今日は散歩を兼ねて久しぶりに上通の熊本市現代美術館へ。美術図書が並べられたギャラリーを見て回っていると、とある本棚の隅に、まるで僕を誘うかのように置かれた図書が目についた。手に取って室内のテーブルにつき表紙を確かめてみた。「甲斐荘楠音の全貌」とあった。名前はどこかで聞いたことがあるような気がした。表紙を開け、ページをめくっていくと、主に女性を描いた日本画集のようだ。しかし、上村松園とも鏑木清方とも明らかに違う画風である。女性をただ美しく描こうとしているのではない。女の情念をおどろおどろしく描いているように見えた。その画風に引き込まれ、つい時間の経つのも忘れて見入っていたが、キリがないのであらためてもう一度見に来ようと思い美術館をあとにした。
※甲斐荘楠音(かいのしょう ただおと)

帰り道はいつものとおり「夏目漱石内坪井旧居」の前を通る。せっかくなので庭を一回りして帰ろうと裏口から入った。縁側前の百日紅の花が綺麗だったので写真を撮っておこうとコンデジを構えると、縁の下に二匹の野良猫がいることに気付いた。猫たちは慌ててどっかへ消えたが、ふと「吾輩は猫である」を思い出した。漱石の小説は東京の千駄木に住んでいた頃の設定のようだが、ひょっとしたらここ内坪井に住んでいた頃も小説と同じような光景が見られたのかもしれないなと思った。

新坂を登り始めると、山側の法面にくずの花が咲いていた。辺りに甘ったるい香りを漂わせている。近年はこの一帯のくずの繁茂が凄まじい。日頃、外来植物が在来植物を駆逐するのではと心配しているが、日本からアメリカに渡ったくずが繁茂し、アメリカでも困っているそうな。
※甲斐荘楠音(かいのしょう ただおと)

帰り道はいつものとおり「夏目漱石内坪井旧居」の前を通る。せっかくなので庭を一回りして帰ろうと裏口から入った。縁側前の百日紅の花が綺麗だったので写真を撮っておこうとコンデジを構えると、縁の下に二匹の野良猫がいることに気付いた。猫たちは慌ててどっかへ消えたが、ふと「吾輩は猫である」を思い出した。漱石の小説は東京の千駄木に住んでいた頃の設定のようだが、ひょっとしたらここ内坪井に住んでいた頃も小説と同じような光景が見られたのかもしれないなと思った。

新坂を登り始めると、山側の法面にくずの花が咲いていた。辺りに甘ったるい香りを漂わせている。近年はこの一帯のくずの繁茂が凄まじい。日頃、外来植物が在来植物を駆逐するのではと心配しているが、日本からアメリカに渡ったくずが繁茂し、アメリカでも困っているそうな。

確かに!
「岸田劉生には『デロリとした絵』と評された。それまでの日本画とは異なる暗い色調でグロテスクであり、ややもすればリアルを通り越してモデルの欠点を強調する傾向は、確かに人によって好き嫌いの分かれる画風である。大正時代末期の暗い風潮を象徴するデカダンス画家の代表であろう。」・・・ウイキペデイアにこんな一節がありました。
載せてある本の表紙は、けっこう魅力的ですが、「甲斐荘楠音」で画像検索すると、特殊な絵の世界に感じられます。
>コンデジを構えると、縁の下に二匹の野良猫がいることに気付いた。猫たちは慌ててどっかへ消えたが、・・・
あらあら、それは残念でしたね。
「吾輩は猫である」はどこで書いたんでしたっけ?
>日本からアメリカに渡ったくずが繁茂し、アメリカでも困っているそうな。
はっはっは、そのようなこともあるんですね!
読書の秋、芸術の秋という言葉を思い出しました。
有難うございました。
「吾輩は猫である」は千駄木の邸が舞台と言われていますが、内坪井邸も含め、それまで住んだいくつかの邸の思い出が合成されているような気がします。
くずはやはり生物多様性を破壊するのではと懸念されているようですね。