
「龍馬伝」は終わったが、僕の「龍馬の歩いた道」探しはまだ終らない。1864年2月、勝海舟とともに熊本城下に入った龍馬は、勝海舟の命を受け、宿舎の新町本陣(御客屋)から踵を返すように沼山津の横井小楠宅(四時軒)へ向かった。この時を最初として、龍馬は計3回、四時軒を訪問しているが、彼がどのルートを通って四時軒まで行ったのかを推測するのはとても楽しい。1回目と2回目は、島原へ渡る前後だから同じルートを辿った可能性が高い。いずれも新町本陣を起点とすると、まず新町からどの御門をくぐったかが最初のポイントだ。当時新町は堀で囲まれており、出入するには五つの御門があった。新一丁目御門、須戸口門、高麗門、新三丁目御門、柳御門の五つだ。しかしどれも自由に出入できたわけではなく、他国者の出入は新一丁目御門に限られていたらしい。藩主細川公は勝海舟一行が城下に滞在していることを知っていたし、勝海舟は幕府の要人だから、願い出れば特別にどこからでも出られたかもしれない。しかし、勝海舟はあえてそれはしなかったと思う。なぜなら、横井小楠はその時蟄居中の身で、幕府の要人が接触するのは憚られたと思うからだ。だからこそ龍馬を使いに出したのだろう。大人しく新一丁目御門から出て行った龍馬とすれば、当時はおそらく本陣から目と鼻の先に船場が見えていたはずだから、本当は洗馬橋を渡りたかったに違いない。結局、新一丁目御門を出た龍馬は、さっき来たばかりの豊後街道を逆戻りする格好になり、内坪井からは坪井川に沿って南下し、厩橋を渡って安政町通りに出たのではないかと思われる。後は安政橋(安巳橋)で白川を渡り、九品寺で木山往還に入ったのではないだろうか。
翌年の3回目の訪問は鹿児島の米ノ津から船で来ているので別のルートを辿っていることは間違いないだろう。船をどこで下りたのかが定かではないが、川尻に着いたとすれば、5月下旬という季節も考えると、帆掛け舟での加勢川遡上説もあながち出鱈目とは言い切れないような気がする。いずれにせよ記録が残っていないので、ひたすら想像するしかないが、それがまたロマンを感じて楽しい。