徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「山名屋浦里」 の原点

2016-07-19 20:00:59 | 音楽芸能
 20数年前に住んでいた彦根の高宮はかつて中山道の高宮宿として栄えた町。そこから6kmほど中山道を北上した辺りに鳥居本宿があった古い街並みがある。街道沿いには今でも僕の知人が住んでいるが、この鳥居本の一角に上品寺(じょうぼんじ)という古刹がある。このお寺は歌舞伎で有名な法界坊(十八代目中村勘三郎を今でも思い出す)のモデルとなった法界坊了海ゆかりの寺である。了海は江戸吉原で寄進を受けて梵鐘を鋳造したことで知られる。この寄進に最も協力したのが、吉原随一の花魁花扇だと伝えられる。明治22年に出版された「法界坊実説鐘建立」(柾木素堂著)には、その花扇の人となりについて次のような記述がある。

――当時新吉原の某楼に花扇という娼妓ありけるが、容貌最も麗しくその性信ありて情ふかく、愛敬ある質にて召し使う雛妓は更なり。若者内芸者幇間出入茶屋の小厠にまで懇ろに附合いて心くばりの行届かぬ所なければ知るも知らぬも花扇の事を賞めざるはなく・・・――

 その美しさはもちろんのこと、どんな人にもわけへだてなく接し、細やかな心づかいをする素晴らしい人間性の持ち主だったようである。
 先般、歌舞伎化されることが発表されて話題となった「廓話山名屋浦里」(さとのうわさやまなやうらざと)は、笑福亭鶴瓶の新作落語「山名屋浦里」がもとになっているが、その原型となったのはタモリブラタモリのロケの時に仕入れてきた話。それは、花魁花扇の実話だという。その人となりを知れば、「山名屋浦里」の物語になったような花扇にまつわる伝説はいくつもあったのかもしれないと思ってしまう。


歌川広重が描く鳥居本の摺針峠(左にあるのは望湖堂)


歌麿が描いた扇屋の花扇