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妻をめとらば

2010-09-16 10:45:00 | おすすめ記事




      『漱石の妻』 鳥越碧 講談社 06年5月


 明治の歌人与謝野鉄幹は、その詩【人を恋うる歌】で
「妻を めとらば 才たけて みめ美わしく情けある」と歌っている。
若い人は意味が解らないかもしれないので簡単に解釈すると......
「嫁にするならば、賢くて見た目が美しくて優しい心根のある女性がよい」と言っているのである。
「みめ美わしく」は簡単に外見から判断できるが「才たけて情けある」かは一緒に暮らしてみないとなかなかわからない。

 女性の側からすると「おふざけじゃないわよ!」と言いたくなる歌詞だが
男性の側からすると、理想の妻像を実に簡潔かつ完璧に言い表している。
夢と理想と情熱に燃えた明治の若者たちは、このような歌を声高らかに歌いながら若いエネルギーを鼓舞していたのだろう。

 ちなみに『人を恋うる歌』は三高(現京都大学)寮歌。
現代の女性たちの結婚の条件も三高(高学歴・高収入・高身長)だ。
男性はロマンを追求し、女性はリアルを追求していることがよくわかる。


 ところが「才なくみめ美わしくなく情けもない悪妻」として、つとに有名だったのが、明治の文豪夏目漱石の妻・鏡子夫人。
近代日本悪妻史というものがあるのなら、おそらく夏目鏡子さんのトップの座は揺るがない。
この作品は多数の資料を参考にしながら、悪妻と言われ続けた鏡子夫人の新婚時代から晩年に至るまでの半生を小説で再現している。

 漱石は周囲の人たちに夫人のことを悪妻と断言して憚らなかったし、作品中でも夫人をモデルにしてその悪妻ぶりを書いている。
しかし漱石は、当時の文士にありがちな恋愛問題などを外で起こした形跡は見られないし、経済的に夫人を困らせていた風でもない。
なによりも七人もの子どもを作っているのだから、夫婦仲が悪かったと傍目が判断するのは早計である。

 悪妻のイメージを広く世に伝えたのは、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平らの漱石の弟子たちの証言によるところが大きい。

 漱石は弟子たちを可愛がりとても面倒見がよかったそうだ。
弟子たちもまた漱石を敬愛し、その傾倒ぶりは異常とも思える熱烈さで、師の存在をほとんど神格化していた。
そのような弟子たちの目には、夫の仕事を全く理解しない横柄で浪費家の妻は、師の妻として最もふさわしくない女に映っていたのだろう。
面と向かって「漱石先生がお気の毒」と言う弟子もいたと言うから余計なお世話だ。
私も自らを悪妻とへりくだって(?)笑いとばすことは平気だが、赤の他人から言われたら猛然と反撃に転じるだろうな。

 この小説を読んだ限りでは、確かに鏡子夫人の生き方には、目から鼻へ抜ける賢さのようなものは感じられない。
しかしおおらかで気丈で堂々とした明治の女性像が浮かび上がってくる。
何はともあれ七人の子どもを生み育て、弟子たちの世話をして、病気がちで気難しい天才作家に長年仕えた妻を、男性の視点からだけで悪妻と評価するなどけしからん話だ。
「漱石の妻は悪妻」というこれまでの通説を覆した面白い作品だった。
 

 ところで先日、お昼のワイドショー『DON!』を見ていたら「夫と妻の呼称」に関する興味深い事実が判明した。

 『DON!』調査によると、夫の呼び方は「旦那→主人→亭主→夫」の順番で身分が低くなるそうだ。
「旦那」は仏教用語ダーナ(お布施をくれるありがたい人)からきていて、「夫」は単なる男人(おひと)のことで全然敬意が込められていない言葉らしい。

 妻の場合は「細君→奥さん→女房→家内→かみさん→妻→嫁」の順。
「細君」は女性の君主の意味で「嫁」は単なるよそ者の女という意味だそうである。

 さて、知ってしまったからには使い方を考慮しなくてはならない。
では...私は従来通り奴を「夫」と呼び、奴には私を「細君」と呼ばせることにしようか。


 
          ※土曜日からしばらくの間、北の大地に行ってきます!