日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクたラムにとって、「国を守る」というのは

2015-09-22 | 社会 政治
最近また立て続けにブログを書く。これで私自身の精神のバランスを保とうとしている、おそらくそうだ。以前にもあった。広瀬隆さんが東京都知事選挙選で、候補者の一本化を呼びかけ、細川さんを擁立し、共産党の推す宇都宮さんと分裂して、結局は舛添さんが当選した。あの時も精神のバランスを図っていた。

この経緯をよく考えれば、また共産党のように≪核の「平和」利用≫と主張するのではなく、広瀬さんはずっと一貫して原発を批判し続けていた。さすがに『赤い盾』やその他の天然資源をめぐる紛争を取り扱ってきた著者ならではのことだ。昨日も書いたが、共産党とその支持者には失礼であり、申し訳ないのだが、いつまで同じことを繰り返したら気が済むのだろうか。

もっとも、まだ福島原発事故前ならば、民主党に騙されてもいいかと思っていたが、もし今度民主党が統一戦線の呼びかけをしたら、それなら私は、まだ共産党の志位さんの呼びかけに騙されたい。つまりは、次の選挙での野党の統一戦線は難しいということ。これまで政治が動いたのは(もちろん、錯覚であることにいつも後で気づかされてきたが)、ほとんどが与党勢力の内紛からくる自滅の結果だった。

それでは本題に入ります。気分を変えて、文体も変えます。

ここにきて気がついたことがあります。それは「安保法制」を議論するに際して、一番大事な話を忘れていました。櫻井よしこさんのユ-チューブをみて、思い出した次第です。この言い方、つまり「思い出した次第」という表現ですが、相当におかしいでしょう、でもそうなのです。

そこで櫻井さんが述べていました。---集団的自衛権云々の問題で大切なのは、「国家の役割」は何ですかということではありませんか。それは「国を守る」ことでしょう、どうやって国を守ればいいのか、ということでしょう。いま行われている議論は、その重要な問題を横において憲法が、あるいは集団的自衛権に制約を課する限定的容認論等の話しであって、議論の大前提が忘れられていませんか、という内容でした。

私もそれに賛成(憲法とか集団的自衛権を議論するのは、そもそも国の役割である国を守ることの議論が先にあって、その後に来るものなのに、その先にある議論が全くされないままに、後の問題だけがもっぱら語られているではないかという主張に賛成)なのですが、それはまたややこしい話になるのです。付言しますと、おそらく櫻井さんは、先と後という際に、その両者がセットとして扱われるべきなのに、その一方だけが語られていると言いたいと思いますし、私はそう捉えています。

「国を守る」とは、一体何でしょうか。大問題ですね。私は櫻井さんの問題提起には賛成なのですが、「国を守る」というその中身、内容には、違和感を覚えます。これは、櫻井さんだけではなく、田母神さんやいわゆる「右」の論客の主張に関しても同様なのです。私の答えは、そもそも「国」なんて守れない、そんなものは存在しないのだというものです。少なくとも、右翼の論者が言うところの「国」は、またすぐ後で述べますが、決して守ってはならないということです。

それでは、少しお付き合いください。「国を守る」とは、どのようなことを指しているのか。
私のような考えを前提にしますと、「日本」という「国家」と「日本人」という「国民」を守るということは、私たちがそれを意識するかしないかにかかわらず、いつも私のモデルで描く例のセカイとその関係(史)を守るということになるのです。

もう私の話にお付き合いいただいている読者はお分かりだと思いますが、それは何故か。日本という国家も、日本人という国民も、そうした「関係」の中で初めてつくられたからです。いつもこの点を考えておく必要があります。

1970年代までは、{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイとその関係(史)の中で、1970年代以降は、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイとその関係(史)の中で、右翼の論者らが守ろうとする「日本」という国家が、「日本人」という国民が、それこそ「創造」されたのであります。

右翼の、また左翼の論者のいう「国を守る」の国は、「国民の命と暮らしを守る」の国民は、あるいは「日本を取り戻す」の日本は、「民主主義を取り戻せ」の民主主義は、「憲法を守れ」の憲法は、さらには「立憲主義を守れ」の立憲主義は、こうしたセカイとその関係(史)の、換言すれば覇権システムの「想像の産物」なのです。(私の図式では1970年代まではA,B、Cの関係の中で、BからAへと「上昇」しましたが、1970年代以降は、B、C、Aのセカイの関係(史)のAにおいて、「衣食足りず礼節を知らず」の営為の状態に甘んじているのです。なお、詳しくは昨日の拙著を参照してください。)

付言しますと、B・アンダーソンが「ナショナリズム」を「想像の共同体」として位置付けていますが、私からみれば、彼はそのナショナリズムを、本来ならば覇権システム(を構成するA、B、Cの関係(史))の中で「想像」されるのにもかかわらず、その全体・統一像の「単位」を、A、B、Cの各々が独立した「1国枠」を単位として、それらの国家の中で「想像」されたと考えているのです。(すでにこれについても拙著で述べていますが。)

それゆえ、私がこれまで何度も指摘してきましたように、同じ日本、日本人のように見えたとしても、少なくともその「存在」としての「役割」は異なっていることに注意しなければなりません。なぜなら、1970年代までの関係(史)と、1970年代以降の関係(史)が異なりますから、自ずとそうした関係の中で創られる日本と日本人も異ならざるをえなくなるのです。

そのことは、1970年代以降のセカイの関係(史)の中で、今日の格差社会が端的に示すように(「衣食足りず礼節を知らず」の営為の状況に直面し続けることから)、「礼節を知らず」の礼節の抱える問題点の考察が大事です。しかしながら、残念案ことに、安保法制の論議に示された立憲主義は、また憲法13条の生命、自由、幸福追求権は、もはや日本国家(政府)がいくら頑張っても、国民にそれを保証するのは難しいのです。

(また付言しておきます。私は今回の安保法制の審議の際によく民主党の議員さんたちが憲法13条を持ち出して政府案を批判するのを聞いてましたが、あなた方にそれを言う資格はないだろうと、腹が立ちましたよ。福島の原発事故以降の、まさに福島県民の、特に子供たちの環境は放射線被害により最悪ではありませんか。なぜ、あなた方は、こうした議論を原発事故に際しては持ち出さないのですか。いろいろとありますが、やめておきます。)

それこそ、まさに別の意味での「集団的自衛権」が求められるのですが、これまた残念なことに、1970年代以降のセカイの関係は、すなわちB,C、Aの関係(史)は変えられませんから、国民の大多数の生活は守られません。それに輪をかけて、安保法制による日本の軍事力の世界的展開により、日本という国家の存続も常に危険に見舞われることが予想されますから、私たち国民は、踏んだり蹴ったりですね。

安保法制により、防衛産業はこれまで以上に儲かりますが、多くの国民は日本の内と外で危なくなりますから、もう「内」では経済的に大変な状態ですが、それこそどうやって私たちが生き残れるかを考えなければなりません。誤解を恐れないであえて言いますが、「日本」と「日本人」を別に守らなくてもいいではありませんか。私が、あなたが、私たちがどうすれば守られるかをまずは考えるべきでしょう。なぜなら、私の図式の1970年代以降のセカイでは、もうすでに日本と日本人という存在は解体されるように、そのように事態は進行しています。

もし仮に、それでも日本にこだわり、日本人にこだわるのであれば、守ろうという前に、この解体化させていく流れと、それを作り出す仕組みをきちんと確認しておく方が重要ではありませんか。そのためには、私のような問いかけ(守らなくてもいいではないか、さらに言いますと、守れ守れと私たちに言いながら、あなた方のやっていることは私たちを殺すことではありませんか、それなら、私たちも守りません)がやはり必要ではないかと考えるのです。

私は「売国奴」という言い方が好きではありません。なぜなら、上述したシステムの存在の中で、初めて国というものは作られるのであって、その意味では私たちが考えている国は関係の中の国ですから、「関係」を「売る」ことができない(捨てられない)以上、国を売ることはできないと考えるからです。

いずれにせよ、私たちはもう守られないのです。少なくとも日本国内において、多くの日本人の日常生活における安全保障は無理だということなのです。いまの安保法制は、それを前提としながら、進められてきましたから、そこで守られる日本という国家と日本人という国民は、一体どのようなものかということになります。

私がここで主張したいのは、私たちは、これからますますその関係が強固となり、容易に掘り崩せなくなってきている{[B]→(×)[C]→[A]}の関係(史)のセカイの中のA(グループ)の中の「日本」と「日本人」を、どうやって守れるのかということなのです。もうお気づきでしょうが、そんなことをすれば、つまりこの関係の中で守ることに精を出せば、ますますじり貧になるではないか、ということなんですよ。Bの中国とCのアフリカ諸国とAの米国・EU諸国の「利権・利害」関係が強化されることは必至ですし、そこに日本の経済・財界と政治家。官僚が組み込まれていきます。

もちろん、他人事みたいな言い方をしましたが、忘れてはなりませんね、私もあなたも、私たちもです。そして少ないながらも、そうした関係の利権のおこぼれに与るわけですから、言われるのですよ、「この関係を守れ」、「この関係の平和を守れ、とね。ただし、直接そうは言わないのですね。あくまでも「日本を守ろう、守れ」「世界の平和を守れ、守ろう」なんですが。

そうした関係を一方で強固にしながら、同時にこうした関係を世間の目から遠ざけながら、他方で、攻めてきたらどうする、9条では守れない、集団的自衛権が必要だ云々を叫んで、無理して中国と対立させるのです。確かに9条がいくらあっても、相手は関係なく攻撃するときはしてきますし、集団的自衛権があっても、それでも相手を助けられないこともあるでしょうが、問題はいくらそのような話を繰り返しても、意味があまりないのです。

こうした議論をお互いに水掛け論のようにさせているのは誰なのかを考えなければなりません。そして、もし私のモデルのセカイの関係(史)が現実にその形成と発展の歩みを進めていたら、こうした議論はいったいどれほどの意味がありますか。

繰り返しになりますが、守れないのですよ。守ってはならないのですよ、むしろ逆に、どうすればこの関係を壊せるのかを考えることが大事なのですね。それを少しでも考えれば、そんな偉そうに壊すなんて、バカか、ということに気がつくでしょう。

それではどうするんだ。その次に考えることは、それではどうしたらこの関係から足を抜けれるかということですね。これも相当に難しいことに気がつきますから、今度は、この覇権システムの中で、どうやって、システムが理想として、世界中にこれまで押し付けてきた生き方とは異なる歩みが可能なのか、を模索するのですよ。(これに関しては、拙著『覇権システム下の「民主主義」論ー何が「英霊」をうみだしたか』(御茶の水書房、2005年を参照してください。)この関係の中で、どうすればこの関係が作り出す構造的圧力から少しでも身をかわせるかを考えるのですが。それに関して、ここ数回の私の記事は関連しています。

ただ、このようなことを考えるところまで、多くの人は到達しませんし、できません。別に偉そうに言っているのではありませんし、「上から目線」で云々でもありません。私がここまで述べてきた関係(史)を、多くの人は理解できませんから、当然ながら、見えませんし、見ようともしないのです。ましてや、自由や民主主義や人権や平和が素晴らしいとか、憲法を守れ、平和憲法は素晴らしいという人には、最初から無理なのです。それゆえ、彼らは、自分たちがこれまで、いかに世界の戦争に加担してきたかもわかりません。ですから平気で言うのですよ。私たち日本人は戦後70年間、第9条の下で誰も殺さないできた、と。

当然ながら、このような人たちには「黒幕」の正体が見えません。少なくとも、その黒幕である覇権システムを構成する一員としての{日本}と{日本人}であるとの自覚が持てない限り、「国を守る」の議論は覇権システムそれ自体には痛くもかゆくもないでしょう。私たちの国を守る議論が覇権システムを守っていることになるのです。とにかく厄介ですし、大変な問題です。いくら偉そうに別の異なる「衣食足りて礼節を知る」の営為云々とか、世界的大企業、多国籍企業の提供する「衣・食・住のネットワーク」に代わる云々の話をしても、やはり落ち込むだけですね。ここまでお付き合い、どうもありがとうございました。

(追記)この記事は昨日(9月22日)のものですが、今日(9月23日)、「EU諸国」という語句を追加記入しておきました。箇所は、「Bの中国とCのアフリカ諸国とAの米国」というくだりの米国のすぐ後に挿入しています。読者にはそんなことは推察できるとは思いましたが、念のためです。)






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