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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

アリの時代

2021-12-13 22:01:59 | 歴史
 熊日新聞の日曜版では、五木寛之さんによるエッセー「新・地図のない旅」が連載されている。先週の回では、五木さんが若い頃、来日したモハメド・アリと対談した思い出を語っておられた。当時、「ホラ吹クレイ」などと巷間伝えられるアリとはずいぶん異なる誠実な人柄を感じられたようだ。このエッセーを読みながら、57年前の学生時代を懐かしく思い出した。

 僕が初めてヘビー級ボクシング・タイトルマッチのテレビ中継を見たのは、大学に入った1964年2月のことだった。カードは最強のチャンピオン、ソニー・リストンに若手のカシアス・クレイ(モハメド・アリ)が挑戦するという注目の一戦。その前年11月にケネディ大統領暗殺が、初めての衛星放送で伝えられて間もない頃だったが、この日のタイトルマッチが初めて見たスポーツの衛星放送だった。この年は東京オリンピックの年で、大学の運動部も始動が早く、僕も高校の卒業式を待たず、2月には大学水泳部の寮に入っていた。寮の食堂にあった白黒テレビに鈴なりになって見たが、試合は凡戦。クレイのスウェーバックで相手のパンチをよける俊敏さと柔らかさだけが目立つ試合だった。おまけにリストンが6R終了後に不可解な試合放棄で欲求不満が残った。
 翌年のリターンマッチは、クレイが2RでリストンをKOし、実力を証明するのだが、この後、彼はリング外の黒人差別問題やベトナム反戦運動の中に巻き込まれていく。「カシアス・クレイ」は奴隷の名前だとして、イスラム教徒としての名前「モハメド・アリ」を名乗るようになる。WBCのチャンピオンとなってから3年後の1967年2月、WBAの王者だったアーニー・テレルと世界統一戦が行われる。この試合も寮のテレビで衛星放送を見た。試合前からテレルはアリのことをわざと「カシアス・クレイ」と呼び、怒ったアリは試合中、テレルをパンチで痛めつけながら「What's My Name?」と連呼し続けた。アリは統一王座に就いたものの、ベトナム戦争への徴兵を忌避し有罪となった。彼が言った「ベトコンは俺をニガーとさげすんだことはない。戦う理由がない。」という言葉がメディアで伝えられた。最初は「徴兵忌避した非国民」として見ていたアメリカ国民も、ベトナム反戦運動の高まりに伴い、見る目が変わっていく。しかし、選手としてピークを迎えるべき25~27歳の時期にボクサーの資格をはく奪され、1970年にやっと復帰が許されたものの、かつてのスピードには陰りが見えた。以降、勝ったり負けたりを繰り返していたが、1974年10月、ジョージ・フォアマンに逆転のKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座へ復帰、「キンシャサの奇跡」と呼ばれた。その後、王座を10度防衛、1981年に引退する頃にはすっかりアメリカン・スポーツのレジェンドとなっていた。



     ▼1967年にヒットした「Ain't No Mountain High Enough」(マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル)