平成10年に始まった熊本城復元整備計画を今一度見直してみた。
第2期の7番目「馬具櫓および続塀」まで進んでいたわけだ。その「馬具櫓および続塀」も今回の地震で壊れてしまった。
もし、熊本地震がなかったら、何年後かには、棒庵坂下のKKRホテルあたりからこんな風景が見えていたはずだ。いつの日か復元されるかもしれないが、僕がそれを見ることができないことはたしかだ(泣)
明治5年の明治天皇巡幸に随行した写真師、内田九一が撮影した写真。
大小天守をはさんで、左側に御裏五階櫓、右側に櫨方三階櫓が見える。
地震前の棒庵坂下からの風景。右の石垣の上に櫨方三階櫓があった。今の加藤神社の裏にあたる。
現在、加藤神社がある一角には、肥後熊本藩六代藩主・細川重賢公の時代に行われた「宝暦の改革」において殖産興業政策の柱の一つとして推進された櫨栽培と製蝋事業を管理する櫨方会所(藩の専売品である蝋を取扱う部署)が置かれていた。
現在、竹の丸の入口となっている櫨方門は、移築されたもの。
菊池川に沿って並ぶハゼの木はかつての櫨栽培の名残り。
第2期の7番目「馬具櫓および続塀」まで進んでいたわけだ。その「馬具櫓および続塀」も今回の地震で壊れてしまった。
もし、熊本地震がなかったら、何年後かには、棒庵坂下のKKRホテルあたりからこんな風景が見えていたはずだ。いつの日か復元されるかもしれないが、僕がそれを見ることができないことはたしかだ(泣)
明治5年の明治天皇巡幸に随行した写真師、内田九一が撮影した写真。
大小天守をはさんで、左側に御裏五階櫓、右側に櫨方三階櫓が見える。
地震前の棒庵坂下からの風景。右の石垣の上に櫨方三階櫓があった。今の加藤神社の裏にあたる。
現在、加藤神社がある一角には、肥後熊本藩六代藩主・細川重賢公の時代に行われた「宝暦の改革」において殖産興業政策の柱の一つとして推進された櫨栽培と製蝋事業を管理する櫨方会所(藩の専売品である蝋を取扱う部署)が置かれていた。
現在、竹の丸の入口となっている櫨方門は、移築されたもの。
菊池川に沿って並ぶハゼの木はかつての櫨栽培の名残り。