その場所は七城町の砂田という地区の、のどかな田園風景の中にあった。若宮神社という小さな神社の境内の一角に記念碑がひっそりと佇んでいた。先日の「仁 -JIN-」新シリーズに西郷隆盛が出てきたので急に思い出した。ちょうど今日、合志へ行く用事があったのでついでに七城町まで足を延ばしてみた。
維新三傑とか維新十傑とか言うが、僕はやっぱり明治維新の最大の功労者は西郷隆盛だと思う。西南戦争の指導者として悲運の最期を遂げるが、歴史はけっして彼を悲運の人とはしていない。
ちなみに九州新幹線鹿児島ルート全線開通のカウントダウンボードに「西郷どーん」が使われた際、熊本県民から反発があった騒動について、ウィキペディアの「西郷隆盛」のページに次のような記述がある。
鹿児島県では絶大な人気を持つ一方で、西南戦争で市街地が灰燼と帰した熊本県では、現在でも西郷は「侵略者」として扱われている。2010年に九州新幹線鹿児島ルート全線開通に向けてマスコットキャラクター「西郷どーん」が披露された際も、熊本県と熊本市からの抗議で熊本駅のカウントダウンボードのみ、西郷どーんではなく熊本県のキャラクター「クマもん」が描かれたバージョンに変更された。
誰がどういう根拠で書いているのか知らないが驚いた。西郷さんをいまだに「侵略者」と思っている熊本県人がいたらお目にかかりたいものだ。あれはあくまでも「熊本駅」にふさわしいキャラクターは他にあるでしょう、という話だ。西南戦争で市街地が灰燼と帰した話だって、今日では官軍側の焦土作戦説が有力になっている。あの記事を読んで心よく思わない熊本県人も多いはずだ。あまりいい加減なことは書かないでほしいものだ。

若宮神社鳥居

小ぢんまりとしたお社の天井や壁には沢山の絵馬が飾られている

案内板には下記のように記されていた。
ここの集落は西郷といい、明治維新で活躍し西南の役薩軍の将西郷隆盛(1827~1877年)の祖先発祥の地です。
また、この一帯は菊池十八外城の一つ増永城跡で、初代の城主西郷太郎政隆は菊池氏初代則隆の子で菊池一族でした。その後裔26代西郷九兵衛昌隆の時、薩摩に移り住んだという記録があり、初代西郷太郎政隆から32代目が西郷隆盛(生涯のうち3年余、鹿児島県大島郡龍郷町に居住。この時「菊池源吾」と名乗る。)です。
境内の記念碑「西郷南洲先生祖先発祥の地」は徳富蘇峰筆。熊本三洲会・旧加茂川村有志により昭和27年10月の建立です。

記念碑「西郷南洲先生祖先発祥の地」(徳富蘇峰筆)
維新三傑とか維新十傑とか言うが、僕はやっぱり明治維新の最大の功労者は西郷隆盛だと思う。西南戦争の指導者として悲運の最期を遂げるが、歴史はけっして彼を悲運の人とはしていない。
ちなみに九州新幹線鹿児島ルート全線開通のカウントダウンボードに「西郷どーん」が使われた際、熊本県民から反発があった騒動について、ウィキペディアの「西郷隆盛」のページに次のような記述がある。
鹿児島県では絶大な人気を持つ一方で、西南戦争で市街地が灰燼と帰した熊本県では、現在でも西郷は「侵略者」として扱われている。2010年に九州新幹線鹿児島ルート全線開通に向けてマスコットキャラクター「西郷どーん」が披露された際も、熊本県と熊本市からの抗議で熊本駅のカウントダウンボードのみ、西郷どーんではなく熊本県のキャラクター「クマもん」が描かれたバージョンに変更された。
誰がどういう根拠で書いているのか知らないが驚いた。西郷さんをいまだに「侵略者」と思っている熊本県人がいたらお目にかかりたいものだ。あれはあくまでも「熊本駅」にふさわしいキャラクターは他にあるでしょう、という話だ。西南戦争で市街地が灰燼と帰した話だって、今日では官軍側の焦土作戦説が有力になっている。あの記事を読んで心よく思わない熊本県人も多いはずだ。あまりいい加減なことは書かないでほしいものだ。

若宮神社鳥居

小ぢんまりとしたお社の天井や壁には沢山の絵馬が飾られている

案内板には下記のように記されていた。
ここの集落は西郷といい、明治維新で活躍し西南の役薩軍の将西郷隆盛(1827~1877年)の祖先発祥の地です。
また、この一帯は菊池十八外城の一つ増永城跡で、初代の城主西郷太郎政隆は菊池氏初代則隆の子で菊池一族でした。その後裔26代西郷九兵衛昌隆の時、薩摩に移り住んだという記録があり、初代西郷太郎政隆から32代目が西郷隆盛(生涯のうち3年余、鹿児島県大島郡龍郷町に居住。この時「菊池源吾」と名乗る。)です。
境内の記念碑「西郷南洲先生祖先発祥の地」は徳富蘇峰筆。熊本三洲会・旧加茂川村有志により昭和27年10月の建立です。

記念碑「西郷南洲先生祖先発祥の地」(徳富蘇峰筆)