学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

より良い道がある

2020-07-31 19:33:27 | 日記
夕方になるとテレビのニュースを見る。新型コロナウイルスに翻弄される社会と人々。なんとか商売を軌道に戻そうとあがく人々の工夫が伝わってくる。人間の脳には限界はない。知恵を絞って工夫に明け暮れる人々に何か応援の言葉はないものかと考えた。プラス思考のポジティブな何かを。我々各々が与えられていると考えられる潜在能力とはどの様に説明できるのだろうか。
スマホの音量を調節している時である。突然、音量調節に潜在能力との接点をみた。音量を示す棒線は設定された音域である。人の好みでその音量を調整する。最大に合わせる人はいない。自分にとって最も聞き心地のよい音量を人は選ぶ。この設定された音域が潜在能力と考えたら、我々は案外と中途半端なところで折り合っているという種の考え方が生まれる。車のスピードのゲージと同じで、最大速度で車を走らせる人などいない。しかし、これらがもし潜在能力の範囲を示す物だとしたら、我々にはもっと引き出せる余力があるのに、それを残して途中のまあまあのところでやめてしまっているのである。この例え話の音域や車の速度計と人の潜在性を一緒にすることはもちろんできるものではない。しかし天から与えられた自分の能力について考えるヒントにはなる。コロナの影響で破綻してもそれで人生は終わりではない。
僕の家の壁に When God closes one door, He opens another. (神が一つのドアを閉じる時、彼はもう一つ別のドアを用意している)というスクロール(飾り巻物)が吊るされている。幅30cm、長さ約1m強の刺繍された物である。アメリカのオレゴン州の州都セーラムの議事堂を訪れた時に土産店で買ったものである。これを僕は気に入っていて、最後の部分を another better one (もう一つのベターなものを)と勝手に変えて時々眺めている。なんとなく仕事がうまく回転しなかったり、壁にぶつかった時は、天が「気にするな。それはやめておけ」きっと何か別の道があると教えてくれているのだと自分に言い聞かせてきた。「きっとより良い道がある…」と。

Go-to キャンペーン

2020-07-28 18:23:23 | 日記
経済活動の再開、特に観光や旅行業の活性化を促すことを主目的に Go-toキャンペーンが出発した。その連休の期間中に東京でも大阪でもコロナ感染者の増加が連日大きく報道された。原因が取り沙汰されていて、徐々に判明し始めたのは若者の行動だ。折しもこの連休はなぜか若者の活動を刺激する「海の日」と「スポーツの日」だ。東京を除外しながらという Go-to キャンペーン、もう少し熟慮して、例えば地域ごとに限ってのキャンペーンからの緩やかなスタートが一気に全国を対象にするより得策ではなかったのかという議論もある。優先するのは感染対策の強化か経済再生かという難しい問題である。
そこで分かっているような気がしているが理解がもう一つ曖昧な「経済」という語を調べてみた。最初に目に入ったのが「経国済民」という言葉で“国を治めながら民を救済する”という意味だという。続いて社会の経済活動に関する人間の営みに関する定義で 共同生活をする上でのサービスの生産、分配、消費の行為を通しての人と人との社会関係、つまりは金銭のやり取りなどのことで我々が普通に理解している経済である。人々の移動を制限したり経済再生を考えている人達はもちろん、我々一人ひとりももう一度この「経国済民」という言葉の意味をよく考えなければと思った。安易にキャンペーンなどと言って人々を刺激していると予測もつかない結果に…などと考えていたのである。人々はコロナ禍を乗り切るためにいろんな工夫を強いられている。「工夫」、僕の一番好きな言葉だ。キッチンカーが最近は大きなマンション近郊でみかけるようになったという。固定経費の削減をしながら店を回してこうという経営者の工夫である。移動式の店で、思い出したのがバンライファー(家を持たず改造されたバンの中で家族と毎日を過ごす人たち)である。テレワークが可能にしたこの人たちの生活様式は仕事と家族との絆を両立させながらの生き方を工夫したともいえる。金沢工業大学ではモバイルハウス(移動する家)が研究されているという。(ウ〜ン…)不安を抱えながら新しい生活様式がいよいよ模索され始めた。

「使い捨て」と「使い切り」

2020-07-24 20:15:24 | 日記
“マスク「ポイッ」誰が名付けた使い捨て” (私柳川柳)
我が家の家の周りの路上に捨てられているゴミがタバコの吸殻のポイ捨てから別のものが加わってそれが少しずつ増えてきた。使い捨てのマスクである。我が家の付近だけかと思っていたら、運動を兼ねて自転車で近くの駅まで出かけてみると、やはり状況は同じである。雨が多い最近では捨てられたマスクを車がひいて悲惨な状態で周りに散らばっているものもある。
ポイ捨ては英語では littering(リターリング) と言って国によっては罰金の対象となる。日本はまずゴミ箱を見つけるのが大変だ。1995年のオームサリン事件をきっかけに一時は駅や町のすべての街角からゴミ箱が消えた。爆発物が仕掛けられないようにと,それ以降はますますゴミ箱は姿を消すようになってしまった。僕の家の近くには小学校も中学校もある、ゴミに関して公衆道徳のようなものは教えないのだろうか。道徳感の薄い大人を見習って子供たちも右習えで同じようにポイ捨てをやっているのを何度も見かけた。情けないことになったものだ。
問題は「使い切り」のものを「使い捨て」という言葉を使うことで物を捨てやすくなったのではないかと最近は思うようになった。[ “使い捨て方式の”という意味の英単語は disposable (ディスポゥザブル)で紙コップ、オムツ、お箸、などとくっつけて desposable paper cups, disposable diapers(ダイパーズ), disposable chopsticks などと使う] 僕はこれらのもののネーミングに失敗したのではないかとこの頃思う。「使い捨て」の意味を使い終わったらその場で捨てろ、などとは思っていないとは思うが、そこら中にゴミを撒き散らす人は言葉の意味を誤解しているのではとすらおもわせる。
まぁ使い捨ての物はできる限りキチッとゴミとして処理しましょう、と訴えることで話を終えるとして僕は物を “使い切る”ということを大切にしたいと思っている。壊れたりして使えなくなったものは処分することにしてできる限りは使い切るという意識を持っていようと思っているのだ。自分も脳味噌(?)やエネルギーを使い切って、人生を生き切って、死を迎えたいと考えている。I want to be all used up when I die.( 死ぬ時には全てを使い切った状態で…)

マスクと間人主義

2020-07-21 17:14:26 | 日記
外に出かけてみるとレストランや街の食堂、居酒屋、モールのフードコートなど、店側はほとんどのところでソーシャル・ディスタンスを意識しているのがわかる。そうかと思えばマスクもしないで数人でガヤガヤと話しながら店に入っていく30歳前後の若者も目撃した。この人たちに対する店側の対応はどうだったのだろうか。少し気にはなったがそのままやり過ごした。何か言おうものなら“マスク警察”などと呼ばれて非難の的になるかもしれない。僕はたまに出かける時もマスクの装着には注意しているし、人がたくさんいる所は意識して避けている。
英語で3蜜は “three C” と呼ばれる。密閉、密集、密接はそれぞれ closed-space, crowds, close contact である。昔、大学で文化人類学の授業をとった時にまさにこの頃話題になるソーシャル・ディスタンスを学んだ。「近接学」として学んだのを折に触れなぜか時々思い出す。近接学というのは対人距離のことで、人と人がコミュニケーションをとる時にとる相手との距離感がお互いがどのような関係にあるのか知るヒントとなる。我々一人ひとりにとって自分の空間が社会という共同スペースを生きていく上で大きな意味を持っているという。例えば、非常に親しい者同士に存在する空間のことは密接距離と呼ばれる。家族や親友などとの間に存在する空間、距離、である。会話をスムースにする距離は社会距離、つまりはソーシャル・ディスタンスだ。日本人は社会距離は個人同士の立場などを考慮しながら割合しっかりと距離を意識していると思う。欧米ではハグの習慣があるので個人間の距離は近いように思われるけれど、結局個人主義的考え方のせいで個人間の距離は日本人のそれより広いのかもしれない。最近問題にされるマスクに関する日本と欧米の違いも近接学的に考えると、自分の都合を主とする「個人主義」的か「間人主義」的社会かでかなりの説明ができそうな気がする。日本では”人間”の二文字を入れ替えて“間人”とすることで、人は人と人との間で生きているという事実に意味を持たせている。我々日本人は他人の目を気にしながら間人主義の中でマスク装着が欧米の人々より浸透しているのだろう。

「希望」という言葉は…

2020-07-17 16:52:26 | 日記
九州地方の水害で苦しんでいる人々のことを思うと本当に胸が痛む。流される家を見ながらの無常感に被害を受けられた人々が希望を失ってしまわないかと気になって仕方ない。希望という感覚を持ち合わせているのは人間だけだということを本で読んだことがある。立ち直りには個人の気持ちも大切だが公的な支援もまた重要だ。なんとか前を向いてくださいますように。
この季節になるとこの無常感なるものをセミの生き様に見て「希望」とは本当に人間だけが持ち合わせているものとつくづく感じることがある。過去の日記を見返してみると我が家の庭でクマゼミの声を聞くのは大体7月12日頃であるらしい。例年だとセミが出始めると梅雨も終わり夏本番ということらしいが、今年は気温が異常なほど低いのが気になる。ここ数日の最高気温も25℃を境に少し高めという具合だ。朝夕は寒さすら感じて長袖のTーシャツを着るほどの日もあった。線状降水帯という前線が九州を中心に細長く四国や中国地方へと伸びて居座り、毎日のように雨が降る。その影響で曇りの日が続き太陽光が地表に到達しないのだ。セミはちゃんと脱皮できるだろうか。雨の降る日に土中から這い出してきたセミが、羽を十分に乾かせないで飛べなくなって死んでいるのを毎年見るのがなんともいえない儚さである。十分に乾かずにねじれたような羽を背負ってよろよろと木を登っていく姿はこのセミの寿命が長くないことを示している。
“セミの泣き別れ” という言葉があってセミが泣くのはこの世との短い日々を惜しみながら泣くという。一方で、“泣かぬホタルの身を焦がす” は声を出して鳴くセミよりも黙って青白い光を発して燃えるホタルの方が鳴かずに思いを内にこめて虫としては感情豊かであるというような記述も『後拾遺和歌集』にあるという。短い寿命のセミであれ蛍であれ、彼らの生き様を観察しながら人間にのみ与えられた「希望」という言葉を噛みしめて人は生きていかなければならない。