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マダムnihaoのフレッシュ搾りたてブログ。お気軽にお立ち寄りください。

長生きした石川啄木

2013-02-24 20:40:00 | Weblog
          


 我が家のともしびちゃん(孫・仮名)がやってくるのでお雛様を出しました。
ただ古いだけの何の謂われもないお人形です。
このところ埃をかぶっておりましたが、ともしびちゃんのおかげで久しぶりに日の目をみました。
男雛も女雛もお歳を召されたようで、心なしか疲れたような顔をなさっています。


                 ★  ★  ★


 盛岡市・プラザおでってホールにて、石川啄木没後百年記念事業のひとつである『喜劇・長寿庵啄木』というお芝居を観てきました。
啄木は26歳で夭折しましたが『喜劇・長寿庵啄木』は、劇作家のおきあんごさんが「もし啄木が百歳まで長生きしたならどうなっていただろう?」との想定で描いた奇想天外なお話です。

 啄木が長生きしたなら...家族みな健康で仲良く幸せに暮らしていただろうか、小説や短歌が正しく評価されて売れっ子作家になっただろうか、金田一京助から借りたお金は返しただろうか、ふる里岩手に戻ってくることは出来ただろうか...啄木を愛する岩手県民なら誰もが心に懸けていることです。


 舞台は瀟洒な洋館の一室。
啄木は押しも押されぬ人気作家として裕福な暮らしをしています。
啄木の詩稿ノートには、ふる里に西洋風の家を持ちたいという願いが記されていたそうです。
見事にその夢が叶いました。
妻節子、長女の京子(劇中では孫)は元気で、節子は海外旅行が生き甲斐です。
金田一京助等から借りた1372円(今の2千万円)も全部きれいに返済しました。
たかり魔で有名だった啄木ですが、克明な借金メモを残していたと言いますから、最初から踏み倒す気で借りていたのではなかったようです。
しかし今は満ち足りた生活の中で、短歌が作れなくて困っています。

 お芝居の中では啄木本人は不在です。
妻節子、孫娘の京子、妹の光子、両親、編集者、親交のあった金田一京助、若山牧水や、釧路の芸者小奴など、啄木に関わる多彩な人物たちが次々と登場し、彼らの紡ぐ啄木への愛と思いが、現在の啄木の人物像と苦悩を徐々に浮き彫りにしていきます。

 オリジナルの劇中歌(原作石川啄木・作詞坂田裕一)も気に入りました。
役者さんたちの熱演ぶりや物語の展開に大笑いしながらも
啄木は夢のすべてを手中にして、はたして幸せだったのだろうか?
長寿と豊かな暮らしだけが人としての生きる目的なのだろうか?
と考えさせられる内容でした。

 盛岡市は演劇が大変盛んな街で、素人の演劇集団グループがたくさんあります(20くらい)
私にも30年来見続けてきた贔屓の劇団があります。
最近はちょっとご無沙汰していたので、これを機会にまたお芝居を楽しみたいと思います。

                

 
そう言えば10数年前、函館市で観光タクシーに乗ったとき、運転手さんが
我が函館出身の石川啄木記念館にお連れいたします。
と言ったので驚いて間違いを指摘したことがありました。
運転手さんの方がもっと驚いて、信じられないというような顔をしていました。
私の北海道の友人にも、啄木が函館出身だと思っていた人が何人かいました。
確かに故郷を追われ新天地を求めて函館にやってきましたが、たった数ヶ月しか滞在しておりません。

 岩手県民にとって啄木の出身地を巡る問題は、竹島や尖閣の問題よりも深刻な問題に発展するかもしれません。
小樽や札幌や釧路などあちこちで足跡を残し、北海道民からも親しみを持たれていることは嬉しいのですが、出身地は岩手ですのでどうかお間違いなきように......
 


 

 


ラサール君

2013-02-18 11:15:00 | おすすめ記事
          
                 【初恋のきた道


               
 昔々、私がまだ小学校一年生の頃、近所にとても仲の良い男の子が住んでいました。
幼くして秀才の誉れ高く、名前をラサール君(仮名)と言いました。
nihaoも「清少納言か紫式部の生まれ変わりではないか?!」と父親が喜ぶほどの利発な少女だったのです。
それがとんでもない誤解であることが判明し、家族みんなを失望させるのは案外早かったのですが...

 ラサール君とnihaoは、放課後になるといつもいっしょに手をつないで帰り、どちらかの家で遊びました。
入学するまではひとり遊びが多かったので、nihaoにとってはラサール君が初めてのお友達でした。
賢くて優しいラサール君と一緒にいるのはとても楽しく居心地の良い時間でした。
このままいつまでもふたりが、世間から祝福されて健やかな成長を遂げることが出来れば何も問題はなかったのですが......

 ある日、二人の目の前に突然クラスの悪ガキ→【元祖弁当男子】たちが立ちふさがりました。
私たちは皆この世に生を受けてまだ等しく6年しか経っていないのに、あの子たちは、どのようにしたらあのような品性下劣さを身につけるのでしょう???

 とにかくnihaoとラサール君が、手をつないで帰るのは生意気だとかいやらしいだとか、小1なのに早すぎるだとか、みんなに囲まれて、今まで耳にしたことがないような悪意のある言葉でさんざん冷やかされ囃し立てられたのです。

 nihaoは驚いて、このような惨劇が急に我が身に降りかかったのは、みんなラサール君のせいだと思いました。
も~う、ラサール君なんかだいっ嫌い!
つないでいた手を強く振り払って泣きながら家に帰ったのでした。

 この事件をきっかけに私の天真爛漫な幼年時代は終わりを告げました。
私は言葉によって汚され貶められたショックを、その後いつまでも引きずり、ラサール君とも気まずくなって、現在に至るまで一度も話をしたことがありません。
中学卒業後、急に姿を消した彼が、親元を離れて偏差値の高い超難関校に入学したことを知ったのは、かなり後になってからでした。

 ところが最近、そのラサール君から突然メールが届きました。
高校の同期会で出会った【神田川君】が、今でも交流のあるラサール君に私のことを話し、アドレスやblog-cafeの存在を彼に伝えてくれたのです。
ありがたいです。同窓会ネットワークの力、あなどれません。

 しかし何ということでしょう!
あの辛い体験を共に語り合いたかったのに、ラサール君は私と同じ記憶を共有してはいませんでした。
一緒に遊んだことは記憶しているものの、悪ガキたちから受けたあの悪夢のような出来事など、全く覚えていなかったのです。
私の衝撃は結構大きかったです。

  (ラサール君、きみ、案外頭悪いんじゃない?

 しかもさらに追い打ちをかけるかのごとく、ブログから読み取った現在の私の姿を
nihaoちゃんは随分なオタク系有閑マダムかつ今なお現役の親父ギャル(マダム)だなあ
と一刀両断でばっさり。
これがまた悔しいけれど大当たり。
最近オヤジなマダムに拍車がかかっているのは気がついていました。
密かに気にしていたので端的に言い当てられてショックです。

  (ラサール君、きみ、案外口も悪いんじゃない?


 

 




青島Boya

2013-02-14 11:55:00 | 中国語
                      
              

今日はバレンタインデーです。
まあ私には全く関係ありませんが...

 業界の商業主義がイヤだと言うわけではありません。
こんな不景気な時代だからこそ、今日一日だけでもみんなでチョコを買ったり贈ったりして喜び合うことは大切なことかもしれません。
商業主義に乗せられて踊るのも自由。でも無視するのも個人の自由だと思うわけです。

 それにしても菓子業界の起死回生策はすごい!
従来の本命チョコ義理チョコだけでは販売数が頭打ちになってしまったので、新たなる販路の開拓のために友チョコとか自分チョコとかを考案し、さらに最近では逆チョコ(男性から女性へ)とかファミチョコ(家族へ贈る)なるものまで発売しています。
ホモチョコ(男性から男性へ)というのもあるそうですよ。

 とは言え特別な思いを抱いてこの日を待ち続けていた心優しき人々もたくさんいらっしゃることでしょう。
そのような純情なすべての男性たち、女性たちへ、どうか佳き日でありますように!


                  ★  ★  ★



 
 さて我らが中国語倶楽部は、テキストが新しくなったと同時に講師も新しくなってスタートすることになりました。

 今までなら辞めていく講師が責任を持って新講師を探してくれたのですが、昨今の中国人留学生たちはあまり横の関係が緊密ではないらしい。
自分たちで探してください」と言われビックリしました。
数年前には100人はいた中国人留学生も、最近は10数人しかいないらしいです。

 『講師急募!』のビラを作り、大学構内の留学生が集まる場所に貼らせてもらって待機していたところ、半月も経ってからやっと1本の電話がかかってきました。

 その青島出身の21歳の青年には、私が倶楽部を代表して面接をしました
9月に来日したばかりなので、日本語がまだあまり上手に話せません。
本人も「日本語で文法の説明は出来ないと思う。」と心配していましたが「講師の経験は全くなく、自信はないがでもやってみたい。」と意欲は充分ありました。

 私は今まで自信満々の中国人にしか会ったことがなかったので、この自信なさげで正直で控えめな青年(さっそく青島Boya-チンタオ坊や-とあだ名をつけた)に好感を持ち採用を決定しました。

 しかしこちらも、彼には本当のことを話さなければなりません。
メンバーが高齢者ばかりであること、耳が遠いメンバーが2名、目が悪いメンバーが1名いること、キャリアの割には力が全くついていないこと、聞いたことはすぐ忘れること、発音や作文が滅茶苦茶なことなどなど...

皆さん、一体いくつぐらいなのですか?」と質問されたので、とりあえず
あのね、私は若い方なのよ!」と胸をはって答えたら、彼が
ぇ、え~っ!!!」って顔をしたのを私は見逃しませんでした。
 (あらあら、ここはまだ驚くところではないのよBoya!

 とにかく第一回目のレッスンは無事終了しました。
Boyaも想像していたよりは会員の質がよかったのを安心していたし、お姉様たちもBoyaを温かく見守っていくと言ってくれました。
両国間の緊張はまだまだ続きそうだけれど、私たちは楽しくやっていきましょうね。









 

我らがやんちゃな兄貴

2013-02-07 12:00:00 | おすすめ記事
                     


 さて、これらの独特な雰囲気と作風のポスターが誰の作品か、おわかりになる方はたくさんいらっしゃると思います。
私にとっても、これらの作品を前にするとなぜか穏やかではいられなくなります。

 血が騒ぐというか... シュプレヒコールが聞こえるというか...

 狂い咲きしたあだばな(?)のような、痛々しくもあり懐かしくもある怒濤の青春時代を思い出します。
思えばなんと遠くまで来てしまったことでしょう。


 現在岩手県立美術館では「横尾忠則ポスター展」が開催されています。
1960年代の劇団状況劇場や天井桟敷のポスターをはじめ、現在公開中の映画『東京家族』などの最新作品を含む400点が展示されています。
横尾忠則の核心を示す作品展です。
素晴らしいです。久しぶりに興奮いたしました。

 氏の強烈な作風は、時代の若者たちに強い印象と影響を与えてきました。
目覚ましい変貌を遂げた昭和の日本社会と文化の一部は、氏や唐十郎寺山修司大島渚のような、闘うアーティストたちによって作られたものです。
当時『腰巻きお仙』の芝居の入場料が500円。
貧乏学生の私は500円を捻出するのも大変でしたが、熱狂し旗を振ってきただけの我らもまた、少しは時代を動かす力となっていたのではないでしょうか。


 初日にはご本人が登場して、一時間半にもわたるスペシャルトークが催されました。
時代の寵児として常に注目されてきた我らがやんちゃな兄貴・横尾忠則氏も76歳となり、落ち着いた晩秋の雰囲気を漂わせていました。

 「唐十郎は色白のおさな顔で、金太郎か桃太郎のような可愛い感じだった。」
「寺山修司は、ボクシングは血と涙のブルースだ!などと、いつもこちらが恥ずかしくなるような気障なことを言っていた。」
リップサービスとして、このようなエピソードを披露してくれました。

 
 横尾忠則展に出かけたのが1月26日。
その後珍しく風邪を引いて3日間寝込んでしまいました。

 我が家の近辺ではノロウィルスが大流行しています。
ノロは来ましたか?
この迷い猫探しのような挨拶が、最近のご近所さんたちの決まり文句となっていました。
 オットーは三日間仕事を休みました。
夫婦同時に罹患したので、一階と二階に分かれて、ただただ押し寄せる吐き気に耐えながら、何も食べずにうんうんうなって寝ていただけでした。

 私は2キロ体重が減りました♪
しかしこの歳になると、病気による体重の減少は痩せるということではなく枯れるということです。
あらゆる意味でひとつも良いことはありません。
残念ですがたくさん食べて早く元に戻さなければならないと...
いや、心配するほどのこともなくすぐ元に戻りましたが。