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マダムnihaoのフレッシュ搾りたてブログ。お気軽にお立ち寄りください。

震災から1年

2012-03-11 13:05:00 | 東日本大震災
 あの日から一年。
いまだに震災関連の番組が目に入ると、いろいろなことが思い出されて涙が止まらなくなる。
あの日、底深い闇の中で、ふと見上げた空一面に地上の悲劇とは無縁の如く、無数の星が冷たくきらめいていた夜空の景色を、私は決して忘れない。

  この一年、どれだけ多くの人が「あの日の前の日に戻りたい」と叶わぬ願いを抱きながら暮らしてきたことだろう。
もしあの日の前の日に戻れたら...
3・11の大悲劇が発生することを承知の上であの日の前の日に戻れたら...

 大切な肉親との別れを回避することは出来るのか?
 貴重品や思い出の品々を持ち出すことが出来るのか?
 死者や被害の状況を今よりも抑えることが出来るのか?

 いや...人心は混乱し世の中の秩序は狂い、もっと被害は大きくなってしまうだろう。
自然の摂理の現象は人間が操作できるものではない。
私たちに出来ることは、あの日の教訓を噛みしめながら、これからの一日一日を大切に生きていくことだけだ。


 震災以降という言葉がさかんに使われるようになった。
本来は動物をつないでおく綱の意味だそうだが、この一年は、人と人とのつながりを取り戻すための便利な言葉としてクローズアップされてきた。
を築き育て上げることは簡単なことではない。

 最近は、ひとりよりふたりの方が安心と、災害から学んだ震災婚が増えているらしい。
出産率も上昇し産婦人科医院は近年になく混雑しているというから、みんな競って家族のを模索し始めた。
しかしそれとは逆に、夫婦で原発に関する見解が食い違い、育児やライフスタイルの共通理解を得られないまま離婚を余儀なくされる『原発離婚』も増えている。
は実に脆いものであるから要注意だ。

 被災地の復興にとって最大の障害となっているのが瓦礫処理問題。
好意的に受け入れてくれる市町村もあれば、頑迷に拒否する市町村もある。
この狭い国土の日本では、他県の協力なくして復興はありえないのに、すべての人々が揃って温かい手を差し伸べてくれる訳ではない。
なんて絵に描いた餅のようなものである。

 例年我が家のお歳暮は岩手の美味しいリンゴなのだが、ある友人から
「放射能が心配で孫に食べさせられない。岩手のリンゴはいらない。」
と言われた。

 私は「被災地の野菜を買おう!」と謳った生協の運動の主旨に賛同し、一日も早いふる里の農業の再生の実現を願ってきた。
壊滅的な打撃を受けた東北の農業、漁業の復興のためには、全国の消費者の理解と支援が絶対的に必要だ。
しかし「食品は安全な北海道や九州産を選んで買うようにしている」と言う、家族を守るのは自分だけであるという友人の信念もまた強固で揺るぎがない。
自分の暮らしだけを守れば良いのかと反論したい気持ちがないわけではないのだが...
長年の友情のに亀裂が入ることもあるので、原発問題に関しては本音で語ることはとても難しい。




                ★  ★  ★

  盛岡市民文化ホールで開催中の東日本大震災復興支援企画、100歳の詩人として著名な【柴田トヨさん】の詩を、片岡鶴太郎・コシノヒロコ・佐久間良子・日野原重明・菊池雄星等々の各界の著名人が揮毫(きごう...毛筆で文字や絵を書くこと)した『くじけないで』展に出かけてきた。
100歳の詩人の感覚は大変キュートで新鮮だし、参加者の揮毫も素晴らしく見所満載だった。
私のお気に入りの詩はこれ↓ 


 「先生に」

私をおばあちゃんと呼ばないで       
「今日は何曜日?」
「9+9は幾つ?」
そんなバカな質問もしないでほしい

「柴田さん
西条八十の詩は好きですか?
小泉内閣をどう思いますか?」
こんな質問ならうれしいわ 


 柴田トヨさんにとって、認知症は無縁の事柄だと思われる。
以前から私も、似たようなことを子どもたちに言っていたので笑ってしまった。

「私が本当に惚けたかどうかは医師の判断だけで決めないでね。
日本文学史から難問を出して、その回答の結果如何で判断してほしい。」











高速道路無料化スタート

2011-06-22 13:23:00 | 東日本大震災
             



 化粧品・健康商品メーカーのファンケルさんから、震災見舞いの商品が届いた。
  ...被災者ではないのだけれど...
ちょっと恐縮してしまうが、洗顔パウダーやマルチビタミンなど、すぐ使えるものばかりで助かる。
お手紙も大変心温まるものだった。
震災見舞いのダイレクトメールは数多く来たが、お見舞い品が送られてきたのは初めて。
自社製品を被災県の顧客に送り届けているファンケル社って凄い!

 製品に信頼が持てる上に価格が良心的なので、10数年前からファンケル社のサプリメントを愛用している。
加齢なるボディの保護のために、最近グルコサミン&コンドロイチン入りのサプリを使い始めたばかり。
ファンケル社が、会社を挙げてこのような被災者応援の取り組みしているのはとても嬉しい。


               


 さて被災県に住む我らに、もうひとつ思いがけないビッグなプレゼント、被災者を対象にした東北地方の高速道路無料化がスタートした。
しかしこちらの件は問題や賛否の議論が何かと絶えない。その理由としては...

☆自治体によっては大した被害がないのに被災証明書を乱発するところがある。
☆これらにかかる費用を被災地の復興の為にこそ使って欲しい。
☆車もなく高速道路のない沿岸の被災者たちが、はたして恩恵を受ける制度なのか?
☆被害の少ない内陸部の人たちだけが恩恵を受けるのはいかがなものだろうか?
☆高速道路や料金所が渋滞・混雑するのではないだろうか?

   ...などなど思いつくことを列挙したがまだあるだろうか?


 実際のところ岩手県内陸部の市町村が証明書を多発し、肝心の沿岸部が「考慮中」と静観している。
真の被災者たちの方が、この制度に関する抵抗感を無言で訴えているかのようだ。

 国土交通相は、被災地復興を考えて制度を導入したのであり、節度ある形で対応せよと、軽い損害でも被災者と認め、証明書を発行する自治体側の動きをけん制しているが、今さらそんなことを言ったって全く無意味。
nihaoも、被災者ではないことに迷いつつも、高速料金無料の魅力の大きさに負けて罹災証明書を受けてきた。

 入り口で、あるテレビ局の職員が、一人の男性にインタビューをしていた。
聞き耳をたてていたら、その質問の内容があまりにきつい。男性もたじたじ。
最初からある意図を持って質問しているのが明らかなのだ。

「あなたはこの証明書をどのようなことに使いますか?」
「この証明書を使って被災地に行き、ボランティア活動をする気持ちはありますか?」
「被害にあった沿岸の人たちはまだ証明書を貰っていないのに、内陸部のあなたが証明書を貰うことに抵抗は感じませんか?」

 
 ああ、一体どうなっているのだ?
最近のマスコミは、自分たちの作った正義感を振りかざしすぎではないだろうか?
世論の動向を調査するようなふりをして、実は世論を、自分たちの意図する方向へ持って行こうとしているだけではないか?

 おそらくこの男性は、自治体が罹災証明書をくれると言うから深く考えないで戴きに来ただけだと思う。
貰えるというものを戴きに来てどこが悪いのだろう。
こんなに一方的な質問、と言うよりは激しい糾弾をされてめげない人間がいるだろうか?

 「このマスゴミめ!」
側で聞いていて私はすごく腹がたって、ついに我慢が出来なくなった。
テレビに顔が出るのは耐えられないが、背に腹は替えられない。
私はつかつかとインタビュアーの女性のところに歩み寄りマイクを取り上げた。

ちょ、ちょっとぉ~!
そこまで仰るなら、絶対にあなたは罹災証明書など戴かないのでしょうね。
どうか今後も規定の料金で高速道路を走行なさってくださいな。大変ご立派です!

 私も自分のことを被災者だと思ったことは一度もありません。
自分のことは、被災者に一番近いところにいる支援者だと位置づけています。
だからいつも自分に出来る範囲での、長期にわたる恒常的な支援活動をしていかなければならないと考えています。
では被災者ではない私が、なぜ証明書を戴きにきたのか?
被災者が疲れや無力感を感じるように、支援者も疲れや無力感を感じます。
被災者が元気になるためには支援者も元気にならなければなりません。

 今回の高速道路無料化制度は、内陸部の支援者たちが日常の暮らしの中で、少しホッとしてゆとりと元気が生まれる制度であると考えたら、あながち悪い制度でもないのではないでしょうか?
私は自分も元気になる権利があるのではないかと思って今日ここへ足を運んだ次第です。」


   (注)この「」部分は全部nihaoの妄想です こんな風に言えたらよいのだけれど...







悲しみこそ永遠の力

2011-06-12 13:05:00 | 東日本大震災
悲みこそ とはのちから』 

 石川啄木の第一号歌碑の建立の際に生涯の友人金田一京助が寄せた言葉。
喜びや辛さは一時的な感情としてやり過ごすことが出来るが、悲しみはなかなか癒えることがない。
これは心の奥底に溢れ続ける「悲しみ」という感情を、新しい未来を呼び寄せる力に変えようとしながら生き抜いてきた啄木への応援メッセージだ。 

金田一京助の言葉は、没後百年を迎えた【2011・啄木祭】のテーマとなった。
このメッセージは、今回の東日本大震災にも大いに通じるものがある。
あまりにも多くのものを喪失した岩手県人の深い嘆きと悲しみ...もし力に変えることが出来たら新生イーハトーブが出現するのではないだろうか?
『悲みこそ とはのちから』 美しくかつ力強いメッセージだと思う。

 『2011・啄木祭』の講演者は、ご自身も新潟県中越地震を体験されている芥川賞作家の新井満氏
新井さんは『千の風になって』の訳詞、作曲でもよく知られている。
悩み多き青春時代に啄木の歌集と出会い、その後現在まで一貫して啄木の歌を人生の教科書としてこられたというお話はとても興味深かった。
死のうと思い詰めた時に啄木の歌で救われたことがあるそうだ。
 
 確かに...
苦境の中で生まれた歌だもの、生き抜くための参考になるものがたくさんあるはずだ。


新しき明日の来るを信ずといふ 
自分の言葉に 
嘘はなけれど (by 啄木)


 あれっ? ちょっと自信のなさそうな歌だが....
新しい明日がやって来るという信念も、時には揺らぐことがあるだろう。
辛すぎることが多すぎて自分を見失うこともあるだろう。
啄木は夢破れ不遇の人生に果てた。
しかし啄木の夢を我らの夢として引き継ぎ、この歌の続きを実現することが岩手人の急務ではないだろうか。
新しい明日は絶対にやって来るはずだ。




         


 大震災から三ヶ月経った6月11日、みちのくの初夏を彩る恒例行事『チャグチャグ馬コ』が、無病息災、五穀豊穣そして復興の祈願などの特別の思いを込めて繰り広げられた。
爽やかな風と美しい新緑の中を、華やかに着飾った九十頭の馬たちがチャグチャグと鈴の音をならして行進した。
沿岸部からも多くの児童が招待された。
岩手に元気と勇気を与えるお祭。
こちらも人々の悲しみを永遠の力に変えることが出来るきっかけとなったことだろう。








義捐金か義援金か?

2011-05-30 14:04:00 | 東日本大震災
         



 月に2度ほど盛岡市中央公民館に出かける用事がある。
公民館の入り口付近で、最近よく見かける光景がこれ↑
これらは被災地の子供たちへ絵本を届けようという「3・11 絵本プロジェクトいわて」の運動に全国から寄せられた絵本や児童図書である。

活動を呼びかけたのは『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』の著者の末盛千枝子さん。
「絵本を集め、避難所の子供たちに読み聞かせたい」とホームページで訴えたところ、大変大きい反響があった。

 ボランティアさんのほとんどは若いお母さんたちだ。 
被災者の手元に届かぬと問題になっている義捐金とは違い、これら全国から集まった支援図書は、整然と管理され整理され仕分けされ各地区に送られているので(nihaoが保証する)、絵本を寄付された方々安心されたし。


 ところで辞書で「ギエンキン」と言う言葉を引くと、「義捐金」「義援金」のふたつの漢字が出てくる。
正しくは「義捐金」で「義援金」の方は代用表記だ(捐と言う漢字は当用漢字にない)
ちなみに本家中国では、災害の救済のために金品を差し出す行為は、やはり「捐」の字を使い「捐献」「募捐」などと言う。

 私の世代では「義捐金」が正しく「義援金」は間違いと教わってきた。
「決してギソンキンと読んではいけませんよ!恥ずかしいですよ!」
と、しつこく大人たちから注意を受けたものだ。
この漢字の読み書きはレベルが高いので、知っていると自慢できる漢字のひとつだった。
しかし日常的によく使う言葉ではないので、知らなくても別に損はしなかったと思う。

 しかし東日本大震災で連日目にし耳にする言葉ギエンキン、新聞・テレビ各社はどこも例外なく「義援金」の漢字表記を用いている。
阪神・淡路大震災の時はまだどちらも使われていたような記憶があるが、今回は「義援金」一辺倒であることが大きな特徴だ。
正調「義捐金」は一体どこへ行ってしまったのだろう?

 確かに「義捐金」は難しすぎる。
はたして何割の日本人が「義捐金」の意味を知り且つギエンキンと読むことが出来るだろう?
そこでマスコミは考えた。
被災者救済キャンペーンの意図をよりよく伝え、善意の金品をより多く集めるために「義捐金」の漢字表記をやめて「義援金」に統一して用いることにしたのだ。
これは国語審議会の決定ではなく、マスコミが便宜上統一したというのが真相のようだ。
なぜ音にこだわったのかなという疑問が残る。
「支援金」とか「救援金」とかの言葉で統一してもよかったのではないだろうか?

 私としては、マスコミの倫理などを教科書にはしたくないという気持ちがある。
今後も出来るだけ「義捐金」の方を使っていこうと考えている。


 ところで今回の震災では、私も義捐金...いや、お見舞い金を頂いた。
その篤志家というのが、なんと息子のアパートの大家さん!
何ひとつ被害があった訳ではないので恐縮したが、すでに息子が受け取ってしまった後だったのでありがたく頂戴することにした。

 それにしても大家さんには入居時に一度挨拶しただけで、盆暮れの付け届けなどもしたことがない。
いろいろと迷惑をかけていることも予想される。
息子に「きちんと家賃を払っているか?」と訊ねたら
「時々遅れることがある」なんて言っていたし......

 日本全国に大家さんは数々あれど、こんな出来の悪い店子の、しかも実家にまでお見舞いをくださる親切な大家さんって他に例があるだろうか?
同業者として→【夫の苦悩】自分たちのことを大いに反省されられた出来事だった。






頑張れ、フジ子!

2011-05-11 12:36:00 | 東日本大震災
     
           



 桜が咲くと風景が一気に色づき気分爽快になる。
NHKの朝ドラ『どんど晴れ』で一躍有名になった小岩井農場の一本桜(5月10日撮影)
後ろに雄大な岩手山を従えた光景は、県外の観光客からも大変な人気である。
ふる里は負けない! 今年の一本桜は岩手の復興の象徴だ。

 しばらくブログの更新が滞っていた。
震災からこのかた、どうしようもない無力感に襲われて.....と言いたいところだが、この言い訳は嘘!
本当は歳のせい。やる気と集中力がさっぱり出てこない。
ネットの世界への関心もかなり薄らいできている。
昔からのブログ仲間たちも伝染したように沈黙しているが、皆さん一体どうしているのだろう?
nihaoはまたぼちぼち始めることにする。


 今日で震災から二ヶ月経過した。
復興への歩みが続く一方、なお多くの人々が不自由な避難所生活を強いられている。

 「今一番、何が欲しいですか?」
テレビで被災者へのインタビューを見ていたら、多くの人が口を揃えて「車が欲しい」と言っていた。

 水や食料の運搬だけではなく、通勤や通学や病院等の送り迎え、買い物など、交通の手段のない沿岸部では、車は絶対に欠かすことの出来ない道具だ。
阪神・淡路の都市型の大震災と東日本大震災とでは、人々の暮らしにおける自家用車の重要性は比べるべくもない。
私たち岩手人の暮らしは、車がないと何ひとつ始まらないし何ひとつ終わることはない。
車庫証明のいらない軽自動車に人気が集中しているが、なかなか手に入らない上にさらに価格をつり上げていると聞くと腹が立つ。

 この二ヶ月間、なにか役に立てることはないだろうかと自分なりに考えてきたが、やっと答が見つかった。
私は思い切って【愛車フジ子】を被災地に寄付することにした。

 フジ子は平成7年式の三菱ミニカ。
かなり古い車だが、4WDだし、まだ6万キロしか走っていない。
大切に乗ってきたので外観も内装も美しいし、CDプレーヤーだって健在だ。
しかも今年の3月に車検を受けたばかり。

 実は今回の車検に関してはかなり迷った。
我が家にはもう一台夫の車がある。
年金暮らしの台所事情では、当然フジ子を廃車にして一本化するべきである。
しかしまだまだ立派に動く愛車を見ていると、切なくて手放すことが出来なかった。
そして車検後に大震災発生。
被災者の切実な声を聞いた私は「フジ子の出番がついにやってきた!」と思った。
フジ子は私と共にいるよりは、被災者と共にいる方がよい。
必要な時、必要な場所に、一番必要な支援が出来るのならなんと嬉しいことだろう。
私は迷わず手放すことに決めた。
 
 フジ子の行き先は、ボランティアで被災地に入っている人を介して探してもらった。
あまり詳しいことは聞かなかったが、200人以上の人が身を寄せている避難所に貰われていくらしい。
そこは一台も車がなく大変不便な毎日で、車を確保することは住民たちの悲願だったらしい。
みんなで仲良く交替で使いたいとのことだった。

 フジ子には老骨に鞭打って、今しばらく頑張って欲しいと思う。
復興を誓って生き抜く人たちの一助となって欲しいと心から願う。









見えない世界

2011-04-20 14:30:00 | 東日本大震災

            



 やっと咲いた庭の梅。梅が咲くと桜の開花も間近だ。
今年の桜は東日本の人々にとって特別な意味を持つことになるだろう。
いまだ瓦礫の片付かぬ被災地、いや、それでなくても北国の春の景色は汚い。
桜前線よ、縦横無尽に駆けめぐり野と山と里に魔法をかけよ!
北国の憂鬱な大地と空を美しい桜色に染め上げろ!


 さて、我が家のももちゃんのお話をひとつ......
人間同様に震災のショックで体調を崩したり心的外傷を受けて苦しんでいるペットたちもいるようだが、ももちゃんは相変わらず元気だ。
娘の愛犬ココアは突然歩けなくなってしまったという。
さすが、成熟している(惚けている?)ももちゃんは、地震などでは揺るがない。
度重なる余震の日々にも手がかからなかったことは大変助かった。



             


 こちらの写真のシーズー犬は、岩手県宮古市田老に住むバブ(12才)
先般の大地震の際、83歳の飼い主さんを津波の被害から守った立派な犬である。

[バブは本当は散歩が嫌い。
でもこの日バブは異常を察し、飼い主さんをぐんぐんと高台へ引っ張っていった。
飼い主さんの歩みが緩むと、振り返って歩みを促すようなしぐさを見せ、追いつくと勢いよく前へ出る。
そんなことを繰り返しながら自宅から約1キロ離れた避難所への急坂を上りきっていたという。 
振り返ると、歩いてきた道は津波にのみこまれ、自宅も濁流の中に消えていた。
普段は散歩も嫌がるバブの行動に、飼い主さんは「津波を予知してたのかも」と不思議がっている。]
 
 この記事を読んで、すごくショックを受けた私。
ももちゃんもバブと同じシーズーという犬種である。
(あっ、自分の犬だけをちゃんづけしている訳ではないのよ。正式名が『ももちゃん』だから...) 
ただただ元気よく愛嬌をふりまいているだけのシーズーだが、忠犬の素質があったのだろうか?
人命救助も出来るような利発な犬だったのだろうか?
その能力をはなから疑って、きちんと躾をしてこなかったことが悔やまれてならない。


 「駆け寄ってくる、寄り添ってくる、しっぽを振る」  

 ももちゃんが愛玩犬の三原則を行使しなくなってからすでに2年は経っている。
駆け寄ってこず、寄り添ってこず、しっぽを振らず.....愛玩犬というよりは孤高な日本オオカミでも飼っているような気分。
全身が愛と喜びに満ちていた若き日のことは、もう思い出すことも不可能だ。
しかし食事だけはまだ私の力を借りなければやっていけない。
時間になると私の足下にやってきて「ご飯をください!」とワンワン吠える。 

 最近ももちゃんに大きな変化があった。
僅かながらの視力も消え失せ、光なき暗闇の世界に突入した。
お掃除ロボット・ルンバのようにテーブルや椅子の脚にぶつかっては、ビックリした顔をして方向転換する。
室内をぐるぐる回ったり、長い散歩に出かけることもある。
徘徊? 玄関に落ちていたり風呂場で寝ていることもある。

 視力をなくしてからの彼女、お腹が空くと奇妙な行動を取るようになった。
なぜかキッチンの生ゴミの袋の前に立って「ご飯をください!」と吠えるのだ。
最初は生ゴミの匂いが食欲を刺激しているのだと思ったが.....いや、違う!
どうやら生ゴミの袋が私であると完全に思い込んでいるようなのだ。
いくら目が見えないとは言え、許し難い勘違いだ。

 生ゴミとマダムnihao、 一体どこに共通点があるっていうのだろう? 
少なからず、いやかなり私は落ち込んでいる。 ぷんぷん!!





消えた自転車

2011-04-06 11:40:00 | 東日本大震災
 東日本大震災後のガソリン給油パニックが、3週間ぶりにやっと収束を迎えた。
長い行列の末尾で長時間行儀良く並んでも、2千円分とか10リットルしか入れて貰えない。
多くの車に供給しようというガソリンスタンドのもくろみが仇となり、満タンにならないことによってますます飢餓感と危機感を募らせた人たちが、営業している給油所を探し求めさらなる行列を伸ばすから、一向にパニックはおさまらなかった。

 震災前から比べると、スーパーの棚の商品の種類と数はかなり減っている。
しかし以前が豊富すぎたのだから、現在の量で困ることは何もない。
それでも早朝から買い占めに走る消費者がたくさんいる。
パンや牛乳やヨーグルトなどに「おひとりさま、2点まで」などと制限がつくと、人は途端に戦闘モードになるのだ。
人間は貧しくなると食べ物のことしか考えなくなる
フランス革命の指導者ロベスピエールの言葉だと...最近読んだ物語に書いてあった。
心の貧しさも然りだ。品位を保って生きていきたいと思う。



 ところでガソリン状況が好転した今でも、私は、姪っ子・みのりちゃんの置きみやげの自転車を愛用している。
冬場の運動不足解消にとても重宝している。
その大切な『みのりん号』、あろうことか、スーパーの駐輪場から忽然と姿が消えた!

 鍵? たった4・5分の買い物だからかけなかった。
まさか盗まれるとは考えてもいなかった。
防犯登録の番号も控えておかなかった。
自転車ライフが楽しくなり始めた矢先だった。
なんとも悔しい出来事だが、不用心な私が完全に悪い。諦めるしかないと思った。

 現在自転車は大人気で品薄になっていると聞いている。
欲しい人は大勢いるし、鍵をかけていない自転車なんて気前の良いプレゼントみたいなもの。
願わくば、愉快犯ではなく本当に自転車が必要だった人に盗まれていますようにと祈るのみだった。

 夜になって帰宅した夫にしぶしぶながら打ち明けた。
「馬鹿たれ!なんで鍵をしなかった?」と責められるのを覚悟していたのだが
今からもう一度駐輪場に行ってみよう。戻っているかもしれない。
とありえないことを言い出すではないか。
「戻っている訳ないじゃないの!」
ぶつぶつ文句を言いながら仕方なくついていったら
ほらっ、あるじゃないか!
....って、あったのよね、ちゃんと。 不思議なことに、みのりんが。
オットーの予感は見事的中。
私は驚いて息を呑んだ。


 ※さて、ここでクイズです。この不思議な出来事の真相はどれだと思う?

1)nihaoの勘違い。そもそも自転車が盗まれたという事実がなかった。
どうやら駐輪した場所を間違えていたようだ。

2)nihaoの勘違い。そもそも自転車が盗まれたという事実がなかった。
どうやら自分の自転車の姿・形をしっかり記憶していなかったようだ。

3)これ幸いと盗んだものの、途中で悪事を反省した自転車泥棒。
恥ずかしくなってこっそりと返しにきた。

4)アルバイト先に向かうバスに乗り遅れた苦学生。
悪いと知りながら無断で一時拝借。お礼のつもりかスポーツ飲料2本入っていた。

5)その他


 (クイズの答はコメント欄をご覧ください)





被災地を巡って

2011-03-29 13:25:00 | 東日本大震災
            


小本海岸・熊の鼻展望台...すべてを一瞬のうちに飲み尽くし、残滓だけを吐き出し、なおかつ何事もなかったかのような穏やかな海。
ここに暮らす人々の持ちうる有形無形のあらゆるものを根こそぎ奪い破壊した海。
海という漢字をよく見てみよう。母という字があるではないか。
海よ、母なる海よ。あなたはあまりにも無情だ。


 私どものような無関係者が今、興味本位で東日本大地震の被災地に足を踏み入れるのは遠慮しなければならないことだと考えていた。
どんなに真摯な心と態度で彼の地に佇んだとしても、被災者の本当の悲しみに寄り添うことなど出来はしない。
ましてや無神経にカメラを向けることなど......

 しかし被災地山田町出身の、自らも親戚や友人たちを失い途方に暮れている職場のF嬢から

「被災地の実情を見て欲しい。いや、岩手県人として絶対に見るべきです。
あの無惨な光景を目に焼き付けて、そしていつまでも胸に刻み語り継いでください。」

 と言われ真剣に悩んでいた夫。
その夫を見て私の気持ちもやっと決心がついた。
あのむごたらしい光景を正視することなど出来ないと思っていたが、被災地の一番近くに住む者として何かをしなければならないとしたら、それは先ず現実を直視することだった。

 私の考えついた画期的な裏技(不正ではない)でガソリンを満タンにし、一路三陸海岸に向けてひた走った。
行きは岩泉街道を通り、小本海岸、田老町、宮古市、山田町まで行き、帰りは宮古街道を走るコース。
(裏技が気になる人もいるだろうが、それはまたの機会に...というか、自分の頭を使って考えてみよう!)

    
              



 田老(たろう)町壊滅。残っている家は一軒もない。
以前ここから30分奥に入った山あいの地に4年間住んでいた。
初めて赴任先に向かう時、夫に「たろうのそばだ!」と言われ、その地名が気に入り「太郎の蕎麦」かと喜んでいた私。
田老には、私たち親子をよく招待してくださった気のいいK夫妻が住んでいた。
奥様が津波で命をおとされた。合掌。
 
 津波の歴史と戦ってきた田老町は、町を守るため高さ10m、長さ2,433mの「田老万里の長城」と呼ばれる大防潮堤を完成させた。
民家の屋根より高い防潮堤は町民にとって安心して過ごすことのできる施設となっていたのだが、今回の大地震では安心感が仇になった。

 

             

           (宮古市商店街)             (山田町)
 
 我が家の息子は宮古の産院で産声をあげた。
当時私ども親子は、毎週末宮古の商店街で買い物をしたり「ドラえもん」の映画を見たりして楽しく過ごした。
それら馴染みの深い通りが一変して瓦礫の街並みと化していた。
陸上で難破する船を見るのも痛ましい。
山田町も壊滅。津波と火災に見舞われ焦土と化していた。

 小本海岸から山田湾までの被災地を巡ってみて、毎日テレビで見ている被害地の点と線がつながった。
テレビで見ていると青森、岩手、宮城、福島と、それぞれの県の個別の市町村や個別の海岸の出来事のような感じがしてならなかった。
しかしこれらの無惨な光景が、同じように延々と500キロも連なっているという事実。
過去に類例のない大災害、被害の甚大さを痛感する。
 
 築き上げてきたものはいともたやすく失われた。
誰にもどこにも怒りをぶつけることは出来ない。
自然現象の前では人間はどうしようもなく無力な存在だ。

 
 みんなで助け合わないと絶対に元の町には戻らない!元の日本には戻らない!
日本人の力が試されていると思います。
引き続き応援のほどどうかよろしくお願いいたします。




   ※カテゴリーに東日本大震災を追加しました




東日本大震災・その後

2011-03-22 11:20:00 | 東日本大震災
             



 長い冬があけたので、ももちゃんの散歩を再開した。
大地の匂いを思う存分に嗅いで春の喜びを満喫(?)しているかのようだ。

 今回の大震災のような不幸な出来事があった後は、ペットが心の支えになるが......
避難所では、飼い主とともに被災した犬猫が興奮して吠えたり、避難所内で糞をしたりなどのトラブルが発生して苦情が相次ぎ、ペットの行き場に困るケースが急増しているという。
犬猫を好きな人・苦手な人、皆一堂に会して避難しているのだから確かに悩ましい問題ではある。
突然飼い主を失い、瓦礫のなかを彷徨っているペットもたくさんいることだろう。
一体何ごとが起きたのかと...いまだに理解できないであろう犬猫たちよ、哀れ。


 震災から十日が過ぎた。
一日がとても長く感じられる。
なかなか夜にならないし、なかなか朝にもなってくれない。

 毎日何度も揺れている。
いつまた大きい余震がくるかも知れないと思うと外出もできないでいる。
一日中家の中でじっとして、寝るまで大震災関連の報道番組を見ている。
あの津波のシーンだけでも、もう何度見ただろう。
見なきゃいいのに見てしまうからやりきれなさが募るばかり。

 報道番組は日を追うに従って、ドラマチック仕立ての『震災劇場』に変化している。
啓蒙されているなと思いながらも、絶望から一筋の希望を、逆境から光明を見いだす力とはなっている。
でも、あまりやりすぎてはいけないと私は思う。

 中国人の留学生たちは先を争って帰国した。
本国からも両親からも強く帰国を促されたらしい。
ご両親のもとでゆっくりしてきてほしいと思う反面、なんだか日本が見捨てられたようなちょっと寂しい気持ちになる。

 一進一退の福島の原発の復旧もとても気になる。
当ブログ仲間の【すずめさん】は、おそらく第一原発の20㌔以内のところに住んでいたのではないかと推察する。
ご無事でいて欲しいと祈るのみ。
寂しがり屋のすずめさん、ご家族といっしょに避難していればよいけれど....
文字通り【海辺のumiさん】の無事は確認できた。喜ばしい限りだ。

 食料品も灯油も出回ってきたが、ガソリンだけはまだ無理。
姪っ子から貰った古い自転車を、夫が整備して乗れるようにしてくれた。
30数年ぶりに乗って公民館まで行ってきたが、平地なのに上り坂のようにきつくて息切れした。
歩くより運動になるかもしれない。しばらくは自転車でやっていこう。

 まだまだ寒い北国だが、震災後、夫の職場は暖房停止となっている。
背広の上に分厚い防寒着を重ねて仕事をしているらしい。
ならば...ばれないとは言えども私だけ安逸に過ごす訳にはいかない。
日中はストーブを消して湯たんぽで暖をとっている。
震災後は、さすがの私も節電や防災への意識が高まった。
ガスの元栓も閉めるようになったし、各種家電のタイマー予約などもしていない。

 以前はキラリン・フワリン・ルンバが私の心強い【三匹のお供】だった。 
しかして最近は......

 「行くわよ!みのりん、ぽんた、オットット!!
                 (新三匹のお供 by nihao)

 みのりんは自転車、ぽんたは湯たんぽ。 
さてオットットが何だか(誰だか?)はご想像にお任せだ。
奴がお供の一匹になったのは、はたして格上げか格下げか...一体どっちだ?





3・11 東日本大震災

2011-03-16 09:12:00 | 東日本大震災
 東北・関東地方に甚大な被害をもたらした国内史上最大の震災は、死者・行方不明者は数知れず、さらに原発事故までも誘発し、日を追うに従って残酷な全貌が明らかになってくる。
テレビの映像を見る度に目を覆い、悪い夢であって欲しいと願わずにはいられない。


 3月11日午後2時46分
この日、この時の恐怖を忘れることは決してないだろう。
静かに不気味に果てしなく揺れ続けた悪魔のゆりかご。
空も木も家も地面も大きく傾き、立っているのがやっとだった。
いつもならすぐ揺れがおさまるのに、いつまで経ってもおさまらず生きた心地がしなかった。
確実にどこかで、なにか取り返しのつかないことが起きているという予感がした。

 家の中は、棚から本やものが落ちてきたり、こわれた食器が散乱したり大型家具が倒れそうになっていた。
大きな余震が意地悪く繰り返しやって来て、その度に新たな恐怖心でいっぱいになる。
休みで家にいた夫は、職場のことが気がかりと言いすぐ車で出かけてしまい、私ひとりが取り残された。
何をしたらよいのかを考える余裕もなく、私は自分の車に乗り込んでぼんやりとラジオのニュースを聞いていた。

 すると隣家のマダムがやって来て
「あなた、のんびりしている暇などないわよ!
浴槽や鍋に水を汲んで、現金や貴重品や薬や食料品をひとまとめにしておきなさい。
また揺れて家が崩壊して、もう二度と家に戻れなくなることも想定しておきなさい。
暖かい服に着替えること。毛布を用意して車の中に運んでおくこと。
懐中電灯や携帯用コンロとカセットを用意すること。
明るいうちに今夜の晩ご飯を作っておきなさい。
ほらほら、ぼやぼやしていたらすぐ夜になるわよ!」

 マダム隣家のおかげで我に返った私。
確かに......夜はあっという間にやってきた。
長くて寒くて悲しくて心細い、我が人生最悪の夜だった。
携帯に子どもたちや兄弟や友人たちから次々とメールや電話がかかってくる。
みんなの励ましがとても嬉しかった。ありがとう。


 車のエンジンをかけて暖を取り、カーテレビで地震のニュースを見た。
あちこちで信じられないようなことが起きていた。
沿岸地域が巨大津波で壊滅状態!
あの美しい三陸の海辺の景色が、忽然と消えてしまったと言うのか?
こんなに多くのものを失って、人々は悲しみを乗り越えることができるのか?
はたして岩手県に復興する力はあるのか?


 日ごとに過酷な震災の現状が明白になるが、内陸部はライフラインも確保され元の生活に戻りつつある。
しかし物流は滞り、食料品店や燃料店の前には長い行列が出来ている。
買いだめが悪循環の元になるのは分かっている。
なのに行列を見ると加わらずにはいられない自分に自己嫌悪を感じながら並ぶ。


   


 外国人が一様に驚くという日本人のマナーのよさ、みんな静かに行儀良く順番を待っている。
そしてどこの商店でも限りある商品を、普段と同じか普段よりも安く提供しているのにはビックリした。
しかも牛乳とか野菜とか、全員に無料配布の嬉しい被災見舞いまでついてくる。
岩手の商人はなんと素晴らしいのだろうと心を打たれた。
この心優しき県民性があれば何とかなるかもしれないと思った。

 ガソリンが買えないので、今現在盛岡は、通勤や仕事用に自転車ブームとなっている。
みんな、物置から古くなった自転車を引っ張り出し整備して乗り回しているという。
自転車屋さんは大忙しだそうだ。
私も今回、キラリン・フワリン・ルンバのような全自動家電など、無用の長物であることを痛感した。
我が家で大活躍したのは『湯たんぽ』だった。
湯たんぽさえ抱いていれば、ひとときの寒さや心細さが不思議と鳴りを潜めるのだった。

 全自動より全手動! これが有事の際の常識だ。