日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの「安保法制」論ー放置された問題

2015-09-19 | 社会 政治

今回の「騒動」の原因は、誰もが語っているように、安倍首相が憲法「違反」を前提に、自衛隊の海外派遣(派兵)を「自由に展開」させる流れをつくってしまったことにあるようである。

本当に、安倍さんに、政府与党に、また日本の国会議員に、そんな力があるのだろうか。煎じつめて言えば、彼らの代表者である日本国民に、それほどの力があるのだろうか。なぜなら、日本は米国の「属国」ではなかったのか。もしそうだとすれば、私たち日本の国民の力の源泉は、米国ということなのか。それでは何故そんなに米国は強いのか。米国の力の源泉はなんだろう。

ところで、安倍首相は何故そうした流れをつくったのか。また何故そうすることができたのか。いろいろな答え方があるだろううが、私はそこに米国の経済・財界と日本の経済・財界の強力な「後押し」が存在していたと思う。これは誰しも感じていることであり、その通りだが。

国会での問責決議や不信任決議での各党の、とくに野党の主張の中に、日本の経団連や米国の経済団体を非難、批判する声が聞こえなかった。安倍さんをいくら問責したところで、彼は、また彼のお友達や、議員、官僚やマスコミ人の多くも、そうした経済・財界の「下請け」を担っているのだから、安倍さんを問責すると同時に、「元請け」にもその声が届くような「演説」をしなければならなかったとみているが、これは最初から無理な注文となる。

さて、日本と日本人が真剣に向き合わないままにきた「問題」がある。今回の安保法制をめぐる議論の核心は、軍事力の、つまり武力の行使とその展開に関して、日本に「応分の負担」を米国が迫ったところにある。この米国からの要請に対して、私たちは真正面から向き合わないままに、憲法論議に明け暮れた。それももちろん大事なことだが、問題の核心とはならない。

それでは、武力の行使と展開は何故、必要なのか。簡単にいえば、「商売」のためである。その商売を通して、私たちは自らの「存立」を図る。銭を稼ぎ、そのお金で必要な生活用品を買うことができる。そして、国民として税金を払って、国民国家の維持と運営に努めることができる。というよりも、ある者は、それを強い、多くの者たちは、そうすることを強いられてきた。最近では、国民に税金を払うことを強いてきた側が、勝手に自分たちの支払い分を少なくしたり払わないで済むようにと、まさに「したい・やりたい放題」。日米の経済・財界の現状を見てもわかる、つらい話である。

話を戻そう。私たちは商売を通して生きているが、この商売にはいつも危険が伴う。また儲けようとすればするほど、手口も荒っぽくなるから、いつも「紛争(戦争)」が絶えない。私たちのそれこそ帝国主義の歴史を振り返れば理解できるし、いま現在もそれは進行中だ。

それで、どうしてもその解決の手段として軍事力が求められてきた。そのために、武器が求められる。その調達のお金は、結局は税金となる。ここでも、儲ける側(戦争を強いる側)とその犠牲者となる側が見事に分かれている。

この商売の大元締めは、いつも歴代の大企業、大商社、大商人(銀行家)であった。彼らが作り出したネットワークの中で、彼らが提供する各産業、各業種で私たちはその食い扶持を得るのだから、彼らには頭が上がらない。中でも一番、頭が上がらなくなったのは、政治家や官僚、御用学者、マスコミ人たち。もっとも、一番頭が上がらないことで、地位と名誉とお金を手にできたのも確か。

いずれにしても、私たちも、彼らの提供するネットワークの中で生きていることから、そのネットワークの安全保障とその問題に、どうしてもかかわらざるをえなくなる。そのネットワークの具体的体現者は、たとえば、あるときは国家であったり、地域国家連合であったり、国際連合(連盟)であったりと、その都度、紛争の種類は低度により、異なる。しかし、いつもその政治的体現者を動かしているネットワークの「黒幕」はその正体を、つまり[彼らこそ直接的な下手人である]との証拠を、はっきりと示すことはない。

今回の安保法制の論議は、とくに、「自由と民主主義を守れ」、「立憲主義を守れ」、「憲法を守れ」云々の「主張」は、彼ら黒幕にとって、これ以上ない素晴らしいプレゼント話となると同時に、彼らの「聖域(利権の構造)」に切り込める可能性のある主張が当分の間は提起されないという意味での「安全保障」を提供してしまった感が強い。皮肉というか、これまたいつもどおりの、予想されたことの繰り返し。

ところで、残念であると同時に、当然のことながら、私たちの商売には紛争や戦争が伴うことから、たとえ、私たちが平和憲法のおかげで戦後70年間、自衛隊を海外に派遣することなく、誰ひとり殺さないで良かったと声高に叫んだとしても、話はそれで済まないのである。

少なくとも、1970年代までは、私の例のモデルのセカイの{[A]→(×)[B]→[C]}の関係に示されるA、B、Cの「衣食足りて(足りず)」の営為のネットワークの中で商売をしてきたわけだし、そこで日米安保条約体制の下で、いわば共同正犯として、そうした商売とそれに伴う紛争と戦争にかかわってきたのは確かである。朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争等々、米国の関与した戦争犯罪に、それこそ加担してきた。

ところが、そうした「共同正犯」としての事実を私たちは認めようとしなかった。平和憲法、第9条を持ち出して、私たちの商売(経済発展の関係)と日米安保体制との関係を直視しようとはしなかった。米国側からすれば不思議な光景となる。同じ戦争犯罪に加担しながら、私たちは平和憲法の「縛り」により、その犯罪には加わらなかったし、誰ひとり殺してないと世界中に自慢しながら、裏では米国の軍事力に守られて、世界第2,3位の貿易黒字を稼いできたのだから。

問題の核心は、こうした「生き方」ではないのか。米国はもう自国の力の衰退から、これからの世界のネットワークの関係を、すなわち私のモデルで描く{[B]→(×)[C]→×[A]}にあるB、C、Aの「衣食足りて(足りず)」の営為の実現にかかわる商売のネットワークの安全保障を、もうこれ以上は、維持する軍事力とそのお金をねん出できないので、日本と日本人に肩代わりしてほしいと要求したのである。そして、安倍首相は、日本の国会に諮る前に、米国議会で「承知しました」、と答えてしまったのである。

ここで確認したいのは、二つの重要な問題が提示されたことだ。ひとつは、まさに安全法制に関する安全保障の在り方(個別的自衛か、集団的自衛か)とそれにかかわる憲法の(違憲かどうか)の問題であり、もう一つは、日本人がこれからどうやって食べていくのか、これまで通りの米国の経済・財界が中心となって提供するネットワークの中で生きていくのかという問題である。この両者は、相互に関連していることから、本来は結び付けて、問われるべき問題なのであるが、それができないのである。

今回もそうなのだが、私たちが終始、関与したしたのは日本と日本人にとってはお得意の(お家芸の)、また日本国内にのみ通用する、前者に関する議論であり、後者に関しては、これまで通り無視、放置したのである。

ところで、日本にそうした要請(要求)をしたのは、オバマ大統領であり、米国の上院、下院の議員の多くであるが、彼らにそうさせたのは、米国の経済・財界であり、またその傘下に位置する日本の経済・財界であり、その意向を受けた日本の政・官・学であるのは言うまでもない。

問題は、さらにその先である。それではその米国の経済・財界にそのような要求をさせたのは誰なのか、あるいはいかなる「仕組み」なのか、それを究明することである。ところがそんなところには全く立ち至れないのである。いつも安全保障・憲法論議の前で立ち尽くしたままなのだ。

私たちがそれこそ問わなければならないのは、それではその米国は、その米国の経済・財界は、ウォール街は、誰の意向に従っているのだろうか、という問題である。たとえば、それは、ロスチャイルド家(財閥)とその傘下にある大企業、多国籍企業なのか。もしそうだとしたら、つまり世界がロスチャイルドや、あるいはロックフェラー関連の財閥の意向に従って動いている、動かされているとしたならば、それでは、彼らは一体誰の意向に、あるいはいかなる仕組みに従っているのだろうか。

また、仮にそうした仕組みが存在するとしたならば、私たちは、一体そうした仕組みのどこに位置しているのだろうか。その際、中国は、アフリカ諸国は、米国は―――ということになる。さらに、そうした仕組みの形成や維持、発展に、自由主義や民主主義、法の支配や立憲主義はどのように関係しているのかについても、解き明かすことが大切であろう。


少なくともこうした問いかけに答え続けない限り、私たちは米国や日本の経済・財界のネットワークの下請けから脱することなど、到底不可能ではあるまいか。今回、安倍さんの退陣を叫んだリ、安保法制の見直しや廃案を要求した人たちに是非とも考えてほしいのは、あなた方のそうした運動が、「私たちはもうこれまでのような世界の経済・財界が生産から流通、そして消費に至るまでその多くを支配・管理し、提供する「衣・食・住のネットワーク」の中で生きることを金輪際やめたい」という運動につなげようとしているのか、どうかである。

自民党、公明党はもとより、共産党も、社民党も、民主党も、その他の既成政党も労働団体もすべて、こうしたネットワークの中で生きることを〈前提〉としながら、その維持と運営やそのわけ前の配分の仕方で、衝突、対立、協調を繰り返すのだが、基本的には〈同じ仲間(同志)〉なのだ。それゆえ、「右」とか「左」とか「中道」とかのレッテル(貼り)も、瑣末な関係のない問題である。

ただし、もし新たなネットワーク運の話を本当にやろうと動き出したならば、すぐにその途端、これは力の抜けるほどに大変な作業であることに気がつくだろうし、これを聞いた途端、私は、それは無理だから、できないからと答える人が続出するだろうことは、容易に想像がつく。ほとんどできない話だから、先述したように、前者にもっぱら傾倒した話しとなるし、後者の話を現実にと考える者の生活は「悲惨」なものとなる。

さて、こうした問題と関連した少し前の話だが、「ウォール街を占拠せよ」という、世界の耳目を集めた運動がおこった。彼らは口々に「本当の民主主義を」、「民主主義を取り戻せ」と叫んでいた。その運動に参加した人たちは、その運動中に、一体何を着て、食べて、飲んでいたのだろうか。おそらく私たちの着るもの、食べるもの、飲むもののほとんどが先のネットワークを形成した大企業、多国籍企業により提供されたものである。彼らは、自らの首を絞める仕組みの中で生きながら、その仕組みを批判するのであるから、勝負は最初から見えている。

ただし、私に彼らを批判する資格はない。今回のデモ参加者に対しても、同じように批判することはできない。そのような気持ちからこうした問いかけをしているのではない。念のために。

そろそろ今回の記事の結論を述べたい。「民主主義」が問題なのか。それはもちろん関係しているのだが、それ以上にここで大事なことは、彼ら占拠者が、従来とは異なるネットワークをつくれないことが問題なのではあるまいか。先ずはそれをつくることではあるまいか。それに取り組むことではないのか。

これまで私は問い続けてきた。それは、安保法制のデモの際に多くの者が叫んでいた「自由と民主主義を守れ」、「憲法を、立憲主義を守れ」という主張は、すぐ上で述べた「ーーこれまでのような世界の経済・財界が生産から流通、そして消費に至るまでその多くを支配・管理し、提供する「衣・食・住のネットワーク」の安全保障のために、歴代の大富裕層がつくりだしたものではなかったのか、と。

彼らはまさにオランダ、イギリス、アメリカ、フランスの市民革命をとおして、自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」を世界中に浸透させてきたのだが(正確に言うならば、世界中に彼らの商売のネットワークを張り巡らす中で、その商売の円滑な発展と拡大とその正当性、合法性を確保するために、先の普遍主義を浸透させる必要があったのだが)、そのために、いつも世界の国々に軍事力を提供し(備えさせ)、それを拡大、拡張し続けさせてきたのではあるまいか。それによって、彼らの商売とそのネットワークを強固にしてきたのではあるまいか。日本と日本人もそうしたネットワークに組み込まれて、今日に至っている。安倍首相が推進した安保法制は、そうした仕組みを支えるための「道具」ではあるまいか。

それゆえ、安倍首相を糾弾することは結構なことだが、そうした仕組みに安住しながら、安保法制に反対したとしても、結局のところ、安倍首相をコマのように使っている、先のネットワークの提供者にとっては、痛くもかゆくもないことなのである。

それどころか、ますます彼らを肥え太らせてしまい、そのネットワークの安全保障(防衛)に寄与・貢献することとなるのではないか。それゆえ、これまでの普遍主義ではない、新たな普遍主義をつくることが大事であるし、そのためにも、どうしてもこれまでとは異なる〈衣・食・住のネットワーク〉の構築が求められるのである。

ただ、これは相当に厄介である。私自身の身の回りを見ても、これから食べようとするものを考えても、まったくといってよいほどに絵空事の話ではあるまいか。しかしながら、嘘を承知で言わざるをえないのだ。相当につらい。今日の記事の私の嘘は、これまで以上に、憂鬱なものは確かである。今回の投稿もまた躊躇したが、私の中に、ここで述べた嘘(見果てぬ夢)を現実のものにしたいとの思いを、なおかすかながら確認できたので、また私の分身に伝えたいがために、恥をさらした次第である。























































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