ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

シビレる言葉 AGAIN 10

2017-12-27 21:24:00 | 日記
甲斐さんはよく「音楽には聴いた途端一気に
その曲を聴いた時代に引き戻す力がある」とおっしゃってますが
今朝の天声人語にも「イーグルスが1990年代に再結成し
来日した時の観客の言葉」として

「【ホテル・カリフォルニア】のイントロが始まった途端、私は19の時に戻っていた
そして当時訪れたロサンゼルスの風景が、目の前に浮かんで来た」が引用され

「あの物悲しいギターの旋律がよみがえる方もおられよう
耳にした途端、昔に引き戻される
そんなイントロが誰にも一つや二つ、あるのではないか」と続き

「うん!うん!」と頷きながら読み進めていたら
1986年には、過去30年のヒット曲のイントロは「平均して20秒以上あったが
2005年には、5秒にまで縮まっていた」

「興味を早めに引こうとして、すぐに歌い始める傾向」は
レコードやCDを1曲目から聴くのとは違い
「数秒で気に入らなければ簡単に別の曲に変えられ」たり
「イントロを飛ばして聞く人」がいたりする
ネット上での「耳の争奪戦に勝つための工夫なのだろう」と記され

「久しぶりに聴いた【ホテル・カリフォルニア】のイントロは50秒ほどだった
その時間を惜しむのは、文化的に進化しているのか
それとも退化しているのか」と結ばれてました

確かに「好き嫌い」で選ぶなら、数秒で事足りるかも知れないけど
「物語」が始まる前のプロローグとして
イントロは曲の大事な一部なんだし…って思うのは
「ストーリーが見える曲」を聴く機会が多いからでしょうか?(笑)

画家の小林孝亘さんが…枕や食器など日常のありふれた物から
「『意味』が消え、別の何かが見えて来るまで待つ
その時間が絵には欠かせない
無駄な時間は決して無駄ではない」とおっしゃってたり

「石神井書林」店主・内堀弘さんは「最初の芥川全集の内容見本」や
「農業経済学者が古希記念に出した歌集」といった本を探す際に
古書の転売を生業とする「セドリ」の方にお訊ねになるそうだけど

「ああ、あれならあの店にあるよ」と教えられると
その「めったに報われもしない、緻密で膨大な知識」について
「度を超した無駄は神聖に見える」と書かれていたり…

ドラマ「陸王」でも、履いて貰えない陸王を茂木選手に届けるのは
「無駄なことかも知れないけど、無意味じゃない」ってセリフがあったし

何より甲斐さんが「無駄なことをいっぱいやった方が良い
その無駄が後で絶対に活きて来る」と話されてますもんね(笑)

また、フランスの知識人ロジェ・カイヨワは…「遊びは生産的でない
その点で労働や芸術とは異なる
遊びは目標を定めて何かを作るのではなく
時間とエネルギーと器用さの『純粋な消費』であり
いかなる富も、いかなる作品も生み出さないが

『あそび』が無ければ歯車が回らないように
人生も社会も、気晴らしや喜びで一時弾ける
そんな隙間や緩みがないと息をつけなくなる」と記しているんだけど

「遊び」自体に生産性はなくても
「真剣に遊ぶ」ことで生まれる何かはあるんじゃないかと…

「今は『ためになる』とか『役に立つ』以外のものは
存在しちゃいけないような風潮があるけれど
私はそれがどうにも不快なんです」とコラムニストの中野翠さん

また、山崎ナオコーラさんは…
「誰も、誰かから必要とされていない
必要性がないのに、その人がそこにいるだけで
嬉しくなってしまうのが愛なのではないか」とおっしゃっていて

損得抜きで愛する「もの」や「人」が存在する人間は
そうでない人より豊かで幸せな人のように思えます

それはさておき…音楽学者の渡辺裕さんは
「音楽は社会を映す」という著書の中で

「ベートーベンの『第九』は、ドイツの労働者運動でも、ナチスの宣伝活動でも
東京帝大の出陣学徒壮行大音楽会でも、戦後民主化の『うたごえ運動』でも
論理を超えて、人々の感情をさらう媒体として絶大な効果を発揮した

音楽は、色々な方向に人を引っ張り込む力を持つ危険な存在である
昨今のような『感動』や『怒り』の『大安売り』の時代には
その効果を制御しうる醒めた知を鍛えねばならない」と訴えておられますが

その「大安売り」の風潮って、少なくとも日本では
ステレオタイプなイメージや季節ごとの定番曲がある
…といった側面が後押ししているんじゃないかと…?

例えば、クリスマスには、家族でケーキを食べるとか
恋人同士ならイルミネーションを楽しむとか
ひとりぼっちで過ごすのは寂しい…といったイメージがあったり

【ジングルベル】や【きよしこの夜】はもちろん
【クリスマス・イブ】や【恋人はサンタクロース】など
「エバーグリーン」な曲が流れないと「クリスマスらしくない」気がしたり…

でも、甲斐さんにとってのクリスマスは
【かりそめのスウィング】の元となる【師走】という曲の歌詞を見ても
大勢の人で賑わう商店街で、お米をぶちまけ
お兄様を残して家へ逃げ帰ってしまわれたことを話される口調からも
心弾むイベントではなかったみたいですし

我が家がクリスマス・イブに婚姻届を提出したのは
「ロマンチック」な理由では全くなくて
年内に2人共に休みが取れたのが、たまたまその日だっただけで(笑)
一緒に【安奈】を歌ったりはしません(笑)

また、立教大学文学部の有本真紀教授は…「現代の卒業ソングの多くは
過去は輝き、今は別れの時で、はばたく未来は限りない青空
という時制の3要素に、教室など場所の要素を組み込んだつくりで
涙を誘う卒業式の観念を支える

涙が『良し』とされる場だと多くの人が認めるからこそ心を揺さぶられるのだ
『卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう』の歌詞には
泣くのが自然だとする不文律がよく表れている

しかし、卒業式といえば、底冷えのする体育館で
繰り返し入場や礼の仕方を練習させられた人も少なくない
今も、感動を半ば強制されながら抗えない卒業生がいるのではないか
最近は、学校が感動的な卒業式をしたがる傾向が強まっていると感じる」
…と、おっしゃってますが

早大国際言語文化研究所の原良枝さんは…
「声は、身体の中を巡って来た呼気が発するもので、生々しい身体の一部
そこには、霊的なものも含まれている
同じ歌を歌う安心感や、声を揃えて歌い上げる達成感が広がり
感動となって行くのではないか
感動が共振するのが卒業ソングなのだろう」と分析され

「日本記念日協会」代表理事の加瀬清志さんは…
「みんなで共に涙し、歌うというのは日本独特のセレモニーかも知れない
日本人は、日々の暮らしや人生に一つ一つ意味づけをして
目標をクリア(達成)して行くのが好きな『クリア人』

1970〜80年代の卒業ソングは
恋も別れも人生も、学校を舞台にした
青春ど真ん中の歌という感じだったが
最近は、歌詞が抽象的というか形容詞が多い
励まし合うフレーズだけが独り歩きしているものが目立つ
学校の影が薄くなっているのではないか」と指摘なさってます

日本コロムビアのディレクターの方によれば…「昔の卒業ソングは
『つらくても苦しくても一緒に歩いて行こう』みたいな連帯感があったが
今の若者は引いてしまうのでは?
ネットや携帯電話の普及で、別れの意識も変わっている」らしく

かつて卒業式で【贈る言葉】を歌われた世代の先生方が
今の卒業生の皆さんとは違った価値観で
卒業式を「演出」なさっているのかなあと…(苦笑)
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