徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

清正公(セイショコ)さんと木遣

2024-04-29 20:19:03 | 歴史
 昨日、加藤神社で行われた「清正公まつり」で「木遣」と「梯子乗り」が奉納された。このまつりで「木遣」を見たのは初めてだったので「オヤ?」と思ったのだが、考えてみれば清正公と「木遣」は縁が深い。なるほどなと思った。

 慶長15年(1610)、徳川家康による名古屋城の天下普請の際、加藤清正は最も難工事といわれた本丸の石垣工事を担当した。この名古屋城築城時の清正公の働きぶりについては江戸時代に書かれた古文書「続撰清正記」に詳しい。これを「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年)では次のように解説されている。

 この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵衛をして朝鮮陣の当時に習得したという築造法の手腕を振わしめ、その成績は人目を驚かした。そうして巨大な角石などを運搬する時には、ことさらに華々しい装いをして人目をそばだたしめた。まずその大石を赤い毛氈で包み、大きな青色の綱でからげて、その上に突っ立ち上って大音声で、木遣り音頭などを唄われる。5、6千人の老若男女、いずれも華美な衣装に身を飾って、唄に合わせて綱を引く。酒は飲み次第、行商や露店の飲食物を値段かまわず買い上げて、食い放題飲み放題というので、後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、手拍子合わせて浮かれながら、えいやら声でみるみるうちに、大石を名古屋に運び着けるという賑わい。こうしてさすがの大工事も同年3月から8月までの間に無事竣成して、9月清正は熊本へ帰国せられたのである。
  「音に聞えし名古屋の城を踏みや馴らいた肥後の衆が
   及びなけれど万松寺の花を折りて一枝ほしうござる」
これは当時、名古屋市中で謡われた小唄である。万松寺というのは清正の本陣で、その寺の庭に大木の桜があったのを、美しい肥後武士によそえて謡った肥後衆賛美のものであるという。

 その時唄われた木遣唄は、伊勢神宮の御神木を曳くときに唄われるようになり、それをもとに伊勢音頭へと発展し、全国に広まったのである。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」 という歌詞はそんな故事にならったものかもしれない。
 なお、名古屋城には「清正公石曳きの像」(上の写真)が建てられている。

続撰清正記「尾州名護屋普請の時、大石引く事」


尾張名所図会「加藤清正石引の図」


清正公石引の木遣唄をもとにした「伊勢音頭」


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2 コメント

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ありがとう。 (種吉)
2024-04-30 18:39:58
こんばんは、先ほどはコメントありがとうございました。孔子様の言葉だったでしょうか。我が国の少年少女がもっと古典にしたしむ機会があればと思っています。足利市の最古の学問所では論語の素読を行っています。韓ドラが好きで良く観ていますが、ずいぶんと儒教が人々にいきわたっているようで、うらやましくなります。
Re:種吉様 (FUSA)
2024-04-30 21:22:11
今の教育は少年少女が古典を勉強するような環境にはありませんのでね。とりあえず目先のなまはんかな知識を詰め込むだけのように見えます。

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