徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

懐かしの南阿蘇

2020-10-16 23:19:27 | 熊本
 熊本地震本震から今日で4年半。甚大な被害を被った南阿蘇村の復興はどんな状況なのだろう。今から50年以上前、僕が社会人としての第一歩を踏み出した懐かしい地域。それだけに思い入れが強い。トラックディーラーに就職した僕が最初に担当したテリトリーが南阿蘇村(当時は長陽村、白水村、久木野村に分かれていた)だった。熊本地震で崩落した阿蘇大橋もまだ架かっておらず、立野から谷へ下って戸下温泉を通り、戸下の七曲がりを登って行ったものだ。高森へと続く道はまだ舗装もされていなかった。僕がこの地域を担当したのは1年数ヶ月という短い期間だったが、多くの人々との出会いもあり、濃密な思い出が詰まっている。
 中松駅の近くで建設業を営んでいた古いユーザーのオヤジは有名な頑固者で、初対面の時から挨拶をしても会釈も返さず、度々訪問したが、ほとんど会話らしい会話はなかった。僕が担当地域が替わり、挨拶に行った時、このオヤジがひと言「ご苦労だったな」と言った。涙が出るほど嬉しかった。
 トラックを新規購入して運送業を始めた若者は、最初は羽振りがよかったが、数ヶ月経つと手形が不渡りとなり、どこかに姿をくらました。債権回収のために度々家を訪れたが、いつも若い奥さんが留守を守っていた。会社の管理部門も業を煮やして、奥さんから直接説明を聞くため連れて来いと指示を受けた。奥さんは快く承諾して僕の車で連れて行くことになった。ところが車が走り出してしばらくすると、奥さんの具合が悪そうに見えた。ひょっとしてと思い、「妊娠されているのでは?」と聞くと小さく頷いた。僕はあわててUターンし連れ戻った。
 当時の南阿蘇はまだ自家用車はそれほど普及していなかった。小中学生は遠い距離を徒歩で通学していたが、道路が乾くと通る車が土埃がもうもうと上げるし、雨が降ればぬかるんだ道を歩かなければならないので難儀だったに違いない。当時の小中学生の間で流行っていたのが、通りかかった車に手をあげて乗せてもらう、つまり一種のヒッチハイクだった。僕も何度も彼らを乗せて運んだ。今なら絶対ありえない光景だ。
 その他にも忘れられない思い出がいろいろあったが、南阿蘇村がテレビのニュースに出る度に、あの遠い昔のことが懐かしく思い出されてならない。


(写真:キロクマさんより)


▼南阿蘇村の風景が出てくるCM