徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

新橋喜代三とおはら節

2020-10-25 18:13:27 | 音楽芸能
 昭和13年、日中戦争のさなか、28歳の若さで戦病死した伝説の映画監督山中貞雄の名作「丹下左膳余話 百万両の壺」の4Kデジタル復元版が公開されるという。
 この映画の楽しみの一つは、矢場の女お藤に扮する芸者歌手・新橋喜代三の唄と三味線。新橋喜代三と言えば「おはら節」。「おはら節」が全国的に知られたのは昭和9年、鹿児島種子島出身の新橋喜代三の唄で制作された「鹿児島小原良節」のレコードが世に出てからである。今日では「おはら節」と呼ばれるが、その由来は諸説ある。関ヶ原前夜の慶長4年(1599)、島津氏領の日向安久(やっさ:現在の宮崎県都城市安久町)の侍が琉球に攻め入った時、陣中で唄い始めた「ヤッサ節」が、鹿児島の伊敷原良(いしきはらら)に伝わって「原良節」になり、さらに、上に小の字を加えて「小原良節」になったとの説が有力。さらに「小原」に簡略化され今日に至ったというわけだ。
 また、レコードが世に出る4年前、開局間もない九州初の放送局、熊本放送局(今のNHK熊本放送局)が特別番組で九州各県の民謡が紹介された時に喜代三も出演、「小原良節」「はんや節」「よさこい」「三下り」「げんや節」などの鹿児島民謡を全国に紹介している。
 彼女に一目惚れした作曲家の中山晋平(後に結婚)らの力もあって、一躍大スターとなった喜代三は、昭和10年、山中貞雄監督の「丹下左膳余話 百万両の壺」に出演した。


丹下左膳役の大河内傳次郎と新橋喜代三


新橋喜代三の唄う「鹿児島小原良節」


ザ・わらべが踊る「鹿児島おはら節」