3:16にありますから、ヨハネ20:31の「いのちを得る」も自動的に「永遠のいのちを得る」に変換してしまっていました。でも、考えてみると、イエス様に出会う前の私たちは「永遠のいのち」以前に、「いのち」さえ持っていなかったのだなと今回、気付かされました。

 イエス様と出会う前の私たちの魂は、水が涸れた冬の安倍川のように渇き切っていて、霊的には死んだ状態にありました。その渇き切って死んでいた魂が、イエス様と出会って「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、聖霊によって豊かに潤うようになり、いのちを得ることができます。そのいのちとは永遠のいのちのことですから、結局は永遠のいのちを得るということなのですが、それ以前のことが違います。永遠のいのちを得るとは、永遠ではないいのちが永遠になる、ということではなくて、イエス様に出会う前にはそもそも、いのちさえ持っていなかったということなのだと思います。

 ヨハネの福音書1章5節には、

ヨハネ1:5 この方にはいのちがあった。

と記されています。このいのちであるお方のイエス様に出会う前の私たちはいのちがない死んだ者であったということです。

 次の聖日はペンテコステの日です。弟子たちに聖霊が注がれて、私たちもまた「イエスは神の子キリストである」と信じたことで聖霊を受けて、いのちが得られました。このことに心一杯感謝しつつ、私たちの周囲の方々にもイエス様と出会って、いのちを得ていただきたいと思います。このことに心一杯感謝しつつ、私たちの周囲の方々もイエス様と出会って、いのちを得ることができるように祈りたいと思います。

 一人でも多くの方々がイエス様と出会うことができるように祈りつつ、用いられる私たちでありたいと思います。

 お祈りいたします。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

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慰めから励ましのメッセージへ(2022.5.19 祈り会)

2022-05-21 16:30:39 | 祈り会メッセージ
2022年5月19日祈り会メッセージ
『慰めから励ましのメッセージへ』
【マタイ25:14~19、ルカ22:31~32】

 きょうの前半では先週の14日の土曜日に放送されたライフラインを分かち合いたいと思います。その放送ではゴスペルマジシャンのRITOさんが紹介されていました。ゴスペルマジシャンとは、手品を見せながら福音を伝える働きをしている人たちです。

 あとで、このライフラインの放送をご一緒に見ます。ネット上の「聖書チャンネルBRIDGE」でライフラインの見逃し配信をしてくれていますから、3つ行われた手品の最後の三つめの手品をご一緒に前方のスクリーンで見たいと思います。

 その前に、きょうの聖句を短く見ておきます。きょうの聖書箇所は、RITOさんがゴスペルマジシャンになるきっかけとなった聖句だそうです。RITOさんは一般的なサラリーマンの家庭で生まれたそうですが、小学校に入学するタイミングでお父様が牧師になったそうです。そして、小学生の低学年で洗礼を受けますが、その頃に手品にも興味を持って、かなり早い段階で手品を始めています。やはりスポーツや音楽と同じで、幼い頃に始めると上手になるのですね。そして、ゴスペルマジックとも小学生の時に教会で出会ったそうです。

 放送ではRITOさん中高生の頃のことにも触れていましたが、そこは省略して、就職してからのことに飛びます。就職は牧師になるとか、手品師になるとかではなくて、普通に会社員になったそうです。そんなある時、教会の説教で今日の聖書箇所が開かれて、自分は手品の才能というタラントを土に埋めてしまっている1タラントのしもべだということを示されたそうです。そうして、神学校に入って聖書を学び、手品をしながら福音を語るゴスペルマジシャンになりました。イエス様の1タラントのしもべのたとえがRITOさんの背中を押して、新たな道が開かれて用いられていることに、心から感謝したいと思います。

 それでは、ライフラインの見逃し配信の一部をご一緒に見ましょう(約5分)。
 https://www.seishobridge.com/content/detail/id=2949

【後半】
 前半はライフラインを見ましたから、後半は少し短めにします。ルカの福音書22章の31節と32節を、ご一緒に読みましょう。

ルカ22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 32節は、先週の祈り会でも引用しました。先週はイエス様が天に帰った後に弟子たちが集まって聖霊を祈り求めていた、その場にイエス様の母マリアもいたことに目を留めました。マリアは我が子を残酷な十字架刑で失うという大きな悲しみを経験しました。悲しみのあまり衰弱して死んでしまったとしてもおかしくないぐらいの深い悲しみであった筈です。それほどのつらい目に遭ったにも関わらず、マリアが弟子たちとの祈りの場にいたのは、イエス様がペテロだけでなくマリアに対しても、祈っていたのだろうという話をしました。イエス様がペテロのために祈ったことはイエス様ご自身が32節でおっしゃっています。32節、

32 わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

 イエス様はペテロに「あなたは…兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃいました。力づける、別の言葉で言えば、励ますということでしょう。そうして、私が最近示されていることは、教会のメッセージでは、もしかしたら励ましのメッセージが減っているのではないかということです。慰めは多く語られますが、励ましは少なくなっているような気がします。

 教会の集会のメッセージに関しては私も様々に意見をいただいていますから、今の時代に教会で必要とされているメッセージは、どんなメッセージかについては常に考えさせられています。考え過ぎて迷走してしまうこともありますが、常に考えています。

 他の先生方のメッセージももちろん参考にします。どういうメッセージが今の時代の人々に届くのかということを他の先生方のメッセージを参考にしながら考えています。

 そうして感じているのは、「慰め」と「励まし」という観点からは、現代のメッセージは相対的に慰めが多めになっているようだ、ということです。本当につらくて大変なことが多い時代ですから、もちろん先ずは慰めが必要です。暗くてつらいことが多い世で苦しみ、また悲しむ私たちのそばにイエス様は常にいて下さいます。それは本当に大きな慰めです。でも、今の世があまりに暗いことから、慰めに重きが置かれて、なかなか励ましへと進んで行かないもどかしさも同時に感じます。

 ペンテコステの日に、聖書の時代は新約の時代の新しい一歩を踏み出しました。イエス様の地上生涯の時代は旧約から新約への移行の時期と言えるでしょう。そうしてイエス様の十字架と復活を経てペンテコステの日に、本格的な新約の時代が始まりました。旧約の時代には一部の預言者たちにしか聖霊が注がれませんでしたが、新約の時代にはイエス様を信じる者には誰にでも聖霊が注がれるようになりました。それまで神様に背を向けて罪の中を歩んでいたことを悔い改めて方向転換をして、罪赦されて神の子とされるという新約の時代を生きる新しい日々が始まりました。しかし、迫害などもありましたから、ペテロたちが新しい時代を生きるには聖霊の励ましが必要であり、そうして聖霊に励まされたペテロたちが人々を励ましました。そのことができるように、イエス様は十字架に付く前にペテロのために祈り、「あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃいました。

 きょうの前半で見たゴスペルマジシャンのRITOさんのメッセージは、とても励ましに満ちたメッセージであったと思います。それはRITOさん自身がみことばに励まされて来た経験を持っているからなのだと思います。前半には紹介しませんでしたが、RITOさんは中学時代に、学校での人間関係に悩んでいたそうです。そうして、明日は学校に行きたくないな、とそんなことばかり考えながら過ごす日々を送っていたそうです。そんな時に中学生のRITOさんは、マタイの福音書の

マタイ6:34 「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。」

というイエス様のことばに励まされて、明日学校に行くことまで心配することはないのだと思えるようになり、前向きになれたそうです。そうして就職してからは、先ほども話したように、イエス様の5タラント、2タラント、1タラントのしもべのたとえに励まされて、ゴスペルマジシャンへの道を新たに踏み出しました。

 前半にご一緒に見たトランプを使ったマジックの最後でRITOさんは、いつかやがてイエス様が天から再び地上に来て下さると語りました。イエス様が再び来た時、世の中の混乱が無くなり、全世界の秩序は元通りになり、私たちはこの地上で再びイエス様と共に生きていけるようになる、と語りました。これは、とても大きな励ましのメッセージだと思いました。もし天国への希望が語られたとしたら、それは慰めのメッセージであり、励ましよりも慰めに重きを置いたメッセージだと思います。

 でもRITOさんは地上での希望を語りました。地上にイエス様がまた戻って来て秩序を元通りに回復して下さるんだと語られる時、私たちもその時に備えて、それぞれに与えられたタラントを活かすように励まされます。イエス様のタラントのたとえの主人も、再び戻って来るからです。

 イエス様は私たちに慰めと励ましの両方を与えて下さるお方ですが、弟子たちに対しては、慰めよりもやはり励ましを多く与えていました。ですからイエス様の弟子である私たちもまた、イエス様から多くの励ましをいただきながら、日々を歩んで行きたいと思います。お祈りいたしましょう。

32 わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
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母マリアと共にいた神様(2022.5.12 祈り会)

2022-05-13 13:54:01 | 祈り会メッセージ
2022年5月12日祈り会メッセージ
『母マリアと共にいた神様』
【使徒1:14】

使徒1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

 いま私たちはペンテコステ、五旬節の日に向かっています。イースターから五旬節の日までは7週間で、先日の5月8日の聖日はイースターから3週目、次の5月15日の聖日はイースターから4週目になりますから、今私たちはイースターとペンテコステのちょうど中間点にいます。これからの3週間半、私たちは聖霊の恵みをますます強く祈り求めて行きたいと思います。

 今ご一緒に読んだ使徒1:14は今月の教団の教報の巻頭言で代表の岩上先生が引用しています。この巻頭言で岩上先生は神学校の現状を憂慮して、聖霊の助けを祈り求めたいと書いておられます。次の聖日は教団の多くの教会で神学校の創立記念礼拝が献げられます。私たちの教会の礼拝もBTC創立記念礼拝としていますから、神学校のために、祈りたいと思います。

 さて今夜、この使徒1:14のみことばを分かち合うことにしたのは、教報を読んでいて「イエスの母マリア」ということばに目が留まったからです。ちょうど先聖日が母の日であったということもあったからかもしれません。「イエスの母マリア」ということばに目が留まりました。

 ルカがここに母マリアのことを書いてくれたおかげで、マリアがこの時点までは存命していたことが分かりますから、この聖句はとても価値が高いと思います。ルカは四人の福音書の記者の中でも特に史実に忠実であることを重視している記者だと思いますから、母マリアは確かに、少なくともこの時までは弟子たちと一緒にいたことが分かります。

 一方で、マタイはルカとは少しスタンスが違います。例えばマタイは「心の貧しい者は幸いです」から始まる一連の説教を「山上の説教」の形で5章から7章までの間にギュッと一まとめにしています。一方、ルカはもう少し分散させていますね。例えば「主の祈り」をマタイは「山上の説教」の中に組み入れていますが、ルカはイエス様が「貧しい人たちは幸いです」と語ったことをルカ6章に書き、「主の祈り」のことはもっと後のルカ11章で書いています。

 マタイとルカのどちらのイエス様が史実に近いかと言えば、それはやはりルカではないでしょうか。マタイが書いたような「山上の説教」でイエス様があれほどたくさんのことを一度に語ったとしたら、内容が盛りだくさん過ぎて、聴いていた人たちは消化不良をおこすでしょう。でも、マタイの福音書という書き物の形で残すなら、マタイが書いたようにギュッと一まとめにしてあったほうが、イエス様が人々に何を伝えたかったのかが、よく分かります。ルカのように分散していると、少しぼやけるような気がします。ですから、マタイはイエス様の教えを読者に効果的に伝えるために、敢えて「山上の説教」であれだけたくさんのことをイエス様が語ったという構成にしたのだろうと思います。

 ヨハネもルカとはだいぶ違います。例えばヨハネはイエス様の十字架のそばに女性たちと愛弟子とがいたと記しています(ヨハネ19:25-26)。一方、ルカは、そこに弟子たちがいたとは書いていませんし、女性たちも十字架から離れた場所でイエス様を見ていたと書いています(ルカ23:49)。ヨハネとルカのどちらが史実に近いだろうかと言えば、それはルカでしょう。イエス様の十字架はとても残酷な死刑でしたから、十字架のそばで見ることなど女性には耐えられなかっただろうと思います。そして弟子たちは身の危険を感じて逃げたのですから、愛弟子がそばにいることも無かったのではないかと思います。

 でも、ヨハネの福音書は読者が霊的にイエス様と出会い、しっかりとした信仰が形作られることを目指していますから、例えばヨハネ3:16の、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

というみことばも、愛弟子がイエス様の十字架をすぐそばで見届けたという証言があるからこそ、より一層心に迫って来るのだと思います。しかも、愛弟子が十字架のすぐそばにいたとヨハネが書いたことで、マタイ・マルコ・ルカの福音書の十字架の場面もまた、私たちはすぐそばで見ているような心持ちになります。マタイ・マルコもルカと同じように、女たちはイエス様の十字架を遠くから見ていたと書き、弟子がそこにいたとは書いていません。でも、私たちはイエス様が十字架で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだとマタイ・マルコが書いたことを、まるですぐ近くで見ているように感じます。それは、後にヨハネが愛弟子がすぐそばで見ていたと書いたから、私たちもまた、そのように感じるのだと思います。

 或いはまたイエス様が十字架で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」とおっしゃったとルカが書いたことも、まるでそれをすぐ近くで見ているように感じます。それもヨハネの福音書の効果だろうと思います。ヨハネの福音書には、そういう不思議な霊的な働きがあります。

 それに対して、ルカはルカの福音書においても使徒の働きにおいても、テオフィロ様への呼び掛けから始めて、テオフィロ様への報告書のような形になっていますから、史実を忠実に書くことを重視しているようです。そして、これはこれで、ものすごく大きな意味があって、この史実に忠実なルカ文書があることで、私たちは実際にあったことを知ることができます。きょうの聖書箇所の使徒1:14で、この場にイエス様の母マリアがいたことを知ることができることには、とても大きな意味があり、大きな恵みだと思います。

 というのは、イエス様が十字架に掛かって死んだことを最も悲しんだのは、間違いなく母マリアだったからです。悲しみのあまり病気で寝込み、衰弱して死んでしまったとしても、おかしくないぐらいの絶望的な悲しみであったことでしょう。ルカ2章でシメオンが幼子のイエス様を抱いた時、シメオンはマリアに「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります」(ルカ2:34)と言いましたが、この剣の刺し貫くショックでマリアが死んでしまったとしても、おかしくはなかったでしょう。それほどの深い悲しみであったと思います。

 しかし使徒1:14は、この祈りの場に母マリアがいたことをルカは書き残しています。母マリアがこれほどの悲しみの中でも命を落とすことなく、信仰も失わなかったのは、神様が共にいて下さり、マリアを守って下さっていたからこそでしょう。

 ルカは、イエス様が最後の晩餐の場でペテロに次のように言ったことを書いています。「シモン、シモン、…わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:29-30)。イエス様はペテロのために祈っただけでなく、母マリアのためにも、きっと祈ったことでしょう。母が十字架のショックで命を落とすことがないように、また信仰も失わずに、弟子たちと互いに愛し合いながら祈り合うことができるようにと、きっと祈ったのではないかと思います。

 使徒1:14で母マリアは、弟子たちと共に祈っていました。弟子たちはイエス様が逮捕された時に逃げてしまいましたが、母マリアはそのことを赦しました。マリアは弟子たちを批判することもできた筈です。「どうしてあなたたちは我が子イエスを見捨てて逃げたのですか」と批判して赦さずにいることも、十分に有り得たと思いますます。でも、マリアは弟子たちを赦し、互いに愛し合って、共に聖霊が注がれるように祈り求めていました。マリアがそのようにできたことの背後には、イエス様の祈りがあったのだろうと思います。

 こうして、母マリアには神様が共にいて下さり、イエス様の祈りによって守られていたことが、ルカが使徒1:14で母マリアが弟子たちと共に祈っていたと書き残したことで、分かりますから、本当に感謝です。

 神様は、いつも共にいて下さり、どんな深い悲しみの中にある人にも慰めと励ましを与えて下さり、前向きに生きて行く力を与えて下さるお方です。イエス様の母マリアは、十字架刑という、公開の場での残酷な死刑によって我が子を失うという大きな悲しみを味わいました。それほどまでの経験をした母マリアでさえ、神様が共にいて下さったことで命と信仰が守られました。

 神様は私たちとも共にいて下さることを、心一杯感謝したいと思います。神様はマリアと弟子たちと共にいて下さったのと同じように、私たちとも共にいて下さいます。ですから私たちは母マリアと弟子たちと同じように、聖霊の恵みを祈り求めたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

使徒1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
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神の苦悩(2022.5.5 祈り会)

2022-05-09 08:13:58 | 祈り会メッセージ
2022年5月5日祈り会メッセージ
『神の苦悩』
【ホセア11:8】

ホセア11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 ホセア書のこの箇所からは、神様の深い苦悩が分かります。前回開いたエレミヤ書の箇所からは、主がとても厳しいお方であるという印象が残りましたから、主は厳しいだけのお方ではないことを、きょうのホセア書で確認しておきたいと思います。

 まず、前回のエレミヤ書を簡単に振り返っておきたいと思います。前回はエレミヤ書7:11の「強盗の巣」の箇所を開きました(p.1300)。

エレミヤ7:11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──のことば──。

 この「強盗の巣」ということばはイエス様が宮きよめをした時に使ったことばです。イエス様は祭司長たちがエルサレムの神殿の異邦人の庭を商売人たちに使わせて利益を得ていました。その時にイエス様は、おっしゃいました。

マルコ11:17 「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 このイエス様のおっしゃった「強盗の巣」は、このエレミヤ7:11からの引用です。主は南王国のユダの人々に対して不信仰を改めるように、エレミヤを通して何度も警告していました。しかし、不信仰が改まらなかったので、かつてのシロやエフライムに対して行ったのと同じことをすると、エレミヤを通して仰せられました。エレミヤ7章の14節と15節です。

14 「わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。
15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。」

 14節のシロは、前回も話した通り、サムエル記第一の最初のほうにある、祭司エリの時代に神の箱が置いてあった町です。この時、イスラエルはペリシテ人と戦っていました。劣勢だったイスラエルは、神の箱を戦場に持ち込めば、勝てると考えて、そのようにしました。しかし、主は人間が自分たちの勝手な判断で神の箱を幕屋から運び出して戦場に持ち込んだことを怒りました。それゆえイスラエルはペリシテに敗北しました。

 15節のエフライムというのは北王国のイスラエルのことです。主は、南王国に先立ってまず北王国を見放しました。これらから、主は不信仰を赦さない、厳しいお方であることが分かります。しかし、きょうの聖書箇所のホセア書を見るなら、主は決して厳しいだけの方ではありません。主はとても憐み深いお方でもあります。

 ホセア書に戻ります(旧約p.1547)。もう一度11章8節、

ホセア11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 ホセアは、北王国が滅びる少し前まで、北王国で預言していた預言者です。聖書に登場する預言者は、北王国が滅びる前までは大体が北王国で活動していた預言者です。エリヤやエリシャも北王国の預言者たちでした。それだけ北王国が不信仰であり、主の警告が必要だったということです。北王国の王たちは初代のヤロブアム王から始まって一貫して不信仰な王たちばかりでした。南王国にはアサ王やヨシャファテ王、ヒゼキヤ王やヨシヤ王のように善い王がいましたが、北王国は一貫して悪い王たちばかりでしたから、南王国よりも早くに滅びてしまいました。それは主の怒りに触れたからですが、今ご一緒に読んだように、主はこのことでは深く苦悩しています。それは、主が憐み深いお方だからです。8節の1行目から4行目。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。

 後に主はアッシリヤがイスラエルを滅ぼすことをお許しになりましたが、その時には、このように苦悩していました。残りの行、

どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 アデマとツェボイムはソドムとゴモラと同じ地域にありました。主がアブラハムの時代にソドムとゴモラを滅ぼした時に、アデマとツェボイムもまた滅ぼされました。主は、イスラエルを、このように滅ぼしたくはありませんでした。

 このホセア書11章の1節で主は仰せられています。

1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。

 これは、主がモーセをリーダーに指名してイスラエル人をエジプトから脱出させたことですね。この頃のイスラエル人は幼稚園児のようなものでした。駄々っ子のように、苦しいことがあると、すぐに泣きわめきました。そんなイスラエル人を主は愛し、忍耐強く守り、約束の地のカナンまで導きました。3節、

3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。

 主はまさにイスラエル人の父親でした。しかし、彼らは親である主に背を向けていました。少し飛ばして7節、

7 わたしの民は頑なにわたしに背いている。

 彼らは2節にあるように呼べば呼ぶほどますます離れて行き、バアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えていました。これは主が最も忌み嫌うことでした。それゆえ北王国のイスラエルは滅ぼされました。

 今回、改めてこのホセア書11章を読み、イスラエル人たちは信仰が幼く、信仰が育っていなかったから偶像を礼拝してしまっていたのだなということに改めて気付かされています。信仰が幼いと、やはりどうしても目に見えるものに心を寄せてしまいます。目に見えない神様に心を寄せることは、それだけ難しいということであり、成長しなければ目に見えない神様を信じ続けることは難しいことが分かります。

 ダビデとソロモンの時代には一つの国だったイスラエルが南北に分裂してしまったのは、ソロモン王が妻たちの影響で偶像礼拝をするようになってしまったからです。ソロモンは年を取ってまた信仰が幼くなってしまったようです。北王国に続いて南王国が滅びたのも、やはり偶像礼拝が原因でした。目に見えない神様に信頼を寄せることは、それほどまでに難しいということです。

 それゆえ主はひとり子の御子を地上に遣わして下さいました。目に見えない神を信じるのが苦手な私たちのために御子を遣わし、1世紀の初めに人々の間にイエス様を住まわせて下さり、そのことを福音書の記者のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネを用いて書き残すようにして下さいました。さらにパウロなども用いて、聖書を通してイエス様が神の子キリストであることを信じて、それまでの不信仰を悔い改めるなら、聖霊を遣わして下さり、聖霊を通してイエス様にお会いできるようにして下さいました。

 そのことを考えるなら、イエス様がいなかった時代の北王国や南王国の民は気の毒な気もします。私たちにはイエス様がいますが、イエス様がまだ地上に遣わされていなかった旧約の時代には、どうしても目に見える偶像を礼拝することになってしまいました。この偶像礼拝の罪の重さを私たちは、このホセア書やエレミヤ書で知ることができます。主が私たちにイエス様を遣わして下さったことを、改めて感謝したいと思います。そうして主に背を向けていた私たちの罪もイエス様の十字架によって赦されて、神の子どもとされて永遠の命が与えられ、平安を与えられたことを、心一杯、感謝したいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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強盗の巣(2022.4.21 祈り会)

2022-04-23 11:16:12 | 祈り会メッセージ
2022年4月21日祈り会メッセージ
『強盗の巣』
【マルコ11:15~19、エレミヤ7:1~15】

 イースターを越えましたが、きょうは再びイエス様が宮きよめをした場面を開きます。マルコ11:15~19です。

マルコ11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。

 このイエス様の宮きよめの場面を読むと、私自身の心の中にも、余計な物がまだまだたくさんあることを思わされます。余計な物が置かれているのは、エルサレムの宮だけでなく、私自身の心の中も、そうです。

 このマルコ11章の15~19節の宮きよめの記事には旧約聖書からの引用を示す二重の鍵括弧が二ヶ所あります。一つ目がイザヤ書からの引用の『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』で、もう一つがエレミヤ書からの『強盗の巣』です。前回はイザヤ書の方を見ましたから、きょうはエレミヤ書を開くことにします。この『強盗の巣』ということばが出て来るのは、エレミヤ書の7章11節です(旧約p.1300)。少し長くなりますが、7章の1節から読んで行きたいと思います。まず1節、

エレミヤ7:1 からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。

 主はエレミヤに次のように仰せられました。2節、

2 「の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、のことばを聞け。

 主は、宮に主を礼拝しに来た人々に次のように言うようにエレミヤに命じました。3節、

3 イスラエルの神、万軍のはこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。

 ユダの人々は不信仰の罪に陥っていましたから、それを改めるように主は警告しました。4節、

4 あなたがたは、「これはの宮、の宮、の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。

 主の宮は汚されていて、もはや「主の宮」と呼ぶことはできないということですね。あとで11節に「強盗の巣」ということばが出て来ますが、それほどひどいことになっていて、もはや「主の宮」と呼ぶことを主はお許しになりませんでした。続いて5節から7節、

5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。

 主は、ユダの民が行いを改めるなら、この地にとこしえに住まわせると約束しています。8節から10節、

8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。
9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。

 善い王だったヨシヤ王の時代には、宮は一旦きよめられましたが、ヨシヤ王が死んだ後のエホヤキム王の時代には、エルサレムの宮は再びひどいことになっていたんですね。このあまりのひどさに、この宮のことを主は「強盗の巣」と呼びました。11節です。

11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──のことば──。

 不信仰に陥ってやりたい放題をしていたエルサレムの民は、もはや主の目には強盗と映っていました。それで主は、このままでは、かつてシロに幕屋があった時代のことに触れて警告しました。12節、

12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。

 これはサムエル記の最初のほうに記されている、サムエルがまだ子供だった頃の祭司エリの時代のことのようです。この時、祭司エリの息子たちはやりたい放題のことをしていました。そして、長老たちの信仰もまた未熟であり、神の箱を幕屋から出してペリシテ人たちとの戦いの場に担ぎ込むという過ちを犯しました。神の箱がそこにあれば、主が共にいて下さり、ペリシテとの戦いに勝たせて下さると思ったんですね。でも、このことの是非を主に伺うことなくイスラエルは自分たちの都合だけで勝手に神の箱を担ぎ出しました。このことに主は怒り、この戦いでイスラエルの兵3万人が倒れ、神の箱も奪われてしまいました。そうして、ダビデがエルサレムに再び運び入れるまで、神の箱は長い間、幕屋の外にありました。

 そして、エレミヤの時代においても、不信仰が繰り返されていました。それゆえ主はエレミヤを通して警告しました。13節から15節、

13 今、あなたがたは、これらのことをみな行い──のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、
14 わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。
15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』

 15節の「エフライムのすべての子孫を追い払った」とは、北王国が滅びて北の民がアッシリアに捕囚として引かれて行ったことを指します。主はシロだけでなく、北王国の民も打ちました。そうして南王国の民も打たれて、エルサレムはバビロン軍の攻撃によって滅び、民はバビロンに捕囚として引かれて行きました。

 イエス様が宮きよめの時に、「強盗の巣」ということばを使ったということは、イエス様の時代のエルサレムもまた似たような状況になっていたということです。それゆえ、イエス様は乱暴な方法で宮きよめを行いました。

 イエス様の時代の祭司たちは、偶像礼拝はしていなかったかもしれませんが、異邦人の祈りの場を商売の場にしていました。隣人の異邦人を愛さず、異邦人の祈りを妨げ、商売人に宮での商売の権利を与えることで利益を得ていました。

 それゆえイエス様は宮きよめを行ったわけですが、結局、エルサレムはこの約40年後に、ローマ軍の攻撃によって再び滅んでしまいました。イエス様はこの40年後のエルサレムの滅亡のことも知っていて、この都のために泣いたことがルカの福音書には書かれています。

  結局、人は同じ過ちを何度も何度も繰り返すのですね。この過ちの繰り返しを断ち切るためにイエス様は十字架に付いて死にましたが、イエス様の十字架の死があってもなお、人々の不信仰は続きます。ロシアとウクライナの戦争でのロシアの残虐な行いにも、不信仰を感じざるを得ません。

 そして、そのような過ちの繰り返しは私自身の中にもあります。イエス様は、これまで何度も私の心の中にある余計な物を取り払って下さいましたが、しばらくすると私はまたここに余計な物を運び込みます。すると、イエス様はまた取り払って下さいますが、また持ち込むということを繰り返します。この過ちの繰り返しから抜け出すためには、やはりもっと永遠の御国にいるイエス様に心を寄せるべきであると思わされます。

 御国にはもはや夜はなく、昼と夜の繰り返しはありません。当然、不信仰が繰り返されることもなく、そこにいる者たちは皆、永遠にきよめられた者たちです。次の聖日は召天者記念礼拝です。私たちの信仰の先輩たちは、この永遠の御国の中にイエス様と共にいて、完全にきよめられています。この信仰の先輩たちのことを思い、素晴らしい御国に思いを寄せることができることを、心から感謝したいと思います。

 そうして、イエス様がこの私を、同じ過ちを繰り返す罪から救い出して下さるように、お祈りしたいと思います。
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