徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

In My Dream

2012-12-16 15:30:31 | 音楽芸能
 昨日は午後から、わらべの文乃ちゃんのご両親からご案内をいただいた「吟道 吟王流 創立40周年記念公演」なる催しを見に熊本市民会館へ家内と出かけた。渋い詩吟のオンパレードかと思いきや、歌謡曲のカラオケあり、日本舞踊あり、平成音大の金管アンサンブルあり、おまけに翌日に迫った総選挙候補者の最後のお願いありと、まさに“ごった煮”の様相。バラエティには富んでいて飽きずに観ることができた。ザ・わらべ&こわらべ の出演は「In My Dream」の1曲だけだったが、年配の出演者が多い中、とてもフレッシュ感があり、観客に大いに受けていた。文乃ちゃんはこの後、トリの「長唄 加藤清正公」でも太鼓方として出演し、ベテラン揃いの地方の中で一人気を吐いていた。
 その「長唄 加藤清正公」の立方の踊りが素晴らしく、あいにくプログラムを持っていなかったので誰だかわからず、後で文乃ちゃんのお母さんにたずねたところ「花柳琴臣」さんとわかった。その聞き覚えのある名前に記憶の糸を手繰り寄せていったら想い出した。NHK-Eテレの「にっぽんの芸能」で「新曲浦島」を踊った舞踊家だ。期待の若手だと紹介されていた。昨日踊りを観た瞬間、何かオーラのようなものを感じたが、結構自分も観る眼が養われてきたのかなとちょっぴり嬉しくなった。

※写真をクリックすると動画が別ウィンドウに開きます。

In My Dream(歌:大村唯維)


長唄 加藤清正公(ダイジェスト版)

京に歌舞妓のはじまりし・・・

2012-12-15 22:27:14 | 歴史
むかし/\京に歌舞妓のはじまりしは、出雲神子に、おくにといへるもの、五条のひがしの橋づめにて、やゝ子をどりといふ事をいたせり。其後北野の社の東に、舞台をこしらへ、念仏をどりに、哥をまじへ、ぬり笠にくれなゐのこしみのをまとひ、鳧鐘を首にかけて、笛・つゞみに拍子を合せて、をどりけり。其時は三味線はなかりき。かくて三十郎といへる狂げん師を夫にまうけ、伝介といふものをかたらひて、三条縄手の東のかた、祇園の町のうしろに舞台をたて、さま/"\に舞をどる三十郎が狂言、伝介が糸よりとて、 京中にこれにうかされて、見物するほどに、六条の傾城町より、佐渡嶋といふもの、四条川原に舞台をたて、けいせい数多出して、舞をどらせけり。

 これは江戸時代前期の万治年間(1658年~1660年)に、浄土真宗の僧侶で仮名草子作家でもあった浅井了意(あさいりょうい)という人が書いた「東海道名所記」の中に出てくる歌舞伎の草創期についての記述である。この頃は既に出雲阿国も初代中村勘三郎も世を去っていたと思われるが、阿国や勘三郎の生きた時代と大部分が重なる浅井了意が書き残した話だけに、とてもリアリティを感じさせ興味深い。

 


白菊 その無常感

2012-12-14 18:54:27 | 文芸
白菊の老いて赤らむわりなさよ (正岡子規)

 ひと月ほど前、旧友が何十年ぶりかで訪ねて来た。白菊の鉢植えを携えて。まだ花びらを開き始めたところだったが、その後暫くして満開となり、毎日、可憐なその姿で僕の眼を和ませてくれた。しかし、数日前から薄桃色がつき始め、日に日に濃さを増している。これはいわゆる老化現象だそうだ。白菊とはまた違った味わいがあるものの、ちょっと切ない無常感のようなものを感じてしまう。子規もおそらくそんな気持ちを詠んだのだろう。





けだし傑作! 映画「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」

2012-12-13 13:30:24 | 映画
 昨夜BSプレミアムで放送された伝説の名監督・山中貞雄の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」は噂に違わぬ傑作だ。28歳でこの世を去った山中貞雄の遺作「人情紙風船」は3年ほど前、やはりBS放送で観ることができたが、この「丹下左膳」はこれまでなかなか観るチャンスがなかった。大河内傳次郎演じる「丹下左膳」シリーズは何本か観ているのだが、この山中貞雄版「丹下左膳」は他の「丹下左膳」とはひと味違う。「人情紙風船」と同様、人情喜劇なのだ。今から77年も前の昭和10年にこんな洒落た映画を作った山中貞雄のセンスに脱帽だ。
 物語は、ある小藩に伝わるこけ猿の壺の中には先祖が残した埋蔵金百万両のありかが示されていた。そんな壺とも知らず、これをもらい受けた道場主である藩主の弟とその奥方、壺を取り戻そうとする藩主と家臣たち、父親を殺されて天涯孤独となった少年、その少年を引き取って育てることになった矢場の女将など様々な人物が丹下左膳とからむ人間ドラマが展開する。
 特に僕が好きなシーンをあげると、左膳から少年を引き取れと言われた矢場の女将が「あんな汚い子供なんか誰が引き取るもんか!」と吐き捨てながら、場面が切り替わると甲斐甲斐しく少年の世話をしていたり、少年が、他の子供たちのように竹馬に乗りたいというと「あんな危ないもの乗っちゃいけません!」と言いながら、場面が切り替わると竹馬に乗って遊ぶ少年の手助けをしている、等々の小さなオチの散りばめ方は秀逸だ。また、左膳お得意の大立ち回りは木刀での道場あらしの場面だけ。刀を抜くのも少年の父の仇を討つ一度だけで、扇情的な表現は極力避けているようだ。また、僕が嬉しかったのは矢場の女将を演じているのが芸者歌手として一世を風靡した新橋喜代三というキャスト。お得意の唄と三味線も披露してくれるが、僕は喜代三の動いている映像を見るのは初めてでちょっと感動。この音楽の使い方も美空ひばり時代劇が登場する20年も前に既にやっているわけでこれも凄いなと思う。
▼主な出演者
大河内傳次郎:丹下左膳
喜代三:矢場の女将お藤
沢村国太郎:道場主・柳生源三郎
花井蘭子:道場主の奥方萩野


昭和史の語り部 ~ 小沢昭一さん ~

2012-12-12 18:54:19 | テレビ
 12月10日に亡くなった小沢昭一さんをしのんで、今日、BSプレミアムでは5年前に放送された「100年インタビュー『小沢昭一』」が再放送された。俳優で昭和風俗研究家でもあった小沢昭一さんは、長きにわたり、舞台・ラジオ・テレビ・映画などで幅広く活躍。随筆や芸能研究の著作でも知られている。
 昭和4年東京に生まれ、幼い頃、父が開いていた蒲田の写真館での日々が今日の小沢さんの原点だという。また、「少年時代が黄金時代」だったともいう。それは、けっして生活は豊かではなかったけれど、文化や自然や人々の暮らしがほどよく調和がとれていた時代だったということらしい。以降、今日までの激動の人生を、独特の社会観や人生観を交えながら饒舌に語る姿を見ていると、まさに昭和文化史、昭和風俗史の語り部といった様子で、あらためて文化財的な小沢さんを失った損失の大きさを思い知る。最後に語った自らの体験を踏まえた反戦のメッセージは心にしみた。
 小沢さんが出演した映画は200本にのぼるそうで、僕もかなりの本数を見ているが、なかでも想い出深い「幕末太陽伝(1957)」や「男はつらいよ 寅次郎紙風船 (1981)」などのDVDを近いうち借りて、在りし日の姿を偲びたいと思う。合掌

紅葉見物にかこつけて・・・

2012-12-09 20:20:42 | 歴史
 右の絵は歌川豊国(三代)と歌川広重(二代)の双筆による「江戸自慢三十六興 海晏寺紅葉」。
 江戸っ子の秋の最大の楽しみは紅葉狩り。なかでも品川の海晏寺(かいあんじ)は江戸随一の紅葉の名所として人気があった。品川にはこの海晏寺の近くに品川遊郭があり、紅葉狩りを口実にやって来るものの、紅葉には目もくれず遊郭へ遊びに行く輩も多かったという。いつの時代も男って奴はまったく。
 この品川遊郭でとても人気のあった妓芸の一つが「品川甚句」。意味不明の歌詞とここちよいアップテンポのリズムが特徴的。「二上り甚句」と呼ばれる唄と同一のものらしいが、おそらく妓楼ごとに少しずつ異なる発展をしたものだろう。
品川甚句
小窓あくれば 品川沖よ
鴨八百羽 小鴨が八百羽
入船八百艘 荷船が八百艘
帆柱八百本 あるよ あるよ
朝来て昼来て晩に来て
来てこんとは いつわりな
来たしょうこにゃ 目が一寸だれちょる
酒飲んだ だれよとだれとが
違がちょる ハッハッ違ちょる違ちょる
切株 土手背負って
恋ちょろ ちょろね
船は出て行く煙は残る
残る煙が アイタタタタ
しゃくのたね

(参考)海晏寺には熊本藩の横井小楠を政治顧問として招いた越前福井藩主・松平春嶽のお墓がある。


勘三郎さんの映画「やじきた道中 てれすこ」

2012-12-08 19:55:37 | 映画
 12月10日(月)にBSプレミアムで中村勘三郎さんをしのんで映画「やじきた道中 てれすこ(2007)」が放送されることになった。この映画は勘三郎さんが出演した映画の中でも僕が一番好きな映画で、訃報を聞いた時からもう一度観たいなぁと思っていたのでとても嬉しい。実はこの映画が公開されたちょうど一年後、僕はこの映画の監督を務めた平山秀幸監督の次の作品「信さん」の万田坑ロケに参加した。そして偶然、スタッフが次のシーンの準備のためいなくなった時、平山監督と僕と二人だけの待時間が10分くらいあった。その時、僕は絶好のチャンスとばかり、すでに見ていた「てれすこ」について話しかけた。何を話したのか細かいことは憶えていないが、とにかく褒めまくったことは憶えている。監督はとても嬉しそうだった。そんな想い出もあるこの「やじきた道中 てれすこ」。何としても見逃すわけにはいかない。
 なお、「てれすこ」というのは落語の演目の一つで、この映画にはほかにも落語ネタが散りばめられている。
▼出演
中村勘三郎、柄本明、小泉今日子、ラサール石井、笑福亭松之助、淡路恵子、間寛平、松重豊、山本浩司、吉川晃司、鈴木蘭々、星野亜希、藤山直美、國村隼、笹野高史


≪あらすじ≫
 時は太平。大阪で“てれすこ”と呼ばれる不思議な生物が捕獲され、人々の話題を集めていた頃。江戸は品川の遊郭「島崎」では売れっ子花魁・お喜乃(小泉今日子)が、自分に思いを寄せる新粉細工職人・弥次さん(中村勘三郎)に本物そっくりの指を新粉で作らせ、これをお客に「想いの深さを示す切り指」だと偽って渡し、金をせしめていた。
 一方売れない歌舞伎役者の喜多さん(柄本明)は、ようやく「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官という立ち役に抜擢され大張り切り。ところが一番の見せ場「松の廊下」で高師直を刺し殺すという大失態を演じてしまい、落胆のあまり首をくくろうと松の枝に縄をかける。
 その頃、遊郭ではお喜乃が弥次さんに“沼津で病に臥せているお父っつぁんに一目会いたいから、一緒に逃げてくれ”と涙ながらに頼んでいた。弥次さんは惚れているお喜乃の頼みとあって二つ返事で聞き入れるが、丁度部屋の外では喜多さんが首を吊っている真っ最中。思わぬ形で再会した幼馴染の弥次さん喜多さん。弥次さんと再会し、思い直した喜多さんは上方でもう一度芸の勉強をしたいと、お喜乃と弥次さんの沼津行きに同行することに。そして二人で知恵を絞ってお喜乃を遊郭から足抜けさせることに成功する。こうして三人の珍道中が始まるが・・・。
▼登場する落語ネタ
 てれすこ、お茶汲み、浮世床、淀五郎、狸賽、野晒しetc.

たかが 子ども芸 されど・・・

2012-12-07 15:40:58 | 音楽芸能
 今年も“わらべ”押しの一年が過ぎようとしている。このブログに今年は既に350本を超える記事を投稿したが、そのうち“わらべ”に関する記事が77本を数える。
 それはさておき、中村花誠さん率いる「少女舞踊団ザ・わらべ&子供舞踊団こわらべ」については、必ずしも好意的な話ばかりが聞こえてくるわけではない。メディアに取り上げられたり、華やかな大舞台に起用されたりすることに対する妬みみたいなものがあってもけっして不思議ではないし、彼女らが出演する場が不適切だと教育的な面から意見を言う人もいる。また、日本舞踊に関わっている人たちの中には明らかに「たかが子どもの芸」と冷ややかに見下している向きもある。
 しかしよく考えてみると、今から400年以上も前、今日の歌舞伎や日本舞踊の源流となったのは「ややこ踊り」と呼ばれた稚児たちの踊りだったのである。幼い子どもたちの純粋な表現力に、当時の民衆は新しい文化の息吹を感じとり、熱狂したのである。「たかが子ども芸 されど子ども芸」なのだ。


勘三郎は言う 「歌舞伎って・・・」

2012-12-06 19:36:44 | 音楽芸能
 テレビ各局の朝のニュースワイド番組では軒並み、昨日亡くなった十八代目中村勘三郎さんを惜しむ内容に多くの時間を費やしていた。その中に勘三郎さんが生前受けたインタビューで、とても興味深いものがあった。それは「コクーン歌舞伎」などの斬新な取り組みに関する質問に対する彼の答えだった。

 「もし、江戸時代にギターやヒップホップがあったら、間違いなく歌舞伎に取り入れているよ。歌舞伎ってそういうものなんだよ」

 この勘三郎さんの弁を聴きながら、僕はこのブログに9月6日に投稿した記事のことを思い出した。それは、大正11年に出版された「江戸時代創始期」(西村真次著)という古書に書かれていた「歌舞伎踊りの発生」という記述のことだった。これによれば今日の歌舞伎の原点である出雲阿国が始めたと伝えられる歌舞伎踊りに、既に欧羅巴(ヨーロッパ)の影響が見られるという極めて興味深い記述がある。その内容を要約すると

――歌舞伎踊りの内容をなした歌詞は、早歌を少しもじったようなものであったろう。「歌舞伎草紙絵巻」には、「かねきき」、「して」、「いなばをどり」、「忍びをどり」、「ふじのをどり」などと題する歌詞が出ている。それらは謡曲に比べれば人間味の強い、現代式の、血と肉とに触れたエロチックなものであった。歌謡の形式は大分外国のものを取り入れ、囃子などはそのまま用いていたらしく、振りもまたヨーロッパの様式をいくらか取り入れたと思わせる史料が少なくない。彼女(出雲阿国)の首からかけていた水晶の数珠にすら、十字型の物がぶら下がっていて、それを輸入品――コンタツと見ることができるのであった。ポルトガルなどの人が喜んでこれを見物したというのを見ても、そこには何らかの共鳴を彼らに与えるものがあったと思われる。

 つまり歌舞伎というのは、「傾き(かぶき)踊り」と呼ばれ、初代中村(猿若)勘三郎が活躍していた草創期から、新しいものを積極的に取り入れる体質があり、そのDNAは今なお受け継がれているということなのだろう。

※早歌:神楽歌の一種
※コンタツ:ポルトガル語のcontas、キリシタンが用いる数珠、ロザリオ、コンタス


首にロザリオをかけて踊るザ・わらべ

中村勘三郎さん逝く

2012-12-05 15:51:04 | 音楽芸能
 今朝目を覚ますと同時につけたテレビから最初に飛び込んできたニュースが中村勘三郎さんの訃報。思わず「ウソだろ!」と口走っていた。快復に向っていると信じていただけにショックは大きい。
 思えば勘三郎さんほど、子役時代から大役者となる今日まで見続けてきた歌舞伎役者はほかにいない。生の舞台こそ一度しか観たことはないが、訃報を聴きながら、これまで見た数々の映画やドラマが思い出された。なかでもなぜか、勘三郎さんが勘九郎時代のまだ二十歳の頃、渥美清さんと共演した映画「友情(1975)」のことを想い出していた。おそらく今頃、渥美さんから「お前、来るのが早え~よ!」とどやされているに違いない。
 また、中村家は能楽の金春流肥後中村家とも遠縁にあたり、熊本にもゆかりがある。心からご冥福を祈ります。合掌。



金春流肥後中村家オフィシャルページ
中村勘三郎と金春流肥後中村家

▼中村勘三郎・勘九郎・七之助による「連獅子」

年賀状に句読点は?

2012-12-04 16:53:25 | ビジネス
 年賀状作成の季節となって、賀状や喪中通知の作成依頼が舞い込み始めた。縦書き文書の場合、「句読点」は付けるのだろうかというご質問を受けることがある。これまで自分が縦書きの年賀状などを出す時もあまり気にせず、年賀の挨拶の部分だけは句読点を付けず、近況などの添文的な部分は普通に句読点を付けていた。先日、喪中の年賀欠礼通知の依頼者の方が、あまりにも真剣に悩んでおられたのであらためて調べてみた。するとやはり、もともとは縦書き文書というのは日本古来の書式にのっとったものであり、句読点を付けるのは相手に対して失礼にあたるということらしい。つまり、句読点を付けてあげなければ読めないと見下していると解釈されるそうだ。そう言えば昔の偉い人の自筆文書を見ると、どこで区切るんだかわからない文書がほとんどだ。しかし、実際にそれに忠実に文書を作成してみたら、まぁ読みづらいこと。結局、句読点を入れたくなる箇所に半角のスペースを入れることで妥協した。この時代、あんまり気にすることもないのかもしれないが、先人の作法を頑なに守るということもたまにはあっていいのかもしれない。

※右は坂本龍馬が姉の乙女へ出した手紙

高瀬の外港として栄えた大浜町

2012-12-03 19:06:38 | 歴史
 今朝、玉名市大浜町で理容業を営む叔父の一家が、今日は休業日というわけで熊本での所用のついでに立ち寄って、新海苔や海苔の佃煮、海苔巻きなどを届けてくれた。ありがたいことだ。母が生まれた大浜町は、以前、「海苔養殖の父」と呼ばれている早野義章(はやのぎしょう)についてブログに書いたことがあるが、「海苔のふるさと」だ。かつて人手があった頃は母の家でも海苔の養殖をやっていた。
 また、大浜町は江戸時代から明治初期の頃まで「高瀬米」の積出し港として栄えた。江戸前期までは高瀬まで上っていた五百石船も、菊池川の堆積などのため上れなくなり、江戸中期以降になると御倉の米を3キロ下流の大浜まで平田船で運び、大浜で五百石船に積み替えて大坂の堂島を目指したそうである。大浜には今でも往時の廻船問屋の名残りが残っている。下の民謡「肥後の俵積出し唄」に歌われている沖の帆前船に積む光景も、後期にはもっぱら大浜で見られる光景だったのである。


多くの帆前船や平田船などが行き交う大浜港の様子


現在の菊池川・大浜側河岸。加藤清正公の治水事業遺構が今でも残る


昭和初期と思われる大浜の岸壁


♪ 肥後の俵積出し唄
▼写真をクリックすると動画が再生されます。

♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 御倉の米を
  黒船帆まえで 沖で積む
    サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
    ア サテ サイジョドンドーン 

♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 氏神さんは
  積み出す お米の守り神 
    サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
    ア サテ サイジョドンドーン 
   
♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 娘がほしや
  俵積み出す 若い衆が
    サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
    ア サテ サイジョドンドーン 

♪ 長崎ぶらぶら節

2012-12-02 20:08:08 | 音楽芸能
 本條秀美さんのブログに「長崎いろは会舞踊公演」の話が載っていた。長崎にはもう20年くらい行っていないし、僕も見に行きたかったのだが、長崎まで行くとなるとどうしても車ということになる。最近、トシのせいか長距離運転がツラくなってきた。で結局、今回もチャンスを逃してしまった。

 ♪ 遊びに行くなら 花月か中の茶屋

 本條さんのブログに、おなじみ「長崎ぶらぶら節」の一節が書いてあった。長崎の街中の様子や吉永小百合さん主演の映画のことを思い出した。いつかまた長崎に本場のちゃんぽんを食べに行きたいものだ。三浦布美子さん&本條秀太郎さんの「長崎ぶらぶら節」の映像で気分だけ味わった。

本條秀美オフィシャルブログ


やまが“湯らっとウォーク”に参加!

2012-12-01 18:15:15 | 熊本
 小春日和の一日、山鹿の「さくら湯」開湯記念イベントとして行われた“湯らっとウォーク”に参加した。先日、姉から参加を誘われていたもので、家内とともに4kmの「街道散策コース」に参加した。山鹿は日頃からよく訪れるのだが、山鹿の街の中を歩くのはおそらく40数年前に仕事で歩いて以来か。車で通る時にはなかなか目につかない所が今日はよく見えて、とても新鮮だった。ゴールした後にふるまわれただご汁をご馳走になった後、さくら湯にゆっくりつかって疲れをいやした。


スタート/ゴールはさくら湯


山鹿灯籠まつりで有名な大宮神社


菊池川河畔を歩く


下町惣門地区から豊前街道の古い街並みを歩く


山鹿温泉の原点、金剛乗寺


山鹿温泉の源泉に触れる


八千代座で吉崎真美さんに会う