日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(追加、修正版)私の語る「システム」論から、コロナ禍で日々繰り返される「合法的殺人」について考えるとき

2020-07-19 | 日記
(追加、修正版)私の語る「システム」論から、コロナ禍で日々繰り返される「合法的殺人」について考えるとき

「go to travel」から「go to trouble」そして「go to hell」へと向かう世界は、「老人の合法的殺人計画」の実行に他ならないのではあるまいか。老人の過剰な妄想による「戯言」として一笑に付してもらっても構わないのだが、何かそこには老人を含めた「人減らし」計画が進行しているようにも思えて、私には薄気味の悪い光景として映るのだ。

以前のブログ記事においても触れたように、これほど人の命が軽いというか、軽すぎるとは、怖いを通り越して不気味そのものである。

国会議員ではない老人は途方に暮れるしかないのか。それにしても、白昼堂々と老人に対する社会の「リンチ」が黙々と進行している今のコロナ禍における「コロナ・ウイルス」をまき散らし続ける政治の「故意」ならぬ「未必の故意」、否もはやその段階を超えて、計画的な合法的殺人が繰り返されているのだが、誰も殺されていく老人に対して優しくはない。

思えば、バブル崩壊以降、助けを求めてSOSを発信していた若者に対して、優しくしなかった老人たちの生き様を振り返れば、これも自業自得というしかないのか。

あの山本太郎氏率いる「令和新選組」においても、大西勉氏による「命の選別発言」問題で揺れているとか。今の日本の政党で、表面上は一番、他人に対して優しそうな人間の集まりに思われた政党ですらこうなのだから、もう「たまらんわい」なのだ。

「コロナ禍」以前と以後における社会の変化を挙げるとすれば、私は躊躇なく、社会による「弱い者いじめ」が、さらに容易となって、「合法的殺人」がまかり通る時代へと変化したことだろう。もはや「ヒトラー」の手を借りることなく、「大量虐殺(ホロコースト)」が行われる状況下の中に、私たちは足を踏み入れてしまったのかもしれない。

最後に一言。

私の語る「システム」論から、ここまで開陳してきた話を捉え直すならば、1970年代以降から今日に至る{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる「システム」において、Aのかつての先進国グループは、Ⅰ’期の「民主主義の発展(高度化)→経済発展」の「段階」から、Ⅱ’期の「経済発展→分厚い中間層の解体」の「段階」を経て、Ⅲ’期の[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]の「段階」に至る流れを経験している。

Aグループを構成する、かつての「豊かな社会」を築いてきた先進諸国の人たちは、今まさにⅢ’期の前期から中期に至る「段階」に位置しているのだ。そこでは、「普通に」命と暮らしを守ることはできない。朝から晩まで、働き続けても、思う暮らしは望めない。さらに、仕事も選ぶことはできない。希望する仕事それ自体がないのだ。「失われた10年、20年」世代の「若者」たちは、どれほどの悔しさを抱え、また社会に対して、救済を求め続けていたかを鑑みる際、彼らの絶望はいかばかりであったろうか。それは測り知れない。

私たちがつくり上げてきた「システム」は、差別と排除の関係を前提とする「イジメの関係」である。そうした中で実現される「民主主義の発展(高度化)」などと言っても、それは本来、褒められたものではあるまい。ましてや「分厚い中間層」とは、別言すれば、差別と排除の関係を支える、つまりはイジメの関係を支える担い手の層が分厚いということに他ならず、これまた恐ろしい話ではあるまいか。

それゆえ、誰かが自分たちの命と暮らしの安全保障を実現して、幸せとなるために、社会の他の誰かを差別し排除する関係の中で、その彼らの命と暮らしの安全保障の実現を長らく妨げる、換言すれば、自由や人権や民主主義という普遍的価値を実現するために、「合法的殺人」(たとえば、それは南北(関係)問題の中で、北による南に対する構造的暴力を介した飢餓や貧困、さらには環境破壊の下で、南に暮らす人々の命と人権を奪い続けてきたにもかかわらず、北に暮らす人々は、彼らの「殺人」を自覚することなく、またなんら法によって裁かれることなく、安楽に生きてきたことを指摘できよう。)を繰り返してきた当の社会が、1970年代を分水嶺とする「システム」の構造的転換と変容の下で、Aグループを構成した諸国と諸国民が、今度は逆に、BやCグループを構成する諸国と諸国民によって、差別され排除される関係の下に置き換えられて、B矢Cの民主主義の発展における高度化の中で、「合法的殺人」の犠牲者またはその予備軍として、民主主義の発展における「低度化」の状況、状態の中で、彼らの命と暮らしを守る安全保障の能力が低下すると同時に、彼らが生きている社会からも見放され、孤立した中で、「合法的」に放置されるのだ。これも自業自得と言えばそれまでなのだが、残念ながら、そうであったのだ。

私の「システム」論で語る、「システム」とそれが提供する普遍的価値とその実現に関する話と、全く対極に位置する私たちの社会が提供する自由や人権や民主主義の物語を「常識」として育ってきた「幸せな」人々には、コロナ禍の中で引き起こされている「合法的殺人」の表層と深層から成る「二つの出来事」を、はたしてどの程度、認識、理解することができるのだろうか。それを少し考えただけでも、私は相当につらくなるが、これまた仕方がないのだろうか。

(追記)

すぐ上で、またまたエラソーなことを話していたくせに、肝心なことを述べていなかったので、改めて追加しておきたい。それは、「金の成る木」としての「システム」は、Ⅰ期、Ⅱ期。Ⅲ期、そしてまた、Ⅰ’期、Ⅱ’期、Ⅲ’期における、その形成と発展、変容の期間をとおして、「合法的殺人」としての「戦争」を必ずその過程の間に組み込んでいるということである。念のために、記しておく。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私の語る「システム」論から... | トップ | 私の語る「システム」論から... »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事