ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

2024年上半期の整理ネタ4

2024-08-06 14:51:00 | 日記
田家秀樹さんの著書「80年代音楽ノート」の中で
甲斐バンドが、三たび取り上げられたのは、1986年の3組目…
「甲斐バンド『花火のように』解散~5日間の武道館とシークレット・ギグ」というタイトルの下

「『消えるとか、なくなるとか、そういうトーンダウンした展開は嫌なんで
真夏の夜の花火のように、パーッと夜空に舞い上がって燃焼したい。甲斐バンドは、解散します』
甲斐よしひろは、1986年3月3日の深夜に青山のライブレストラン『CAY』で行われた
新作アルバム『REPEAT & FADE』の完成記念パーティーでそう言った」…と始まり

「80年代には『三大解散劇』ともいえるバンドの解散があった
一つは83年に幕を閉じたイエロー・マジック・オーケストラだ
世界的な成功とともに『テクノポップ』という新しいジャンルを開拓したパイオニア
彼らは『解散』と呼ばずに『散開』と呼んだ

二つめが甲斐バンドである。年間100本前後のツアーを行い
79年からは毎年、日本武道館2日間公演を続け
『HERO(ヒーローになる時、それは今)』を1位に送り込み
海外レコーディングの歴史に残る3枚のアルバム『ニューヨーク3部作』も制作
80年代のバンドシーンを最前線で牽引していた

解散の原因はギター大森信和の耳の不調だった
甲斐バンドは福岡のライブ喫茶『照和』に集まった音楽仲間で結成
74年にデビューして12年、5月に放送された
テレビのドキュメンタリー番組のタイトルは『十二年戦争~栄光の軌跡~』だ
ギタリストを代えて続けるより幕を閉じるという決断だった」と綴られてますが

甲斐さんによれば…「甲斐バンドは、大森さんと作ったバンド」であり
その大森さんから、耳の不調を訴えられても、脱退には反対され
3度目にやっと「1年間の猶予」付きで、解散を決意なさった訳ですし

大森さんが他界されたあとには、それまでのような「期間限定の復活」ではなく
「本気で、もう一度、甲斐バンドをやりたいと思った」と、おっしゃっていたし
甲斐さんにとっての甲斐バンドは、大森さん抜きには考えられないんじゃないかと…?

ともあれ…「最後のアルバムとして、やはりニューヨークで仕上げた『REPEAT & FADE』は
メンバー各自が1枚ずつプロデュースした異例の12インチシングル4枚組
『解散』とは銘打たれていなかったが『旅立ちアルバム』という位置づけだった」…と田家さん

同じ1986年の6組目、渡辺美里さんの章の冒頭で
「日本の音楽シーンにおいて、1986年はアルバム作品が最も充実していた年ではないだろうか
そのアーティストにとっての代表作、転機となった作品、そして歴史に残るアルバムが
それも『複数枚組』という形で続々と発売された

たとえば先述した甲斐バンドが解散に合わせて発売した
12インチシングル4枚組の『REPEAT & FADE』もそうだろうし
サザンオールスターズの桑田佳祐が1年間限定で組んだソロプロジェクト
『KUWATA BAND』の2枚組ライブアルバム
『ROCK CONCERT』がリリースされたのも86年だ」

…として渡辺美里さんの2枚組アルバムの話へ繋げていらっしゃるんだけど
甲斐さんは、96年の再結成の際に、この「REPEAT & FADE」について
「僕にとっては残念だった1枚(笑)何でかって言うと、それぞれの1枚から1曲ずつ選んで
全体で1枚にした方が売れたんじゃないかと思うから…後から気づいた(笑)」と話されてました(笑)

それはさておき…「甲斐が『解散』の2文字を口にしたのは
完成記念パーティーの時と自身のラジオ番組での2回だけだ
3月13日の四日市市文化会館から始まったファイナルツアーのタイトルは『PARTY』
そのステージでも『解散』という言葉は口に出さなかった

武道館の歴史の中で、解散公演を5日間行ったのは、彼らが初めてだ
最終日となった6月27日、甲斐は嵐のような歓声の中で『サンキュー、じゃあね』と言ってステージを降りた
…と記されてますが、奥さんは、甲斐さんが、それ以降のライブで
この「ラブ・マイナス・ゼロ」を歌われる際に「サンキュー、じゃあね」と口になさるたび
「ああ、もう歌詞の一部になっちゃったねぇ」とフクザツな気分になるんだとか…(苦笑)

まあ、それと同じように「100万$ナイト」のエンディングの「叫び」を聴いてる時や
「氷のくちびる」の間奏で、甲斐さんが、大森さん以外のギタリストの方と並んで立たれる時にも
「ああ、単なる『お約束』みたいだなあ…」といった気持ちになるのが否めないらしいけど…(苦笑)

そして…「ドラマはそれで終わりではなかった」と「シークレット・ギグ」に触れられたあと
「80年代の三大解散劇。その3つめの主役となったのが、人気絶頂の88年に解散したBOØWYだった」
…と結ばれていて、すぐ次の章が「感情を吹っ切っていくようなスピード感~BOØWY初の武道館ライブ」

こちらにも「武道館では6月27日まで、甲斐バンドの解散コンサートが行われていた
それから5日後に登場したBOØWYはバンドの『ビート』が変わっていることを鮮烈に見せつけてくれた
甲斐バンドには60年代から70年代のロックが根底にあった
日本でいえば、はっぴいえんど、海外ではローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン
歌い手や演奏者の思いがこもっているような、重心の低いビートが土台になっていた」とか

「80年代になってからの甲斐バンドは『ハードボイルド』をキーワードに
メロディーや演奏に『心情』や『物語』を託そうとした
対照的にBOØWYは、布袋寅泰が奏でるギターの切れの良いカッティングと
松井常松の無機質なベース、高橋まことの乾いたドラムが引っ張ってゆくバンドサウンドで
観客も『聴き入る』というより『踊る』ことを優先している

男性ファンの『甲斐!』という感極まったような声が飛び交っていた
甲斐バンドの解散公演とは打って変わって、明るい嬌声があふれてゆく
わずか1週間の間に行われた二つのコンサートの違いには
時代が変わる現場に立ち会ったという実感があった」…といった記述があったり

「1980年」の章の12組目…「ジョンが亡くなった場所へ~小室等、吉田拓郎、井上陽水の
『ニューヨーク24時間漂流コンサート』~」では
「1980年12月8日といわれてジョン・レノンを思い浮かべる人は
もはやかなり上の年齢になるかもしれない…(中略)
筆者がジョンの死を知ったのは12月8、9日に行われた甲斐バンドの武道館公演の開演前だった
隣の席の関係者に教えられ、何が起きたのか理解できないままにライブが始まった

アンコールの最後に甲斐よしひろが感情を抑えるように
『逝ってしまったジョン・レノンのために』と言って
『100万$ナイト』を歌うのを聴いて現実なんだと思った」…と振り返られる一節があったり
…って、奥さんは「『かなり上の年齢』で悪かったわね(笑)」とツッ込みつつ(笑)

当日の控え室の模様…ジョンの訃報が掲載された新聞をお読みになった甲斐さんが
「信じられない…」といったご様子で首を振られ
十字を切って、その新聞を破っていらした映像…を拝見して、衝撃を新たにしたり
ラジオ番組で、その訃報について語られる甲斐さんの声が甦ったり…と
当時のことをまざまざと思い出していたみたいです

田家さんは「あとがき」で…「『80年代』をちゃんと書きたいという気持ちは
『毎日新聞』で連載していた『70年代ノート』を2011年に書籍化した時からあった
今の日本のポップミュージックのインフラが整えられた『開拓時代』が70年代だったとしたら
それらが一斉に開花していったのが80年代だった

それまで『あっち側』『こっち側』として相いれなかった芸能界、歌謡界と
フォークやロックなどの新しい音楽との境界線がなくなり、新しい『J-POP』が誕生した
『80年代』以上に刺激的で希望に満ちていた時代はなかったということに間違いないだろう

『70年代ノート』に比べると『私的』な要素は減っているかもしれない
それはひとえに自分の仕事や生活環境がそうさせたと言っていい
それまでの『編集者』や『放送作家』などの仕事から『音楽ライター』という在りように
特化していった時期だったからだ…(中略)

そういう10年間で『最も忘れられない1日』が86年9月12日だった」
…と、ニューヨークの「レコード・プラント」というスタジオで
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「ダブル・ファンタジー」に携わったスタッフの方に
「80年12月8日のことを聞かせてほしい」とおっしゃった話へ…

そのスタッフの方は「ジョンは、今、君が座っている椅子で雑談をしていて
じゃまた明日、と出て行った数分後にテレビのあのニュースが流れたんだ
みんなまたジョンのジョークだと思ったら本当だった」と話されたらしく
「俺はジョン・レノンが生前最後に座った椅子で40を迎えている。そう思ったら涙が止まらなくなった

出発の成田空港で尾崎豊に会ったことは本文でも書いた
同時期に中島みゆきのアルバム『36.5℃』のトラックダウンのために
同アルバムのプロデューサーの甲斐よしひろもニューヨークにいた
自分が好感を持っていたそれだけのアーティストとともに40歳を迎えている
それは信じられない夢のような出来事だった」

…と記されてますが、甲斐さん贔屓の我が家が抜粋したとはいえ
たびたび「甲斐バンド」や「甲斐よしひろ」という名前が登場し
…って、ここにご紹介した他にも、甲斐バンドやARB、めんたいロックや「照和」
甲斐さんを「セイヤング」のパーソナリティーにお選びになった渡辺勲さん…など
「関連事項(笑)」が、ちょこちょこ顔を出していて
この「10年間」は、田家さんとの蜜月だったんだなあと…
コメント
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